【女性】オランプ・ドゥ・グージュ(Olympe de Gouges、1748 - 1793)

掲載:2015.11.08 執筆:三成美保

オランプ・ドゥ・グージュOlympe de Gouges、1748 - 1793)(概要)

Marie-Olympe-de-Gouges

オランプ・ドゥ・グージュ Marie-Olympe-de-Gouges

フランスの劇作家、女優、初期フェミニズムの代表的人物。分野は戯曲、小説、政治的パンフレットと多岐に渡り、9年間の創作活動期間に40作ほどを発表した。

太原2008によれば、オランプは、劇作家として正当な評価を受けてきたとは言えないが、「効果の上でも斬新な手法を試みており」(太原2008:250)、「民衆にイメージを与える役割を自ら担っていたと言ってよい」(太原2008:252)。

なお、彼女は自分では文字が書けなかったため、文筆活動はすべて口述筆記で行った。本名はマリー・グーズ。オランプ・ドゥ・グージュはペンネーム。
フランス革命初期に発表された『人と市民の権利宣言(人権宣言)』(1789)に対抗して執筆した『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』(1791)で知られる。
【史料】オランプ・ドゥ・グージュ:女権宣言(1791年)全文

また、黒人奴隷制度にも反対で、『ザモールとミルザ』(1788)は、何度も検閲や上演妨害が行なわれた。
政治的には、穏健な立憲君主主義者であった。『女権宣言』は王妃マリー・アントワネットに献呈される予定であった。ヴァレンヌの逃亡事件以降、オランプは共和主義者に転じた。

【年表】

1748 タルヌ=エ=ガロンヌ県モントーバンの近郊で、肉屋の父と装身具の行商人の母との間に生まれる。 自由主義的な貴族ポンピニャン侯爵の婚外子であるとオランプは信じていたが、侯爵はそれを否定した。しかし、侯爵の婚外子であることを事実とする説もある。
1765 17歳のとき、意に反して、モントバーンの行政監督官の料理人オーブリと結婚させられる。まもなく息子が生まれた。
1766 夫が死去。
1770 オランプはパリに出る。
1773 裕福な男性と知り合い、彼とは死ぬまで交誼をもつ。
モンテッソン侯爵夫人など、貴族の女性たちが開くサロンに受け入れられ、ジャック・ピエール・ブリッソーやニコラ・ド・コンドルセといった政治家や作家、フリーメイソンのメンバーなどと交流した。

1784 創作活動を開始する。
1788 『ザモールとミルザ』(黒人奴隷制に反対する戯曲)
1789.7.14  フランス革命勃発
1789.7.21  シェイエス「女性、子ども、外国人、そして、公的施設の維持に後見しえない者は、公的問題に能動的に影響力を行使すべきではない」(ブラン2010:338)
1789.8   フランス人権宣言

Description de cette image, également commentée ci-après【女性】ソフィー・ドゥ・コンドルセ(1764-1822)Sophie de Condorcet

1794年に死去したニコラ・ドゥ・コンドルセの妻・寡婦。サロンの主宰者として有名。
ソフィーのもとの名は、Marie-Louise-Sophie de Grouchy。初代グルーシー侯爵(ルイ15世のもと小姓)の娘として生まれた。母も教養人であった。

○夫ニコラ・ドゥ・コンドルセ侯爵(1743-1794) ソフィーは、1786年にニコラ・ドゥ・コンドルセ侯爵(1743-1794)と結婚した。夫のコンドルセ侯爵は、数学者、哲学者、政治家であるとともに、社会学の創設者の一人とされる。彼は、1769年にフランス王立科学アカデミーの会員に推挙された。啓蒙思想家たちと親交を深め、百科全書に独占的買占などの経済学の論稿を掲載した。ニコラは、1792年9月、国民公会議員となり、議長を経て、憲法委員会に入った。1793年2月、ジロンド憲法草案を議会に上程したが、同年のパリコミューン事件でジロンド派は没落した。ニコラは、恐怖政治に反対したため、7月8日逮捕令状が発せられた。逮捕されたあと、獄中で自殺。
ニコラは女性参政権を擁護したことで知られるが、それには妻ソフィーの影響があったとされる。

○サロン(1789-1793、1799-1822)と翻訳
ソフィーは、サロンを1789年開設し、1793年まで開催していたが、いったん活動休止した。1799年にサロンを再開。サロンは、ソフィーが死ぬ1822年まで続いた。ソフィーのサロンは平等に参加を認めたので、オランプ・ドゥ・グージュもそのメンバーとなっていた。ソフィーは、英語とイタリア語に堪能で、作家兼翻訳家としても活動していた。トマス・ペインやアダム・スミスなどの主要著作をはじめてフランス語に翻訳・紹介した。

1790 『修道院、あるいは強いられた誓願』(成功した戯曲。パリや地方で80回の公演が行われた[太原2008:244])

1790 ニコラ・ドゥ・コンドルセ Sur l’admission des femmes au droit de cité (女性参政権の擁護)

1791 「真実の友協会」(女性の政治的・法的権利の平等達成を目標にしていた:1790年結成)に加入。この結社は「社会クラブ」とよばれて、メンバーは、著名な女権拡張論者ソフィー・ドゥ・コンドルセ の家に集まって、議論を交わした。
1791 『女性および女性市民の権利宣言(女権宣言)』執筆。
【史料・解説】「女権宣言」と「人権宣言」の比較(三成)

1792.11.23 『デュムーリエのブリュッセル入り、あるいは従軍商人』の台本提出
(女性擁護がもっとも強くあらわれた作品。6人の優れた女性が描かれている[太原2008])
1792.12.15 オランプはルイ16世の裁判に先立ち、元国王の弁護をしたいと国民公会に申し出たが却下された。
これが原因で彼女は王党派と疑われ、脅迫された。またフェミニズムに反発する革命派は彼女の行動を取り上げて嘲笑したが、彼女は意に介さなかった

オランプの処刑

1793.7.20 逮捕。オランプはロベスピエールらを批判するポスターを貼る準備の最中に、反革命の容疑で逮捕された。共和制、連邦制、立憲君主制のどの政権を選ぶか住民投票にすべきと呼び掛ける本を著したことによって反革命的とみなされたのである。
1793.11.3 裁判・処刑。弁護士は出席せず、代わりの弁護士を付けることを願い出たが却下され、オランプは自分で弁護を行った。彼女は無罪を確信していたが、扇動的な態度や王政復古を企てたとして有罪の判決が下り、同日午後4時に処刑さ れた。

1793.11.17  『公安委員会報』オランプの処刑に関連する記事
「(オランプ)は政治家になることを欲したので、女性にふさわしい徳を忘れたとして、法律がこの陰謀者を罰したのだろう」/「あなた方は彼女を真似する気ですか?とんでもない。あなた方が自然によって望まれた生き方をしてこそ、あなた方は価値ある存在となり、真に尊敬に値する、ということがおわかりでしょう」。(ブラン2010:338)
※オランプの処刑は、女性の政治的活動がいかに無謀で危険であるかを宣伝するための手段として使われた。

【参考文献】

  • オリヴィエ ブラン (著), Olivier Blang (商品の詳細原著), 辻村 みよ子 (翻訳), 太原 孝英 (翻訳), 高瀬 智子 (翻訳)『オランプ・ドゥ・グージュ―フランス革命と女性の権利宣言』 2010/3、信山社
  • オリヴィエ・ブラン『女の人権宣言―フランス革命とオランプ・ドゥ・グージュの生涯』辻村みよ子訳 岩波書店 (1995年)
  • 辻村みよ子『ジェンダーと人権』日本評論社、2008
  • 太原孝英「第5章民衆にイメージを与えた劇作家」(植田祐次編『フランス女性の世紀ー啓蒙と革命を通して見た第二の性』世界思想社、2008年)
  • 太原孝英「オランプ・ド・グージュ『黒人奴隷制』の2つの editions をめぐって : テクストとmentalite collective」『フランス語フランス文学研究』 (67), 27-38, 1995-10-29⇒*CiNii論文PDF
  • 『女性空間』(1983年創刊の日仏女性資料センター(日仏女性研究学会)会報誌)2011年6月刊
    • <特集「オランプ・ドゥ・グージュと女性の権利の展開」>
    • 序言:先駆のフェミニストたち ・・・ 支倉寿子 6
    • シンポジウム:
    • Ⅰ 国際女性デー記念シンポジウム「オランプ・ドゥ・グージュと女性の権利の展開 ― フランス革命期から現代のジェンダー平等問題を考える ―」について  ・・・ 辻村みよ子  8
    • Ⅱ オランプ・ドゥ・グージュと女性の視点による政治的アンガージュマン・・・ オリヴィエ・ブラン  16 日本語訳:高瀬智子  27
    • Ⅲ 1879年から1900年の第三共和政下のフェミニストたち ・・・ 長谷川イザベル    40           日本語訳:佐藤浩子  46
    • Ⅳ 日本とフランスの「産む/産まない」選択 ・・・ 岩本美砂子  52
    • 論文:オランプ・ドゥ・グージュと「黒人奴隷制度」―『ザモールとミルザ』から「女性および女性市民の権利宣言」に至る思想の変遷 ― ・・・ 押田千明  60
    • 研究ノート:ジャンヌ・ドゥロワンの母性論とパラドクス ~ ジョーン・スコット『女性市民のパラドクス』から ~ ・・・ 石田久仁子  74