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補論:〈新しい女〉が創造するヴィジュアル表現
掲載:2018-06-24 執筆:香川檀
◆消費社会と女性クリエイター
第一次世界大戦後に訪れた大衆社会と消費文化の時代は、女性を新たな消費者ターゲットとした商品経済を拡大させた。それに伴って、産業界の側には女性消費者にアピールする文化情報やイメージ戦略を発信できる、女性のライター、イラストレーター、写真家などへのニーズが生まれた。「女性の感性」が求められたのである。一方、既成の市民階級女性の生き方に反抗する若い世代の女性は、都市に出て経済的に自立するため、タイプや速記など事務職の技術の他に、より創造性が発揮できる職種のひとつとしてデザインや写真など美術関係の仕事を目指した。「新しい女性」は消費者であるばかりでなく、クリエイターとしても社会進出したのである。美術教育機関の代表例としては、大戦後のドイツに設立された国際的な総合芸術学校「バウハウス」があり、グラフィックデザインやテキスタイル、写真などを学ぶ女子学生も多く在籍した❶。
◆出版ジャーナリズムと女性写真家の登場
1920年代は出版文化において大衆向け新聞・雑誌といったジャーナリズムが目覚ましい成長を遂げた。印刷技術の飛躍的進歩によって写真が紙面に掲載可能となり、購買層を大きく拡げた。ドイツの首都ベルリンでは、最大手ウルシュタイン社の発行する写真入り週間新聞が1920年代末に200万部の売り上げを達成している❷。こうした出版メディアの活況のなかで、女性の職業写真家が登場してくる。女性でも簡単に持ち運びできる小型カメラの開発が進んだことも、この趨勢を後押しした。テクノロジーの進歩によって身近なものになった「ニュー・メディア」が、伝統的な絵画や彫刻とは違った活躍の場を拓いたのである。商品を宣伝するための広告写真のほか、報道ドキュメンタリー写真や、芸術写真の分野にも女性写真家が輩出し始めた。1929年にドイツで開催された国際的な「映像と写真」展では、女性の出展者は全体の約1割と、いまだ少数派ではあったが、彼女たちは写真史に刻まれる仕事を残している。
◆社会意識の表明
ヨーロッパを戦火に巻き込んだ大戦を経験し、その後に制定された新憲法で女性参政権が認められたことによって、女性の政治意識は確実に高まった。これを反映して、写真を用いた新しい美術表現によって社会性に富んだ表現をする女性アーティストも登場している。とりわけ、写真や文字の断片を組み合わせて再構成するフォトモンタージュの技法は、社会主義革命を果たしたソビエトや、革命に揺れる大戦末期のドイツで左翼系の美術家たちによって開発されて以降、ワイマール・ドイツの視覚文化で大いに活用された。新聞や雑誌に掲載された写真を切り抜いて引用し、別の写真と組み合わせることで、まったく別の意味を作り出すこの手法は、マスメディアが作り出したファッショナブルで性的な「新しい女」像を批判的にテーマとすることも可能にした。(香川)
資料
❶バウハウスと女性
創立者グロピウスはバウハウスの当初の経費見積りのなかで、「女性50名」と「男性100名」の入学者を想定していたが、実際には女性が男性とほぼ同じくらい入学してきた。新しいワイマール憲法が女性に無制限の勉学の自由を認めていたからである。学校はもはや、戦前のように彼女たちの入学を拒むことができなくなり、大勢の女性たちがこの新たなチャンスを利用したのだった。(…中略…)バウハウスのワイマール時代は、一貫して女たちの入学をできるだけ阻止し、そのハードルを越えてしまった女たちはまとめて織物工房にほうり込むことに終始した。(マグダレーナ・ドロステ『バウハウス1919-1933』より「バウハウスの女性たち」)
❷ワイマール・ドイツのグラビア新聞・雑誌
【コラム】女性だけの写真スタジオ「ring+pit」:1920年代末、ベルリンで写真を学んだグレーテ・シュテルンとエレン・アウアーバッハは女性ふたりの写真スタジオを構え、広告写真や肖像写真を撮った。シュテルンはバウハウスの写真クラスにも通っている。ユダヤ人だったふたりは、ナチスが政権をとると国外に亡命した。 |
参考文献
マグダレーナ・ドロステ『バウハウス1919-1933』Nakano Mariko訳、タッシェン・ジャパン、2006年
鷲巣由美子「装う————ファッション雑誌の描く〈新しい女〉」/香川檀「アートする————テクノロジーと〈新しい女〉の相互浸透」、田丸理砂/香川檀編『ベルリンのモダンガール』三修社、2004年