【特集8】キリスト教・太平天国・義和団(中国女性の100年)

掲載:2016-03-05 初出:『中国女性の100年』第1章

伝統中国の社会は清代にはその頂点を迎えたが、19世紀になると大きな変化が起こった。1840〜42年のアヘン戦争ののち、宣教師と商人を先頭に、西欧列強は中国への進出を強める。1851年には広範な民衆を巻きこんだ反清運動である太平天国が興り、華中南一帯を席巻するが、清朝の支配を倒すには至らず64年に崩域した。1860年代から清朝は、洋務運動によって西欧の利器の導入を開始した。だが1895年の日清戦争の敗北は、危機感を深めた中国の知識人の間に、より抜本的な改革への議論を噴出させることになった。亡国の危機を救うために、どのような方策を採るべきかが模索され、そのようななかで女性に期待されるものも、伝統社会のそれとは変わっていく。こうした改革機運はやがて体制改革をめざした戊(ぼ)戌(じゅつ)変法(へんぽう)(1898年)を実現させるが、これは100日で挫折し、中心の康有為らは亡命する。その後は日本を舞台に、革命派と立憲派が議論を戦わせた。19世紀末、華北では義和団が広がるが、列強の共同出兵を招いて弾圧された。清朝は、20世紀に入って立憲君主制への移行を図ったが、遅きに失し、朝野の信望を失っていった。(小浜正子)

Ⅰキリスト教と女性―西洋との遭遇

[1]「広東軍務記」(執筆者不明、発表年不明)

夫はわざわいに罹(かか)り、妻は辱(はずかし)めを受け、二つの命みな亡ぶ。子は縛(ばく)せられ、母は困居し、身家ともに損なう。しかも田園は傷つけられ、室(しつ)炉(ろ)は壊され、墓は掘られ、老少も淫(いん)せらる。
〔陳舜臣『中国の歴史 七』識談社文庫、1991年、120頁。「広東軍務記」中国史学会
主編『鴉片戦争(三)』上海人民出版社、1955年〕

[2] 「列女伝」(執筆者不明、発表年不明)

渡頭村の雷成星の妻劉氏は、山渓角村の泰遠の娘である。成星の生業は儒者である。道光辛丑(1841)年に、英(イギ)夷(リス)が入冠し、その村門に及んだ。劉氏は憤り、棒を執り、雷兆成などについて、夷人を打ったが、戦いは敗れ、殺害されて死んだ。歳24、一子道蕃を遺(のこ)す。
〔「同治香山県志巻一八 列女伝」広東省文史研究館編『三元里人民抗英闘争史』。『中国婦女運動歴史資料 1840-1918』(共通文献○31)〕

[3]『藍色の長衣の国』(アーチボルド・リトル、1901年)

宣教師は何をしたか、この問題を中国では訊く人はいないだろうが、英国では常に訊かれる。1899年、私は長江に沿って旅行した。この旅行で見聞きしたことを書けば、あるいはこの問題に答えられるかもしれない。
まず清江について。長江旅行の最初の港町である。アメリカ循(じゅん)道(どう)公会の女子学校は、清江ではとても有名だ。音楽教師がやる気のある人で、女の子たちもよい声をしているので、難しい歌でも自在に歌える。よその学校から羨ましがられているが、音楽とはじつに人の気を引くものである。〔中略〕九江に大きな学校があり、教会の女性を養成している。何人かの子どもはアメリカで教育を受けた。特に取り上げたいのは、若い石[美玉〕医師と康〔成〕医師で、二人は優れた中国女性である。アメリカで優秀な成績で医師の資格試験に合絡したのち、故郷に帰って病院を開設し、終日多忙な生活を送っている。〔中略〕
漢口の集会ののち、漢陽でまた女性の集会をもった。会に参加した女性たちはみな纏足廃止に賛同した。足を縛っていた布を投げ捨てた彼女たちに立ち上がるように言うと、ゆっくりと立ち上がった。が、まだあまり慣れないようだった。辛抱強く纏足の悪い点を説明すると、この湖北の女たちは会心の笑みを浮かべた.〔中略〕武昌でこれと同じ集会をする前に、上層の若い男性のために集会を開いた。そこで私は無知の問題を取り上げた。つまり継足は彼女たち自身の好みによるものではないのだと言うと、会場中から「ふふふ」と小さな笑い声が間こえてきた。次の朝早く、この湖北の省都の大通りにいると、大きな邸宅から子どもが走り出てきて、パンフレットの余りがないかとたずねたので、持たせてやった。
〔阿綺波徳・立徳著、王成東・劉皓訳『穿藍色長袍的国度』時事出版社、1998年、286-287,291,303頁。Archibald Little, In the Land of Blue Gown,1901〕

解説

アヘン戦争は中国大陸に近代の幕を開けさせたが、度重なる列強との戦いのなかで、住民は英軍による略奪、暴行に生命をさらされた。女性は老少にかかわらず強姦され、男たちは殺され、せっぱつまった住民たちは武器にもならない棒やくわ、すきなどを手にして、「平英団」(英国を平らげる)などに集結し、立ち上がった。しかし無力な清朝の官僚たちは屈辱的、売国的な条約を締結した。それ以後、中国は半植民地化され、欧米の列強はその勢力を拡大しつづけた。キリスト教は東アジアにおいて政治力を背景に進出したが、中国では北京条約後、布教活動が公認、保証されて、沿岸からしだいに内陸地域へと入っていった。そこでは義和団などに見られるように、土着の文化、生活慣習の違い、地元の経済問題などから、地域住民とキリスト教徒との間に摩擦を生じることが多かった。特に女性が教会堂に行くことは、無知も加わって宣教師のたぶらかし・誘惑と誤解された。そのため布教当初は、貧しい家の女の子を教会で養育することから始まった。
新旧キリスト教の各宗派は多くの伝道者を中国大陸に送りこんだ。彼らは布教達成のためにも中国女性の解放の道を開いた。女性たちの劣悪な家庭生活や不平等な社会は、欧米の市民社会を経験した宣教師たちの目から見ると、總足、女の赤ん坊の間引き、親が決める婚姻制度など解決すべき問題を多く抱えていた。彼らは聖書を読ませるために識字教育を、さらに職業教育を、また都市では音楽や体育、外国語など近代的な教育も始めたが、それはそのまま女性解放の道へつながったのであった。
中国で初めて設立された教会女子学校は、1844年に英国の東方女子教育協進社が寧波(ニンポー)に設立した寧波女塾である。その後、教会のあるところには必ずといってよいほど女塾が作られていった。77年にはプロテスタント系で121カ所、収容女子学生2101人という統計がある。
女子の高等教育に関しては、1905年に創立された華北協和女子大学が、中国で初めての学校で、ついで福州の華南文理学院、南京の金陵女子大学などが作られた。嶺南大学では1905年に女子を受け入れ、18年には正式に男女共学となった。官立の北京大学が20年に初めて女子を受け入れたことと比べると、教会立の学校が女子の高等教育にも力を入れていたことが明らかである。20年の統計によると、生徒数の割合は教会立の小学校では女子が31%、同中学では17%(官立では1パーセント未満)である。
風習化した纏足は、女性の身体や精神を損なうばかりでなく、家の外に出て教会に通うことができないという、伝道者にとっては切実な問題が存在していた。彼らは清朝政府に禁令発布を働きかける一方で、不纏足、放足を呼びかけた。1874年ロンドン伝教会のジョン・マイケル・ゴッドウィンが廈門(アモイ)戒纏足会を作った。95年には上海で天足会が組織されて、英国人のリトル夫人(史料[3]の著者)が会長になった.その後各地に次々と天足会ができていった。各地の教会学校では、不纏足が入学の必要条件でもあった。67年に杭州のある教会女子学校では、学校から衣食を提供される女子生徒は放足しなければならないことを規定に盛りこんだ。
医療教育面では、史料にある石美玉、金雅妹、何金英、康成などを、教会からアメリカの医科大学に留学させる一方、西洋医学の伝播とともに、宣教師たちは専門の女子医学院を設立した。1879年、広東にアメリカ長老教会が作った博済医院の医療班において、二名の神学院の女子学生が学んだことが、女子医学院設立の発端である。
1874年にアメリカでキリスト教徒が中心になって禁酒をすすめる節制運動を始めたことから、上海でも1909年、キリスト教婦女節制会が作られた。以後、多くの教会関係者が女性運動の一環として節制会の活動に参加した。
欧米の資産階級の女性解放理念はこのようにして、意図的に、あるいは無作為に教会をとおして中国社会に導入された。神の名のもとに平等というキリスト教の教えは、「夫は妻の綱」「三従四徳」の倫理道徳から中国女性を解放し、家庭における夫と妻の平等、社会における男女平等の観念は、その後しだいに中国社会に影響を及ぼしていった。
アメリカの伝道師ヤング・ジョン・アレンは『万国公報』を創刊し、その紙上で纏足反対や女子教育の重要性のキャンペーンを繰り広げ、また、よその国の女性たちの様子を知らせるために『全地五大洲女俗通誌」を著した。
(訳・解説 前山加奈子)

参考文献

『中国女性解放の先駆者たち』(共通文献⑯)
『中国女性運動史 1919~49』(共通文献⑮)
『中国近代社会思潮 1840〜1949 第二巻』湖南教育出版社、1998年

Ⅱ太平天国と義和団―武装反乱のなかで

[1]「太平天国』(リンドレー、1866年)

太平天国の人々は、女性の足をしめつけて形状を歪める忌まわしい習慣(纏足(てんそく))を廃止した。しかし、その改善した制度の下では、女児は一人もこの拷問を受けないけれども、彼らの妻たちは、恐ろしい「小さな足」の者が多く、広西、広東のある地方などの土着民と苗族を除いては、はじめから、足をかたわにする風習に馴らされていた。太平天国の乱勃発の当初以来、生まれた子供は、全部、自然のままの足である。〔中略〕太平天国の下層人民は、一人が妻一人だけを娶ることが許されて、妻とは牧師による正式の結婚手続きをふまねばならない。首領たちの場合、結婚は非常に華麗、盛大に挙行される祝典であるが、貧しい階級は、適当と認められるときだけ、彼らを直接統治する上司の許可が得られてはじめて結婚できる。清朝と正反対のところは、太平天国では一旦結ばれた結婚のきずなは、決してほどくことができないということである。それ故に、妻の勝手な離縁、あるいは売却―中国人の間ではよく行われているーもしくはイギリスの離婚裁判所の訴訟手続きなどは、太平天国の人々の眼には好ましいものとは映じなかった。
太平天国の女性はいずれも結婚して家族の一員となるか、それとも保護者のない女子を収容する大きな施設(すなわち、初期の姉妹宮、後期の姉妹館をさす)の一つに入るかのどちらかにしなければならない。そういう施設はたいていの主要都市に存在して、専任の官吏が監督していた。太平天国の領域では、独身の女性はこれ以外の生活方式は許されなかった。この法律は売春防止のためであり、売春行為は死刑に処せられる。これはたしかに非常に効果のあった法律である。というのは、そういう売春行為は、太平天国の各都市では、どこでも跡を絶ったから。だが、この法律の厳重な施行は、実際上かなり過酷であった。〔中略〕太平天国では、女の本来の場は、男の伴侶であると認めている。女子の教育と発達は、男子と平等によく留意されている。神に対する努めは諄々と教えられている。日常の礼拝では、女子も固有の坐席を占める。多くの女性は熱心に、平易に『聖書』を教え、解説をしている。つまり、女性を太平天国運動によってその獲得した地位の向上にふさわしくするため、あらゆる方法がとられているのである。
〔リンドレー著、増井経夫・今村与志雄訳『太平天国―李秀成の幕下にありて』第二巻、平凡社、1964年、149-151頁。 Lin-le(Augustus.F.Lindley),Ti-Ping ,Tien-Kwoh. The History of the Ti-Ping Revolution, including a Narrative of the Author`s Personal Adventures,2 vols,London,Day&Sons,1866〕

[2]「遇難日記」(執筆者不明、発表年不明)

ひとたび波乱が起きて、まだしずまらないのに、また一波乱が起きた。たちまち保定府に神兵天将が降臨したことを聞いた。その名は紅灯照という。みな若い女性で、全身赤衣を着用し、手には赤い布をもっていた。はやり歌は次のようにいっている。赤い布を一振りすると、布は灯火に変わり、灯火の到るところ、大火がたちどころに起こる。背には飛剣を挿し、遠くの人の首を取ることができる。また、確固として揺るがず、心は戦いを交えることを思う。どんな武器でも、恐れることはない。鉄砲や大砲にあたっても、燃えることはない。義和団の法術は大きいけれども、なお汚れたものを恐れる。だが紅灯照には恐れるものは一つもなく、義和団と気持ちを一つにして、先頭の隊列をなす。
〔佚名「遇難日記」『義和剛』第二冊、163頁。『中国婦女運動歴史資料 1840〜1918』(共通文献○31)〕

[3]「寧津県志稿」(執筆者不明、発表年不明)

光諸26年2月のころ、紅灯照の仙女張鳳姐(山東省楽陵県の人)が四、五人のお供をつれていた。みな赤い衣装を身につけ、馬に乗り、手には塵払いをもち、背には宝剣を帯び、各村で紅灯照を組織した。いくつかの村では非常に速く組織した。少女は紅灯照を作り、赤い衣装を身につけ、赤い布で覆った。寡婦は藍灯照を作り、青い衣装を身につけ、青い布で覆った。そして、次のように述べている。女性が真心から道を修めれば、仙人となって天に昇り、海を渡って外国人を殺すことができる。
〔「寧津県志稿」『義和団史料』下冊、973~974頁。『中国婦女運動歴史資料 1840-1918』(共通文献○31)〕

解説

太平天国運動(1851年1月〜64年7月)は、プロテスタント派の流れをくむキリスト教にもとづいた拝上帝教を革命理論に作りあげて、地上に天国を実現しようとするものであった。史料[1]は、太平天国の有力指導者の一人忠王李秀成のもとにいたリンドレーが記したルポルタージュの一節である。ここでリンドレーは、太平天国の女性政策について一般的なかたちで論じている。しかし、太平天国の女性のあり方は、大きく二つに分かれる。起業以来従軍してきた
客家(ハッカ)や少数民族の老姉妹と、進軍過程、南京で拉致され、脅従させられた新姉妹である。老姉妹は纏足の習慣がなく、蘇三娘(そさんじょう)のように女軍を率いたり、女館を管轄する指導的地位についた。新姉妹は纏足を解かれ、老姉妹の監督のもとで麦刈り、稲刈りなどの屋外労役への参加を強制された。太平天国は基本的理念を「天(てん)朝田(ちょうでん)畝(ぽ)制度」として公布し、これと各地の守将の出した告示により、性別役割の本質的否定、纏足の禁止、一夫一婦制の提起をなし、伝統体制を揺るがした。しかし新姉妹は纏足を解いても足はもとにもどらず、ほとんど一歩も歩けなかった。こうして纏足の禁止は、新姉妹に苦痛を与えるのみで実行しえなくなった。また、指導者洪秀全はのちに妻の数を官階の高低に準ずる「多妻詔」を出して、一夫一婦制を否定した。このように、後期の太平天国の政策と実態には初期の理念と政策とは異なるものに変化した点がある。リンドレーの文章は、主として老姉妹の状態に視点をあてたものではないかと思われる。
義和団運動(1899年3月〜1901年9月)は、キリスト教排斥運動の発展として、「扶清滅洋」(清朝を助け西洋を滅す)をスローガンに掲げた反帝国主義運動であった。義和団に結集したのは、義和拳、大刀会、鉄布杉、無影鞭などの郷村自衛組織であった。義和拳などは、武術で身体を鍛えた。この武術は神秘性を帯び、拳法を学べば神仙が身体に付着して銃弾すら避けて通るという迷信をもっていた。男性が義和団で戦ったとき、女性も組織を作って戦った。それが史料[2][3〕に出てくる紅灯照、藍灯照である。藍灯照は中年の女性の組織ともいわれ、また老年の女性の組織として黒灯照があった。このなかでとりわけ、紅灯照の名が高かった。紅灯照は一二〜一八歳の娘たち、なかには八、九歳の子どもが加わっていたといわれる。指導者として黄連聖母と翠雲嬢の名が知られているが、参加者がいかなる人々であったのか、詳しいことはわかっていない。彼女たちは髪を結わず、継足をせず、赤い上着とズボンをつけ、赤い帽子をかぶり、赤い靴をはいていた。手には紅灯照とよばれる、ランタンのようなものをもっていた。彼女たちは団員の負傷者を看護したり、見張りに立ったり、情報を蒐集したりした。刀を振りまわし、扇を振るうという訓練は厳格であった。赤い扇や布を振るうと天に上ったり、火がついたりするといわれていた。彼女たちは義和団とともに、洋館を焼き討ちし、外国人を殺してまわった。これは武器らしい武器をもたず、素手で西欧の近代兵器と対決しなければならなかった民衆が、このような迷信を武器として、団を組織し、侵略者と戦おうとしたものであると思われる。(訳・解説 針谷美和子)

参考文献

針谷美和子「太平天国における女性の位置」『中国の伝統社会と家族」(共通文献㉕)
堀川哲男「義和団述動の発展段階」野沢豊・川中正俊ほか編『誰座中国近現代史』鋪二巻、東京大学出版会、1978年
小林一美「義和団の民衆思想」同右書
『中国女性史』(共通文献⑤)

太平天国運動の中心地(赤)(出典)https://fr.wikipedia.org/wiki/R%C3%A9volte_des_Taiping

コラム ◇「紅楼夢」

白話長編小説、全120回。清代中期頃に成立したとされる。作者は曹(そう)雪(せつ)芹(きん)。第80回までが曹雪芹によって書かれ、後半の40回は高鶚(こうがく)の続作だとされる。作品は、女媧が天の修理に使い残した石が、僧侶や遊士に伴って下界に降り、見聞した記録という設定をとっている。そのために『石頭記』という題名がはじめ使われていた。
物語の中心は賈(か)家であり、家の全盛から没落までを描いている。賈(か)家には天上の仙女たちが降りてきて作り上げた、地上の大観園という女性たちの世界があり、そのうち12人が、主人公・賈(か)宝玉を取り巻く主要な女性たちである。そのため『紅楼夢』の異名として「金陵十二釵(さ)」が使われる。
女性たちのなかでも特に重要な人物として書かれているのは、才気溢れる女性ではあるが病身な林(りん)黛(たい)玉(ぎょく)と、おっとりとして家庭的な薛宝釵(せつほうさ)である.二人は、質家の跡つぎである賈(か)宝玉の夫人候補としてライバル関係でもあり、その人物像も対照的に描かれている。林(りん)黛(たい)玉(ぎょく)は反封建的な性格を備えた女性として描かれ、薛宝釵は封建社会のなかで異端児扱いをされない比鮫的古風な女性として描かれている。二人は対比をなす性格だが、ともに封建社会の不合理な制度に翻弄される女性という点では共通している。作者はこの二人の女性を登場させることで、家族制度下におかれた女性たちの苦痛を表現し批判した。宝玉は「女の子の体は水でできている、男は泥でできている」などと女性尊重を強調する人物である。『紅楼夢』は、男尊女卑の社会にありながら、女性を尊重した立場から女性たちの世界を猫いた最初の小説といえる。
〔伊藤漱平訳『紅楼夢上・中・下』(中国文学大系)平凡社、1973年。松枝茂夫訳『紅楼夢』岩波書店、1972年(改訳1985年)〕(仙石知子)

※(注)図版の一部は、HP編集担当によって追加している。