目次
【年表】アフリカ史(4)ーアフリカ分割と民族解放運動・近代教育史
掲載:2016-05-05 執筆:富永智津子
(1)アフリカ分轄をめぐる西欧諸国間の抗争・会議・条約・協定
- 1661年
(ポルトガル、オランダ)ハーグ講和条約に基づき400万クルザードの賠償金と引き換えにアンゴラとオランダ領ブラジルの領有を承認。 - 1788年
(イギリス)African Association(正式名称Association for Promoting the Discovery of the Interior Parts of Africa)、上流階級の貴族らによってロンドンで創設。科学的知識の蓄積と奴隷貿易廃止に動機づけられたクラブ。アフリカの内陸部の情報をヨーロッパにもたらすことによって、アフリカ分割への布石ともなった。 - 1814年
(国際)フランスと第六次対仏大同盟諸国との戦争を終結された第一次パリ条約。インド洋のレユニオン、モールシャスのイギリス領有を承認。 - 1815年
(国際)ナポレオン戦争後に開催された国際会議によって調印された議定書。イギリスの南ア領有を承認。 - 1879年
(エジプト)英仏、エジプト共同管理体制を確立 - 1880年
(南部アフリカ)オランダ系ボーア(ブール)人のトランスヴァール共和国をイギリスが併合しようとして第一次南アフリカ戦争勃発(~81 年)。イギリス側の敗北。 - 1884年
(国際)西欧14か国による中部アフリカに関する権益分轄に関するベルリン会議(11月~85年2月) - 1886年
(東部アフリカ)東アフリカ分轄の境界画定に関する英独協定
(南部アフリカ)ドイツ・ポルトガル間で、アンゴラと南西アフリカ(現ナミビア)の国境画定 - 1880年
(モロッコ)欧米諸国がモロッコの保護および門戸開放に関するマドリード条約に調印 - 1890年
(東部アフリカ)東アフリカ分轄に関する英独協定(ザンジバル・ヘリゴランド条約)
(国際)欧米17か国、アフリカに関するブリュッセル協定締結(奴隷貿易の禁止、武器・酒類販売の禁止など)
(英仏)ロンドン会議にて両国のアフリカの勢力圏を画定
(独仏)アフリカ植民地協定締結
(英仏)イギリスはザンジバルを、フランスはマダガスカルの領有を相互に承認→マダガスカル女王 ラナヴァルナ3世 (→世界女性史年表)を中心とする抵抗運動。フランスは2万人の軍隊を派遣し、1895年に鎮圧 →1896年:さらなる抵抗運動勃発。フランスは王制を廃止し、マダガスカルを植民地化。 - 1891年
(英伊) エチオピアに関する協定を締結 - 1892年
(英独) 西アフリカ・カメルーンの勢力圏協定締結 - 1894年
(独仏)カメルーン・コンゴに関する協定締結
(英伊)東アフリカの勢力圏協定締結 - 1898年
(英仏) 西アフリカ分轄に関するニジェール協定 - 1899年
(英・オランダ系)オレンジ自由国とトランスヴァール共和国を併合しようとしたイギリスとオランダ系ボーア人
との間で第二次南アフリカ戦争(~02年)。イギリスの勝利。 - 1902年
(仏伊)モロッコ問題に関する仏伊秘密協定調印 - 1904年
(英仏)協商で、エジプトにおけるイギリスの優位とモロッコにおけるフランスの優位を認めあう。
(仏西)条約によりモロッコに関する勢力圏確定 - 1905年
(独仏)モロッコをめぐる独仏対立により、第一次モロッコ事件(タンジール事件)起きる。
→1906年:モロッコ問題に関するアルヘシ ラス議定書調印、フランスの優位確定
→1911年:ドイツ皇帝によるモロッコへの軍艦の派遣(第二次モロッコ事件=アガディール事件)
と独仏間にモロッコ・コンゴ条約
→1912年:モロッコ、フランスの保護領となる。 - 1911年
(伊)イタリア、オスマン・トルコ領トリポリタニアとキレナイカに侵攻、トルコ軍とリビア人の抵抗を受ける。
→1912年:ローザンヌ和平会談で、停戦および両地域をイタリアの主権下におくとの秘密協定を締結。
→以後、トリポリタニアではベルベル系の、キレナイカではサヌーシー教団の抵抗続く
→1918年:「トリポリタニア連合戦線」、続いて「全国改革党」の結成
→1923年:サヌーシー教団とイタリアとの攻防戦
→1931年:サヌーシー教団の指導者ムフタールが逮捕・処刑され、イタリアの平定作戦が終了。
(2)民族解放運動
- 1897年
(ガーナ)ケイスリー・ヘイフォードらにより「原住民権利保護協会」(ARPS)発足。民族主義運動の草分け。 - 1899
(ソマリア)アブディル・ハサン(「狂気のムッラー」、Sayed Mohamaded Abdile Hasan)に率いられ、オガデンのソマリ系住民、エチオピアやイギリスの支配に組織的に抵抗(~1920) - 1900年
(国際)ロンドンでパン・アフリカ会議(パン・アフリカニズムの初動、シルベスター=ウィリアムズによって召集される)
→1914年:Adelade Casely Hayfordイギリスでパン・アフリカニズムの潮流に深く共鳴してシエラレオネの フリータウンに戻る。 以後、女子教育機関の設立にも尽力(→世界女性史年表)
→1919年:第一回パン・アフリカ会議(パリ、議長デュボイス)、アフリカ人の人権と政治参加の権利の要求
→1921年:第二回パン・アフリカ会議(ロンドン、ブリュッセル、パリ)
→1923年:第3回パン・アフリカ会議(ロンドン・リスボン)
→1927年:第4回パン・アフリカ会議(ニューヨーク)
→1945年:第5回パン・アフリカ会議(マンチェスター)アフリカからンクルマなど西アフリカからの代表が参加。 はじめてアフリカ植民地の完全自治の要求を盛り込んだ宣言を採択。 - 1907年
(チュニジア)「青年チュニジア党」の結成
→1920年:「ドゥストゥール(立憲)党」に結集
→1934年:ブルギーバ派、「新ドゥストゥール(立憲)党」、指導権を掌握 →1938年:ブルギーバ逮捕により「新ドゥストゥール(立憲)党」解散。
(モロッコ)「青年モロッコ人」によると思われる、王制廃止運動や立憲王政憲法草案などの活動の活発化
→1933年:「国民行動連合」の台頭
→1937年:「国民行動連合」、「国民党」と「国民運動」に分裂。前者が指導権を掌握するも弾圧され、 同年10月、運動は終焉。 - 1908年
(アルジェリア)「青年アルジェリア人」運動の台頭
→1926年(24年説もあり):「北アフリカの星」結成(1932年に「栄光ある北アフリカの星」の名で再建、 さらに1937年に「アルジェリ ア人民党」と改称)
→1927年:「ムスリム議員連盟」の結成
→1931年:「アルジェリア=ウラマー協会」の設立
→1936年:民族統一戦線の結成 - 1912年
(南ア)「南アフリカ原住民民族会議」の結成(初代議長ジョン・デューベ)→1923年:「アフリカ民族会議」(ANC)に改称。
(ケニア)Mekatilili Wa Menza、イギリス植民地時代のケニアにおける沿岸部の民族集団ギリアマの
抵抗運動を指導(~1914) (→世界女性史年表) - 1919年
(ケニア)ハリー・ヅク、「東アフリカ協会」(EAA)を組織
(ケニア)政治活動家、教育者Rebecca Njeri Kairi、「独立学校」運動から政治運動に参入、
「マウマウ」闘争では逮捕拘禁される。ケニ ア独立運動史の中で、もっとも重要な役割を果た
した女性のひとり(→世界女性史年表) - 1920年
(ガーナ)ケイスリー=ヘイフォードの提唱による「英領西アフリカ国民会議」(NCBWA)の第一回会議。
西欧型教育を受けた西アフリカのエ リート、政治改革やアフリカ人の政治的権利などをイギリス植民地省
に要望。 民衆の支持を得られず解散(~1930)。
(シエラレオネ)直轄植民地のクレオール(解放奴隷の子孫)により「シエラレオネ国民会議」(SLNC)結成。 - 1920年代
(ナイジェリア)マーケットで働く女性たちを主体とした首都ラゴスの最大の女性組織Lagos Market Women’s
Associationの最高責任者であ り反植民地運動の女性闘士Alimotu Pelewuraの活躍(→世界女性史年表) - 1920~40年代
(南ア)Josie Mpama、共産党に入党し、全国規模で白人政権への抵抗運動を組織。(→世界女性史年表) - 1920~60年代
(ケニア)キクユ人政治家Wambui Wangarama、ケニア初の女性政治組織Mumbi Central Association
(MCA)を創設、 マウマウ闘争でも 重要な役割を担った(→世界女性史年表) - 1922年
(ケニア)Mary Muthoni Nyanjiru、反植民地活動家ハリー・ズクの逮捕に抗議するデモで射殺される。
(→世界女性史年表) - 1922年
(ナイジェリア)ハーバード=マコーリー、ナイジェリア最初の政党「ナイジェリア国民民主党」(NNDP)
結成。 イギリス統治の民主的改革を 要求。活動はラゴスに限定され、次第に保守化。 - 1924年
(ナイジェリア)ラディポ=ソランケ、「ナイジェリア進歩同盟党」(NPU)の結成。
→1925年:「西アフリカ学生同盟」(WASU)に改 編。ロンドンにおける政治活動の中心、多くの政治 指導者を生み出す。 帝国主義を 批判。
(ケニア)「キクユ中央協会」(KCA)結成 - 1926年
(セネガル)ラミヌ=サンゴール、「黒人防衛委員会」(CDRN)を結成。植民地政策批判と黒人の
独自性を主張。 - 1929年
(タンザニア)「タンガニーカ・アフリカ人・アソシエーション」(TAA)の結成→1954年:ニエレレによって「タンガニーカ・アフリカ人民族同盟」(TANU)に改組
(ナイジェリア)東部のアバで女性による反課税運動 - 1930~50年代
(南ア)ラトヴィア人Ray Alexander Simons、反アパルトヘイト運動で重要な役割を担う。 共産党員。 (→世界女性史年表) - 1930年代~90年代
(シエラレオネ)Constance Cummings-John、20歳でフリータウンの評議会議員に当選以降、
一貫して、 反植民地運動に力を注ぎぐ。 1966年にはフリータウンの市長に当選。教育者としての活躍。
(→世界女性史年表) - 1931年・
(ジンバブウェ)「改革党」(RP)結成
(シエラレオネ)イスラーム改革者ハイダラ=コントルフルによる小屋税不払い運動(ハイダラ運動)
の展開。 内陸部の反植民地意識の胎動。 - 1930~60年代
(ナイジェリア)Funmilayo Ransome-Kuti、国際的視野をもって反帝国主義運動を展開
(→世界女性史年表) - 1936年
(ナイジェリア)ナイジェリアにおける最初の近代的民族主義運動とされる「ナイジェリア青年運動」
(NYM)結成。 - 1937年
(シエラレオネ)ウォーレス=ジョンソン「シエラレオネ青年連盟」(SLYL)を結成。直轄植民地と
内陸部の保護領 との運動を統一しようとし たが、SLYLの過激な路線とSLNCの穏健な路線が対立、
ウォ―レスは投獄され、SLYLの活動 は実体を喪失。
(カメルーン)パリで「カメルーン人同盟」(UC)の結成、政治的地位向上を訴える。 - 1938年
(南ア)Cissie Gool、ケープタウンのCity Councilに選出され、1963年に死去するまで現役を貫いた。
反アパルトヘイト運動を指導した最初 の女性。(→世界女性史年表) - 1940年
(ケニア)政治活動の非合法化により「キクユ中央協会」(KCA)、「カンバ族協会」(KMA)、
「タイタ山地協会」(THA)などの反政府的政治組織の指導者の逮捕続く。 - 1940年代~59年
(南ア)Elizabeth Mafekeng、労働組合運動家の立場からアパルトヘイトへの反対運動を貫き、
1959年に国外追放される (→世界女性史年表) - 1940~90年代
(南ア)Helen Suzman、白人の立場から、白人政権の打ち出す人種差別法に反対を貫き、
野党議員としてアパルトヘイトからの解放に尽力 (→世界女性史年表) - 1940~60年代
(南ア)南ア解放運動の傑出した女性リーダーLilian Ngoyiの活躍(→世界女性史年表) - 1940~60年代
(マリ)Aoua Keita、政治活動家、産婆、フェミニストとして活躍(→世界女性史年表) - 1940~90年代
(南ア)Liz Abrahams、労働組合運動の活動家として頭角をあらわし、1995年には国会議員を務める。
(→世界女性史年表) - 1942年
(ナイジェリア)アジキエ、「ナイジェリア再建集団」(NRS)組織。
→1944年:東部のイボ人を中心に、ハーバート=マコーリーとアジキエにより政治集団の連合体 「ナイジェリア・カメルーン国民会議」 (NCNC)結成。植民地ブルジョア民族主義を掲げる。 - 1943年
(ソマリア)イタリア領ソマリランドで「ソマリ青年クラブ」の創設。
→1945年:イギリス領ソマリランドで「ソマリランド民族連盟」(SNL)の結成。
→1954年:イギリス領ソマリランドでSNLとSYLを含む「民族統一戦線」(NUF)の結成
→1947年:「ソマリ青年クラブ」「ソマリ青年連盟」(SYL)に改称。強力な政治団体に成長。
→1956年:70議席を持つ立法審議会が創設され、選挙でSYL勝利。アブディッラー・イッサを首相とする 内閣誕生。
→1959年:モガディシオで「パン=ソマリ民族運動」の結成。 →1960年:元イタリア領ソマリランドの独立。
→1960年:イギリス領ソマリランドで総選挙。SNLが勝利し、組閣、独立。
→1960年:元イタリア領ソマリランドと元イギリス領ソマリランド、合邦してソマリア共和国を形成。 - 1944年
(ケニア)エリート層、「ケニア・アフリカ人同盟」(KAU)の結成し、ケニア全体のアフリカ人民族主義
政党をめざす。
→1947年:ジョモ・ケニアッタ、KAUの党首に就任。
→1950年:このころより「マウマウ」と呼ばれる秘密結社による武装闘争はじまる。
→1951年:KAU内の急進派、勢力を伸ばし、直接行動を主張。「マウマウ」との共闘路線を選択
→1952年:政府、戒厳令を布告し、KAUの弾圧に踏み切る。ケニアッタら200名の逮捕・拘禁。 民族主義運動、 ゲリラ闘争に入る。 →1959年:戒厳令解除
→1960年:ロンドンのランカスタ=ハウスでケニア憲法会議はじまる。 - 1945年
(ナイジェリア)政府技術労働者組合を主体とするゼネスト。 - 1946年
(シエラレオネ)伝統的首長層に対抗して「シエラレオネ組織協会」(SOS)結成さる。
(コートジボワール、ギニア、ニジェール、セネガル、ガボン、チャド、カメルーン、コンゴ)
現在のマリのバマコで、 フラン領西アフリカ全 域にわたる政党として「アフリカ民主連合」(RDA) 結成される。総裁、ウーフェ=ボアニ。
→1955年:カメルーン、ギニア、セネガル、ニジェールの各政党を除名。
→1957年:全域で選挙、RDA系の政党が各地で勝利。
→1958年:ド・ゴール、1946年にフランスと植民地との間で形成されたフランス連合をフランス 共同体に 改編することを提唱。 国民投票 の結果、ギニアが離脱し独立、スーダン(マリ)とセネガルで 「マリ連邦」が形成される。
→1960年:「マリ連邦」独立直後、両国の利害の対立からセネガルが離脱、「マリ連邦」解体。
(南ア)グジャラート出身のインド系ムスリムFatima Meer、インド系人の権利擁護に立ち上がる。 反アパルとヘイト運動にも、 夫とともに 積極的に参加。1954年、あらゆる公的集会への参加や演説 や友人との面会を禁じられた南アで最初の女性となる。 (→世界女性史年表) - 1947年
(シエラレオネ)1947年憲法により、立法審議会の23議席が保護領に、4議席が直轄植民地に割り当 てられ、 両者の不満が暴動に発展。→1950年:保護領でミルトン=マルガイにより「シエラレオネ人民党」(SLPP)の結成
→1951年:選挙でSLPP大勝。マルガイ、首席大臣となる。
→1956年:憲法改正により、マルガイ、首相となる。
→ロンドンでの独立会議後、SLPP、他の政党と合体し、「統一国民戦線」(UNF)を結成。
→1961年独立。
(ガーナ)「統一ゴールドコースト会議」(UGCC)の結成。合法的な手段での改革を提唱。 保守的民族主義運動。 ンクルマ、書記長に選任さ れる。
→1948年:アクラでヨーロッパ商品不買運動、除隊兵によるデモ、外国商社への攻撃。ンクルマなど 逮捕される。 UGCCの人気高騰。→1949年:ンクルマなどのUGCCの急進派により「会議人民党」 (CPP)結成される。
→1950年:CPP、完全自治憲法の要求、絶対的非暴力による対政府非協力活動などを展開。 ンクルマら逮捕。
→1953年:ンクルマ、イギリスに独立要求 →195年:ガーナ独立 - 1948年
(南ア)アフリカーナーの国民党単独政権の誕生とアパルトヘイト政策の強化。
→1950年:政府の共産主義弾圧法と反政府運動取締りに対抗し、ANCゼネストを実施
→1952年6月26日:マンデラの指導のもとに非暴力抗議集会開催(この日は現在「自由のための日」と呼ばれている)、7000人以上が逮捕され、12月までに主だった指導者は逮捕される。
→1956年:1955年に起草された「自由憲章」は国家転覆をはかる共産主義者の陰謀であるとして 156人の指導者が逮捕される。
→1959年:ANCの過激派「パン=アフリカ人会議」(PAC)を結成 →1960年:パス法に反対する数千人の民衆に75人の白人警官が発砲、69名が死亡、180名が負傷する 「シャープビル事件」 起こる。ANC とPACの指導者2000人が拘留され、2万人以上が逮捕され、両党は非合法化される。
→1961年:マンデラによるゼネスト呼びかけ。その結果、マンデラ逮捕され、5年間の禁固刑に。 同年「ウムコント=ウェ=シズウェ(民 族の盾)」と翌年「ポコ」の結成。
→1963年:脱獄したマンデラら、武力闘争を企てたとして終身刑を宣告され、ロベン島に流刑となる。
→1970年:「南アフリカ学生組織」(SASO)の結成、ANCの非暴力主義、PACの武力主義に対して、 「黒人意識運動」を展開。 →1976年:アフリカーンス語の強制的導入に抗議するソウェト蜂起、54名志望、300名負傷。
→1977年:黒人意識運動指導者ビコ、刑務所内で死亡。 - 1950年
(コンゴ民主共和国)ジョセフ=カサブブ、ベルギー領コンゴで文化団体「アバコ党」(「バコンゴ人同盟」) 創設。 のちに政治色を強める。
→1956年:カサブブ、完全な政治的権利、集会の自由、思想の自由、出版の自由 を要求し、連邦国家構想 を打ち出す。
→1957年:ベルギー、主要都市の議会に民主的選挙を導入。アバコ党、勝利し自治を要求。 - 1950~90年代
(スーダン)Fatima Ahmed Ibrahim、1952年のSudanese Women’s Union(のちにGeneral Union of Sudanese Women と改称)の創 立者のひとり。Sudanese Communist Partyのメンバー。 女性の貧困、失業、識字、FGMと闘う。1965年、 女性で最初の国会議 員となり、女性の権利を擁護 する法令の制定に尽力。ヌメイリ政権下で弾圧され、ロンドンに亡命。1991年にはInternational Democratic Women’s Unionの会長に選出され、1993年に国連の人権分野における賞を、2006年 にアラブ世界 における自由のた めの闘いによってイブン・ラシュド賞を受賞。(→世界女性史年表) - 1950~70年代
(南ア)Ruth First、リトアニアのポグロムを逃れてヨハネスブフクに移住したジャーナリスト、 作家、政治活動家。 Freedom Charterの起草 に携わり、逮捕される。マンデラらの武力闘争に参加、 逮捕され厳しい拷問を受ける。 国外に逃亡し、モザンビークで活動中、南ア 警察によって送りつけら れた手紙爆弾で殺害される。(→世界女性史年表) - 1950年代~
(タンザニア)Bibi Titi Mohamed、ナショナリスト運動のリーダーとしてニエレレの独立運動を 支援するも、 後に反逆罪に問われる (→世界女性年表) - 1951年
(ナイジェリア)北部州に伝統的首長層を中心とした保守的・伝統的でイスラームを基盤として 「北部人民会議」(NPC), 西部州にヨルバ人ア オロオによって「行動党」(AG)結成。 両党による完全自治の要求後、両党の路線対立深まる。
→1953年:カノの大暴動勃発。
→1954年:選挙の結果、NPC(東部)と「ナイジェリア=カメルーン国民会議」(NCNC) (東部)との連立政権成立。 リットルトン憲法 により、北・西・東部三州による連邦制制定。 →1958年:連邦選挙により、NPCとNCNCの連立政権誕生
→1960年独立。
(ジンバブウェ、ザンビア、マラウィ)ローデシア=ニヤサランド連邦の誕生→1963年:ニヤサランドが「マラウィ」として独立
→1964年:北ローデシアが「ザンビア」として独立
→1965年:南ローデシアの白人政権による「一方的独立宣言」
→1980年:南ローデシア、白人政権から脱し独立、「ジンバブウェ」と改称。 - 1952年
(ウガンダ)ウガンダ全土を包摂する民族主義運動の母体として「ウガンダ国民会議」(UNC)が創設され、 ウガンダの自治を目標に掲げた。
→1953年:ブガンダ王ムテサ2世、強く独立を求めたため、イギリス総督は王を逮捕しロンドンに送りこむ。 王が法廷闘争に持ち込んだこ とにより、一躍反植民地運動の象徴となる。
→1955年:ムテサ2世の帰還。ミルトン=オボテら、UNCから別れて、「ウガンダ人民会議」(UPC)を創設
→1956年:ブガンダのローマ・カトリックの信徒によって「民主党」(DP)結成される。
→1961年:ブガンダの新伝統主義を標榜する「カバカ=イェッカ」(KY)の創設。ブガンダ独自の 利益擁護を画策。
→1962年:総選挙で、UPC第一党、KYとDPが第二党。UPCとKYとの連立内閣のもとで独立。
(スーダン)スーダン憲法改正委員会、スーダン自治の憲法草案発表し、スーダン立法審議会、 憲法草案承認。 エジプト、スーダンの自主決定権 承認。
→1953年:スーダンの自治を認めるイギリス=エジプト協定成立し、スーダン議会選挙。
→1954年:「ナショナル=ユニオニスト党」(NUP)のアズハリ、首相に就任
→1955年:スーダン議会、独立を決議
→1956年:独立。
(ケニア)Wambui Otieno、マウマウ闘争(自由と土地を求める植民地解放運動)に飛び込む。父親の逮捕、 従兄弟の処刑にも触発されて、 ナイロビに活動拠点を移し、スパイ活動や武器弾薬の密輸などを通して マウマウ闘争を支えた。 (→世界女性史年表) - 1954年
(タンザニア)ニエレレ、「タンガニーカ・アフリカ人・アソシエーション」TAAの会長となるや、 これを改組して「タンガニーカ・アフリカ人 民族同盟」(TANU)を発足させ、独立をめざして活動を開始。
→1958年:立法審議会総選挙でTANU圧勝
→1960年:第二回立法審議会総選挙でTANU圧勝
→1961年イギリス植民地相による憲法会議後、独立。 - 1956年
(ザンジバル)民族主義政党「ザンジバル・ナショナリスト党」(ZNP)の結成。
→1957年:「アフロ・シラジ同盟」(ASU)の創設。
→1959年:ASUの分裂により、「ザンジバル・ペンバ人民党」(ZPPP)と「アフロ・シラジ党」 (ASP)の登場。
→1963年:総選挙の結果、ZPPPとZNPの連合が、ASPに勝利。同年、独立。
→1964年:選挙結果に不満を持ったアフリカ系のASP主導の革命勃発。革命は成功し、アラブ系 の政権が倒れ、 タンガニーカと連合しタン ザニア連合共和国となる。
(ルワンダ、ブルンジ)ベルギー、国連の調査委員会の勧告に従い、直接総選挙を実施、地方の評議会に フツ人の議員 が多数進出。とりわけルア ンダ北部のフツ人カイバンダやハビャリマナの指導力高まる。
→1957年:ルアンダのトゥチ人指導者、ルアンダの自治、エリートの教育の促進を主張。これに対抗して、 カイバンダら「フツ族宣言」を 発表し、ベルギーの間接統治下で温存されてきたトゥチ・フツ間の保護・ 被保護の封建的関係の解消を訴えた。
→同年9月:ハビャリマナ、フツ人の主張を代弁する政党「大衆の社会的向上協会」(APROSOMA)を結成し 王制を批判。フツとトゥチの 関係先鋭化。
→1958年:ウルンジで、王族率いる「国民統一進歩党」(UPRONA)の結成、立憲君主制をめざす。
→1959年9月:トゥチ人の政党「ルアンダ民族同盟」(UNAR)結成、1962年までに立憲君主制のもとの完全 独立を要求。これに対抗して カイバンダ、「フツ解放運動党」(PARMEHUTU)を創設。フツの暴動に トゥチが応戦し、 多数のフツ人が殺される。
→1960年:ルアンダとウルンジで地方議会選挙。カイバンダの政党の勝利。ベルギー、カイバンダを 首班とする 暫定政権のもとでの自治を 承認。
→1961年:ルワンダ、共和国宣言。王制廃止。
→1962年:ルワンダ、共和国として独立。ブルンジ、立憲君主国として独立。
→1966年:軍事クーデタにより、ブルンジの王制廃止、共和国となる。
(マダガスカル)チラナナ、「社会民主党」(PSD)を結成し、フランス議会のマダガスカル代表となる。
→1958年:マダガスカル立法議会、「フランス共同体」内の自治共和国となる事を宣言。
→1960年:フランスからの独立を宣言。
(アンゴラ)ネトらにより「アンゴラ解放人民戦線」(MPLA)の結成。
→1961年:アンゴラ独立戦争勃発 →1968年:モシコ・クアンドクバンゴ州を解放
→1969年:ウンダ・ビエ州を解放
→1975年:独立 - 1958年
ガーナのアクラにて「全アフリカ人民会議」開催、各地の民族主義運動団体62の代表約500人が集結。東アフリカでニエレレ(タンザニア)とムボヤ(ケニア)の提唱により「アフリカ東部および中部・ パン・アフリカ解放運動」 (PAFMECA) の発足。東アフリカ諸国の民族主義運動の指導的理念を発信。
(コンゴ民主共和国)パトリス・ルムンバ、ベルギー領コンゴにて民族主義政党「コンゴ国民運動」(MNC)を、 モイゼ=カベンダ=チョン ベ、「コナカ党」(カタンガ部族集団)創設。ここに、 カサブブの「アバコ党」の3党が、 それぞれの独立構想を描く。ルムンバ の政党のみが中央集権 的が統一国家を目指した。
→1959年:アバコ党大会の開催を植民地政府が禁止したことによりレオポルドヴィル暴動勃発。
→1960年:ベルギーでの円卓会議により独立決定。同年6月独立、同年7月軍隊の反乱とベルギー軍の介入 からコンゴ動乱へ。
(南ア)Winnie Mandela、ネルソン・マンデラと結婚を機に、反アパルトヘイト運動に参加。 1996年に、すでに出獄し、 大統領となってい たネルソン・マンデラと離婚。その後も国会議員、 芸術や科学技術の大臣代理、ANCのWomen’s League の会長などに就任、政治活動 を続行。 しかし、2003年に詐欺罪や銀行ローンに関連した窃盗罪で、執行猶予付き4年の有罪 判決を受ける (→世界女性史年表) - 1959年
(赤道ギニア)赤道ギニアのアフリカ人にスペインの市民権が付与される。
→同年、同化政策に反対する民族主義者による「赤道ギニア解放民族運動」(MNLGE,のちにMONALIGE)と 「赤道ギニア人民思想」(IPGE)の創設。
→1963年:「赤道ギニア民族同盟運動」MUNGE)の創設。
→1968年:国連の批判もあり、スペイン、赤道ギニアの独立を承認。 - 1960年
(ケニア)「ケニア=アフリカ人民族同盟」(KANU)と「ケニア=アフリカ人民主同盟」(KADU) の2大政党の登場
→1961年:選挙によりKANU第一党となるも、ケニアッタの釈放までは内閣に入ることを拒否、 KADUがヨーロッパ人穏健派 の政党と組ん で組閣。同年、ケニアッタ釈放され、KANU総裁に就任。
→1963年:一人一票の総選挙でKANU、大勝利。ケニアッタを首班とする内閣のもとで独立。
(サントメ・プリンシペ)「サントメ=プリンシペ解放委員会」(CLSTP)が創設されたものの、 植民地政府の弾圧により弱体化。→1974年:ポルトガル本国のクーデタ。
→1975年:独立。
(ボツワナ)憲法制定。
→1962年:セレツェ・カーマ、「ベチュアナランド民主党」(BDP)結成。
→1965年:総選挙でBDP勝利。
(ナミビア)独立運動の中心となる「西南アフリカ人民機構」(SWAPO・旧名は「オバンボ人民機構」)設立。
→1966年:SWAPOの指導者アンディンバ・トイボ・ヤ・トイボ、逮捕されロベン島に収監される(1984年釈放)
→1966年:SWAPOの軍事部門「ナミビア人民解放軍」(PLAN)、武装闘争を本格化。 - 1962年
(モザンビーク)「モザンビーク解放戦線」(FRELIMO)の結成。議長はモンドラーネ。 拠点はタンザニア。戦略はゲリラ闘争。
→1974年:「ルサカ協定」によって戦闘停止。
→1975年:「モザンビーク人民共和国」として独立。
(アンゴラ)ロベルト、「アンゴラ国民解放戦線」(FNLA)を組織し、コンゴに亡命革命政府 を樹立。反共的部族主義的組織 でアメリカが支 援。ソ連・キューバが支援する1956年結成のMPLAと対立。
→1966年:サビンビ、FNLAを脱退し「アンゴラ全面独立国民連合」(UNITA)結成 →1975年:ネト、ロベルト、サビンビ間に「ナタール協定」。その直後、FNLA・UNITA連合と 「アンゴラ解放人民戦線」(MPLA)との武力 衝突勃発。別々に独立を宣言。
→1976年:MPLAの主導での国づくり始まる。
- 1963
(ギニアビサウ)「ギニア・カーボベルデ独立アフリカ党」(PAIGC)、ポルトガル軍事基地を襲撃、 独立戦争勃発。 PAIGCはソ連、キュー バ、ギニアの支援、ポルトガルはアメリカ合衆国の支援を受けた 植民地戦争。
→1973:アミルカル・カブラル、コナクリでポルトガル秘密警察により暗殺される。弟のルイス・ カブラルが指揮をとり、 「ギニアビサ ウ国」のポルトガルからの独立を宣言。国連、ギニアビサウの 独立承認。 - 1966(ナミビア)SWAPO、南ア軍との武力闘争の宣言。キューバの支援。
→1975年:南ア軍、アンゴラ領内のSWAPOのキャンプを空爆し、ナミビア人難民のこどもたちを含む約600名を無差別に殺害。
→1988年:クイト・クワナヴァレの戦いで、アンゴラ=キューバ=SWAPO連合軍、南ア軍を撃破。
→1989年:総選挙でSWAPO勝利
→1990年:独立。初代大統領はSWAPO議長のサム・ヌヨマ。
(3)民族主義的宗教運動
- 18世紀末
(アンゴラ)霊媒師Kimba Vita、かつてのコンゴ王国領で、聖アントニー運動を展開(→世界女性史年表) - 1840年頃
(南ア)コーサ人女性預言者Nongqawuse誕生(1900年頃没)(→世界女性史年表) - 1875年頃
(南ア)白人支配者に危機感を抱かせた女性預言者Nontetha Nkwenkwe誕生(1935年没)
(→世界女性史年表) - 1885年~
(スーダン)イスラムの救世主マフディーを称するムハンマド=アハマド=イブン=アブダッラーによる
反帝闘争 - 1899年~
(ソマリア)イスラム教の一派、サリヒーヤの信者サイド=ムハンマド、イギリス領ソマリランドで反乱 - 1900年頃
(南ア)アメリカのイリノイ州のZionを拠点としたJohn Alexander DowieのChristian Cathlic
Churchに加入した アフリカーナーのPetrus Louis Le Roux、シオニスト教会を創設。1908年に、
Daniel Nkonyaneがこの独立教会の リーダーとなり、1930年代には、南部アフ リカ一帯に広まり、
白人による土地分配とアフリカ人労働力搾取を批判 するシオニスト運動を展開。 - 1907年
(南ア)ニヤサランドを追放されたJoseph Booth、アメリカ訪問の際、Watch Tower Societyから
ミッショナリー に任命され、南アに拠点を 構える。弟子のひとりがンニヤサランドにWatch Tower
運動をひろめ、たちまち1万 ものフォロワーを獲得。白人支配からの脱却や課 税への批判により、
当局から弾圧されるも、このWatch Tower Movement は、中部アフリカにまで広まり、マラウィ
のチレンブウェ やコンゴのキタワラ運動に影響を与えた。 - 1915年
(マラウィ)バプティスト教会牧師チレンブウェ、第一大戦へのアフリカ人の徴兵に反対して武装蜂起。
すべての白人の殺害を指示するも、捉え られて射殺される。最初の独立運動の英雄として、マラウィの
紙幣に肖像が使われている。 - 1921年
(コンゴ民主共和国)「キンバンギズム運動」:予言者キンバングが創設した千年王国思想にもとづく
独自の教会と独自の教義にもとづく初期的民 族主義運動→1951年:キンバング、ベルギー当局に逮捕・拘禁され死去。
→1930~40年代:ネオ=キンバンギズム運動(カーキスト運動とも)に継承される。
→1950年代:キンバングの末っ子が父親の運動を再編成し、シモン=キンバング=イエス=キリスト教会
(EJCSK)を設立、独立後、ザ イール(現在のコンゴ民主共和国)最大のアフリカ人独立教会に発展。 - 1920年代~
(リビアなど北アフリカ)イスラーム教の一派、サヌーシー教団による反植民地闘争 - 1924年
(ザンビア)預言者、治癒師Alice Lenshina Mulenge誕生(1978年没)。植民地下ではイギリス当局から、
独立後はカウンダ政権から危険 分子として敵視され逮捕され、牢獄で死去(→世界女性史年表) - 1925年
(コンゴ民主共和国)「キタワラ運動」:ムワナ=レサ(本名トモ=ニイレンダ)によって広められた 千年王国を目指す運動。白人支配からの 解放を目指す。ウォッチ=タワー派の一種。ニヤサランドから広まる。→1926年:ムワナ=レサ、脅威を感じたベルギー当局によって処刑される。 - 1926年
(コンゴ共和国)「マツワニズム運動」:ヨーロッパにおけるセネガル狙撃兵隊での経験から 「仏領赤道アフリカ原住民友愛協会」を設立、民 衆の不満の声を代弁し始める。各地で植民地支配 に対する抵抗運動に発展。→1929年:フランス政府、マツワを逮捕、チャドへ追放るも逃亡し、ファシズムに対抗するために 第二次大戦に志願する。
→1940年、負傷して病院に運ばれるも、そこで逮捕され、1942年獄中で没。
→マツワの死後も運動は死なず、一種の千年王国運動に変質しつつ中央コンゴの民衆にひろまった。
(4)近代教育史
- 1819年
(セネガル)聖ヨゼフ修道女会によるサン・ルイ、ゴレの女学校の創設。以後、さまざまな修道会による学校経営がはじまり、1960年までに81の初等学校、8の中等学校をはじめ、いくつかの文化センターを管理するようになった(盛恵子 2012:123)。 - 1842年
(南ア)ミッション教育を受けた最初の女性のひとりPrincess Emma誕生(1892/93年頃没)
(→世界女性史年表) - 1868年
(シエラレオネ)Adelade Casely Hayford誕生(1960年没):パン=アフリカニスト、
フェミニスト。女子教育に力を注ぐ (→世界女性史年表) - 1874年
(南ア)Charlotte Maxeke誕生(1939年没):アメリカの大学で学位を取得した最初の南アの女性。
(→世界女性史年表) - 1897年
(ナイジェリア)Oyinkan Abayomi誕生(1990年没)。女子教育、政界で活躍。死後、功績を称えて、
ラゴスのメインストリートがOyinkan Abayomi Driveと命名されている。(→世界女性史年表) - 1918年
(シエラレオネ)女子教育にも力を注いだ政治活動家Constance Cummings-John誕生(2000年没)
(→世界女性史年表) - 1924年
(ガーナ)Efua Sutherland誕生(1996年没):作家、教育者(→世界女性史年表)
(5)アフリカ諸国の独立年
1847年 | リベリア、アメリカから独立を宣言 |
1910年 | 南アフリカ連邦、イギリスから独立し南アフリカ共和国に改称(1994年、白人支配を脱す) |
1922年 | エジプト、イギリスから独立 |
1951年 | リビア、英仏共同統治から独立 |
1956年 | スーダン、エジプト・イギリス二重統治から独立
モロッコ、フランスから独立 チュニジア、フランスから独立 |
1957年 | ガーナ、イギリスから独立 |
1958年 | ギニア、フランスから独立 |
1960年 | ・カメルーン、フランスから独立(西南部はイギリスから1961年に独立)
・セネガル、フランスから独立 ・トーゴ、フランスから独立 ・マダガスカル、フランスから独立 ・コンゴ(現コンゴ民主共和国)、ベルギーから独立 ・ソマリア、イギリス(北部)とイタリア(南部)から独立 ・ダオメ(現ベナン)、フランスから独立 ・ニジェール、フランスから独立 ・オートボルタ(現ブルキナファソ)、フランスから独立 ・コートジボワール、フランスから独立 ・チャド、フランスから独立 ・中央アフリカ共和国、フランスから独立 ・コンゴ(現コンゴ共和国)、フランスから独立 ・ガボン、フランスから独立 ・マリ、フランスから独立 ・ナイジェリア、イギリスから独立 ・モーリタニア、フランスから独立 |
1961年 | ・シエラレオネ、イギリスから独立
・タンザニア、イギリスから独立 |
1962年 | ・ルワンダ、ベルギーから独立
・ブルンジ、ベルギーから独立 ・ウガンダ、イギリスから独立 |
1963年 | ・ザンジバル、イギリスから独立(1964年、タンザニアと連合)
・ケニア、イギリスから独立 |
1964年 |
・マラウィ、イギリスから独立
・ザンビア、イギリスから独立 |
1965年 | ・ガンビア、イギリスから独立
・ローデシア(現ジンバブウェ)、イギリスからの一方的独立宣言(→1980年、イギリス独立を承認) |
1966年 | ・レソト、イギリスから独立
・ボツワナ、イギリスから独立 |
1968年 | ・スワジランド、イギリスから独立
・赤道ギニア、イギリスから独立 ・モーリシャス、イギリスから独立 |
1973年 | ・ギニアビサウ、ポルトガルから独立 |
1975年 | ・モザンビーク、ポルトガルから独立
・アンゴラ、ポルトガルから独立 ・サントメ・プリンシペ、ポルトガルから独立 ・カーポヴェルデ、ポルトガルから独立 ・コモロ、フランスから独立(4つの島のうち、マヨット島のみフランス領にとどまる) |
1976年 | ・西サハラ(現サハラ・アラブ民主共和国)、スペインから独立
・セーシェル、イギリスから独立 |
1980年 | ・ローデシア、白人支配から独立し、ジンバブウェと改称 |
1990年 | ・ナミビア、南アフリカから独立 |
1993年 | ・エリトリア、エチオピアから独立 |
2011年 | ・南スーダン、スーダンから独立 |
【参考文献】
石川博樹・小松かおり・藤本武編2016 『食と農のアフリカ史―現代の基層に迫る』昭和堂
岡倉登志 1990 『「野蛮」の発見―西欧近代のみたアフリカ』講談社現代新書
小田英郎他監修2010 『新版アフリカを知る事典』平凡社
川田順三編 2009 『アフリカ史』山川出版社
竹沢尚一郎 2014 『西アフリカの王国を掘る―文化人類学から考古学へ』臨川書店
富永智津子 2007(2001)『ザンジバルの笛―東アフリカ・スワヒリ世界の歴史と文化』未來社
富永智津子 2015(2008)『スワヒリ都市の盛衰』山川出版社(世界史リブレット103)
バーガー、アイリス/E.フランシス・ホワイト(富永智津子訳)2004 『アフリカ史再考―女性・ジェンダーの視点ンから』未來社
宮本正興・松田素二1997 『新書アフリカ史』講談社現代新書
盛恵子 2012 『セネガル・漁民レブーの宗教民族誌―スーフィー教団来援の千年王国運動』明石書店
山川「世界現代史」13~16,1978~1982『アフリカ現代史』Ⅰ~Ⅳ
歴史学研究会編2001 『世界史年表』岩波書店2001