【現代アフリカ史18】コートジボワールにおける慣習法の禁止(1964年)
掲載:2015.09.29 執筆:富永智津子
1960年に独立したコートジボワールでは、1964年に民法を一元化し、それが60以上のすべての民族集団、母系と父系の両社会、イスラーム教徒、カトリック教徒すべてに適用されることになった。一元化の目的は何だったのか。その結果、女性の意識やジェンダー構造にどのような変化がもたらされたか、それがここでの論点となる。まず、一元化の目的についてみてみよう。そのためには、少し歴史をさかのぼる必要がある。
フランス植民地時代、フランス国籍を与えられたごく少数のアフリカ人には1896年にナポレオン法典(⇒*【法制史】フランス革命(1789年)とコード・シヴィル(1804年)(三成美保))を模して制定された民法が、その他のアフリカ人住民には慣習法が、それぞれ適用されていた。イスラーム法も慣習法として類別されていたため、ほとんどの住民には「慣習法」が適用されていたことになる。「同化主義」を標榜していたフランスだが、慣習法には手を付けなかったのだ。ところが、コートジボワールにかぎらず、国民国家の形成をめざす独立後の多くのアフリカ諸国にとって、植民地下で容認されてきた多元的な法制度は問題だった。国民国家にふさわしい法制度の一元化が議論の俎上にのぼった。これに対するアフリカ諸国の対応は多様であった。宗主国が制定した民法を継承した点は共通しているが、慣習法に関しては、それを容認している国もあれば、マリやマダガスカルのように慣習法の一部を新しい法律に組み込んでいる国もある。その中で、コートジボワールは、8項目の法令を新たに制定することによって慣習法を全面的に廃止したのである。
廃止された慣習法は、家族法と相続法である。つまり、一夫一婦制のみの合法化(市民婚)と婚資の廃止、および相続や結婚における夫と妻の役割の大胆な変革である。その目的は、一夫一婦制の合法化によって、アフリカの社会組織の基盤であった拡大家族をヨーロッパ型の核家族に変えることにあった。婚資の廃止により結婚への親族の介入度を低下させ、東部のアカン系の民族集団に優勢な母系制(両親でなく母方のオジが子供に責任をもつシステム)を骨抜きにしようとしたのも、この核家族化を推進するためであった。21歳を越えれば、両親の承諾なくして結婚できるとの規定も定められ、家族からの自立が促された。一夫一婦の家族には医療費や教育費の助成を行うといった核家族を支えるための法律も整備された。相続法も夫婦に平等の権利を付与した。女性の権利も大きく変わった。妻が亡夫に代わって世帯主になり、契約の主体となり、裁判にも直接関与できるようになった。離婚の際には、扶養料を請求できるようにもなった。すべては、西欧型の近代化と産業化を図ろうとしたコートジボワール政府の狙いに沿った改革だったことは、政府要人らの発言からも明らかになっている(Ellovich,1980)。
リサ・S・エロヴィッチは、1979年にこの民法の一元化が女性にあたえた影響の実態を調査している。調査は、イスラーム教徒のジュラ人とカトリック教徒のベテ人が共存しているGagnoaの町(人口3万5千人)で行われた。インタヴューしたのはそれぞれ47人の女性である。ここでは新しい法律で禁止された一夫多妻についてのみ紹介しておこう。
まず、一夫多妻が禁止されて15年を経過し、なお、これらの女性のうち、ベテ人の45%、ジュラ人の57%が一夫多妻婚をしていること、その彼女たちのうち、ベテ女性の47%、ジュラ女性の63%が一夫多妻婚に賛同していることに注目したい。両グループの違いが、カトリックとイスラームの違いにあることは明らかであるが、いずれのグループでも、一夫多妻婚を実施している数値以上に、一夫多妻婚への賛同者が多いのだ。この数値と新しい法令との関連は不明である。しかし、新しい法令を反対の理由として挙げた女性がいなかったということは、ひとつのヒントとなる。つまり、この理由は、法令の認知度の低さか、あるいは影響度の低さかのどちらかを示している。調査報告書を注意深く読むと、学歴の高い女性とキリスト教会との接点を持つベテ人女性の間には、ある程認知されていたことがわかる。にもかかわらず、反対の理由として法令が一切挙がらなかったことは、新しい法令の影響力の低さを物語っているといえるだろう。女性たちは、「妻たちの間でのトラブル」に悩まされながらも、一夫多妻婚の利点である「労働の軽減」を選択していたのだ。次に、個別具体的な事例を見てみよう。
事例①教育レヴェルが高く、就職もしているあるジュラ女性が、意図的に一夫一婦婚を選択した事例である。彼女は、一夫一婦婚を選択した時点で、夫がガールフレンドを持っていることを知る。夫とガールフレンドとの関係はその後も継続し、女性は、そんな中途半端な状況が続くなら、きちんと結婚して家族になった貰った方がよいと考えている、というのだ。彼女は、新しい法律が一夫多妻を禁じていることを知っている。それでも慣習法が認めていた一夫多妻によって「居心地の良い拡大家族」の状態にしたいという願望を表明しているのである。
事例②市民婚(一夫一婦婚)を選択しながら、慣習婚も容認しているジュラ女性の事例である。この夫婦は教育レヴェルが高く、両者ともに政府機関で職員として働いている。彼女は第一夫人であるが、その後、夫は2人の妻を娶っている。彼女は婚資をやりとりする慣習婚も、一夫一婦の市民婚も認めているのだ。インタヴューでは、その理由をはっきり言わなかったが、エロヴィッチは、市民婚の場合には家族手当が支給されるというメリットがあるからではないかと推察している。彼女は9人のこどもを抱えているからである。
事例③あるベテ人の家族の事例である。夫はカトリックの2人の妻とは市民婚をし、カトリック信者でない2人の妻とは慣習婚をしている。慣習婚をしている妻のひとりは、市民婚と慣習婚のそれぞれの利点をしっかり認識している。一夫多妻は妻同士で労働を分かち合えるし、市民婚は政府の助成を受けられる、と。彼女自身は市民婚を選んではいないが、娘には市民婚を薦めている。ちなみに、この4人の妻は口をそろえて、法令で禁じられている婚資は必要であり、重要だと答えている。
事例④3人のベテ人女性がひとりの男性と市民婚をしている事例である。そのうちのひとりはカトリックの信者で、夫の一夫多妻に不満を持っている。彼はカトリックの様式で市民婚をすると約束していたというのだ。彼はその約束を破ったのである。彼女は娘にはクリスチャンとしての結婚をしてほしいと願っている。この3人の女性は、婚資は過去の習慣であり、必要はないと考えており、一夫多妻もまた「過去においては良かった」が、「現在ではお金がかかりすぎ、市民婚のほうがよい」と回答している。このうちの一人は、「市民婚は国家によって子供が認知されるのが良い」と答えており、法令についての知識を持っていることを示している。
以上の事例から、新しい法令の施行にともなう過渡期の混乱とともに、いくつかの変化とその背景を指摘することができる。
まず、ベテとジュラの両グループを比較すると、イスラーム教徒のジュラの宗教指導者がイスラーム法とは相いれない新しい法令をあえて信者に教えることがない一方、カトリックの司祭は積極的に法令を信者に教えているという違いがあり、それがインタヴューの結果にも反映されていること。
教育レヴェルの高い女性の新しい法令への認知度は高いが、自分の結婚については、慣習法と折り合いを付けながら実施していること。しかし、娘には一夫一婦の市民婚を期待していること。
ひとつの家族内における市民婚と慣習婚の混在。この現象は、新しい法令が核家族を念頭に置いているにもかかわらず、実際には拡大家族志向が強いことにともなう混乱といえよう。
一方、政府の方にも、対応しきれない問題が山積していることが見て取れる。ひとりの男性が複数の女性と市民婚をすることが可能なのだろうか、可能だとして、政府はそれぞれの妻の子供に助成金をだすのだろうか、といった問題である。
この調査からは、1964年の新しい民法の施行後15年を経過し、拡大家族はまだしっかり存続しており、禁止されている婚資の授受も継続されており、しかも市民婚を選択した人びとも、実際には一夫多妻婚をして拡大家族を形成している、という現実が見えてきた。この町に関する限り、核家族化への道はいまだ遠いと言わざるを得ない。しかし、母親世代の意識は確実に変化している。それは、娘たちには市民婚をという母親たちの期待に現れている。
エロヴィッチは、こうしたことを考慮して、長期的には、コートジボワール社会は、民法の一元化、つまり核家族化の方向に進むとの見方を示している。その展望を支えるのは、教育の普及と異なる慣習法を持つ民族間の通婚の増加である。教育が普及すれば、新しい法律の認知度はあがるし、異なる民族間の民法上の諍いは、慣習法によってではなく、近代的な法廷で裁定が下されざるを得なくなるだろうというのである。
いずれにせよ、コートジボワールの事例は、新しい民法がどのように受け入れられ、ジェンダー秩序をいかに変化させていくかの歴史的経緯を具体的に示している点で、きわめて興味深い。
2015年の現在、この状況がどのように変化しているか、追跡データが欲しいところである。