【特論5】Ⅰ―⑦ 婚資の機能―「川のウベナ」の事例(タンザニア)by A.T. & G.M. Culwick
A.T. & G.M. Culwick, “The Functions of Bride-Wealth in Ubena of The Rivers,” Africa, 1934,No.2:140-159
ゴードン・ブラウン博士によるワヘヘ(Wahehe)の婚資(bride-wealth)分析は、ワヘヘに近い部族であるウランガ峡谷のワベナ(Wabena)の慣習を研究しているわれわれにとって、非常に興味深い。ワベナの慣習について調査することの意味は、おそらくそれなりにあると考えている。というのは、ワベナの慣習から、われわれは、母権(mother-right)と父権(father-right)とが共存し、両者をうまく調整することによって成り立っている興味深い社会組織の特徴を見ることができ、その過去と現在の慣行は、婚資一般の研究に貢献できると思われるからである。
ワベナの人口は、約1万6千人。彼らは広大で肥沃なイリンガとマヘンゲの両断崖に挟まれた「川のウベナ」Ubena of the Riversと呼ばれる一帯に住んでいる。ウベナの中心地である「丘陵のウベナ」は、ウヘヘの南のハイランドにあり、以前はベナのクランすべての故郷だった。1870年代、ワヘヘとの長い戦争の結果、ワキニマンガ一族に率いられたいくつかのクランがこの丘陵を棄てて川辺に移動し、新しい王国を建設した。一方、ワヘヘは「丘陵のウベナ」を、自分たちの王国に吸収した。「川のウベナ」の王族であるワキニマンガ一族は、ヘヘの首長一族と同盟関係にあると主張している。その理由は、両者が、猟を生業としていたふたりの兄弟を祖先として共有していることにある。両者の関係が重視されていることは、さまざまな慣習を通して「川のウベナ」の人びとによって示されており、筆者の現在の知識によれば、その信仰や慣習の多くはワヘヘのものと非常に似ている。
[訳注:スワヒリ語で集団を表す時、接頭語Wa-を付ける。接頭語U-を付けると土地を表す名詞になる。例えば、Waheheという集団が住む土地がUheheであり、Wabenaという集団の住む土地はUbenaとなる。なお、2人以上のヘヘ人はWahehe、ひとりのヘヘ人はMheheであり、部族名を形容詞的に使用する時には接頭語抜きで使用する。]
ベナの婚姻法からは、義理の父と義理の息子との争いという構図が透けて見えてくる。しかし、日常生活では、あらゆる事が平和的なやりとりの中で処理されている。親族外(outsider)の人びととのトラブルが頻繁に起こるのは、システムの極度の柔軟性に原因がある。つまり、物事を決める際の個人の自由度の高さであり、万華鏡のように変化する多様な選択肢である。人びとは、出来る限り基準(standards)を定め、物事の一般的な体系のアウトラインを決めたいと思っている。そうすれば、争いが起きた時、その重要性を判断するための参照軸が得られるからである。義理の父と義理の息子との関係がうまくいき、お互いに満足している時には、基準を無視した条件でも許容される。基準が問題となるのは、一方が、他方に対して不公正だと感じる時のみなのである。取り決めが合意される時に欠かせないのは、双方の要求が納得できるものであることなのだ。これと同じことが過去にもあてはまる。
極端とも言える多様性は、母権の特徴と父権の特徴とが併存していることに最大の原因があると思われる。ずっと以前には、妻の親族が全権を握っていたことを示唆する証拠がある。しかし、われわれの情報提供者は、この点に関し、あいまいで矛盾もしており、はっきりしたことは記憶してない。彼らが言う「過去」とは、例えば、60年、70年、80年前のことなのだ。その頃までに、社会全体のシステムは混迷の時代に突入し、それが未だに続いており、その間に、権力バランスはますます父権に傾斜してきている。この変化は不規則で突発的でもある。部族の長老が命令したわけではない。長老たちは、一般の人びとと同じく、全体としてのシステムを把握しているというより、特別な事例の特殊性に固執している。それゆえ、変化は何らかの法則にのっとって起きているというより、原理原則なき変化であり、その調整は個々人の手に任されており、その個々人は自分自身の状況に合う選択をしてきた。つまり、婚姻の条件は、さまざまな関係者が介入しながら、個人・社会・経済といったすべての力学の相互作用の中で決まっていく。それゆえ、すべてに適用できるような基準を見出すのは極めて難しい。したがって、50年から70年ほど前でもそうであったように現在でも、システムを明らかにすることによって完璧なイメージを提供したり、動かぬ規範を提示したりすることができると断言することはできない。しかし、ここでは、情報提供者が提供した矛盾だらけの特殊な事例―彼ら自身、気づいていないが、時にはすくなからず混乱していた―から、システムを動かしているなんらかの原理を抽出するよう努力した。
ワベナはかつても今も父系であるが、婚姻は、以前は妻方居住で、妻の家族は夫と子どもたちに絶大な支配権を持っていた。特別に訓練された首長の戦士たち(注:首長の息子と首長の兄弟がこの訓練を受けた)の婚姻は、通常のルールとは異なっていたが、それにはそれなりの必要性があった。結婚前の付き合い、婚資の支払い、妻の親族たちとの関係に関しては、すべて首長自身が采配を振るっていた。ここでは、一般の人びとの婚姻制度を扱い、彼らの生活についてはこれ以上触れない。
ワベナ社会では、平行いとこ婚(ortho-cousin marriage;訳者注:父の兄弟の子どもと母の姉妹の子どもとの間の婚姻)は厳しく禁止されている。しかし、交叉いとこ婚(cross-cousin marriage;訳者注:父の姉妹の子どもと母の兄弟の子どもとの婚姻)は王族の間では義務化されてきた。昔は、一般人の間でも、交叉いとこ婚が許されてはいた。それが、いつの頃からか(記憶の残る程度の昔)、この交叉いとこ婚が一般人の間に広まり、常態化した。おそらく、交叉いとこ婚は良い慣習だという考えがひろまったからであろう。しかし、それが厄介な慣習であることがわかると、強いて交叉いとこ婚を選択しなければならないという社会的強制もなくなった。とはいえ、交叉いとこ婚が禁止されているわけではなく、特に地位の高い家族の間では存続している。寡婦は死んだ夫の兄弟やその他の親族によって相続されるが、妻側から死者の親族に婚資が払い戻されれば、寡婦は自分の部落に戻ることが出来る。ソロレート婚(訳注:妻が死んだ時に妻の姉妹が夫を相続する制度)は実施されていない。
婚資は、かつては3本の鍬だった。鍬の価値は、今日よりかなり高かった。一本一本の鍬は別々の支払いと見なされ、それぞれ特別な機能を担っていた。そのプロセスはおよそ次のように進行した。
初潮を迎えた少女の場合、彼女との結婚を望む若者は、まず杖とか紐といったちょっとした贈り物をして、ひそかに彼女の同意を得る。これはkibaniと呼ばれ、「別によけておく」という意味である。つまり、ちょっとした名目的な贈り物と少女自身はまだkibaniなのである。同じ語幹がnimebanikaというフレーズで使用され、それは、「私は別によけておいた」ということを意味する。つまり、ふたりのこの取引は秘密であり、娘もその相手も、そういう取引をしたかどうかと聞かれても否定することになっていた。正式の手続きは、相手の若者が仲介者を少女の両親か保護者に送ることによって開始される。通常、若者の親族か友人が仲介者の役を引き受けるが、適任者がいない場合には母親が行くこともあった。若者は仲介者に、ビーズ紐を結わえた鍬を一本持たせる。この鍬は正式なkibaniと認定され、ビーズとともに少女の両親の前に置かれ、両親はその時はじめて若者の名前を告げられる。両親がこのプロポーズについて相談し―その際、母親の意見が重視される―それを了承すると、少女の意向を確かめる。合意の印として、少女はビーズを頭に巻き、鍬を父親に手渡す。ビーズは婚資の一部であるのみならず、少女への個人的な贈り物であり、通常、破談になっても返却されなかった。
こうしてプロポーズが受け入れられ、婚資の最初の分割分が支払われると、若者は義理の父親の小屋の近くに自分たちの小屋を建てる。近くに建てるのは、義理の父親に労働を提供するためである。戦争の時には従者となり、旅に出る時にはお供をし、家に居る時には使用人として家を建てたり修理したり、畑で農耕したりと、すべての作業を義理の父親に代わって行った。このような状態は何年も続き、その間、彼は義理の父親に最大限の尊敬の念をもって接することを要求された。同時に彼もこうした段取りから利益を引き出した。例えば、凶作などの苦境に陥った時に義理の父親が助けてくれたし、老人たちはいつも小さな孫たちに食事を与えたりして育児を手伝ってくれた。
最初の鍬、つまりkibaniは、文字通りほんの名目的なもので、結婚を成立させるものではなかった。少女の父親はいつでもそれを返却できたし、正当な理由なしに結婚を解消できた。一方、若者の方でも鍬を取り戻して相手をとり代えることができた。この鍬は、婚約以上の意味を持っていなかったのである。いつでも終止符を打てる非公式な試し婚といえるかもしれない。2本目の鍬はliginoと呼ばれ、結婚の合意がなされたことを確認するものだった。これが渡されたあとは、理由なく少女の側からキャンセルはできなかった。しかし、彼女が子どもを産むまでは、夫は彼女を実家に戻すことができた。ただし、実家に戻す理由がなかったり、自分の親族の同意がなかったりした場合、義理の父親は2本の鍬を返却することを拒否できた。liginoは、カップルが数ヶ月を共に暮らし、うまくいっていることが証明された後にはじめて支払われた。しかし、それによって、夫は妻の父親の支配から自由になれるわけではなく、相変わらず待遇の良い奴隷とそれほど違わない環境に置かれた。さらに、3本目の鍬が手渡されるまで、子供たちは妻の母親の親族の支配下に置かれた。ただし、子供たちは、夫の名前を与えられて夫のクランのメンバーに組み入れられた。最後の分割分がまだ支払われていない場合、妻の母親の親族がそれを受け取った。その時、義理の父親が夫にも分け前を与えることはあった。
3本目の鍬はlihetuと呼ばれ、夫は、それによって妻の家族の支配からほぼ解放された。今や、彼は義理の父親の目の届かぬところに転居してもいいはずなのだが、やはり、妻の親族の承認なしに2~3マイル以上離れたところに引っ越すことは許されなかった。そして、厳密に言えばしなくても良いサーヴィスを、時に応じて、相変わらず提供させられたのである。彼が家を離れることは自由だったが、義母の承諾なしに妻を連れてゆくことはできなかった。もし、義母が了承しない場合には、妻は夫が帰るまで、何日も、何ヶ月も母親の近くで待たねばならなかった。しかし、それがあまりに長期にわたり、妻がネグレクトされていることに怒りを覚えるようになると、おそらく妻は離婚しようとしたであろう。このように、女性は、何世代にもわたり、自分の家族の近くに住み、一方男性は成長して結婚すると散り散りになった。しかし、もちろん、実際には同じ村の家族間で行われる結婚が多く、夫も妻と同様に自分の家の近くに住んでいるといってよかった。もし、寡婦が遠方の男性によって相続されることになった場合、男性はその承諾を得るために女性の親族のところにやってくることになるのだが、女性の親族が婚資を返却すれば、寡婦は実家にとどまることができた。その場合、子供たちは父親のクランに引き取られた。
3本目の鍬が支払われた後、夫は子供たちに対して、以前より大きな支配権を持つことになった。しかし、息子たちは、生涯、父親より母親の兄弟を尊敬すべき義務を負っており、母親の兄弟、つまり伯父は姉妹の息子たちの労働力を優先的に利用できたし、彼らの生活全般にわたって大きな影響力を行使することができた。一方、娘たちは父親より母親と密接な関係を持っていた。娘の婚資は、母方の親族にではなく、父親に支払われるようになったが、通常、父親はその一部を自分の妻にも分与している。妻はそれをさらに自分の父親に渡していたのである。もし妻がlihetuの支払いの前に死亡した場合、夫は婚資の支払いを済ませる義務はなく、義父が彼に労働奉仕を要求することもなくなったようである。しかし、夫は妻が死んだ時、liparaと呼ばれる1本の鍬と1羽の鶏を支払わねばならなかった。それは、嘆き悲しむ妻の両親とその家族への慰めの意味があり、それを拒否した夫は罪の意識に囚われると同時に、妖術などの方法で妻を死なせたと非難された。lihetuが死亡した妻のために支払われていなかった場合、liparaが子どもの養育権の移譲との関係で支払われると考えられたのかどうかははっきりしない。また、義理の父親がliparaを拒否し、子供たちへの養育権を保持する余地があったかどうかについての十分な証拠もない(下記の現在の慣行と比較のこと)。いずれにせよ、子供の父親は、新しい妻やその家族とともにどこに住もうと自由だったし、母方の親族が同意さえすれば、子供たちを母方の親族から離れたところに移すことができた。もし、近くに住んでいた場合には、子供たちは時々父親の家で過ごすこともあった。娘たちが結婚した時、父親(もし彼が遠方に住んでいたなら、彼の親族)が受け取る婚資の額は、義父がまだ支払われていない婚資についてどのような要求をするのか、彼と彼の親族がどの程度子供たちの養育に貢献したかにかかっていた。
過去・現在を問わず、子供たちがどの親族と暮らしているのかを確認することは難しい。というのは、ワベナは子どもたちが乳離れするやいなや、親族のどこかに預ける習慣があるからである。だから、病気や死などのトラブルが起きた場合でも、子供たちがホームシックにかかって困るようなことはない。子供たちにとってはどこでも自分の家であり、いつでも親戚の他の家に移ることができるからである。この慣習は、母方と父方両方で見られるが、かつては母方の親族の方が子供たちのめんどうをよく見ていた。問題は、子供たちの移動を誰が統括し、重要事項についての最終的な決断を誰が下しているのかである。この問いに答えるのは簡単ではない。というのは、すべては子供たちの父親とその母方の祖父母との間の個人的な関係次第だからである。しかし、子供たちの面倒とみるひとにはそれなりの報酬が与えられることは確かである。子供たちが大きくなるにつれ、食住を提供してきた親族はその見返りを受け取る。決まったルールはないが、おそらく子供たちの生育を助けたひとすべてが、少女の婚資の中からなにがしかを受け取るのだ。思いがけない分配に与った者が、親しい友人たちに気前よく分配したり、今まで助けてくれた人や将来助けてくれるかもしれない人に分配したりするのと同じように、父親(もしくは、婚資を受け取る資格があるならば母方の祖父)は好きなだけ婚資から贈り物を与えるのである。
最近、婚資を全部受け取る前に妻が死亡した場合、lipara(現在10シリング)に加えて未払いの婚資も支払わねばならないことになっている。この変化はマヘンゲのワポゴロとの接触によって引き起こされたようである。このワポゴロのしきたりは、1905~6年のマジマジ反乱後に出現している。現在、liparaに関しては、孫の姿が全部視界から消えてしまわないように、その一部かすべてを拒否する者もいる。とりわけ、義理の息子が金銭に関して義理の父親に不満を持つ場合には、義理の父親はliparaの受けとりを拒否することが多く、その結果、両者の関係は完全に切れることもある。もし、義理の父親が太っ腹でliparaのすべてか一部を放棄し、義理の息子が義理の父親に対して親愛感を抱く場合には、孫は義理の父親のところに度々やってきて、手伝ったりするし、彼が年をとっておぼつかなくなったら、義理の息子は娘の婚資の中から彼に贈り物をする。こうして、トータル的には、義理の父親は、多くのものを得ることになる。
話を過去に戻そう。もし、なんらかの理由で、父親が義理の息子を縛り付けておきたいと思ったら、そしてもし、彼が義理の息子を信用しない場合には、父親は無期限に、時には義理の息子が死ぬまで、lihetuの受けとりを延期した。娘の婿に頼りない男性迎えた権力者は、こうしたことをやりがちである。そうすれば、婿を支配下におくことで、自分の重要性を引き立たせ、権威を強化することができたからである。実際、首長は婚資を義理の息子から受け取ることを拒否してきた。婚資を受け取ると、それなりに義理の息子に配慮しなければならなかったからというのがその理由である。その結果、義理の息子は永久に首長に労働奉仕をさせられ、完全に彼の支配下におかれ、自分の子どもたちと妻に対する権威も権力も失った。首長からすれば、これほど都合のよいことはなかった。首長は娘たちを自分の保護下に置いておくことができたし、未来の首長の交叉いとことしてもっとも重要だった孫娘たちはきわめて適切な環境のもとで育てられ、孫息子たちは部族の行政や特別な戦士集団に奉仕させるために訓練された。行政や軍事のために遠方に住まねばならない者を除き、首長の兄弟や親族はすべて首長の近くに住んでいた。そして、彼らの子供たちはすべて4歳になると首長の監督下に移されて成長した。彼らの結婚の手配をするのも首長だった。というわけで、首長は一族全体をしっかりと掌握していた。首長と彼の兄弟の娘たち、とりわけ地位の低い妻の娘たちは、必ずしも交叉いとこ婚をしなかったが、それなりの地位の戦士に与えられたと思われる。しかし、こうした王女たちの娘は、平民の父親の名前を持っていたが、それにもかかわらず王族との交叉いとこ婚を行っていた。通常の事例では、婚資を支払わない男性は法的に結婚したとは見なされず、愛人の地位に甘んじた。彼には妻や子供たちに対する法的な権利はなく、妻と子供たちは妻の父親と父親のクランに所属したのである。この状況は、もし彼が少女ときちんとした結婚をするなら改善されたが、もし少女が他の男性と結婚した場合には、彼の子供たちは義理の父親の名前を付けられた。ただし、この子供たちは、母親の親族の保護下に置かれたままにされ、女の子の婚資は母親の親族に払われた。首長の義理の息子の場合は、しかし、法的に結婚したと見なされ、その子供たちは彼の名前を付けられて、彼のクランに所属した。この義理の息子は、きちんとした地位も夫としての義務も与えられていないが、しかし、単なる愛人とはちょっと違う奇妙な立場に置かれた。
平民の間では、義理の父親はそれなりの権力を保持していた。男性とその妻の親族との間が友好的な場合、男性はかなり自由に自分の住まいを選ぶことができ、婚資の最後の分割分が支払われる前に、義理の父親への労働奉仕から解放された。男性が有名で、裕福で、信用できる場合には、婚資のプロセスは短期間に終了するということもあり得た。
男性が二番目の妻を娶る時、最初の妻との婚姻のプロセスが終了していない場合でも、同じプロセスがスタートした。つまり、二番目の妻の父親の住まいの近くに小屋を建て、自分の時間を二等分して、両方の義理の父親への労働奉仕に当てた。こうしたプロセスが終了すると、彼はふたりの妻を伴って、自分の望む場所で一緒に暮らすことになった。
子どもの時に婚約した少女の場合にも、少女自身の秘密裏の同意が必要とされないことを除けば、同じプロセスで事は進行した。彼女の両親はすでに述べたようなやり方でアプローチし、最初の分割分の鍬であるkibaniを婚約の印として受け取る。その後、婚約者の男性は近くに小屋を建て、少女は母親が調理した食事を彼に届けた。初めは恥じらっていた少女だが、次第におしゃべりをしたり、遊んだりし、そのうち、初潮を迎える前に親密な関係を持つことさえあった。というのは、ベナの少女は早熟で、青年期に達する前にセックスに関心を持つからである。この時期、少女は必ず夜には実家に戻った。2本目の鍬は少女が初潮を迎えた時に支払われるが、時には、不妊が疑われた時など、観察期間を延長したほうがよいとのアドヴァイスがされることもあった。いずれにせよ、少女は最初の月経を祝う儀礼を済ませると、夫の家に同居した。
不妊の問題は、必要ならば、次のようなテストで決着を見た。一定期間内に妻が妊娠しない場合、実家の父親のもとに戻され、複数の愛人と過ごす。その間、夫は別の女性と一緒に過ごす。もし実家に戻された妻が夫以外の男性の子どもを妊娠した場合、婚約は破棄される。妊娠しなかったが、夫の下に戻りたい気持ちがあれば、そして夫がまだその気があれば、彼女は夫の元に戻り、彼のために働き、二番目の妻の子どもを一緒に育てることになる。通常、不妊はkibaniの段階ではっきりするが、それが公にされるのはもう少し後になる。公になると、それは、夫と妻の間のいさかいの原因となり、おそらく裁判所に行くまでもなく、双方の合意のもとで離婚にいたることになる。
ベナの婚姻に関する慣習は、現在、明らかに変容している。そのことに触れる前に、婚資の機能に関する過去の慣行が、われわれに何を教えているかを見ておこう。
ワベナ自身は、3分割された支払いが担っている3つの機能を識別している。最初の婚資は合意された婚姻の適正をチェックするテスト婚の開始を告げるものだった、と人びとは言う。つまり、若いカップルの関係を、単なる逢引以上のものではあるが、しかし後戻りのできない関係にならない程度のレヴェルに引き上げる機能を果たしたていたというのである。二番目の婚資は、娘の両親に結婚相手を気に入らせるためのものだったという。liginoという言葉の意味は、「満足させる」で、その動詞形のkuginaは、はじめに求婚を受けるのが少女の父親であるという意味での「くどく」である。これは、この鍬を受け取った父親が、男性が義理の息子となったことを確認したことを意味し、受け取った限り、取り消すことはできなかった。しかし、すでに見たように、娘の家族は、一応は承諾したものの、決して全面的に娘を義理の息子である夫の庇護のもとに委ねたわけではない。義理の息子は妻の家族の近くに住んで、その支配下で暮らすことになったからである。三番目で最後となるlihetuの機能は、婚姻が完結すると同時に、義理の息子を自由にすることだった。この言葉は、この使用法以外の意味はない。その複数形mahetuは正式には、上述した婚資すべてに対して用いられていた。一方、kuhetaは、「婚資を支払う」という動詞である。lihetuはnolaと同義語であり、nolaは最後の支払いの時にしばしば用いられる。一方、lihetuはかつて平民によって使用されていた言葉である。nolaの派生語は意味深長である。つまり、それは妻を取り去る、妻を取り除くという意味のkutolaと同じ語源から派生しているからである。
しかし、ワベナ自身の説明の中で表現されていること以上のことが、この婚姻システムの中には含まれている。第一に、経験のない若者が、拙速で思慮なき選択をしないよう、年長者によってしっかり監視されていたということ。若者の選択に対する家族の監視はそれほど厳しくはなかったが、少女の選択は両親によって厳格に監視されていた。かつて、ベナの少年は、まだ財産を持たず、親族に頼らねばならないにもかかわらず、思春期に達するとただちに結婚した。さまざまな親族―父親、両家の伯父、長兄たち―が婚資を提供してくれたが、最も頼りになるのは母方の伯父だった。親族やその他の資金援助者は、それゆえ、少年が最初の妻を選ぶにあたり、少なからぬ支配権を行使した。自分で婚資を準備できるようになると、妻を選ぶ自由度も増した。しかし親族の助けを必要としている限り、親族が認めない少女との結婚は妨害されるか遅らされた。
ここに、交叉いとこ婚の不人気と、平民がそれを長く維持し続けることに失敗した原因があったように思われる。それぞれの領域で、血気にはやる愚かな若者を監視してきた血族と姻戚の権力は、この2つの親族が混淆し始めると耐え難いほどにやっかいなものになったからである。たとえば、母方の伯父でもある義理の父親は耐え難い状態に陥った。人びとは、このシステムが男性の選択権を不法に制限していることに気づいたのだという。だから、止めたのだと。おそらく、やっかいな制約というのは、結婚できる関係にある少女が不足していることが原因ではなく―親族の分類上のシステムによれば男性は近縁の交叉いとこ以外にも多くの交叉いとこを持っている―少年と結婚できる資格のある少女が、年下の世代の選択を取り仕切るために協力できる共通の親戚を持っているという事実にあった。つまり、婚資を調達し、それを受け取る人が同類だったということである。
第二に、ワベナによって実施されているような婚資の慣習は、婚姻契約がいそいでなされることを防いでいたということ。最初と二番目の支払いの間隔は状況によって異なり、婚資を提供する親族とそれを受け取る親はともに、若いカップルが試し期間を長くすべきだと感じたなら、それぞれ提供することも受け取ることも拒否することができたからである。
第三に、婚資の支払いは、しなくてもよい離婚を防ぐことによって婚姻関係を安定化するのに寄与したこと。子どもの誕生によって結婚の絆は深まることになるのだが、それまでに妻を実家に送り返せるという夫の権利の乱用を防げるのは、婚資が没収されるかもしれないという恐怖だったのである。だから、夫が婚姻を破棄する正当な理由があることを義父に納得させない限り、あるいは双方が合意しない限り、夫は婚姻の破棄をあえてすることはなかったのである。夫の立場からすると、liginoが妻を彼に縛り付け、彼の意思に反して実家に逃げ帰る事ができない機能を果たしていることによって、妻とその親族から不公正な扱いを受けないように守られていた。たとえ義理の父親が鍬を返却したいと思ったとしても、である。もし妻が実家に逃げ帰った場合、彼女は家族の長老たちの前か、部族法廷(注:かつては、婚姻に関する事案は家族の長老の集まりであるcameraで審議された、そして、たとえ部族法廷に訴えた場合でも、今もそうであるが、法廷が公開されることはなかった)に引き出され、強制的に夫のもとに返された。夫が離婚に同意しない場合、妻はしかるべき権威に申し出て、夫の虐待やネグレクトを証明すれば、離婚することができた。不倫はネグレクトの証拠の一部にはなるが、それだけでは離婚の理由とはならなかった。子どもが誕生するまでには、かなり時間がかかった。というのは、ベナ女性は流産が多かったからである。しかし、子どもが生まれると、夫の立場は妻の立場と同等になった。つまり、夫も、妻の同意を得るか、法廷に申請することによってのみ離婚することができるようになったのである。その際、夫は、理由もなく妻を実家に送り返すことはできず、妻への不満の原因を示さねばならなかった
婚資は、上述した場合と、夫が娘と近親相姦を犯し妻が離婚の許可を得た場合を除き、離婚に当たって返却されねばならなかった。この返却のルールは、妻とその親族が、離婚に至るかもしれないようなトラブルを起こさないための防波堤の役割をしていた。というのは、彼女の父親は、受け取った婚資を手放すことを極力避けたがったからである。父親は、母系に連なる息子や甥を援助するために婚資を利用することが多く、その返却は不愉快であるのみならず困難だった。しかし、妻が夫と別れる正当な理由がある時には、婚資は父親に提供された。ただし、妻が受けた損害が法廷によって補償の対象となると認定された場合である。夫が貧困や支払い能力がないとの訴えをしない限り、彼女の父親は婚資を保持し、それを返却する時にはそれなりの減額をすることができた。
離婚にあたり、子供たちは、理論上は父親に所属したが、彼らがどこに住むかは、年齢、夫や義理の父親の状況、離婚状況、離婚の際にひどく対立したかどうか、といった状況次第だった。明らかに、夫が子どもへの権利を持っていたし、子どもを引き取ることができたが、果たしてどの程度の比率でそのようなことが実施されているのかは明らかではない。しかし、子供たちは法的に父親に養育権があり、父親は子供たちがどこに住もうと、彼らを支援することが期待されていた。娘が結婚する時、父親は婚資を請求することができたが、その額は、彼がどの程度父親としての義務を履行しているか、どの程度支援しているかにかかっていた。
離婚に際して婚資を返却する時、妻の父親は孫たちのために鍬を一本返却せずに手元に留めて置いた。孫の人数は1人であろうと10人であろうと関係がなかった。これは、孫たちが幼かった時期に投入した育児や食費への埋め合わせだったと言われている。われわれの情報提供者は、手元に置かれた鍬が婚資の分割分と想定されていたのかどうかについて、明言しなかったが、かつては、父親に子供たちへの権利を多少とでも与える意味を持っていたlihetuと、離婚の際に母方の祖父によって子供たちのために手元に留めて置かれた鍬との間には、なんらかの関連があったかもしれないと考えるのは理にかなっている。現在、lihetuに対する人びとの態度は変化した。彼らは、この支払いを新しい観点から理解している。もちろん、その解釈や理解は最近の新しい考え方に影響されている。だから、その本当の意味を推し量るのは非常に難しい。しかし、かつてのlihetuの意味が失われ、父方の権威がかなり大きくなり、婚資の支払いが子供たちへの養育権の移転に関して何ら特別な意味を持たなくなった現在、離婚の時に妻の父親の手元に残る婚資の額は定額でも、婚資の分割分に換算できるものでもなくなっている。それは、子どもの人数によって異なり、通常、子どもひとりにつき10シリングからスタートするが、子どもの人数が多い場合には婚資は返却されない。そしてこの場合、おそらくは女性は年を取りはじめ、再び愛人ができる可能性はない。
さて、ここで、3番目の分割分であるlihetuの特別な機能について考えてみよう。liginoが支払われた後、状況に応じた期間、夫は妻の両親の監視下に置かれた。例えば、夫が最後の鍬を調達する能力がなかったり、その願望に欠けていたり、権威的な義父の意思などがその期間を左右した。lihetuを支払うことによっても、夫に与えられる自由度はいくつかの要因によって左右された。例えば、年齢、個人的資質、彼自身や義理の父親の相対的な社会的重要度、愛情の度合いなどである。子供たちの監督権の父親への移譲は、父権がしっかり確立される前の、子供たちが母親のクランに所属するのが普通だった時代の名残かもしれないし、そうでないかもしれない。それは、婚姻の権利と責任が次第に夫に移りつつある全システムの一部だったと、今の段階では考えられる。子どもがいない場合にも、lihetuは支払われた。というのは、lihetuの支払いは子どもだけの問題ではなく、妻に対する支配権と、義父への労働奉仕からの解放や行動の自由を夫に与えるものでもあったからだ。つまり、夫はそれによってある程度の社会的・経済的独立を達成したのである。ただし、それによって夫は子供たちを自分の子供とする権利を買い取るわけではなかった。いずれにせよ、子供たちは夫のクランに所属し、夫の名前を付けられていたからである。彼の義父がlihetuを受け取ったことは、彼が長老の仲間入りをし、全責任を負えるにふさわしいと判断されたことを示した。この関連で、新しい若い妻を娶った年配の尊敬されている男性は、すべての婚資を一度に支払い、少女の両親からも娘が良い人にもらってもらったと感謝されるなど、最初の妻を娶った未熟な若者より、すべての手続きにおいて特別な扱いを受けたことは記憶されるべきだろう。この意味で長老になるということは、必ずしも年を取っていることを意味しなかった。その場合には、素晴らしい、偉大な、成熟したという意味のmuvina、もしくは老人を意味するmwahaとは異なる成人という意味の言葉mkomiが使用された。その意味するところは、彼が「正しく成長し、自分の行動に責任を持つ」ことを意味した。落ち着きのない男性がこの状態に到達することはないとされていた。つまり、良い資質を持った男性は少年の年齢に達していなくてもmkomiと判定された。しかし立派な男性の義理の息子は、いかに資質的にmkomiに値しようと、しばしば例外扱いされた。というのは、彼自身のせいではなく、娘たちとその家族すべてを従えた家父長の権威を身につけたい義理の父親を満足させるために、彼は無期限の奴隷状態に置かれたからである。
つまり、3回分の婚資は、暫定的な合意、婚姻契約の締結、夫による結婚に関するすべての権利と責任の受諾をそれぞれ意味していたことがわかった。そして、われわれはそれぞれの段階で、それぞれがいかにその機能を発揮したかを考察した。
上述したような母方居住は、形を変えながら、共同体の保守的な人びとの間では、まだ受け継がれている。義理の父親が義理の息子に対して以前と同じようには権力を行使しないけれど、多くの男性は、一定期間、妻の親族の近くに居を移している。しかし彼らは娘たちから目を離さず、結婚における自分たちの権利が適正に保たれているかどうか見張っている。そして、娘の多くは、母親の許可なく夫についてゆくことを、未だに拒否している。しかし、なかには、母親をうまく騙して夫と遠くに行ってしまう娘もいる。このようにして彼女は母親のもとをすり抜けて、1年、2年、あるいは3年も実家を離れることがある。しかし遅かれ早かれ、若い夫婦は騙したことの償いをする時期がきたと感じ、温かい毛布や新しい衣服といった両親への贈り物を携えて妻の両親のもとに戻るのである。
男の子は母方の伯父を相変わらず尊敬している。かつてと同様、伯父は彼が婚資を調達する時に最大の援助を頼める相手だからである。しかし、この伯父の権威や支配力は外見的には低下している。全体として、子供たちへの母方の親族の権力は衰えたと言ってよい。一方、父方の両親の権威は非常に大きくなっている。
昔のシステムがなぜ崩壊しつつあるのか、その原因に立ち入ることは、ここでは難しい。
ただ、部族生活における経済的変化が大きく関わっているということは言える。昔の慣行は、今、急速に消えつつある社会的・経済的環境に適合していた。新しい状況は、新しい生活や思考様式をもたらし、妻の家族の権力を支えていた妻方居住も、まもなく姿を消すことだろう。
現在、小さな店で、1本1シリングで手に入れることができる鍬は、まだ現金や山羊や布と一緒に用いられることはあるが、婚姻の手続きにおいてもはや重要な役割を果たさなくなった。裁判所の記録には、「私は彼女にmahetuを全額支払った。20シリング、1頭の雌山羊、2本の鍬、5枚分のカニキ(黒い布)」とあり、これが平均的なタイプである。昔の3本の鍬との比較で言えば、総額は20~60シリング、ヨーロッパの通貨が最初に導入された時には、8~16シリングに相当した。ワベナは、これは富へのひとつの道であるという比較的明確な考えを保持していたという点で幸運であり、取引はまだ商品化されていない。婚資の増加は、主に次の要因にあるようだ。ひとつは、われわれの目には緩慢で微々たるものに見える最近の経済的発展が、婚資の入手を容易にしたこと。だから、婚資の高騰も以前より重圧とは感じなくなっている。ふたつ目は、父方居住の拡大である。それは3つの結果をもたらした。それは、娘を失ったという喪失感を生み、少女の父親からは義理の息子の労働奉仕を奪い、ただちに娘を夫の手元に送ることにより娘の家族による支配を低下させたこと、である。それゆえ、娘の両親は最初の2つへの補償に加えて、夫が娘を公正に扱うことへの保証を要求している。厳密に言えば保証ではない。というのは、娘が不当に扱われ、離婚に至った場合、夫は支払った婚資を没収されないからである。しかし、実際には機能している。その理由は、彼女の父親が当然のことながら返却用の婚資分を容易に調達できない時には、婚資の返却は長期間を要する複雑なプロセスとなるからである。つまり、父親は、新しい夫からの婚資を受け取るまでは返却できないと言ったり、何かのビジネスをそのために始めたりするかもしれない。そして、ついには、少しずつ返却された婚資に義理の息子は少しも満足しないと言って、大勢の人びとに彼に対する悪感情を作り出すことになる。
婚資の額の交渉過程において、次の3つの要因が考慮される。性格と容貌および女性の魅力;男性とその親族の状況;そして女性とその親族の名声、である。女性の側の名声は、男性とその家族の社会的地位によって引き上げられることはあるが、受け取った実際の額によっては左右されないので、最初のふたつが最も重視される。何かがどこかで間違わない限り、それなりの社会的地位の男性は、娘が釣り合いの取れた家族のメンバーか、もしくは生まれはいやしくとも、部族の中で秀でている男性と結ばれることを期待する。そして、少女自身は、自分たちより下だと考えている者から得るものは何もない。もちろん、そのような少女が受け入れてもいいと考える社会的地位の男性は、彼女のためにかなりの高額の婚資を支払える地位にいると言えるが、必ずしもそうではない。社会的名誉を誇る少女の家族が、比較的少額の婚資で満足することもあり得る。父親が将来の義理の息子からできるだけ多くの婚資を得ようとするのは自然なことであるが、近隣の部族の中で見られるような、年配の男性が高額の婚資を提示し、若い男性に不快感をもたらすような貪欲な父親はいない。「川のウベナ」の支配層は、男性に重圧を課すような婚資の高騰には反対してきたし、貪欲な父親の要求は支持しない。もし、将来の義理の父親の法外な要求によって絶望に追いやられた若者が少女と駆け落ちしたとすると、部族の長老たちは、状況の正常化を求めつつ、父親の若者への非難には耳を貸さず、父親自身がトラブルの原因をつくったのだということを率直に指摘する。そこで父親も、態度を和らげるのが得策だと気付かされるのである。
上述した私的なkibaniの授受は、以前より一般化している。というのは、初潮前に婚約する少女はだんだん少なくなっており、少年の結婚年齢も上がっているため、思春期の男女は結婚前に、禁止されている性的自由な時間を持つようになる。その結果、正式な交渉が開始される前にひそかに合意を取り付けておこうとするのが、若者の間で一般化しつつあるのだ。かつて、若者の間での性的自由は、ワベナが認めているより大きかったと推定される。例えば、かつての不妊かどうかを検証するテスト、つまり少女が実家に戻り複数の愛人を作ることが決して珍しいことではなかったことがそれを示唆している。さらに、かつては、未婚の母親が蔑まれたり非難されたりはしなかった。しかし、かつての早婚の慣習によって、性的自由の期間は、ないか、もしくは少なくとも短かかったということは言えるだろう。
正式なkibaniは、現在、少女に与えられる2~3シリング相当のビーズや布である。時には現金が支払われることもあるが・・・。かつてと同様に、それは試し婚の開始を意味し、品物の返却によっていつでも解消できる。この段階での主な変化は、kibaniが、現在では、mahetuとは全く別のものとして認識されていることである。つまり、mahetuはその後の分割分を意味しているだけなのだ。liginoによって婚姻契約が結ばれると、kibaniは、結婚が短期間しか続かず、被った扱いが通常では考えられないほど酷いと夫が感じる場合を除き、離婚の際に返却されない。この変化は、kibaniが少女の装飾品といった消費物資で支払われる慣習が導入されたせいである。
婚資の残り、もしくは現在のベナの用語法による「婚資本体」は、何年にも亘ったり、新しい分割分が加わったりして、不規則な分割払いとなっている。liginoは、通常はかつてと同じく二回目の支払いであるが、全額を意味しているかもしれないし(つまりliginoとnola―現在ではlihetuとよばれることは少ない)、2~3シリングだけかもしれない。その特別な機能は、女性を結婚に縛り付けることである。Kibaniが支払われた後、資金的に苦しく、それなりの期間にliginoのための資金を調達できないとわかった男性は、2~3羽の鶏など手元にあるすべてのものを集めて、まだ少女と結婚したい気持ちがあり、もう少し彼女を「借りて」おきたいとの意思表示をするために、義理の父親に届ける。この贈り物はmbandulamatwiと呼ばれ、自分を知ってもらうために「耳を開ける」(kuonekaとも)ということを意味している。それは、支払いがあまりに遅れ、この婚姻手続きの各段階をそれなりの額で済ませることのできる他の男性に少女を譲ることもあり得るとの意思表明を延期することを目的としたkibaniの延長なのである。そのような贈り物は、男性が重要な支払いをする1~2日前に義理の父親に届けられ、liginoがもうすぐに支払われるということを予知するために行われることもある。このようにして彼は自分自身をアピールし、liginoを携えて義理の父親のところを訪問した時に、他人としてではなく、婚約者として受け入れてもらえることの保証として贈り物をするのである。換言すれば、彼は契約を確たるものにするために、義理の父親に取り入ろうとしているのである。
それぞれの分割分が支払われる時には、証人が立ち会い、儀式が行われる。それぞれの儀式には、名前が付いている。その名前は、ほとんどない場合もあれば、たくさんある場合もあるが、liginoとnolaのは常に最後の分割分の名前とされている。
最近でも、少女の夫が義理の父親の近くに住み、彼の手伝いをする期間はしばらく続く。しかし、夫は、nolaが、妻と子どもを妻方の親族の管轄から引き離して自分の支配下に置くために支払われるまで待つ必要はない。夫方居住の婚姻の増加に伴い、かつてのlihetuの意味は大方失われ、その意味も機能も変化したが、まだ、その亡霊の一部が生き残っている。もし、男性が妻の婚資すべてを支払わなかった場合、義理の父親は、娘のために受け取った婚資のうち、義理の息子にはほんの少ししか分け与えず、ほとんど全部を自分のものにしてしまう。妻が、nolaの支払いの前に死んだ場合、義理の父親は、支払いが済むまで、義理の息子が子供たちを2~3マイル以上の遠方に連れ出すことを禁じることができる。このように、最近では、かつてのlihetuは、支払いを遅らせている義理の息子に刺激をあたえ、分割分を確保するという慣行を残した。かつて問題は、年長者が最後の支払い分を受けとり、義理の息子の全権と全責任を認めるかどうかだった。しかし今は、問題は若者がまだ支払っていない分割分を調達できるかどうかになっている。以前、彼が婚資を完済しなかった場合、義理の父親はその代わりに彼と子供たちの生活全般に絶大な支配権を行使した。しかし現在は、未払い分の保証となる娘の婚資について留保してもらうことによって、彼が実際にnolaを支払うずっと前に、権威と自立を手に入れることができる。
先に、婚資の変化に関連して、過去と現在の両方に共通する、忘れてはならない側面を指摘した。ひとつは、システムは相変わらず、夫と妻の両方の長老に、若者の選択を左右するかなりの権力を与えていること。とはいえ、「解放された若者」が行き詰まると、この支配を避ける方法を見つけることもあるということ。ふたつ目は、契約が結ばれる前にテスト期間があること。3つ目は、婚資の支払いは、性急かつ愚かな離婚が起こらないようにしていること。というのは、離婚によって生じる変化は、それを支えている原理原則を変えることはないし、婚資の機能にも影響を与えないからである。
一般的に言って、過去と同じく現在も、婚資は、婚姻の安定と家族生活の義務を遂行させるためにさまざまな機能を果たしている。そのうちのいくつかは、直接この目的に寄与している。他は間接的に寄与している。例えば、婚姻と社会的責任の重要性を強調することによって、あるいは名誉ある権威と地位への願望を男性に掻き立てることによって、あるいは、新しく生まれた家族をしっかりと部族内の複雑な義務のネットワークの中に繋ぎ止めるためにベナ社会のその他の多くの慣習とむすびつくことによって。(翻訳:富永智津子)