【特論5】Ⅰ―⑧ ナイロート系集団とナイル=ハム系集団における女性の地位 by J.H.Driberg
2014.11.24掲載 執筆:富永智津子
J.H.Driberg, “The Status of Women among the Nilotics and Nilo-Hamitics,” Africa, 1932 Vol.4, No.4 : 400-421
アフリカの女性の地位に関し、文化(African cultures)的にみて、女性は最低の地位に置かれているとする人びとと、女性は男性とは異なるが決して男性より劣っているわけではないとする人びとの両方によって無批判な一般化が横行している。ヨーロッパ人(observer)は、自分の熟知している特定の部族を安易に一般化する傾向がある。例えば、女性が仕事の大部分を担っているとの印象を一般化する者がいるが、たとえ、その印象が正しいとしても、その印象は、ヨーロッパ人が出会った部族だけに該当するものなのかもしれない。さらに、そのような漠然とした印象は主観的であり、ヨーロッパ人の先入観によって歪められており、結局は正しくないことが証明されることがよくある。例えば、クリトリス切除と結びつけて考えられている野蛮性は、女性の低い地位を証明するものだとしばしば主張される。道を歩いている時に女性が男性の後ろを歩くといった慣習さえ、同じように女性の地位の低さの象徴とされることがある。一方で、男性の後ろを歩く習慣のある部族の中には女性が高い地位を占めている事例があるという人もいるだろう。本当のところ、こうした習慣は地位とはまったく関係がない社会的・経済的な生活にともなう付帯的な事象なのである。敵の襲撃の場合に女性を守り、女性を先導しなければならないために、女性が夫の後ろを歩く部族もあれば、危険がそれほど多くはないところに暮らす部族の男性は、女性たちの挙動を信用せず、何をするかを見張るために、女性たちの後ろを歩くことが多い。同様に、女性が宗教的特権や呪術的特権を行使しているがゆえに、共同体における女性の地位は高いと主張したくなるヨーロッパ人もいるはずだ。しかし、特別な女性が行使する特殊な権力は一般的な地位の指標とはならない。
アフリカ社会において、地位の高低の問題が男女の違いと連動しているのかどうかはまったく疑わしい。男女の違いは、肉体、生理的機能、スタミナの違いに起因する相違なのであって、地位の高低とは関係がない。にもかかわらず、このテーマに関しては、多様な見解があり、しかもこうした一般化は政治的かつ社会的に影響力を持つので、さまざまな文化活動を精査することによって、ここで何らかの結論を導き出してみたい。紙幅の関係から、アフリカ全体を対象とした事例の批判的議論は不可能だった。さもなければ、類似の文化的背景を持ついくつかの集団を取り上げ、「高地人や牧畜民の女性はサバンナの住民や農耕民より高い地位を与えられている」というような一般論を検証することができたであろう。それゆえ、結論は、ここで取り扱う諸集団以外の他の集団には必ずしも該当しない。
女性に対するひどい差別が指摘されるのは、通常、経済領域である。「女性はあらゆる労働を担い、男性は享楽的に時間を費やしている」との記述の後に、それとまったく矛盾する状況が描かれるという記述を読むことはないだろうか?そのような間違った考察をしてしまう原因は、われわれにあるのだ。われわれは、労働もしくは仕事(それが何であれ)について、それらが女性に割り当てられているがゆえに価値が低いと考えている。しかし、アフリカ人は、そんな風にはまったく考えていない。卑しい労働も、無視してよい労働もないように、尊くない労働はない。労働は単に必要なのであり、なされなければならないのだ。しかし、他の人がやるべき仕事を無視できる場合がある。それは、地位(status)と権利(privilege)を混乱させないためなのである。例えば、伝統的に男性がやるべき仕事を女性に頼むのは、ただ単に、女性がやるべき仕事を男性がするべきだと主張するのと同様に、男女に付与された権利の侵害なのである。アフリカ社会において、地位は何にもまして重要な要素である。年齢と経験に対応した地位が存在し、それが階層化された諸集団の活動を差異化している。そして、男女を区別する地位もある。アフリカ人が、自分の地位との関連を無視したり、自分とは異なる地位に付随する活動に参加することはできないのだ。しかし、だからといって怒ったり劣等感を感じたりすることはない。というのは、誰でも、部族内で果たさねばならない役割があるからである。男女の間に隔壁があるのと同じく、地位の間にも越えられない壁がある。この壁は部族の安定を乱すことなしに越えることはできないが、その存在は優劣の差を意味するものではない。
このルールを破った者は、エチケット違反をした時と同様、恥ずかしい思いをする。しかし、それは卑しい仕事をすることに対する恥ではなく、馴れないことをすることへの恥の感情であり、社会的にあざけりにさらされたり、自分の仕事だけをすべきだといった忠告をされたりする。アフリカでは、地位による区別を強調することわざにあふれている。
通常においては男女のどちらかに限定されている特別な義務を、男女が協力して果たさねばならない時でさえ、それぞれが異なるやり方でそれを行う。このことは、女性も男性も、その義務が卑しいとも侮蔑的だとも考えていないことを示している。実行にあたっての差異化は、ひとつには肉体的な理由か実践的な理由によるものであるが、その目的は、それ以上に、いまなお機能している地位の違いを強調するためなのである。とはいえ、男女が一緒に仕事を行うこともありうる。例えば、Didinga人の間では、現在われわれが対象としているすべての部族と同じく、荷物運びは通常女性が行う。それは一般的に言って、水・薪・家事に必要なものなど、女性の労働と関係するものであって、その他のものは含まれない。しかし、狩りで仕留めた動物の肉はいくつかの束に切り分け、男女で運ぶ。女性がこの肉を通常の方法である頭に載せて運ぶのに対し、男性は背中に背負って運ぶ(注:女性の首の筋肉は常に鍛えられているので、男性の首の筋肉より発達している。したがって、荷物の大きさや軽重にかかわらず、女性は頭で運ぶのが当たり前なのだ。一方、男性は背中に背負って運ぶか手に持って運ぶ。)同様に、畑から小屋へ穀物を運ぶ妻を手伝う際、Lango人の男性は、それを背負って運び、頭には載せない。成人に達していない小さな男の子は、頭に載せて荷物を運びたいと思えば、そうすることができる。というのは、彼らは初潮を迎えるまでの少女と同じ地位を分有しているからである。調理においても同じような差異化がなされている。調理は明らかに女性の仕事である。しかし、必要とあれば男性が関わることもできる。だが、小屋に居る時にそのような必要性が生じることはめったにないので、男性は肉を串にさして焼くだけで、鍋を使う他の調理はすべて女性の仕事となっている。ここでも、仕事の違いは、便宜的なものなのであり、そこにいかなる差別的な評価が介入することはない。
肉体的能力や生まれながらの性質が、広く性別分業を規定している。一般的に女性は、男性と同じ忍耐力を持っているが、肉体的な力や特殊な肉体労働においては、一般的かつ周期的に、不利益を被っている。これに加えて、母親であることによる制約や義務が男性には開かれている領域への参入の障碍となっている。育児によって、母親は、長期間、遠くの畑にいくことができないが、男性にはそのような制約はない。その結果、女性はどちらかと言えば一か所に定住してできる労働、例えば家族や子どもの世話、農耕、食料の提供、水や薪などに付随する労働を担ってきた。家屋敷とその中庭、それに付随した園庭や少し離れた畑などが女性の領域と考えられている。女性は男性より家族という単位にとどまっていることが多い。というのは女性の義務は概ね家族の需要を満たすことにあり、女性の一義的な機能は出産と育児にあるからである。しかし、男性は家族の領域を越え、部族の関心事に関わる義務を担っている。家族を守り、クランや部族を守るために武器を取らねばならない。男性は戦士であり、あらゆる危険と危機的状況に備えねばならない。その直接的結果として、危険が伴い、肉体的な力が必要な義務は男性に割り振られている。放牧は男性の役割である。というのは、放牧のために遠くにでかけ、ある一定期間、家を離れねばならないからである。家畜は常に敵や肉食動物の標的となっており、そのために牛の世話をするのは戦士に委ねられている。一方、山羊は小屋の近くで飼われ、子どもや女性が世話をする。しかし、牛囲いは-男性が食事をする場所から離れた-村の一角にあり、それは男性の領域であると見なされている。というのは、それが、男性の活動と一体化しているからである。家を建てるための木材の伐採、耕地にするための森やブッシュの伐採といったすべての、特に力を必要とする仕事は男性が行っている。
一般的に言って、些細な仕事は、同じ原則にしたがって選り分けられ、男女がそれぞれ別々の需要を満たしている。たとえば、トゥルカナの男性は自分の椅子を自分で作るし、女性も自分の椅子は自分で作る。男女はそれぞれ自分のパイプを自分で作る、と言った具合である。しかし、共同体には多様な仕事がある。その多様性は―説明が難しいのだが―必ずしもある仕事が卑しいとか侮蔑的であるとされるような多様性ではない。例えば、土鍋は女性によってのみ使用されるので、土鍋作りは一般的に女性が担っているが、Lnago人の間では、粘土を川底から運んでくるのは女性だが、男性が土鍋を作っている。ナイロート系の人びとの間では、牛のミルクを絞るのは所有者の男性に限られている。所有者が不在の場合にミルク絞りを任されるのは男性の放牧者である。しかし、ナイル=ハム系の人びとの間では、これは女性の仕事となっている。このように、男女に割り振られた仕事には、どちらが優れていて、どちらが劣っているという指標はないと言ってよい。しかし、その割り振りは、一義的には普遍的な原則に則っているのだが、もうひとつ、特殊な環境がその仕事に特別な意味を与えている場合がある。例えば、Didinga人の間では、土鍋用の良い粘土の不足が、通常では起こりえない専門性に結びつき、土鍋作りの技術が数少ない女性の手に担われているという展開がみられる。その結果、土鍋はそうした専門に特化した女性から買うということになっている。彼女たちの労働からの収益は、通常家畜に投資される。その家畜は、彼女たちの排他的財産とみなされる。そして何より重要な事は、土鍋の取引は、彼女たちが粘土を入手することができる距離内で、夫が選んだ場所で行われているということである。
性別分業の結果、女性の活動は比較的狭い範囲で行われるため、男性より可視化されている。一方、男性の仕事場は遠く離れており、数日間も留守にすることさえあり得る。女性の周囲に居る男性は、通常、老人もしくは少数の戦士であり、彼らの義務は女性を守り、略奪者を漫然と見張る以上のことはほとんどしない。村落の近くに出かける女性たちに付き添って護衛するのは戦士であるが、彼らは、女性たちを手助けするためだからといって、自分たちの仕事ではないことに決して手出しはしない。実際、女性たちが担っている仕事に男性が介入するとしたら、女性たちはそれが間違いであるとみなすだろう。それゆえ表面的には、女性への仕事の負担が大きいように見えるかもしれないが、それは女性たちの仕事が可視的だからにすぎない。Merkerの「男性はすべての仕事を侮辱的と考える」とか、Petherickの「農業は全面的に女性の手にゆだねられている。なぜなら、農業は蔑視されている仕事だから」というような記述は正しくない。マサイの男性には、やるべき仕事が山ほどある。しかし、当然のことながら、マサイは、農業のような馴染みのない仕事に手を出すことは、自分の地位を低下させるものと考えている。一方、Dinka社会で農業に従事しているのは女性である。その理由は、それが彼女がすべき共同体の仕事の一部だからである。ましてや女性を軽蔑しているとか、取るに足りない仕事だけが女性に割り振られているといったことを意味してはいない。自分の義務を遂行する女性は、男性と同様に尊敬されるのであり、仕事の内容は関係ない。Hofmaiyrはシルック人について「男性はすべての仕事を女性や少年にやらせている」と記述しているが、その一方で、男性が行っている活動についてかなり詳しく叙述している。ここで彼が言う仕事とは、取るに足りない未熟練労働を意味していることは明らかである。しかし、シルック人がそう考えているとは思えない。
しかし、女性が行う労働は、その性質上、時間がかかり単調であることは確かだ。女性の素晴らしい忍耐力とたゆまぬ努力という能力は、仕事に十分生かされている。Keyu人について「女性は朝5時から午後の10時まで働く」とMassamは書いている。これは極端な事例かもしれないが、確かに女性は大変いそがしい。とりわけ、農耕や他の仕事が女性の労働を集中的に必要とするようなシーズンはいそがしい。しかし、その他のシーズンでは、そうした仕事から解放されて、訪問したり、もてなしたり、社会的なお祭りに参加したりすることができる。
男性の仕事は、女性と同じような忍耐を必要としない。われわれの観点からすると、男性の仕事は、時には女性にはできないような激しい労働を伴うことがあるが、女性の仕事より魅力的で、仕事の場所や話題もバラエティに富んでいる。だが、雨季のはじめに畑を耕さねばならない時(農耕民の場合)を除き、きつい仕事はたまにしかない。男性の主な仕事は、家畜の世話をし、引っ越しの手配をし、小屋を建てたり修理したりし、攻撃や防御に備えたり、季節によっては狩りをしたり(これはナイル=ハム系の人びとよりナイロート系の人びとに該当する)、加えて部族の内政や祭り事や紛争や交易といった仕事を行うことにある。明らかに、仕事の少ない時期があり、放牧という仕事も、女性の日常生活よりずっと楽しい仕事だといえるだろう。しかし、そのかわりに、常に危険に備えていなければならないし、命はいつも危険にさらされている。また、襲撃があれば夜昼なく呼び出される。男性は、この戦闘への備え(タバコやビールの使用といったようなある種の消費を含む)に全時間を投入するわけではないが、これは男性の活動的な仕事と言える。唯一の違いは、男性の労働は偶発的であり、女性の労働は恒常的であることである。しかし、アフリカ人の観点からすると、男女ともに仕事に従事しているのであって、どちらも不満を持つことはなく、不平等という感覚も持っていない。
文明化の衝撃のひとつは、労働バランスがひどく失われ、女性に不利益をもたらしたことである。Lango人の場合は、換金作物の導入が、原始的な物々交換とはなじみのない経済原理をもたらし、女性が行う仕事に貨幣価値を付与した。これが、男女の関係に引き起こした心理的変化を推し量ることは難しいが、貪欲な精神が女性の労働に関する昔の概念を変え、女性たちを農奴的ともいえなくはない状態に貶めた可能性はある。これは、いくつかのバントウー共同体においてはすでに起こっていたことであり、そこでの女性の地位は、彼女たちの労働を搾取する機会が増えるにつれ、疑いなく低下している。これは正常な状態(normal condition)からの逸脱であり、現在は、新しい分業(new division of labour) が近代的発展に合うよう調整(adjustment)の時期に入っていることは強調しておく必要がある。
その一方、ヨーロッパ人の行政下で部族間の戦闘が終焉し、男性は戦闘から解放されて、時間的に以前より余裕ができた。さらに、男性はもはや命の危険にさらされることがなくなった。だからといって、男性が経済的に役割を果たすようになっているとは言えない。このことが、女性労働に対する評価を押し下げ、蓋然的な差別を導入することに寄与したに違いない。しかし、ここでも、解決の糸口は見え始めている。農耕と牧畜とを結びつけた活動を行っている部族では、鋤の導入によって、男性が農耕に参入し始めているのだ。というのは、鍬による農耕は女性の仕事とされているが、牛に引かせる鋤耕は男性領域に位置づけられるからである。つまり、牛は男性の支配領域内にあるため、女性は畑で鋤を使用することができないのである。これは、新しい時代の始まりを告げる多くの変化のひとつであるが、経済的にアフリカ人女性の状況が50年前より悪化しているという事実は否定することはできないし、搾取―文化の公正な制度が女性たちを搾取から守っていた―は今やこの移行期の一局面となっている。
女性の地位への結婚の影響は、厳密な実証に基づく資料を確保するのは難しいが、一考に価する。夫はいかなる権利を妻に行使しているのか?妻は最も高い値段で落札した男性の使用人なのか?それとも、自分の意思で、平等な契約の下で婚約し結婚するパートナーなのか?女性の地位を考える時、こうした問いを避けて通ることはできない。しかし、調査の範囲は限られており、ここでは概略を指摘できるにすぎない。
問題は概ね、花嫁の家族に結婚の直前あるいは結婚後に手渡される婚資(bride-wealth)―家畜であれ、Madi人やKuku人のような何か富のシンボル的なものであれ―が何を意味しているかにかかっている。このやり取りに関して、対立するふたつの見解が提示されている。しかし、雑誌Manが1929年に掲載したこのテーマに関する長い往復書簡によっても、決定的な結論は導き出されていない。ふたつの見解について、簡潔に概要を紹介しておこう。
婚資のやり取りは、少女の自由と個性を認めない売買の性質を伴っているとする一連の研究者がいる。この見解は、どちらかと言えば年長の研究者によるもので、彼らにとって、このシステムは未知のものであり、表面的な意味以外の意味を考察しようとしなかった。例えばEminはMadi人について「シャベルが妻を買うための貨幣として使用されている」と記述しており、StigandもKuku人について同様の言葉で語っている。最近ではLord Raglanがこのような見方のチャンピオンとして登場し「こうしたナイロート系の部族の少女は富の源泉と見なされているというのが私の印象である。できるだけ多くの婚資を得るために、もらった羊の頭数が少ない、質が劣る、過去に受け取っておいて契約を破棄する、といったような熾烈な駆け引きがなされている」と記している(Man, 1929:107)。その後の書簡でも彼はこの見解を繰り返し、「バーゲン」「負債」「横領」といったような用語を使用している。他の多くの人びとにも採用されたこうした用語は、「このやり取りが本質的に商業的性質を強調するために取り上げられた」ようである。しかし、彼は、「本質的な属性だとは思えないが、見た目には明らかなこのやり取りの残虐性は、多くの場合、少女自身が同意しているという事実によって幾分修正されている」とも付け加えている。Huntingfordも、「Nandi人が少女を富の源泉とみなしているのは確かだ」と述べることによって、この論調を支持している。しかし、その後の書簡では、「Nandi人が少女を富の源泉とみなしているのは確かだ、という私のコメントに関し、明らかにしておきたいことがある。Nandi人の結婚は、経済的取引ではあるが、妻は『売られる』のではなく、夫の所有物になるのでもなく、ましてや最も高額な入札者に与えられるのでもない。hedna(婚資)が設定されるが、牛や山羊や羊の頭数はその時々によって異なる」との修正を行っている。
富の源泉であるところのものは売買されない、といった難しい説明に立ち入らない婚資のやり取りを考察するもうひとつの方法がある。婚資を支えているいくつかの動機である。もちろん経済的動機はそのひとつであるが、それは(これから説明するように)売買やバーターとは非常に異なり、契約の一部を構成し、子どもの認知と法的な相続を担保するものであるということ。また、それは、相続する牛の所有者であった先祖の祝福と守護を祈願することによって、宗教的・儀礼的承認を与えるものであるということ。さらに、新しい家庭で妻が虐待されないための保証であり、契約をする双方のクラン間の社会的・政治的絆としても機能する。婚資のどの側面が重視されるかはそれぞれの共同体によっても、親族集団によっても異なるが、どの側面も存在し、全てが機能している。このように、一般的に言って、結婚における経済的な側面は共同体によって非難されるが、時には、父親が娘の魅力をアピールし、経済的価値を高めようとしたり、貧乏な青年との結婚を許可しないという事例に遭遇することもある。
もし結婚が売買に近い何かを介入させた経済的やり取りであるとしたら、明らかに、既婚女性の地位は、いかなるわれわれの視点からしても高いとは言えない。しかし、本当にそうなのか?婚資という制度とは別に、幼児、あるいは出生前の婚約といったような、同様な方向を示している制度もある。いくつかの部族が、こうした制度を持っているが、すべての部族だというわけではない。しかし、少年と少女の両親によるこのような婚約はすべて暫定的なものであり、結婚年齢に達した時に当事者によって確認されねばならないことになっている。しかも、結婚を強制されることはないし、拒否する時には、すでに支払われた富が返却されることになる。強制結婚にもっとも近いのは、説得結婚(enjoined marriage)である。それは、男性か女性かという地位の問題とは関係がなく、女性と同様に男性にも義務として課された結婚であり、公的な結婚なので個人的感情は排除され、社会的義務の遂行のために行われる。これは特に、最初の結婚に適応される。そして、この妻が、自由な選択によって結婚したその後の妻たちより社会的地位が高いという事実は、決められた相手と結婚するという義務が、隷従でも女性の地位を低下させることでもないことを示している。
少年時代を経て、成人になりかかった時に、少年はセックスのミステリーについて指導を受け、社会的及び宗教的理由から、彼が親になることを社会が求めているということを学ぶ。そして青年期を、良い結婚をするための実験の期間として過ごすよう忠告を受ける。その間に、彼は無意識に、家族やクランが望ましいと思うような特定の少女に心を惹かれるようになる。同じような状況下に置かれた少女の方でも、彼に心を惹かれるようになると、お互いの間に好意が生まれて、公的な結婚が可能になるのである。しかし、われわれと同様に、お互いの魅力が結婚の決心をさせるために重要な役割を果たしているという事実を見逃してはならない。男性の有力者が、気の進まない花嫁を買うなどということは問題外である。夫となる前に、彼は愛人にならねばならない。愛人になれるかどうかは、彼の魅力にかかっている。ふたりは誠実であることを誓い、相手のために、そして愛の誓いのために、お互いに嫌なことはしないと誓う。叙情的な詩作が、男性に期待される。彼は言葉と行動で、恋人を賛美しなければならないのだ。そして、愛のみならず妻を支える能力があることを、戦略品や狩猟の獲物によって示さねばならない。ふたりが結婚したいという気持ちになって初めて両親に告げる。婚資やその他の結婚に必要な事を決めるのは両親の仕事になる。結婚に対して、両親が反対することもありうる。しかし、このことが結婚を遅らせることはあっても、法的に結婚の障碍になることさえなければ、通常は乗り越えられる。このような場合に障碍となるのは、通常、少年の母親であるが、その背後には母親の兄弟―少年の最も重要かつ親密な親族―、あるいは母親のかつての恋人がいる場合が多い。こうしてわれわれは、大抵のカップルがお互いの魅力によって結婚を決め、儀礼―そこでは婚資の正式な引き渡しが重要な課題となる―によって共同体の承認を受けるのだということがわかった。男性と女性は自由なパートナーであり、強制があったとか、もしくは社会的に貶められたといったスティグマはどちらにも起こらない。起こるとしたら、婚資が本当に売買の領域に関わっている場合だったのかもしれない。その場合でも、われわれは、絶望した愛人が自殺したとか、愛する妻の死を嘆き悲しんで夫が自殺したといった男女の感情的な関係を示す事例を見つけることができるなどと期待すべきではない。
以上見てきた結婚に至る一連の手続きは、婚資の経済的側面は個人の選択を禁じていないこと、その結果、女性の地位は制度によっては歪められていないことを明らかにしている一方、富は結婚によって妻の親族の手に渡り、そのような財の移譲なくしては結婚は法的・社会的認知を受けられないという事実も示している。女性の地位に関するすべての誤解はこの制度から発している。そこで、本稿が対象にしているふたつの部族集団のすべてにおいて、「結婚する」という用語は「売る」という用語とはまったく違うこと、言語学的に言って婚資の移譲は売買とか物々交換という用語と関係がないということを指摘しておくことにする。それゆえ、言語学的に見て―言語は文化全体を映し出している―この制度は売買を意味していないし、女性を動産とみなすことはできない。それゆえ、「妻を買う」という表現は間違っているし、婚資の移譲に関連して「支払う」という用語を使用するのも危険である。交換比率がどうであろうと、現金が牛にとって代わる時のみ、われわれは何らかの売買のにおいを嗅ぐ事になる。これは近代化の結果であるが、われわれが対象としている集団にはまだそれほど深刻な影響を与えてはいない。しかしこのような代替化が広まったところでは、女性の地位は目に見える形で低下しており、女性たちの地位は妻というより妾とか愛人と言った方が適している。現金化にともなって、女性の保護者が貪欲になり、かつての文化の間違った解釈に乗っかって行動した結果、妻は個人主義的な財産の概念を意味する奴隷と呼ばれてもいいかもしれない状況に立たされている。同様に、制度を守る機能を持っていた婚資の廃止もしくはその人為的な制限が、女性の地位の低下を招いている。例えば、アチョリ人の女性たちは(彼らの間ではそのような制限が試みられている)、たったの二頭の牛で、「夫」は2~3ヶ月後に元をとった(訳者注:結婚したという意味か?)とすると、両者の関係は破談になる可能性があると見ているのを聞いた。つまり、そのような制限のもとでは、女性自身はこう考える―自分、自分の価値、魅力は減じられ、既婚女性が与えられるはずの地位を確保できない、と。こんなことを書くのは、制度のいかなる変化にも反対するべきだと警告しているのではなく、変化は否応なくやってくるからである。しかし、それは、これまで誤解されてきたこの制度の本質(nature)に意味のある光をあててくれるものでもある。
ナイル=ハム系の人びとの間では自由恋愛が社会的に奨励されており、親族に関する結婚のタブーが守られる限り、男性の地位も女性の地位も結婚前の自由な行動によって影響を受けることはない。ナイロート系の人びとも、多かれ少なかれ同じである。どちらかというと女性が不利となる特別な場合がひとつあるが、ナイル=ハム系部族の中には男性も同じくらい不利益を被る場合がある。例えば、Keyu人について、われわれはクリトリス切除前に母親になった少女と結婚する男性はいないということを知っているが、男女ともに割礼の慣習を持たない北部地域の部族でも、結婚前に母親になることは社会的に認められていない。確かに女性の地位は低下するが、男性の地位も低下する場合がある。例えば、Didinga人の中には、結婚に適しているとされる日を早めなければならない場合がある。そうした場合、社会的により高い段階に進むための成人儀礼に参加できないということが起こる。すると、社会的に決まった地位を与えられることなく中途半端な立場で残りの生涯を過ごすことになる。
しかし、このような事例は例外であり、機能的に子どもを産めない女性の場合と比べると、影響は大きくない。結婚契約の一部として妻は一人以上の子どもを夫のために(離婚の際には子どもは母方の養育権の下に組み込まれるということは注目に価するが)産まなければならないとされている社会では、子どもを産めない女性の苦しみは計り知れない。子どもを産めないことは、契約違反として結婚が無効になるばかりでなく―だから、慣行として、婚資の最終的調整は最初の子どもが生まれるまでなされない―、生涯をほとんどひとりで過ごさねばならないという社会的スティグマを伴い、自殺にいたることも珍しくはない。生まれ代わりを重視する宗教哲学を持つ共同体においては、子どもの重要性は明らかである。その結果、母親になることによって妻としての地位を確立できない女性は、社会的に周縁化(outcast)されるのである。しかし、こうした場面においても、アフリカの慣習法はわれわれが考えるより柔軟であり、社会的なスティグマを取り除く方法が仕組まれている。例えば、Keyu人の間では、「子どものいない女性は、子どものいる男性に依頼して、彼の最初の妻の次男か三男を養子に貰い受けることができる。このようなやり取りは、生まれた子どもに平等に遺産を相続させる目的だと考えられている」(J.A.Massam, The Cliff Dwellers of Kenya, p.138)が、同時にそれは女性の尊厳も守ることになる。アフリカ人によるソロレート婚(法的かつ宗教的必要性から、妹を不妊の姉の代替にする慣行)の正当化には、この契約違反が暗示されているのである。この件に関して妹が選択権を持っていないことは、われわれの観点からすると、彼女が個人としてどのように位置づけられているかを物語っている。しかし、アフリカでは男女ともに個人としての地位が確立しているわけではなく、自分が所属している集団との関わりの中でのみ個人が位置づけられているのである(集団の中での個々人の地位は異なるのだが)。
個人の地位が集団との関係で規定されているところでは、個人は集団が持つ慣習法に従わねばならない。これが、女性が名誉ある地位を与えられていると考えられているナイル=ハム系の文化のもうひとつの特徴である。例えば、妻との性交渉の権利は夫の権利であるのみならず、同じ集団のメンバーが、ある期間、たまたま客人と主という立場に置かれた場合には、客人は主の妻に対して同じ性交渉の権利を持っている。最大限の歓待には、妻の身体も含まれるのだ。このことは、アフリカ人が女性に性的な配慮をしていないことを意味してはいない。入手可能な著作を丹念に読めば分かるように、それとはまったく反対なのである。女性は、完全に暴力から守られている。夫の暴力からさえも、である。親密な関係に想定される猥褻さも皆無である。Hofmayrは総論的に「女性は尊敬されており、越権行為は禁止されている」と記している(W.Hofmayr, Die Shilluk, p.297 et seq.)。夫の年齢集団のメンバーに許されている権利を支えているのは、同じ地位を共有している人びとは生活全体をも共有するため、ほぼどの状況においても他の人の代わりをすることができる、という考えである。これは血の復讐にも、家庭内の規律(arrangement)にも該当する。ただし、一晩の「夫」の代わりは、セックスの代替であって婚姻上の代替ではない。しばしば誤解されるように、彼女が集団内の他の男性と結婚したとは考えられていない。われわれの個人主義的な考え方や教育からすると、このような慣行は女性にとって不快なことに違いないし、われわれはそれを社会的に貶められている事例と見なさざるをえない。われわれは、このことに対するアフリカ人の女性の心理的反応を実証する手がかりを持っていないし、こうした男性の権利を、彼女たちがどのように考えているのかはわからない。しかし、彼女たちが受けている教育は、集団への責務を果たすことの大切さを教えることにすべてが注がれており、性的義務を果たすことは個人的な好き嫌いが介入することではないと教えられていることを心に留めておく必要がある。それは、結婚前の個人的経験が制限されていたこととは異なる。彼女たちに与えられる性交渉の許可は、結婚を前提にした許可なのであり、婚姻を前提とした性交渉は、結婚前の女性に厳格な純血を期待する共同体におけるような衝撃を与えることはない。彼女たちの個人的な欲望は隠された情事の中で昇華されているし、Eminが述べているように、男性は女性にたいして寛大なのである。この慣行が女性の地位と関係するとしたら、以下のことも考えるべきであろう。つまり、それが女性にとって嫌悪すべきものであるとしたら―これは彼女たちが育てられた観点からみれば疑わしいが―、この共同体的結婚観にそって教育されていない男性にとっても嫌悪すべきことであるかもしれないということである。アフリカにおいても嫉妬はどこででも起きる。そして、ある慣行を個人の権利という概念に反するものとすることができるのは社会的コンテキストだけなのである。これが、女性の地位に関するこの慣習の影響を評価するにあたって考えなければならない重要な要因である。
女性の地位に影響を与えているふたつの要因について詳細に考察したが、その他の要因についての詳細な考察は必要ないだろう。おそらく、簡潔に述べておけばよいだろう。女性は、法的な無権利状態に置かれている。とりわけ、財産権に関して。しかし、これは、財産の所有権は非常に限られているという事実に由来するものであり、男性でさえ個別的な権利でなく、信託(trustee)のみを付与されているに過ぎない。男性がこの立場を保持しているのは、彼らがこの財産を守る権力を持っているからである。女性は、それにもかかわらず、決定権を行使できる領域で、やや優位性を保持している。例えば、Lango人の間では、夫は、理論上自分の子どもが相続する財産の共同信託人となっている妻の許可なく自分の財産を消費できないし、夫と妻が共同作業によって生産したものの消費については、どちらにもその権利がある。それと同じように、部族間交易に関しても、男女は平等にその取引に関わっている。しかし、土鍋づくりであろうとその他の工芸品であろうと女性の個人的な労働の収益は女性だけのものであり、このようにして女性は少しずつ貯蓄をして牛の群れを手に入れることもあるが、それに対しては夫を含め誰も手を出せない。最近、この地でMarried Woman’s Property Actが導入されたことも考え合わせると、男性の有力者のためにあると一般的には思われている共同体で、多くの自立した女性を見出すことは決して難しくはない。
男性は家畜を妻に分配しなければならないし、そのようにして分配された動物は妻の家族の所有となり、彼女の息子の財産として認知され、それに対して彼女は息子たちの信託者としての支配力を行使する。女性は、相続人が幼い場合、死亡した夫の家屋敷の唯一の信託人を務め、結婚契約や財産関係のその他の取引を行うすべての法的権力を与えられる。Keyu人の場合のように、相続人が年長の男性によって管轄される部族でさえ、いさかいが起こった時には、寡婦の友人が議論に加わる。一方、Didinga人は、家屋敷の一部を寡婦に分与し、自由に使わせねばならないことになっている。加えて、幼い子どもたちに代わって、家畜を託される。
女性の法的地位は、ナイロート系より、経済的な独立度の高いナイル=ハム系の部族の方が自立している。ナイル=ハム系の女性は、部族の裁判の際に自分で訴えたり、手続きをしたりすることができるが、ナイロート系の女性は男性の親族か、裁判の案件に関心を持つ男性に代理をしてもらわねばならない。Keyu人の場合、「男性であろうと女性であろうと、裁判に参加することができる」とMassamは記している。一方、Shilluk人の女性は訴えることはできないが、夫か首長に代理を頼むことができる。この2つの集団にみられる事例は、この件にかんする対称的な対応を示している。
このような違いは、政治領域でも見られる。しかし、ここでは文化的な違いに沿って説明しておこう。集団としてのナイル=ハム系の人びとは、首長を認めておらす、権力は戦士と長老に分有されている。この両者のうちでは、戦士がより大きな権力を持っている。そのような社会では、女性が政治権力を持ちたいという気持ちにならないのは当然だろう。ただし、呪術的な資質を受け継いだ女性に政治的な権力を認めてきたLutuko人のような例外はある(B.Z. and C.G.Seligman, Sudan Notes and Records, i.155)。ついでに言えば、祖先崇拝の儀礼は男性によって掌握されているが、女性は、この両集団で、排他的な宗教的かつ呪術的な権威を持ち、その領域での公のサーヴィスを行う機会を持っている。Lutuko人の間では、例外的な状況で、女性が世俗的権力を担うことがある。例えば、Eminは、首長のChulongがいさかいが原因で殺された時、首長の息子が幼かったので、村落は彼の妻によって統治されたことがある。
しかし、ナイロート系の女性は、受け継がれた才覚、もしくは自身の例外的な個性によって高い政治的地位に就く可能性がある。Lango人の女性首長は、過去には珍しくはなかったし、戦場で指揮を取る戦士になった女性もいた。Eminは、Acholi人のある首長の第一夫人は、夫が統治能力を失った時には代わって指揮を取ることもできると記している。一方、Schweinfurthは、Luo人の女性で、首長的な役割をしていたといってもよい年配の女性がいたことを記録している。Shilluk人の場合は、王制だったため、特殊である。(平民との結婚は考えられないし、王室のメンバーとの結婚は近親相姦になるため)結婚できない王女は、彼女が住む村落に絶大な影響力をもっており、「小王妃」のタイトルをあたえられ、直属の評議会が重要事項を審議している。Hofmayrは、「シルックの歴史において、王女は首長職に就くことがあり、王妃たちは臣民の社会生活に多大な影響をおよぼし、いわゆる「クニの母」的存在となっている」(Seligman, Sudan Notes and Records, p,52,140,150)と記している。王妃は、王が不在の時に裁判を代行し、Bakerによれば、そうした王妃の一人は首相や相談役としても活動していたようだ。
さて、いくつかの概括的な結論で締めくくりにしたい。女性に開かれている仕事や機会は文化によってさまざまであり、女性を隷従、あるいは劣等な地位に閉じ込めておくような障壁があるわけではない。地位の違いは、社会的な尊敬とは異なる概念である。地位はいかなる場面でも重要だし、男性か女性かによって、挨拶の仕方も異なり、もし取り違えて挨拶すると、うれしいと思う人も軽蔑されたと思う人もいる。女性は、男性にだけ許されている挨拶をされても、うれしいとは思わない。しかし、多くの区別が、身体的かつ呪術的な性質と呼んでも良いようなものであり、女性と関係する再生産の原理か、もしくは月経と関連した呪術的な危険性のどちらかに基づいている。女性の職業上の制約や彼女たちに課されている禁忌は、再生産と月経によって説明できるのだ。例えば、女性は、月経の時、牛囲いを通り抜けたり、横切ったりしてはいけない。その理由は牛が悪魔にとりつかれることを恐れるからである。こうした禁忌は、まさかの危険を避けるためにすべての女性に課されている。しかし、それは女性に対する偏見を意味してはいない。こうした考えは、小屋や牛囲いに男女別々の入り口を設けていたり、男女は別々に食事をすることになっていたり、Suk人のように女性は男性と同じひょうたんから飲まない、といった慣行の理由を説明している。さらに言えば、クランのタブーと禁忌は男性より女性に関係するものが多い。その理由は、心理的に女性の方がずっと共同体にとって重要だからである。また、儀礼においては周縁化されている女性ではあるが、アフリカ人が一様に認めているように、女性は間接的に社会的・政治的影響力を行使している。男性は、とりわけ女性の忠告に同意したり、自分の家族やクランだけでなく友人や親しい人びとを守る義務を引き受けるという場面で、この影響力を認めている。もし、われわれが、表面ではなく、もっと深い部分に目をやれば、隠されていた性が重要な性であるということが見えてくる。「男性は妻の奴隷である」というAwamba人のことわざにあるように。(翻訳:富永智津子)