【特論5】Ⅰ-⑩ カヌリ人の結婚と出産 by R.E.Ellison(訳者注:現在のナイジェリア北東部ボルヌ州-ボコ・ハラムの拠点-の事例)
014.12.05掲載 執筆:富永智津子
R.E.Ellison, “Marriage and Child-Birth among the Kanuri,” Africa, Vol.9, No.4, 1936
Sir H. Richmond Palmerによる詳細な調査を無視してカヌリ人について記述するのは恥づべき行為であろう。とりわけSudanese Memoirs(3 vols., 1928. The Government Printer, Lagos)はカヌリ人の起源と歴史について書かれており、カヌリ人に関心がなくとも必読の書である。その他、Denham, Barth, Nachtigalといった旅行家による19世紀のボルヌーに関する記述がある。彼らはすべてシャイフ(Shehu)王朝の新しい首都Kukawaを訪れている。DenhamはOudneyとClappertonとともに1823年に、Barthは1851年に、Nachtigalは1870年に、それぞれ訪れ、旅行と経験についての極めて興味深い記述を残している。ここで、そうした記述からカヌリ人の歴史についての概要を紹介しようとは思っていない。しかし、現在の慣習を紹介する前に、ひとつは19世紀初頭の、もうひとつは19世紀末の極めて重要な出来事に言及しておくことは、ボルヌ(訳者注:ナイジェリア北部)の現在の社会的・政治的状況を理解するために意味があるだろう。
【参考】
- 9世紀初頭~14世紀:カネム王国、チャド湖周辺で繁栄、担い手:カヌリ人
- 14世紀末:カネム王国がチャド湖南西のボルヌー(ナイジェリア北東部)に本拠を移転、以後ボルヌー王国と呼ばれる。
- 16世紀末:アロマ王の下で繁栄、イスラームの普及
- 19世紀初頭:フラニ人ウスマン・ダン・フォディオの聖戦に敗れる
- 1846年:11世紀から続いたサイファワ王朝の滅亡とシャイフ王朝の台頭
- 1893年:ラービフ(スーダン出身の奴隷商人)により、シャイフ王朝滅亡
(『アフリカを知る事典』新版より)
最初の出来事は、千年にわたって支配してきたサイファワ王朝(Saifuwa:11世紀~1846年)の王(mai)たちに代わってシャイフ王朝が台頭したことである。この簒奪劇は、1488年頃に建設された王都Birni Gazargumoへのフラニ人による攻撃がきっかけとなって引き起こされた。しかし、かつての王都の廃棄と新しい王朝の台頭はボルヌーの政治的・社会的組織に大きな影響を与えなかった。古い称号がいくつか使用されなくなったり、カヌリ人のクラン組織が崩壊しはじめたり、王たち自身がかつての秩序をほとんど重視しなくなったということはあった。しかし、王朝の交代は人びとの日常の物質生活にほとんど変化をもたらさなかった。行政も旧態依然であり、昔ながらの腐敗も横行していた。税金はKukawaに住む祖先伝来の封土の所有者の代理人によってdistrict毎に徴収されており、中央政府はBirniの場合と同様、宮廷のお気に入りたちや宦官によって支配されていた。変化は緩慢で、ラミヌ王(Shehu Laminu)による支配下で、古い家系が新しい家系によって徐々に置き換わった。たとえ廃位されたBirniの保守派の中にはラミヌ王は政治的な邪魔者であり成り上がりものであると見下すものがいたとしても、新しい王朝の王たちは異邦人ではなかった。一般的に、カヌリ人はラミヌ王を救世主とみなし、彼に対しての不満は持っていなかったし、フラニ人の脅威が去るやいなや、かつてに王(mai)たちを以前の地位に復帰させようとする努力もしなかった。王たちが行った唯一の地位奪回の試みは、Baghirimi(のちのWadai)に助けを要請することだった。
1893年のラービフ(Rabeh)によるボルヌーの征服は、それとは非常に異なっていた。これは、第一級の政治的かつ社会的な転換点となったからである。彼は完全にボルヌーを征服し、その初期の7年間の独裁によって、カヌリ人はすべての政治的・社会的統一を失った。容赦ない収奪によって、ラービフは財政的に国を破産に追い込み、社会的にはクラン組織を完全に解体し、文化的には計り知れない価値を持っていた古代の書物や記録を廃棄した。そのために何世紀にもわたって名声を轟かしてきたボルヌーの知識は、それ以前の栄光の影に埋もれてしまった。飢餓と人口減少が、ラービフの無慈悲な支配の直接的な結果だった。1902年のイギリス人の到着時、ボルヌーは完全に役割を終え、その魂は打ち砕かれ、その富は長い歴史において見る影もなく停滞していた。
カヌリ人のかつてのクラン組織は、最終的にラービフ体制下で解体し、現在は政治的にも社会的にも組織としての役割を果たしていない。個々のカヌリ人がどのクランに属しているかを探り当てるのは難しい。以前は識別できる特徴を持っていた顔の文様も、今やその意味を失っている。例えば、多くのカヌリ人は、かつてカネム人だけが使っていた文様を採用している。
かつての公的な地位のいくつかは、他の州(Province)と同様にボルヌ州の現在の原住民行政組織(Native Administration)の中に見ることができる。また、他にもタイトル保持者や世襲のクランリーダーたちがおり、以前の政治的存在意義を奪われたとしても、まだそれぞれの地位と王宮における高い優先順位を保持している。大切に保存されている古式豊かな権威を伴ったこうしたタイトルは、その保持者に重要な社会的地位を与えているのである。
カヌリ人の慣習、とりわけ結婚と出産の慣習を考える時、どの程度イスラームの慣行がその地方の慣習や迷信によって修正されたり、補われたりしているかを知ることは重要だ。カヌリ人は何世紀も前からイスラームに改宗していたし、その社会組織全体がムスリムの慣行と伝統に依拠していることを常に心にとめておく必要がある。結婚、出産、死はムスリムの慣行がとりわけ重要視される領域であるから(カヌリ人は、実質的にナイジェリア北部の他のムスリムと同じく、イスラームのマリキ法学派に属している)、ムスリムの慣行が主要な要素であること、そしてカヌリ的要素はイスラーム法の規律を補足する慣習の中にのみ登場しているのはごく自然なことである。
カヌリ人のイスラーム導師(malam)は、結婚と出産の慣習を次の3つのカテゴリーに分類している。Kitabu(イスラーム法)、ada(部族の慣習法)、sanam(迷信)である。本稿が注目するのはadaとsanamである。その来歴や起源に関しては、確かな情報はない。カヌリ人の導師は、結婚や出産の慣習法は、貨幣価値に関することを除いては、記憶にある限り変化はしていないという。また、ヨーロッパ人との接触によっても、すこしも変わらなかったという。現在の慣習法は、Birni Gazargumo時代(1488-1808)の慣習法であるとされており、これ以上の確かな来歴は入手できていない。
カヌリ人は3つのタイプの結婚を認識している。つまり、nyiga durbe(家族婚)、nyiga malemla(導師婚)、nyiga ardigabe(自由婚)である。最初の家族婚がもっとも一般的であり、特に第一イトコ(first cousin)の間で行われる。その一般的な理由のひとつに、三番目の自由婚より婚資の額がかなり少なくて済むためということが挙げられるだろう。二番目の導師婚は、金持ちが娘を導師やその他の宗教関係者に与えるタイプである。この場合、娘は父親からの贈り物であり、婚姻儀礼に関連する出費はすべて娘の父親が負担する。この結婚が両者にとって好都合であることは明らかだ。導師はただで花嫁を入手し、娘の両親は精神的な満足感と、気前良さという名声を共同体のメンバーから得られる。さらに、このタイプの結婚は、時には、夫を見つけることが難しい魅力のない娘を結婚させる都合の良い方法なのである。結婚にかかる費用が約束されるならば、自由意志の結婚はこの3つのタイプの結婚のうちで最も好まれている。花婿は選んだ女性と自由に結婚できるからである。本稿が対象とするのは、このような結婚に付随する慣習である。
若い男性が若い女性と結婚しようとしていると仮定する。どちらも初婚である。結婚前に若い男性もしくは彼の両親から、3回にわけて支払い(payment)が行われる。最初の支払いはkororamと呼ばれ、「求婚」のためのお金を意味し、婚約者から女性の保護者(lugaliと呼ばれ、女性の父親か、父親が死亡している場合には伯父、または近い親族)に支払われる。Kororamの金額は、普通、婚約者の財政状況や女性の家族の地位に応じて1ポンドから5ポンドまでさまざまである。女性の保護者(lugali)がこの現金を受け取ると、全額が女性の母親に手渡される。イギリス時代以前は、マリア・テレサ・ドル(gursu)が貨幣として使用されていた。その価値は現在のレートで換算すると約1ポンド6ペンスである。1人以上の婚約者がいる場合、両親はそのすべてからkororamを受け取るが、そのうちの1人が選び出されると、他の婚約者は支払ったkororamを払い戻してもらえる。もし、選ばれた花嫁が結婚経験者の場合、kororamは支払われない。
2~3ヶ月後に二回目の支払いがなされる。これはlugaliramと呼ばれ、「保護者のお金」を意味する。一般的に、その額はkororamの約二倍である。婚約者は女性の保護者にそれを支払い、保護者は花嫁の親しい親族に分配する。lugaliramが支払われると、結婚儀礼の日が設定される。lugaliramは、花嫁が再婚の場合でも支払われる。一般的には、しかし、その額は少なく、保護者に支払われることもあるが、女性がしっかりしているとみなされると女性自身に支払われることもある。
三回目の支払いはsadaga(アラビア語でsadaq)と呼ばれ、「結婚式のお金」を意味する。sadagaは結婚式の日に支払われるが、一度に支払われない場合、手付金(marbi)がlugaliramの支払いと同時に支払われる。差額は、結婚式の日に支払われない場合、6ヶ月以内に埋め合わせられねばならない。伝統的なsadagaの額は、奴隷ひとりの価格と同じ25~40マリア・テレサ・ドルであった。現在の交換レートでは(現在もマリア・テレサ・ドルはボルヌの市場で見かける)2~3ポンドに相当し、それがsadagaの一般的な額である。手付金は通常sadagaの4分の一で、ムスリムの慣行によれば1ディナール、もしくは約10シリングである。イスラーム法では、sadagaと手付金は結婚前の支払いとだけ規定している。したがって、離婚の際には、イスラーム法はそれらを保持していてよいか、それとも返済するかには関知していない。したがって、Sadagaの払い戻し(fida)の問題は、離婚訴訟の論点となっている。
結婚前夜、花婿の男性の友人が、ダンスとゲームをしに、花嫁の父親または保護者の家に行く。これはkabeと呼ばれている。プロのドラマーが雇われ、彼らが使用する小さなドラムはbalaとかkoskoliと呼ばれる。
結婚式の日は、通常、木曜と決まっている。早朝、花婿の友人が少額のお金とコーラナッツをプレゼントとして持ってくる。それらはngumtataと呼ばれる。その一部が、のちに花嫁の家に運ばれ、主客でもあり、結婚式を執り行う導師(malam)に渡される。花嫁の保護者の家で行われる結婚式は、両家の男性の親族と友人が出席し、女性は出席しない。結婚式は代理人によって進められ、花嫁は彼女の保護者が、花婿は彼の親友(best manと呼んでも良い)が代理をつとめる。事前に分割払いで行われるとの取り決めがなされていない場合、この親友がsadagaを持ってくる。予め決められた結婚の式次第というものはない。導師が代理人に、この結婚を望むかどうかを尋ね、Fatiha(コーランの最初の章句)が唱えられ、参加者全員がカップルを祝福して終了する。
結婚式後、花嫁の女性の友人が町はずれのブッシュに行き、karaga(アカシアの一種)の刺を集めてくる。ドラムをたたき、歌を歌い、ダンスをしながら戻ると、玉ねぎに刺を刺し、後にそれを夫の家の花嫁の部屋の入り口に吊るす。以前は、花嫁の友人が、花婿や彼の親友をこの玉葱で叩くのが慣行だった。刺の収拾はkalimbo barataと呼ばれ、本来kalimboという種類のアカシアの木の刺が使用されていたが、現在はその木が少なくなってきており、karagaという種類のアカシアの刺が使用される。
その日の午前中に、花嫁の介添人(女性)が花婿からの贈り物を花嫁に届ける。この女性の介添人はkususuと呼ばれ、花婿の親族の既婚女性の一人であるが、たいていは花婿の姉妹がつとめる。贈り物は、一般に、去勢されていない雄羊、パーム油、髪の毛用の粉(tabtab)、靴一足で、一括してkususuramと呼ばれている。パーム油と粉は花嫁の髪の毛を洗う儀式(kara tulta)用のものである。その間、花婿の他の女性親族が彼の屋敷地に集まり、ダンスをし、歌を歌い、蜂蜜を入れた甘い水を飲んだりする。
午後には、花嫁は洗った髪の毛をカヌリ民族の既婚女性(jurungul)の様式に結い上げる。日没1時間前に花嫁の両親から花婿への贈り物が男性の友人によって花婿の家に届けられる。その際にダンスや歌は披露されない。この贈り物はfaferaiと呼ばれ、それに含まれるのは現金や布である。その価値は、花婿が結婚前に贈った総額を越えることさえある。花嫁に既婚歴がある場合、このfaferaiは贈られない。
夜が訪れると、花婿の親友が、他の友人数人とともに、花嫁を迎えに馬で出かける。花嫁が未婚の長姉の場合、majilaと呼ばれる少額の現金が、花嫁が両親の家を離れる直前に支払われる。ヴェールをしたまま花嫁は馬に乗り、同じ鞍の後ろに若い女性(多くの場合、妹)を伴って出発する。家を離れる時に花嫁は泣くことを期待される。少なくとも悲しみを表現しなければならない。とはいえ、隊列の道路沿いではダンスと歌の行列が随行している。花婿の家に到着すると、花婿の親友は6ペンス~2シリングほどのkunena zarrambe(手綱料)と呼ばれるお金を馬子に支払う。花嫁は馬を降り、一緒に来た若い女性らとともに家に入る。一休みすると、客は引き上げる。残るのは花嫁の親しい同伴者のみとなる。それぞれ1シリング程度の現金が、花婿にかわって親友が、花嫁のかわりに花嫁の介添人に手渡される。最初の1シリングは、花嫁が口を開くためのもので、次の1シリングは花嫁がヴェールを脱ぐためのものである。その後、花嫁の介添人はヘンナと水を持ってくる。これに対しも、介添人は支払いを受ける。介添人はこのヘンナと水で花婿と親友の手と足を染める。
花嫁と花婿は、その後、結婚の仕上げのために奥の部屋に退く。花嫁の介添人は屋敷にとどまる。花婿が花嫁に触れる前に、花婿は彼女にkunena ferorambe(処女膜金)10シリング~1ポンドを支払う。彼女が処女である場合、花婿は出てきてその旨を屋敷で待機している人たちに報告する。その後、花嫁の友人はダンスをし、歌を歌い、鍋を打ち鳴らしながら町中を練り歩く。これが明け方まで続く。花嫁が処女でない場合、夫はkunena ferorambeを取り戻せる。一方、花嫁の友人たちは、沈黙の中で屋敷を後にする。
翌日の朝早くに花婿と親友は花嫁の両親(kesai lefa)に挨拶に行き、前夜の花嫁の状況を報告する。その後、両方の女性の友人たちが花婿の家にやってきて、コーラナッツを食べ、歯をタバコの粉で染めながら(この染師は、上層のカヌリ女性のほぼ唯一の職業)朝を過ごし、イスラーム法にのっとった結婚の祝宴(kalaba、および maskeru)の準備をする。午前中、その他の花嫁の女友達が行列を作り、壺やひょうたんやマットレスや衣服などの花嫁の家財道具を携えて花婿の家にやってくる。ダンスをしたり歌を歌ったりする女性の行列の先頭には、kabuluと呼ばれる灌木から作ったスープを入れた小さなひょうたんを抱えた女性がおり、彼女はひょうたんからそのスープを木の葉で道路に撒いてゆく。これはkabulu seyetteと呼ばれ、これによって花嫁に取り付く悪い精霊を取り除くことができるという迷信である。目的地に到着すると、女性たちは花婿の親友(best man)に迎えられる。この親友は、demba yaram(母親のひょうたん)とdemba kagaram(祖母のひょうたん)の持ち手に支払いをしなければならない。この時、親友は支払いを躊躇するそぶりを期待される。それを見た女性たちは大声で「老人は若者よりまし;老人だったら、ひょうたんを下に降ろせと言うかしら?」と囃し立てる。それぞれのひょうたんには、1シリングずつが支払われる。
午後4時頃、kalabaの儀式(wu kalamninという動詞が語源)が執り行われる。これは確認される限り、カヌリ人に特有の極めて興味深い儀式である。花婿の友人たちが数人の導師(malams)とともに花婿の屋敷の門に集まり、導師は口々にコーランの割り振られた章句を唱える。コーランがすべて唱えられると、Fatiha(コーランの最初の章句)が全員で朗唱される。ここまでの儀式は本質的に宗教的なものだった。この後、kabuluで作ったスープが運ばれ、偉い導師が人差し指をそれに浸して花婿の手のひらに触れると、花婿は新しいマットに座る。その花婿の前に、3つのひょうたんが置かれ、beri ngaji(小麦粉から作られた一種の粥)とバターとkabulu(肉の切れ端が浮いているスープ)がそれぞれに入っている。導師はそれぞれの中からすこしずつ内容物を取り出し、花婿の手のひらに置き、花婿はそれをberi ngajiの入ったひょうたんに戻す。この手続きは3回繰り返される。その後参加者全員が指をkabuluスープに入れ、導師がしたようにかわるがわる花婿の手のひらに触れる。すべてが終わると、数人の女性がやってきて、ひょうたんを屋敷内に持ち去る。そこに集まっている女性たちが、花嫁とともにこの儀式を繰り返すのである。
すでに述べたように、kalabaはカヌリ人独特の儀式であり、カヌリ人とカネム人を識別する信頼できる手段である。ボルヌー州の中部に住むカネム人は言語と慣習でカヌリ人と一体化しており、kalabaのあるなしだけが、唯一の識別手段となっている。カヌリ人の導師たちは筆者に、この慣習は花婿あるいは花嫁が完全な青春期に達し、以後は両親の援助なしに自分の需要をまかなわねばならないことを示す象徴的な行為であると、その意味を説明してくれた。導師たちは、13~14世紀頃、カヌリ人がカネムから川の南部のボルヌーに移住した時にヨベ川の南岸に住み着いていた異教徒の部族Sausの古い慣習の名残りではないかと考えている。このことを示すもう一つの重要な事実は、花嫁もしくは花婿で1回以上kalabaの儀式を経験したものはいないということである。この儀式は、初婚の時だけに行われる。
Kalabaの後、maskeruと呼ばれる祝宴が催される。両方の友人たちが招待されるが、男女は厳しく隔離される。
7日間は、花嫁の親しい友人が夫の家に花嫁と一緒に滞在する。最後の7日目に、友人たちは花婿からの小さな贈り物を受け取って、花嫁の元を去る。しかし、老女がひとり残って、40日間、若い花嫁に家事の指導をする。
儀式の締めくくりに、結婚の儀礼の全てにわたり重要な役割を演じたkususuに花婿から贈り物が与えられる。贈られるのは、通常、女性の衣服に用いられる1~2枚のterbediと呼ばれるインディゴで染めた布である。花婿の親友(best man)は、報酬として、花婿に贈られたプレゼントの中から好きな外套を選ぶことを許されている。
男性が2人目の妻を娶る時には、その段取りすべてを最初の妻に知らせねばならない。一方、慣習によれば、最初の妻は、新しい妻にlugaliramとして与えられる額の半分を受け取る権利がある。慣習法は、最初の妻は二人目の妻に夫が与えるすべてのプレセントや布の3分の1を受け取ることができると定めている。この目的は、家庭内の平和を保つことにある。しかし最初の妻は二人目の妻に与えられたsadagaについては、何の権利もない。というのは、このsadagaはイスラーム法が規定する婚姻前の支払いだからである。
もし、寡婦あるいは離婚した女性が再婚する時には、lugaliram とsadagaを受け取ることができる。ただし、その額は最初の結婚の時より少ないが・・・。しかし、kororam,
つまり「求婚のため」のお金は支払われない。結婚式はすでに述べた段取りと同じに行われるが、正式なfaferaiは行われず、それに続く祝宴などももっと質素なものとなる。例えば、花嫁の持ち物は昼間ではなく夜間に夫の家に運ばれ、花嫁は、夫があまり裕福ではない場合、馬には乗らず歩いて夫の家にやってくる。付き添いの女性たちは、花嫁が夫の家に着くやいなや、自分たちの家に戻っていく。花婿が初婚の場合、彼はkalabaの儀式を行うが、花嫁は行わない。Maskeruは行われるが、花嫁が初婚の場合よりずっと簡素になる。
離婚女性、もしくは寡婦の場合、イスラームに規定されている待婚期間は厳格に守られる。離婚の場合、これはtabari(アラビア語では’iddah attalaq)と呼ばれ、寡婦の場合はnji kendo(アラビア語では、’iddah tulmanti)と呼ばれる。後者のカヌリ語の表現は「水を運ぶ」を意味する。おそらく、寡婦は質素な服装を身につけることを期待されているので、水運びの女性のように見えることからこういう表現が使われていると思われる。
カヌリ女性は夫の家で子どもを産むのが一般的である。出産に先立って、女性の夫には妻を安心させるために必要な準備をし、薪を十分用意することが期待されている。彼は名付けの儀式のために雄の羊を買わねばならない。出産準備に入る前には妻との性交の制限はないが、出産後は40日間は避けねばならない。女性はプロの産婆(sartama)の他に、自分の母親の介添えを受ける。難産の場合には、導師が呼ばれ、コーランの一部を家の外で唱える。その他、さまざまな魔除けが介添えの女性たちによって集められる。胎盤は屋敷の中に埋められる。胎盤を埋める方法やその場所と関連した迷信はない。Kendebuと呼ばれる40日間、母親はお湯で身体を洗い、その最初の7日間はsenと呼ばれ、特別な牛肉のお茶(beef tea)が与えられる。裕福な家では、Kamalaと呼ばれる養母が呼ばれ、育児全般を担うこともある。その結果、子どもが大きくなると、この養母を母親(ya)と呼ぶことがある。誕生後2~3日すると、父親が雄羊を屠り、生まれた子が自分の子であることを認めると宣言する。これはhaiga debata(確認のために[雄羊の]喉を切る)と呼ばれる。
出産後7日目に、子供の名前が付けられる。この儀式は早朝に行われ、両親の男性親族と友人が参列する。父親はコーラナッツやお菓子でもてなす。儀式は導師によるコーランの朗唱で始まり、続いてFatihaが全員で朗唱される。その後、父親は子供の名前を導師の耳元で囁き、導師が、雑穀が入ったパームヤシの葉(felai)から作られた皿カヴァーの上に手を置きながら、それを公表する。導師によって与えられる名前は常にコーランからとられ、su felaibe,つまり「皿カヴァーの名」として知られている。コーラン名の他に誰もが通名を持っているが、ニックネーム的な意味しか持たない。よく見られる名前の組み合わせがあり、次の表に示した。
【男性名】
コーラン名 ムハンマド:第二の名前 ムスタファ、ハビブ、バシール、ラミヌ
コーラン名 イブラヒーム:第二の名前 ハリル、ベラ
コーラン名 アリ:第二の名前 ガルガ
コーラン名 ウマール:第二の名前 サンダ
コーラン名 ムーサ:第二の名前 カラム
【女性名】
コーラン名 ファティマ:第二の名前 ザラ、ファンナ
コーラン名 マリアム:第二の名前 マリアム
コーラン名 ハディジャ:第二の名前 クブラ、マング
第二の名前は子供が生まれた状況を物語っている場合がある。例えば、双子はカグと呼ばれ、双子の後で生まれた子供はガンボ、死産の子はワゲニ、一方、生き残った最年長の子はコロ、もしくはクンドリと呼ばれる。第二の名前は、身体的な欠陥や奇形に因んだ名前を付けられることも多い。
名前が付けられると、ただちに祝宴が催され、父親が出産前に用意していた雄羊が食される。産婆や導師は雄羊の足を一本ずつ受け取る。導師には皮も与えられる。一般に、招待された客は、sadaga(alms)を両親に渡すことで、祝宴の出費を補助する。赤ん坊は命名儀式には登場しないが、名前が与えられるや否やlada(muezzin=モスクから祈りを呼びかける人)が家に行き、子供の耳に、イスラームの祈りの呼びかけを囁き、それに続いて与えられた名前を告げる。床屋が命名式で、子供の髪の毛を剃り扁桃腺を除去する(注:最近、この手術がマイドュグリの医者の立ち会いのもとで行われたが、除去の結果は、所見によれば無視して良い程度のものだった)という重要な役割を演じる。この手術は命名式の日にすべてのカヌリの赤ん坊が受けることになっている。両親に財力があれば、剃った髪の毛の量に応じてalms(喜捨)が行われる。床屋は臨時収入として、雄羊の分け前にあずかる。
夕方、少年もしくは少女が別々に家にやってくる。まず彼らのために残して置かれた羊の頭を食べ、その頭蓋骨を埋め、その後、埋めた穴の周りでダンスをし、歌を歌う。
生後40日経つと、夫は妻に新しい衣服を与える。子供の離乳は、18ヶ月から2歳の間に行われる。(翻訳:富永智津子)