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【年表6-②】世界女性史年表(人名)18世紀

作成:富永智津子

1706年~1749年(フランス)
エミリ・デュ・シャトレ

(デュ・シャトレ侯爵夫人: Gabrielle Émilie Le Tonnelier de Breteuil, marquise du Châtelet):名家に生まれ、物理学や数学の領域で業績を残した(→三成【年表8】人文学・科学技術の歴史)

1709年~1762年(ロシア)
エリザヴェータ・ペトロヴナ

ロマノフ朝第6代皇帝(在位1741年~1762年)。ピョートル1世とエカチェリーナ1世の娘。国政には関心が薄く、むしろ文化事業に熱意を注いだ。ロシア宮廷の西欧化、ロシア科学アカデミーの支援、モスクワ大学の創設、芸術家の育成、ロシア・バロック様式の宮殿の建設など、後世に残る事業を成し遂げている。
エリザヴェータ

 

 

 

 

 

 

 

1710年頃~1770年頃(エチオピア)
Empress Mentewwab

18世紀のエチオピア政治史におけるもっとも卓越した女性。Mentewwabは本名、洗礼名はワラッタ・ギヨルゲス(「セント・ジョージの娘」の意味)、支配者としての名前はベルハン・モゲサ(「栄光の光」の意味)。生まれた年は不明。出身は西部のQwara州。
皇帝バカッファ(在位1721~30)の側室となり、1723年頃、息子Iyasuを出産。皇帝バカッファの突然の死により、祖母と伯父のNiqolawosが息子のIyasu二世を後継者とし、Mentewwabに皇后の称号であるyetegeを与えた。彼女は同時に女王を意味するnegestの称号も併せ持った。彼女の本来の立場は皇太后(queen mother)であったが、1730年に祖母と伯父が死去したため、1730年の中ごろには、エチオピアの実質的な支配者となった。彼女は重臣たちに「私は女性としてつくられたが、神から授かった私の才能は男性の才能である」と宣言した。彼女は息子の第一夫人を離婚に追い込み、後釜にオロモ人の女性を据えた。これによって、エチオピアの宮廷政治にオロモという民族集団が入り込むことになる。
Mentewwabは、親族の男性のネットワークを通して統治を行い、対立していたEthiopian Orthodox Churchの派閥の一方を支持、王都ゴンダールに教会を建て、Virgin Maryに捧げた。この教会は土地の名前にちなんで、Qwesqwam教会と呼ばれ、その後の50年間、教会建設のモデルとなった。1751年、Mentewwabは、エジプトから3人のフランシスコ修道会の宣教師を招待した。これがエチオピア社会に大きな不安と衝撃を与え、カソリシズムが放棄されるきっかけとなった。
皇帝Iyasu二世は1755年に熱病で死亡。Mentewwabは急ぎ孫のIyo’asを後継者に指名した。しかし、Mentewwabの権力は次第に衰えを見せ始め、1769年のIyo’asの暗殺は、それを象徴する事件となった。翌年、Qwesqwam に引退した彼女を訪れたスコットランド人探検家James Bruceは、Travels to Discover the Source of the Nile(1790)の中で、好意的に彼女のことに触れている。

1710年代?~1774年(ダホメー/ベニン)
Kpojito Hwanjile

(1774年没):植民地化前のダホメー王国の高位の司祭、皇太后(queen mother)。王位後継者の選定に介入したことが、その後の皇太后の権力を決定づけ、ひとつの伝統として定着した。

1714年~1774年(イタリア)
Anna Manzolini

啓蒙主義時代の解剖学者(anatomical sculptor)(→三成【年表8】人文学・科学技術の歴史)

1715年頃~1763年頃(中国)
Cao Xueqin 

 小説家。清朝の親族組織や男性支配の中での女性の生き方を描いた名著Hong lou meng(Dream of the Red Chamber)で知られる。

1717年~1780年(ハプスブルグ帝国/オーストリア)
Maria Theresa

 神聖ローマ皇帝カール6世の娘。ハプスブルク=ロートリンゲン朝の皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者。オーストリア大公(在位:1740年 - 1780年)、ハンガリー女王(在位:同じ)、ベーメン女王(在位:1740年 - 1741年、1743年 - 1780年)。ハプスブルク帝国の領袖であり、実質的な「女帝」として知られる。

1728年~1814年(北米)
Mercy Otis Warren

 3巻本のアメリカ革命史の著者。アメリカ革命史の草分けのひとり。女性によって書かれた初めての革命史でもある。

1729年~1796年(ロシア)
エカチェリーナⅡ世

 ロマノフ朝第8代女帝(在位1762年~1796年)。夫はピョートル3世。プロイセンのフリードリヒ2世やオーストリアのヨーゼフ2世とともに啓蒙専制君主の代表とされる。

1731年~1763年(フィリピン)
Gabriela Silang

 夫の死後、反スペイン運動の指導者となる。スペインにより処刑される。

1735年~1815年(李氏朝鮮/韓国)
Hyegyeong恵慶寓洪氏

(ヘギョン): 義理の父親によって処刑された皇太子荘献世子 Sadoの妻。朝鮮王朝Joseon Dynasty22代国王となった正祖King Jeongjo(チョンジョYi San)の母。Memoirs of Lady Hyegyeongの著者。

1736年~1784年(イギリス/北米)
Ann Lee

 男女平等、独身主義などの当時としては過激な規律を持つイギリスの宗教集団United Society of Believers in Christ's Second Appearing(Shaking QuakersあるいはShakers)の指導者。1774年、北米に移住し、19か所にコミューンを建設。 

1744年~1818年(北米)
Abigail Adams 

 第二代アメリカ大統領John Adamsの妻。アメリカ合衆国の法律制定時に、夫である大統領とContinental Congressに「女性たちを忘れないように」と熱心に説得した。

1744年~1781年(ラテンアメリカ/ペルー)
Micaela Bastidas

 アフリカ系の父親と先住民の母親との間に生まれる。夫とともにスペインからの独立を求めて反乱に参加。夫に先立ってクスコで処刑される。

1748年~1793年(フランス)
オランプ・ドゥ・グージュ

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オランプ・ドゥ・グージュ

劇作家、フェミニスト。『フランス人権宣言』に対抗して、『女権宣言』(1791)を執筆。恐怖政治の時期に、反政府運動の罪で処刑される。

1753年~1784年(北米/イギリス)
Phillis Wheatley

詩人。 西アフリカで奴隷化された女性。引き取られたWheatley家で詩の才能を見出された。ボストンからイギリスに渡り、詩集Poems on Various subjects, Religious and Moralを出版。アフリカ系アメリカ人女性によって出版された初めての詩集。

1755年~1793年(フランス)
Marie-Antoinette

ハプスブルグ帝国の女帝マリア・テレジアの娘。ルイ16世の王妃。フランス共和国への裏切りの罪で処刑される。

1759年~1797年(イギリス)
メアリ・ウルストンクラフトMary Wollstonecraft

Mary_Wollstonecraft_by_John_Opie_(c._1797)

Mary_Wollstonecraft

 イギリスの社会運動家。フランス革命のレトリックに対抗して、Vindication of the Right of Womenを出版。フェミニズムの先駆者。

1759年~1812年(ギニア/シエラレオネ)
Betsy Heard

商人。父はイギリス人、母はアフリカ人。父親は、彼女をイングランドに送って商業やヨーロッパ文化を学ばせた。帰国後、奴隷貿易と政治的ネットワークを父親から引き継ぎ、蓄財と政治にかなりの手腕を発揮。18世紀末には、西部アフリカ内陸部の奴隷貿易を独占し、政治的影響力を身に着けた。混血という立場から、ローカルな首長とSierra Leone Companyとの仲介役も務めた。1812年以降の歩みについては不明。Signaresと呼ばれた同じような立場の女性に、18世紀にポルトガル人の船長と結婚したBibiana Vazや19世紀のMãe Aurélia Correiaがいる。

1760年代頃~1827年(南ア)
Nandi

ズールー王Shakaの母。1787年頃、ズールーの首長Senzangakhonaとの不倫関係によって妊娠。この妊娠はきわめて不道徳な事件とされたが、にもかかわらず彼女はSenzangakhonaと結婚。生まれたのが将来、ズールー帝国を築くことになるShakaだった。NandiとShakaはズールー人からひどい扱いを受けたため、Nandiは自分の出身民族であるLangeni集団に身を寄せる。しかし、そこでも虐待を受けたため、Mthethwa集団のところへ息子を連れて行った。Mthethwaの首長Dingiswayoは当時、強力な連合組織を構築しつつあり、Shakaはその戦闘集団の中で、高い地位に登りつめた。
Nandiの夫が死ぬと、Shakaはズールー社会に戻り、首長の地位を簒奪(1815年頃)。Nandiはその母として昔の絆を利用して個人的な敵と和解していった。Shaka自身は結婚しなかったので、Nandiは、王母(queen mother)として、ズールーが強力な軍事国家に発展するにあたり、重要な影響力を行使した。1827年にNandiが死ぬと、Shaka の悲しみは頂点に達し、何千人もの人々が彼女の死を悼むために殺された。翌年、Nandiの数少ない親友のひとりであったMnkabayiは、そのようなShakaのふるまいを非難し、Dinganeを説得してShakaを暗殺させた。(Dictionary of African Historical Biography)

1765年頃~1840年(南ア)
Mnkabayi

18世紀末のSenzangakhonaの時代から1839年に終焉を迎えるDingane 王の治世にまたがるズールーの歴史を生きた女性。ズールー王族の中でもっとも勇猛果敢な女性として知られる。
ズールー王国では、18世紀中葉から1879年のCetshwayo王の治世の終焉にいたる期間、王室の女性は積極的に軍事や政治に介入した。Mnkabayiは、1780年頃にJama kaNdabaの跡を継いだ弟Senzangakhonaの摂政となり、Shaka の治世には、きわめて大きな影響力を行使した。シャカは、彼女に、現在のニューキャッスル近郊の軍事拠点に駐屯していた軍隊の指揮を委ねた。彼女の能力はジェンダーの垣根を越え、国の評議会に出席するときには、弓矢を携えた戦士の服装を身にまとっていた。儀礼においても重要な役割を演じ、その影響力は50年以上にわたって続いた。しかし、ズールー王国が分裂し、ナタール州に組み込まれると、王室の女性たちの軍事的、政治的役割も終焉した。

1766年~1817年(フランス/スイス)
Germaine de Staël

 On Germanyを出版し、フランスにドイツ人のマナーやドイツ語や哲学を紹介。

1768年頃~1829年(メキシコ)
Josepha Ortiz de Dominguez

 メキシコ独立運動の主要な指導者。スペイン人が任命した市長であり、メキシコ独立運動に同情的なDon Miguel Dominguezの妻。

1769年~1852年(北米)
Sarah Litchfield

 教師、教育者。1792年、Litchfield Female Academyを立ち上げる。北米における女子教育の先駆者のひとり。

1770年頃(南ア)
Mawa

ズールーの王女。3人のズールー王の父親Senzangakhonaの末の妹。甥のShakaとDinganeの統治期、彼女は軍事拠点となった町で、王室の代表を務めた(1815年頃~1840年)。1840年にDinganeの統治末期には、まだSenzangakhonaの3人の息子が生き残っていた。そのひとりMpandeは、Dinganeを倒して自分が王位に就き、もうひとりの息子Gqugquを抹殺した。Mawaは、おそらくGqugquを支持していたと思われる。そのためにGqugquが処刑されると(1842年頃)、ただちに数千人の部下を引き連れてナタールに逃亡。他の難民も取り込み、イギリス植民地行政の許可を得て、そこに永住地を建設した。(Dictionary of African Historical Biography)

1770年頃~1840年頃(アサンテ王国/ガーナ)
Yaa Kyaa Asantewaa

AmpomahemaaとAsantehene Osei Kwadwoの間に生まれた王女。1824年にMcCarthy軍との戦いに参戦し勝利。McCarthyは捕えられて首を刎ねられる。しかし、Asantewaaは、1826年のKaramansoの戦いでは敗退し、2人の兄弟と義理の息子を失う。彼女自身は、オランダ人に売られたが、1830年に解放されると、イギリスとアサンテ王国との和平の仲介に成功。彼女の演じたこの功績を目前に、アサンテ王は彼女をゴールドコースト(後のガーナ)へのミッションの代表に選んだ。
和平の条件に沿って、ミッションは2人の捕虜と600オンスの黄金を持参した。この和平条約はケープコーストのイギリス人との間で結ばれたものだったが、彼女は和平と交易についての交渉をしに、エルミナのオランダ人の陣営に向かった。イギリスとオランダの両方と交渉することによって、交渉を有利に進めようとしたのだった。
ケープコーストからアクラに行き、オランダ人に囚われていた捕虜を解放させたのち、エルミナに戻ったAsantewaaは、1831年9月にオランダ人総督Frederick Frans Ludewich Ulrich Lastとの間でうまく交渉をまとめ、1831年11月にクマシに戻った。その後の彼女の足取りはわかっていない。 。

1776年頃~1837年(南ア)
Nandi

Shaka Zuluの母。19世紀のズールー王国史において傑出した影響力を持った女性。
Shakaとその母Nandiに関する物語は、神話のヴェールに隠されているが、一般に、次のように伝えられている。Langeniという王家の一員として生まれたNandiは、Shakaの父親Senzangakhonaと結婚する前に妊娠してしまう。この話は事実と思われる。NandiはSenzangakhonaと結婚し、Senzangakhonaの第一夫人であるMkabi女王の住む王宮に移るが、さまざまな危険と隣り合わせの生活を送っていた。そんな中で、息子のShakaは父親の王宮を飛び出し、まずLangeni人の領域へ、その後、若者を引き連れてMthethwaの支配者Dingiswayoの宮廷に移り住んだ。Shaka はNandiの出身民族Langeniなどの小さな集団をまとめて新しい王国をつくった。その際、Nandiの仲介によって小集団を駆逐したり、殺害したりすることはなかったことが、当時の史料に残されている。攻撃的で気性の荒い暴力的なShaka像が流布しているが、それは後に造られた虚像である。
Nandiは、Shakaの王宮を支えるのみならず、Shakaの軍団のひとつを任されて、軍事的な面でも重要な役割を担った。この軍事上の義務は、Shaka とその後継者である義理の弟Dinganeの時代のズールー王国の王室の女性たちの重要な役割のひとつだった。この役割は、1879年のイギリス=ズールー戦争でイギリスに敗北した後、消滅した。
Nandiは1827年に病に倒れ、10年後に死去。その直後、一年も経ずして、息子のShakaは、義理の兄弟であるDingane とMbophaによって暗殺された。

1778年~1861年(マダガスカル)
Ranavalona

ラナヴァルナ

夫RadamaⅠの死後、1540年のメリナ王朝開闢以来初の女王に就く(在位1828~1861;戴冠式は1829年)。ヨーロッパの勢力への政治的・経済的従属を排し、ロンドン宣教協会(LSE)によって夫RadamaⅠが始めたMalagasy Christian 運動を排除することに勢力を注いだ。1835年にはキリスト教の実践を禁止し、ヨーロッパ人を国外追放にした。島内では、2~3万の常備軍を整備して領域を拡大した。しかし、その間、フランスとイギリスの間でマダガスカル領有をめぐっての熾烈な外交が繰り広げられ、結局、それに深く介入していたフランス人Francois Lambertは、1857年、独断でクーデタを起こしたが、失敗し、ヨーロッパ人は国外追放となった。1861年の死後、息子のRakoto王子がRadama Ⅱとして王位に就いた。

1780年~1862年(ボリヴィア)
Juana Azurduy de Padilla

 ボリヴィア独立戦争の闘士。夫Manuelとともにスペインに忠誠を誓った人びとに対するゲリラ戦争を開始。女性の戦士集団を訓練(Amazons)、怖れを知らぬ兵士として名を馳せた。

1784年頃~1847年(南ア)
Mmanthatisi

BaSia 民族集団の首長Mothahaの娘。現在の南アのHarrismith近郊で育つ。Tlokwa民族集団の首長かつイトコのMokotjoと結婚。夫が1804年に死去すると、幼かった息子の代わり首長位を継承し、近隣の敵対する民族集団との抗争を勝ち抜く。1817年には、Ndwandwe の首長Zwideを攻撃し、すべての牛を奪う。その後もMoshweshweを打倒する。彼女の兵力は3万5千~4万人であったとされている。息子が長じて首長に即位した後も、隠然たる政治権力と権威を保持し続けた。

1788年頃(アフリカ系ディアスポラ/バミューダ諸島)
Mary Prince

誕生(没年不明):自伝を出版したことで知られる最初の元奴隷の女性。自伝The History of Mary Prince, a West Indian Slave, Related by Herself (1831) は、研究者によってその価値が再評価されるまで、著者ともども忘れ去られた存在だった。
Princeは、人間であることとはどういうことかを、貧しい、阻害された人々から学んだ。父親からは、言葉によって自分自身を守る術を学んだ。自伝によると、まず、Princeは、10代の時、暴力的な主人の元を逃げ出し、連れ戻された時に、二回目は、性的虐待を受けた時、最後は精神的な虐待を受けた時に言葉で自分を守っている。
Princeが学んだ最大の教訓は、母親からのものだった。キリスト教に改宗し、宗教的なレッスンを受けるずっと前に、母親は、奴隷オークションの直後に、Princeの心や身体や精神の主人であると自負している人より大きな力があり、それは、勇気と希望であり、それを信じるように教えたのだった。ほぼ30年後、Princeは、ロンドン滞在中に、主人の家のドアを開けて、歩み去るという形で自分を奴隷状態から解放した。外国の地で、自分自身で奴隷状態から抜け出すということは、Princeには、主人の家以外に身を寄せる知人はおらず、ひとりぼっちになる事を意味した。彼女がこうした境遇を選択した背景には、母親から教えられた勇気と希望があった。それにしても物心ついて以来、奴隷としての生活を強いられてきた女性が、外国で自ら自由を選択したことの意味は大きい。

1789年~1842年(メキシコ)
Leona Vicario

 富裕なスペイン人の両親のもとに生まれ、メキシコ独立闘争に身を投じた。

1789年頃~1815年(南ア)
Sarah(Saartjie) Baartman

サラ

現在の東ケープ近郊のコイコイ人(ホッテントット)の家庭に生まれる。父親は牛の放牧中にサン人(ブッシュマン)によって殺される。サラは、その体型(大きく膨らんだ臀部と長い陰部―エプロン)に目をつけた男性たちによってロンドンに連れてこられ、1810年秋のロンドンを皮切りに「ホッテントット・ヴィーナス」と命名されて見世物にされる。イギリス各地、そしてパリで評判となり多くの観客を集めた。しかし、その終焉はあっけなく、1815年、パリの片隅で孤独なアル中女性として亡くなった。サラの死後、フランス比較解剖学の最高権威でナポレオンの主治医としても知られるジョルジュ・レオポルド・キュヴィエは「ホッテントットのエプロン」の謎を解くべき公開解剖を行った。サラは生前、解剖学者の前で裸を見せることに激しく抵抗したとの記録があり、彼女は自分の尊厳をいかに守ろうとしていたかの証左として引用されている。解剖後、サラの身体はばらばらにされ、性器はホルマリン漬けにされてパリの人類博物館33番ケースに保存され、骨格は標本とされ、身体は模型がつくられた。フェミニストからの抗議を受けた博物館は、1970年代半ば、標本を置くの物置に収めて展示から外した。この忘れられたサラを偶然にも発見したのは、アメリカの古生物学者であり科学史家スティーヴン・ジェイ・グールドだった。グールドは当時の科学の権威ですら、セクシュアリティと動物性の関連に囚われて、サラを「もっとも遅れた人間集団に属する」と考える大きな過ちを犯していたと看破したのである。時に1980年代初め、南国内でアパルトヘイトに対する反対運動が激化し、国際批判が高まるなか、人種やジェンダーをめぐる既存概念の見直しと再定義が進められた時期と重なり、「ホッテントット・ヴィーナス」への好奇心が「サラ・バールトマン」という女性個人への関心へと転化し、20世紀末のサラの「身体返還運動」へと展開していくことになる。アパルトヘイト後の新たな国民の創出や先住民権利運動とも共振し、サラの「身体」は、2002年に南アの故郷東ケープに戻り、第二代大統領ムベキ列席のもと、サラの埋葬儀式が執り行われた。(詳しくはバーバラ・チェイス=リボウ『ホッテントット・ヴィーナス―ある物語』法政大学出版局、2012所収、井野瀬久美恵「あとがき」を参照)。

1793年~1880年(アメリカ)
Lucretia Mott
, Elizabeth Cady Stanton

(1815~1902):奴隷制廃止、女性の権利擁護、社会改革運動に身を投じたクウェーカー教徒。ふたりはWorld Anti-Slavery Conventionで出会い、ともに、女性であることから参加を拒否され、バルコニーから会合の推移を見守った。この経験から、2人は女性の権利を獲得するための集会を結成することを決意。

1793年~1864年(ナイジェリア)
Nana Asma’u bint Uthman dan Fodiyo

教師、研究者、詩人。フラニ民族集団のFodioクランの生まれ。父親はソコト王国を建設したShehu Uthman dan Fodiyo。イスラーム神秘主義のスーフィー教団カディリーヤを信奉。「精神にはジェンダー格差はない」とするカディリーヤ教団の平等主義と、イスラーム学者であり巡回説教師でもあった父親の影響を受け、学問を志す。
Nanaの生涯は、当時の西部アフリカの女性の典型でもあり、特異なものでもあった。彼女は早い時期から読み書きを覚え、コーランを手始めとして、さまざまな古典を学び、4つの言語を習得して教師となった。それ以上に彼女を有名にしたのが、西アフリカで広く読まれたアラビア語の詩である。その他のフルフルデ語やハウサ語の詩は、ローカルな人びとに宗教的かつ精神的な支えを提供した。彼女の詩は、父親が始めたハウサ王へのジハードに関する草の根の情報も含まれており、歴史的な史料としても貴重であるとされている。また、彼女は、訓練した女性巡回教師のネットワークを作り、農村部の女性の教育にも貢献した。
今日、ナイジェリアのみならず、オランダやアメリカにいるムスリムの女性たちは、Nanaの作品を復唱することによって、女性が教育を受け、活動家として社会的な問題について発言し、個人個人の才能を開花させることが女性の権利であることを確認している。

1795年~1817年(コロンビア)
Policarpa Salavarrieta

コロンビア独立戦争の闘士。スペインにより処刑され、殉教者となる。

1796年頃没(中国)
Chen Duanshengs

詩人(tanci弾詩)、小説家。Zaisheng yuan(Karmic Bonds of Reincarnation)という弾詩で知られる。

1797年頃~1883年頃(アメリカ)
Sojourner Truth

ニューヨークの説教師。解放奴隷。奴隷制廃止論者。The Narrative of Sojourner Truthを口述。

1798年~1868年(イギリス/オーストラリア)
Eliza Darling

 イギリス人。敬虔な英国国教会の信徒。博愛主義者。1826年、Female School of Industry、およびFemale Friendly Societyをオーストラリアに創設、貧しい女性たちの生活改善や教育に尽くした。

1800年~1878年(アメリカ)
キャサリン・ビーチャー Catherine Beecher

教育者、社会改革者。Treatise on Domestic Economyを執筆し、女性のジェンダー化されたアイデンティティへの再考を促した。

1800頃~1831年(タスマニア)
Tarenorerer

ヨーロッパ人入植者に抵抗し、ゲリラ闘争を展開した武装集団の指導者。