【現代アフリカ史12】学校教育をめぐるジェンダー・コンフリクト

掲載:2015.09.24 執筆:富永智津子

東アフリカ沿岸部のイスラーム社会モンバサ島(ケニア)の事例である(Strobel,1979)。ドイツ植民地を引き継いだイギリス当局は、奴隷解放の補償金の残りを利用して、統治に必要な人材養成に取り組んだ。まず行ったのが、アラブ系の男子だけを対象とした「アラブ男子校」(Arab Boys School)の設立である。1910年代前半のことだった。女子教育についての公的な議論は、モンバサの長老や植民地当局の男性によって、1919年に始まっている。その結果、女子には学校教育は必要ないとの見解で一致した。こうした考え方は、1920年代にナイトクラブや飲酒が若者文化に浸透して家族の絆が弛緩し始めると一層強固になった。1927年に同じくイスラーム社会のザンジバル島(現在のタンザニア)で寄宿制の女子校が開設されたとき、モンバサのアラブ系の新聞に掲載された次のような投書は、当時の雰囲気をよく伝えている。

 「そのような学校を設立する場所は、ここモンバサにはない。“文明”を受け入れる女性は、われわれにとっての恥だからだ。髪の毛を短くし、西欧風のドレスをまとい、ヨーロッパ人の女性のように30マイルもの距離をドライブうる。<中略>これが“文明”の正体なのだ。」(Strobel, 1979:103)

寄宿舎に入ることは、自動車でのドライブを娘たちに奨励するようなもの、とする保守的な親にとって、読み書きはラブレターを書く手段にしか思えなかったのである。

しかし、そんな中で、女子を放置しておくとミッション・スクールに入り、キリスト教に改宗してしまうのではないかとの懸念から、女子教育施設の必要性を主張するムスリムの長老が出てくる。娘の家庭教師として宣教師の女性を雇う母親が現われたことにも促され、この長老は私財を投じて、開設された男子校の一部を開放し、女子教育を始めたのである。1934年頃のことである。これに刺激された植民地当局は、1938年に「アラブ女学校」(Arab Girls’ School)を設立した。こうして1950年代には、これまで女子教育に反対してきたアラブ系の両親がこぞって賛成派に転じることになる。しかし、その目的は、女子の能力開発ではなく、教育を受けた男性にふさわしい女性を育成することにあった。

目的はどうであれ、学校教育への門戸が開かれたことは、女性の社会進出を推進する第一歩だった。女性隔離がそれを後押しした。女性の空間には女性しか同席できなかったからである。初めて5人のアラブ系の女子が中等教育に進学したのは1954年のことだった。こうして徐々に女性の教師、産婆、医者、看護婦、秘書が誕生することになる。

この歴史的経緯からは、イギリス人の人種差別とアラブ系男性のジェンダー観と“文明”観、その延長にあるキリスト教嫌悪がくっきり浮かび上がってくる。

 

【現代アフリカ史13】セクシュアリティの統制―その変化と多様な攻防

【現代アフリカ史11】専業主婦の登場