【特論】Ⅰ―⑮シエラレオネ保護領における女性の地位の変化 by K.L.Little

K.L.Little, “The Changing Position of Women in the Sierra Leone Protectorate,”Africa, Vol.18, No.1,1948:1-17

編別構成

  • 社会的サイクル
  • 女性の社会的地位
  • 男女間の緊張関係
  • 教育を受けた女性の困難
  • まとめと結論

1.社会的サイクル

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シエラレオネの場所

シエラレオネ保護領の女性は、男性と同じく、年齢に応じてさまざまな社会的役割を担っている。まず幼児期は、しつけや共同体の他の人々との関係において、両性間に違いはほとんどない。

 メンデ社会の女性たちは、女の子の誕生を男の子の誕生より喜ぶ。女性たちはこう言う、女の子は男の子と違い母親を忘れない、と。男の子と同様、女の子は母親の最初の子供であるか、それともその後に生まれた子供であるかによって付けられる名前が異なる。最初の子供であればBoiと呼ばれる。その後に生まれた女の子たちは祖先の名前にちなんで名づけられたり、親族の中で生存中の重要人物の名前を付けられたりする。命名は生後4日目に行われ、同じ名前を持つ女性が、早朝、その赤ん坊を抱いて太陽に向かい、赤ん坊の顔に3回唾を吹きかける。そしてこう言う、「私の名前にちなんで名づけられたのだから、私のやり方や行いに似ますように!」。幼児期の子供はnyalui と呼ばれ、両親の愛情をたっぷり受けて育つが、社会的存在感はうすい。その子供が死んでも、誰も泣かない。死体は葉でつつまれ、バナナの樹の下もしくはゴミ捨て場に埋められる。[原注:母親は掘った穴の脇に積まれた土の上に座り、土を墓穴に落とす。「葉の事を知っている」町の老女が母親と父親を「洗う」。二人はその夜、同じベッドで一緒に寝なければならない。]

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シエラレオネの諸部族(1969年)http://en.wikipedia.org/wiki/Sierra_Leone

 男の子と同様に女の子も3歳くらいまで母乳で育てられる。母乳に加えて、ヤムイモかキャッサバで作られたpapという食べ物を早くから与えられる。食べ物を与えられる時は決まっておらず、母乳を与えている最中に泣き出した時とか、家族が食事中だったりする時に与えられる。母親が病気の時には、僚妻や祖母など、親族の中で母乳のでる女性が乳を与える。女の子が首長の子供だったり、「文化的」(civilized)な生活様式を取り入れている人々の子供だったりする場合、赤ん坊であっても木綿の衣服を着せられることがある。しかし、魔除けのために腰に巻かれた糸を除き、通常、6歳ごろまで、ほとんど裸で這ったり、よちよち歩きをしたりしている。一日一回は沐浴し、ブッシュで用を足すことを教えられる。6歳くらいまでは、屋敷地の周辺から外には出ず、他の女性たちや年長の子供たちの世話を受ける。すべての大人をそれぞれの年齢・性・地位に応じて「お母さん」「おばあさん」もしくは「お父さん」「おじいさん」と呼ぶようしつけられる。同じくらいの年齢の男の子を含め、他の子供たちとは自由に遊ぶ。歩き始めるころから、年長の子供や女性のまねをして、頭に載せてものを運んだり、布を載せたりし始める。また、脱穀の手伝いも始める。母親と一緒に畑に行って、除草後の畑の整地を手伝ったり、水を男性のところに運んだりもする。

 本格的なしつけは6歳ころから始まる。加入儀礼のためにザンデ(Sande)とよばれる結社に送り込まれることもあれば、しつけのために親類のところにやられることもある。メンデ人は子供たちが家に長く居すぎると子供をスポイルすると考えている。もし、首長の妻として「与えられた」なら、首長の屋敷に送られ、その第一夫人のケアと指導下に置かれる。両親が教育を受けていたり、女の子に大きな期待をしている場合には、主婦の鏡とされる女性のところにやられたり、学校に通わせてもらえるかもしれないと考えてフリータウンのクレオールの家族のところにやられたりすることもある。【原注:クレオールという用語は、通常、シエラレオネ植民地にもともと住んでいた黒人の子孫を指している。かれらの文化はヨーロッパ的である。良いしつけを受けるために子供たちを植民地に送り込むという保護領の名士の慣習は、長年にわたって流行となっていた。】【訳注:シエラレオネは、イギリス支配下で首都圏の植民地と内陸部の保護領に二分されて統治されていた。】

 教育を受けていない人々は、女子教育に対して複雑な感情を持っている。彼らの観点からすると、教育を受けることによって、両親は「社会的」に子供を失うことになる。おそらく娘はクレオールと契約結婚(contract marriage)をすることになるだろうし、そうすれば「婚資」(bride –wealth)をあきらめねばならない。娘の新しい考え方や行いを両親が統制することは難しくなり、娘が両親の衣服や行いを見下すようになるかもしれない。一方、首長や富裕な商人や政府の役人と結婚するという可能性もあり、娘が畑に縛られているより財政的に家族の助けになる事もありうる。一般的に見て、首長などの身分が高い人びとは、少なくとも娘のひとりには教育を受けさせたいと思っている。その理由は、教育を受けた娘を持つということはかなり名誉なことだからである。また、普通では考えられないような結婚相手を見つけることができる可能性もある。そうした娘は通常、教育を受けることで父親のお気に入りとなる。彼女は畑で働くことを免じられ、姉妹たちには与えられないような特権を享受できる。

 少女はザンデでの加入儀礼(initiation)が終わるまで、保護者の元にとどまってしつけをされる。加入儀礼が終了するのは14歳か15歳。その時までには、妻となる準備が整い、将来夫となる男性からの贈り物を定期的に受け取ることなる。この段階までの少女は、Sande nyaと呼ばれる。加入儀礼がすむと、少女には新しい名前が付けられる。それは彼女自身が選んでもいいし、ザンデにおいて彼女が果たした役割から付けられることもある。特別の部門に登用された少女はKemaと呼ばれる。しかし世話になった女性への感謝の意を込めてその女性の名前を名乗るメンデ少女もいる。もしくは、もしも彼女がミッションスクールに通って洗礼を受けている場合には、イギリス式の名前を与えられることもあり、その場合には彼女はキリスト教徒であり、文字が読み書きでいる者として認知される。にもかかわらず、アフリカ的な名前を選ぶ少女もいるが、学校に通った少女の多くは、クレオール文化の影響を強く受けており、衣服や暮らしぶりや、編み込みをしない髪形などクレオールの友人のまねをする。日常会話ではクレオール方言を使い、クレオーレの少女と思われるよう最大限の努力をする。この傾向はザンデにまで及んでいる。ザンデでの隔離期間が終わると、少女たちは通常の生活に戻る儀礼を行う。土着の衣服ではなくヨーロッパの上着とハイヒールという出で立ちで行進しながら町に入る。こうもり傘をさしている少女もいる。

 しつけの期間、少女は保護者の私的な奉公人として扱われる。沐浴のための水を用意し、保護者についてマーケットに行き、荷物を運び、メッセージを届け、家事の大部分を担う。調理の方法を教わり、時には縫い物も教えてもらう。年長の人びととの違いも教わる。家族の一員として、他の少女たちと同じ訓練や扱いを受ける。保護者は共同体全体に対して少女の行いに責任を持ち、少女の両親に対しては安全を保障する責任がある。以下のタイムテーブルは、9歳くらいの少女の典型的な日課である。

 (タイムテーブル省略)

 読み書きができない少女が受ける一般的なしつけは、ザンデに入会した時に強化される。ザンデでのしつけはブッシュで行われ、調理と子育てと性についての知識がセットとなっている。ザンデのメンバーは夫や他の男性や僚妻に対してどのようにふるまうかを教えられる。さまざまなタイプのダンスや歌や太鼓も訓練される。その期間は、学校に通っている少女向けに行われる単なる形式的なものは2~3日だが、通常は3か月に及ぶ。小さいとき加入儀礼を受けた少女が、のちに「卒業」のために再びザンデに戻ることもある。・・・・

最初の性経験後、二本の鉢巻のかわりに布を腰に巻き付ける。婚資に関連した裁判で、しばしばこの問題が浮上する。「あなたはこの女性と性交した最初の男性ですか?」という問いは、「この女性の腰に布を巻いたのはあなたですか?」という言い方で行われるのだ。性交は少女に最初の生理がみられてからしばらくたつまで、そして、彼女がザンデを退くまでしてはならないことになっている。もし、夫となる男性がこのルールを破った場合、女性を損傷したとして両親によって咎められ、すでに支払ったお金を失うかもしれない。さらにはザンデに罰金を支払い、ザンデのメンバーによって少女ともども「浄化」されねばならない。

 少女は、軽々しく体を与えてはならないと教えられている。ザンデを卒業すると、少女はSande nyaからnyaha(woman)の地位に移行し、その後はじめて新しい役割である妻の義務を遂行することになる。

 多様かつ複雑な結婚の形態と妻を獲得する方法があるが、ここで詳らかに描く余裕はない。最初の妻の場合、少女は夫の父親の家で夫とともに暮らす。妻は家族の畑(kpaa wa)で働き、夫が自分の小さな畑を作るのを手伝う。その間、妻は年配の男性が所有している「女性の家」(pe wa)で寝て、yeiと呼ばれる年配の妻の指示で家事をこなす。その家のすべて女性は彼女の同輩であり、その中で同じくらいの年齢の女性をmbaaと呼ぶ。彼女は家族の一員として生活し、労働することを期待されており、ひとりの妻にふさわしい地位を与えられる。第一子が生まれると、それまでより尊敬される。妊娠5~6か月になると、夫との性交は中断され、子供が生まれるまで実家に戻る。妊娠中に異常がみられる場合には、占い師が呼ばれたりするが、妊娠に伴う特別な儀礼はない。しかし、夜間の外出やブッシュに一人で入って「悪魔」を見たりすることはタブーとなっている。妊婦は常にナイフを携行しなければならない。妊娠期間中の女性は戦士とみなされており、出産時の死ぬと、「戦死」という表現が使われる。【原注:死亡した妻の夫はbarriにしばりつけられ、その周りで、剣を持ったザンデのリーダーたちが踊る。夫は薬で妻を死亡させたと疑われる場合、夫がザンデに罰金を支払うまで妻は埋葬されない。】食べ物に関するタブーは特にない。子供が生まれると、夫は妻の両親を訪問し、keje lui(ginger kola)の贈り物をする。流産すると、占い師が呼ばれる。占い師は、秘密結社の掟破りを流産の原因にすることがある。女性は加入している秘密結社によって「浄化」されねばならない。中絶はmo mieと呼ばれ、妖術のせいにされることもある。【原注:学校教育を受けていない女性はめったに中絶はしない。というのは子供を持つことへの願望が強いからである。しかし、学校教育を受けた女性は社会的な理由で中絶をする。また売春婦は妊娠すると商売に差し支えるため中絶する。】

 すでに何人かの妻を持つ男性と結婚した女性は、恋愛によるものでない限り、召使として夫の家族に合流する。彼女が若い場合、年長の妻とは母親兼女主人の関係に入り、年長の妻が彼女の義務や夫のところを訪ねる時などについての指示を出す。連続3晩、夫と共に過ごすのがきまりとなっている。彼女は他の妻とともに畑の仕事を分担させられ、夫がbig manである場合には、歌や踊りで夫や夫の友人をもてなす。余暇には針仕事をしたり、町の教養のある女性からさまざまなことを学んだりする。

 第一夫人の場合、地位は他の妻よりいくらか高く、他の僚妻たちに対してやや高い地位を享受する。年長の女性は、特別の場合を除き、年少の女性より常に尊敬され、彼女たちのサーヴィスを受けられる。以下は40歳くらいの女性の一日のタイムテーブルである。

 (タイムテーブル省略)

 最年長の妻には年下の妻の道徳や行動を監督する責任がある。とりわけ夫に信頼されている妻は、夫の財布や米の倉庫のカギの管理を任されることもある。彼女は「女性の家」(pe wa)の中に分室を与えられ、他の妻たちの助力を得て小さな畑を持つことも許される。クレオールやヨーロッパ人の慣習にしたがっている友人をもてなすことがある首長は、調理や家事などのやり方が文化的(civilized)な女性を好む。そのような女性は他の妻とは異なる地位を与えられている。彼女は自分の家を持ち、首長の妻の求めに応じて、畑仕事の他に、踊りや歌などを披露する。

 夫の元を離れた女性は、pla nyahaと呼ばれる。裁判事例から判断すると、婚姻の解消は通常、妻が他の男性を愛人とすることに起因する。その場合、彼女は愛人の家に直行する。大多数の女性は男性より若くして結婚する。これは、多くの女性が夫に先立たれることを意味する。寡婦(paa nyaha)は、次の夫のもとに嫁ぐ前に一連の浄化儀礼をするか、もしくは不特定の男性と性交しなければならない。死亡した男性の足を洗った水が保存され、死後3日目にその男性の家の前の地面に注がれ、老女が土と混ぜて泥になるまですりこぎでその水をかき混ぜる。その間、寡婦は隔離される。老女が寡婦の髪の毛をつかんで、彼女を家の前まで連れてくる。もうひとりの老女が羊を追い出すように彼女を後ろから押し出す。家の戸口に到着すると、寡婦は泥に顔を近づけ、自分が苦境に直面していることを夫に訴える。その後、泥が寡婦の体に塗られ、ひもで頭から背中につるした籠に同情者からの贈り物を受け取る。もっとも大きな贈り物は、寡婦を欲しいと思っている夫の親族からのものである。それから寡婦は老女と一緒にブッシュに入り、バナナの木に頭をつけて寄りかかって休む。その間に老女がなたで木を切り倒す。未熟なバナナはその夕方の寡婦の食事に使われ、ゆでて食される。寡婦は死んだ夫が彼女に欲望を抱かないよう、ぼろを身にまとう。他の女性たちが寡婦のそばに付き添い、寡婦を眠らせない。死んだ夫がしのびこんでくるかもしれないからである。翌日、寡婦は川に行って、夫の足を洗った水を含んだ泥を落とし、穢れを流す。こうして寡婦は全くの自由の身となる。

 寡婦は夫の男性の親族のひとりを新しい夫とすることを期待されている。夫の兄弟であったり、義理の息子であったり、夫の甥であったりする。事が決着しない場合、家族は一年間、寡婦の面倒を見る。その後、寡婦は自分で新しい夫を選ぶことができる。夫の親族と再婚することを拒否する場合、すでに愛人がいなければ、実家にもどる。いずれにせよ、寡婦の家族は、彼女が結婚するときに受け取ったお金を返却することになる。もしくは愛人を通して返却される。寡婦が老女の場合には、事は単純だ。成人した息子が寡婦の面倒を見ることが可能だし、息子の援助で、家族と一緒に暮らすことができる。出産年齢を過ぎている場合には、再婚することなく死亡した夫の家族と暮らすということも有りうる。

 老女である寡婦には、軽い労働だけがあてがわれる。自分の親族の間では重要な地位を与えられ、死んだ夫の親族のメンバーからも尊敬を持って遇される。70歳くらいの老女の一日のタイムテーブルを以下に記す。彼女は宗教的な領域で指導的役割を期待されている・

 (タイムテーブル省略)

 2.女性の社会的地位

 女性の社会的地位はパラドクシカルなものである。一方で、明らかに女性は財産の一部とみなされている。まずは、生まれた家族の財産であり、次には結婚した男性の財産である。「慣習法」(law)の観点からみれば、女性は未成年者(minor)であり、特別な状況を除き、自分が関係する案件を裁判所に直接訴えることは認められていない。法的に彼女が直接自分の行動に責任を持つことはできず、結婚したら夫の監督下に、さもなければ家族の他の男性メンバーの監督下に置かれる。その意味は女性の全般的な地位に影響を与えている。女性が行うどんな仕事も、厳密に言えば、夫と彼の集団のためであり、それゆえ、例えば交易で儲けたとしても、夫の了解なしにその利益を自分のものとすることはできない。女性が所有するものはすべて、夫が彼女に贈った衣類や宝飾品を除き、夫の所有物である。夫の死後、夫の畑でさえ夫の家族が所有権を主張する。宝飾品も、それが高価な場合には、夫の家族が相続することになる場合がある。夫は際限なく妻を娶ることができるし、妻は夫のみに忠誠を尽くすことを要求されている。子供は夫と夫の家族のものであり、理由がどうあろうと離婚の際には子供は夫とその家族のもとにとどまることになっている。一般的にみて、女性は公的場面の背後にとどまっており、自分の問題であっても、表に出ることはない。【原注:産院の開所式の時に、原住民行政官のひとりが興味深い光景を目撃している。産婆以外の女性は、居並ぶ大勢の男性の20ヤード以内には近づかなかったというのである。】

 小さな子供をのぞき、両性がお互いに接触することはほとんどない。男性は女性とは別に食事をするし、モスクでは、女性は庭かヴェランダで祈り、キリスト教会でも、大きな都市部をのぞき、男性とは別に座る。踊りの時も別々のパートで踊る。挨拶を交わす男女は同じ家族メンバーに限られ、鉄道の沿線の「脱部族化した」町を除き、男女が並んで歩くことはない。握手するときを除き、恋人同士であっても、公共の場で親しい間柄であることを示すことはエチケットに反するとされている。そのような行為は、クレオールの習慣として非難されるのだ。女性は、家の仕事で出かける時以外、ひとりで外出すべきではないし、とりわけ夜間の外出はタブーである。夜間に外出するものは、lete nyahanga、つまり歩き回る女性=売春婦とみなされる。

 社会的隔離と女性の劣位という状況が本当だとしたら、疑いなく、女性は従属的役割を割り当てられているということになるだろう。しかし、事の真相は、女性が単なる「奴隷」であるとか、男性優位というのは見かけに過ぎないという考えを正当化するようなものではない。未開社会(pre-literate societies)の多くに共通するように、女性の役割は男性の役割に従属するというより補完的なものであり、名目的な不利益を相殺できるに十分な政治的・社会的補償を手に入れている。同時に、女性の影響力は間接的であり、かつ表面下で機能している。共同体の女性の訓練や教化を一手に担当しているザンデ結社はその具体例である。ザンデがその役割を遂行する際、majoやその他の年配の重鎮たちが、男性に対する女性の行為のすべてを決定する。性や社会的行為に関するザンデの規定は、女性にも男性にも適用され、ザンデの指導部の了解なしに変更することはできない。【原注:植民地政府による社会福祉や公衆衛生の導入に対するザンデ結社による反発は、「女性の案件」(women’s business)に対する男性の介入が原因だった。しかし、真の反発は、女性の地位に影響を与える変化への反発であったといえるかもしれない。以下の記述を参照のこと。】

Njayei, Humoiといった他の重要な秘密結社においては、女性は世襲の官職や指導権を掌握している。Njayeiは、ある種の病気治療や個々人の成功の保証に関わる案件を司っている。Humoiは、性的関係と婚姻関係に関する規則を統括している。このように、秘密結社の活動をとおして、男性とどのような関係を構築するかの主導権を握っているのは女性たちなのである。同様に、ポロと呼ばれる男性の秘密結社のMaboleという役職は女性が担っており、ポロの儀礼領域において主要な役割を与えられ、高い尊敬を受けている。

 公の事柄に対する女性の影響力は秘密結社に関係することに限定されない。とりわけ、名家の年配の女性がこうした影響力を持っている。それ相当の能力と経験を持っている女性は、土地や財産の管理を任される。これは、彼女の共同体内での影響力が、男性家長と同じくらい大きいことを意味しており、そのような地位に就いている者として、村長や町長、あるいは原住民行政官といった政治的役職を与えられる女性もいる。そのような役職についている女性は多くの首長国におり、評議会の男性メンバーと同等の発言権を行使している。女性が大首長に任命されることもあり、女性の大首長が制度として機能している首長国さえある。首長として、女性は男性と全く同等の権力と権利を行使している。例えばMadamu Yokoは19世紀初頭に15年間にわたりKpaa Mende国全体を統治していた。その領域は現在の16の首長国に匹敵する広さであり、イギリス人が統治を開始して以来、これほどの領域を統括している首長はいない。

 女性、とりわけ年配の女性に対するこうした尊敬の念は、アフリカ人のイメージと矛盾してはいない。メンデ人は、「良識ある」女性がいることを認めており、社会的地位は性別と年齢によって決まっていることは明らかである。メンデ人自身は、女性がある年齢に達すると男性とみなされるという言い方をする。このように、首長の妻のうち年長のものは、通常は支配者の男性親族に与えられる重要ポストを割り振られることがある。同様に、首長の姉妹のような地位の高い女性は、首長国の「ビッグマン」と同じような扱いを受けている。例えば、貴賓が到着すると、首長の次に並んで挨拶を行う。

 男性との関係で自分の地位を守ることができるのは、上層の女性だけではない。一夫多妻は、夫との関係において常に妻に不利益をもたらすというのは必ずしも正確ではない。妻たちは団結して、夫が要求に応じるまで、夫にプレッシャーをかける。特に、大勢の妻を持つ男性は、妻たちの挙動を正確にチェックすることは実質的に不可能であり、妻たちはお互いに秘密を共有し、夫に気づかれないようにしている。

3.男女間の緊張関係

 一夫多妻の社会的影響のひとつが、相対的に少数の男性が不釣り合いに多くの女性を妻にしていることである。男性の結婚年齢が高く、寡婦相続制度の存在を考慮すると、一夫多妻を行っている男性は妻よりはるかに年を取っている。【24人の「ビッグマン」の妻の平均数は3人。(K.H.Crosby,”Poligamy in Mende Country, Africa, vol.X,1937.) 20の村と町の総計1973人の妻は842人の男性が分有しており、そのうち411人は一夫一婦、673人が結婚年齢に達しているにもかかわらず独身、一方結婚年齢に達している独身女性は84人のみ。】これが、夫との間に子供が欲しいと思っている多くの妻の不満となっている。そこに、「愛人」(friendship)の制度が普及している理由がある。愛人を持つ妻に対して夫は寛容であり、とりわけ、男性の労働力が不足している地域では妻の愛人が畑仕事を手伝ってくれるということが暗黙の前提となっている。愛人が妻から離れようとした場合には、ただちに「女性に損害を与えた」として罰せられる。この慣行は新しいものではないのだが、若者が遠くに行けるようになり、連れ戻すことが困難になる中、道徳の退廃についての不平不満が噴出している。老人たちは、不倫はイギリス支配以前にはあまり見られなかったと主張している。かつては、不倫関係にある当事者間で事を処理することが可能だった。彼らは鞭で打たれたり、妻に手を出した男性が戦士の夫に殺されたりすることもあった。最近では、現場を取り押さえられた愛人は、そのまま政府の役所に逃げ込むことが多い。こうしたトラブルを引き起こす若者はヨーロッパ人に雇われている場合が多く、そのため、被害者は被害を訴えることを躊躇する場合もある。

 しかし、こうした状況を作り出している原因は、おおむね外的な要因にある。鉄道建設や自動車道の敷設は民族集団の移動を容易にし、商業センターでは、それらが交易からの収入を得るチャンスを女性に提供している。現金収入は、保護領内の数か所の鉱山労働によっても可能となっており、最近の戦争が女性を含む多くの人びとに、それまでにない賃金や現金をもたらしている。海外へ出兵した兵士の妻に支払われている戦時手当は特別新しい現象だった。手当は月7s.6d~43s.6dで、平均22s。妻の中には、他の兵士を「愛人」(friendship)にすることによって収入を倍増させるものもいた。その際、妹や他の女性を兵士の妻としてDistrict Commissioner’s Officeに届け出ている。女性の中にはこの機に婚資を返却して、新しい「夫」の任地に随伴するものも出てきた。加えて、かなりの人数の女性が、若い男性と同じく、戦争に関連した仕事を得るために植民地内を移動している。

 女性が現金を使うことのみならず、定期的な収入を得ることに慣れたという事実は、農村地域を含めて、女性の結婚に対する態度に影響を与えた。彼女たちは「農夫なんかと結婚できないわ。一年に一回しか収入がないんだもの」と言う。彼女たちは書記(clerk)のように月給か週給を得る男性と結婚したがるようになった。その結果、通常、妻を娶るために、町での賃金労働に時間を費やし、週末だけ農業に戻るという男性もでてきた。農民は賃金を支払わない限り、労働力を確保するのがますます困難になり、やむなく女性にも男性なみの日当を支払う地域も出現している。夫の従業員に名をつらねる妻さえも現れている。ある首長は、第一夫人に年1回10ポンドを、第二夫人に5ポンドを、そのほかの水汲みや調理をしてくれる妻たちにはそれぞれ2ポンドを支払っていると報告している。

 その結果、それまでの秩序が崩壊したことは、具体的に女性をめぐる裁判の増加に反映されている。たとえば、10の首長国で行われた500件の裁判のうち、約20%が婚資の返還かもしくは「女性に与えた損害」に関するもので、その他は少額の負債に関するものだった。婚資の事例での平均返還額は6ポンドで、負債の事例では10シリング以下だった。その他では、夫や家族を捨てた女性が集まる鉄道沿線の町において、正式な結婚のかわりに「愛人」(friendship)を持つことが大人気になっていることが挙げられる。【原注:もちろん、アフリカ人の慣習では、既婚の男性が公的に女性と「愛人」関係を持つことは禁じられていない。男性は女性の両親か保護者に贈り物をして了解を得ることになっている。これは男性が「女性に与えた損害」で訴えられないためである。しかしその結果生まれた子供は女性側に引き取られる。男性は後になって正式の結婚に変更し、女性の家族が同意すれば、子供は男性のものとなる。男性が女性との逢引を自分の家で行う場合、妻のひとりに彼女を呼んでくるよう要求することもある。他の場所での逢引の時には、妻が介入することはない。】こうしたことが女性の家族の同意なしに遂行されていることによって、夫婦関係の不安定化がさらに進行している。男性の家族は女性ともその子供とも接点はなく、こうした結びつきにどちらの家族も責任を引き受けることはなくなった。

 未婚女性(gbama nyhanga)は、関心が赴くままに鉄道沿線を往来し交易に従事している。彼女たちの自由で洗練された生き方は、内陸の少女たちにとってあこがれの的となっており、若い男性や少年をも同じような放浪生活に引き入れている。年配の男性たちは、交易といったような経済的な目的のために彼らが役に立つことを望んでいる。一方で、こうした徘徊する若者たちは、社会悪だとみなされている。その理由は、主として、彼らの存在が抗争や「交渉」(palavers=欧米人と特にアフリカ原住民との時間のかかる交渉や商談:英和辞典より)の原因となったり、時には嫉妬に狂った若者が自分の「友人」(his “friend”=愛人の意?)が他の男性と一緒にいることに嫉妬して家に放火したりするからである【訳注:男娼なのか、それとも同性愛か?】。そのうちの多くは、小規模の交易と半ば商業的な売春とを兼ねている。

 売春を兼ねている34人ほどの女性に関するデータは、クレオールを含む多様な民族集団の出身者であることを示している。そのうちの4分の3は30歳以下であり、10人が読み書きができた。34人中9人のみが1年以上同じ町に滞在しており、半数は頻繁に町から町を移動していた。また、半数が親族と一緒に暮らしており、その他は平均にして月17シリングで部屋を借りていた。34人中5人が既婚者だった。そのうちの10人ほどが若い男性を雇い、月額15シリングを支払っていた。若者の仕事は商売の相手を見つけて連れてくることだった。異なる性との接触は、交易などの場でも見られた。女性は、現金はもちろん「酒」や衣服を対価として支払われ、月平均11~15ポンドを稼いだ。収入の額は客次第であり、階層によっても異なっていた。 

 女性の客は多様であるが、主として書記や職人といった中間層である。移動中のヨーロッパ人兵士も相手となった。客にスカーフを投げてOKのサインを客に送ることで、客を選ぶことができた。女性はグループで、売春宿とおぼしき家を共同で使っている。料金は、アフリカ人には5シリングと家を管理している女性への「賄賂」として2シリング、一時的に滞在しているヨーロッパ人には25シリング、居住者であるヨーロッパ人には10シリング6ダイムと賄賂としての2シリングとなっている。推察できるかぎりにおいて、ヨーロッパの避妊方法を使っているのは1人のみ、他の女性は腰のまわりにひもで結わえつけた薬や、液体状の避妊薬を使用している。【原注:薬を分析した結果、それらにはカルシウム、バリウム、酸化鉄、マンガンなどが含まれていた。】

 女性の地位を決定する要因として伝統的なものに代わって金銭的なものが浮上したという事実は、アフリカ人の社会の根幹を揺るがしている。以前は、大家族の維持統制は、父権的な権力に依存していた。現金の報酬が与えられるという新しい慣習は、新しい状況への対応が必要なことを意味している。季節の節目に行われてきた衣類やドレスの大盤振る舞いも影をひそめ、現金による調停が採用されるようになった。たとえば、64軒の家の農耕(労働者の調達、種代、農機具など)に必要な平均的支出は13ポンド、一方、衣類や女性のための出費は14ポンドだった。【原注:計算すると女性一人当たりへの出費は2ポンドとなる。】

 こうした状況に対して(一夫多妻を実践している)年配の男性は、女性が域内を移動することを制限することで対抗した。婚資を与えた妻に去られることは、資本の損失を意味する。【原注:妻に“投資”した金額は、結婚とそれに要した金額―つまり返却可能な婚資の平均額―を登録しているある首長国の150の事例から推量することができる。それによると9ポンド超となっている。】「首長たちはただで妻を娶らない」と指摘している者がいる。【原注:ある首長の事例では、婚資の返却を求めた裁判で、5頭の牡牛、3頭の羊、2頭のヤギ、15枚の布の代価として145ポンドが計上された。これよりもっと大きな額が支払われた事例もある。】Upper Native Administrationは、女性は老いも若きも、夫もしくは保護者を持たねばならないとして、それに違反するものに罰金を科す条例を制定した。そして、妻は1か月以上両親や夫と暮らす家を離れてはならない、もし妻が他の首長国に行ってしまった場合には彼女を連れ戻すのが夫の役割であり、もし妻が逃げたならただちに大首長に報告するのが村長と夫の義務であると規定され、両親もこの件に関しては責任を分有するとされた。【原注:首長会議において、町の家主は見知らぬ女性を泊めた場合、Native Treasuryに届け出て、5シリング支払わねばならないということが決められた。女性は夫かその代理のものがやってくるまで家主のところに滞在することになり、家主が支払った5シリングは夫によって弁済される。】

 こうした状況は、女性の秘密結社を近代化しようとする政府の試み【既出の原注参照】を、なぜアフリカ人官吏が認めるのを躊躇するのかを理解する手助けとなる。そのひとつの理由は、「近代化が女性に過度なプライドを植えつける」というものだ。それは、アフリカ人社会の上層の人びとの間で、イスラームがなぜ人気があるかを説明するのにも役立っている。【原注:このイスラーム人気は保護領で伝道活動をしようとしているイスラームの1セクトであるアハマディーヤに対する暗黙の否認とも結びついていることは重要だ。アハマディーヤは女性がモスクで男性と同席することを認めており、行き過ぎた一夫多妻にも反対している。その結果、アハマディーヤは貧しい人びとから信者を獲得している。】イスラームはアフリカの慣習が認めているより厳しい性のモラルを要求しており、イマームはモスクで、女性が豊かな生活を送るためには、夫に従順であるべきだと説いている。多くがイスラーム信者であるマンディンゴやススの商人や交易人は、女性たちを他の男性から隔離したり、統制下に置いたりすることに成功している。もし妻のひとりが姦通を犯した場合には、しばらくの間、親族や夫によって追放され、それによって恥ずべきことをしたと反省させられる。男性たちは女性に厳しく、イスラームの儀礼や祝祭以外の公の集会に参加することを許さない。妻が実家を訪ねる時には、夫の親族が同伴しなければならない。こうした予防措置を手本として、メンデ人の夫の中には、ムスリムであろうとなかろうと、屋敷を高い塀で囲ったり、夕方に女性たちの点呼をしたり、夜間の外出をさせないよう閉じ込めたりといった方法を取り入れている者がいる。【原注:この目的のために女性の家には通常窓がない。つまり女性が窓から逃げたり、誰かが侵入したりしないように。筆者がある首長の屋敷でもようされたダンスパーティに出席した時のことである。強力な懐中電灯で踊っている女性たちを照らしている男性を見かけた。彼は首長に頼まれて、ダンスに参加している首長の妻たちを照らし続けるよう首長にたのまれたというのである。】

 その他、男性の行動を抑制することによって、事に対処しようという試みもある。ある首長会議で、女性を夫から引き離して誘惑したる場合には5ポンドの罰金を科し、婚資の返却は現行の離婚の慣習法で決められているような女性の家族の義務ではなく愛人の義務とされるという同意がなされた。【原注:この「女性をめぐる交渉」という案件が会議に導入された時、その同意事項を守るのはほぼ不可能だったとの記録がある。】しかし、事は、すでに述べてきた理由によって複雑になっている。つまり、妻たちは、賃金を支払ってもらっていない夫たちの労働者を陥れるわなとして使われることがあるということである。そのような事例をうまくおさめるために、夫が女性を養うことを怠ったことで個人的に責められるべきかどうかを突き止め、婚資の返還要求に際しては、妻が夫に対して行ってきたサーヴィスの期間に応じて減額しようとしている首長もいる。

 4.教育を受けた女性の困難

 文字の読み書きができる(literate)、あるいは「文明化した」(civilized:彼女たち自身はこう呼ばれたがっている)女性の数はまだ非常に少ない。【原注:わたしはcivilizedという用語よりliterateという用語を用いたい。その理由は、現在の状況でcivilizedという表現を手短に社会学的に定義するのは難しいからである。Non-literate女性の中には、literate階層の女性の慣習や習慣を取り入れている者もいる。】しかし彼女たちの立場は、現在の社会組織の展開の重要な指標となっている。

 現在、約2000名の少女が学校で学んでいる。保護領の3分の2の学校はミッションが経営しており、主として都市部に開設されている。そのため、単に学校に通うというだけで、田舎育ちの少女は、ヨーロッパ的な衣服やヨーロッパの家具や食べ物という洗練された環境に放り込まれることになる。また、彼女たちは、一部西欧化し、一部クレオール化した社会的価値観と接触することになる。その経験は、おそらく、彼女たちに昔の生活様式への劣等感を植えつける。しかし、そうした環境は、彼女たちがそれらを身に着ける方法まで提供してくれることはない。ほとんどの少女はStandard IV以上には進まない。したがって、保護領において唯一女性に開かれた看護師や教師といった専門職の資格を取れる少女はごくわずかだ。【原注:1942年の時点で、24人ほどの保護領の少女がフリータウンのセカンダリーで学んでいた。なお最近、保護領のミッションスクールが少女向けのセカンダリークラスを解説した。】

 少女たちにとってのごく自然かつ自明でもある選択肢は結婚であるが、ここでも新しい状況が展開しており、展望は限られている。ヨーロッパ的スタイルの生活水準は、書記とか教師になった男性の収入では望むべくもないのだ。【原注:48人のクレオールを含む教育を受けた男性の平均収入は年100ポンド。】彼らは妻を選ぶにあたり、好きだから結婚するといった単純な問題ではないことを考慮せざるを得ない。ムスリムの場合には、女性の宗教的外観や立ち位置についての考えが、自分たちのものと異なる少女を受け入れたがらない。教育を受けた少女の価値、彼女のヨーロッパ的な特徴や習慣、彼女の読み書きや裁縫の能力は、現在の状況においては経済的というより社会的なものであり、経済的側面からすると教育を受けていない少女の方が勝っている。教育を受けていない少女の衣服などへの要求水準は低くお金がかからないのみならず、交易などによってお金を稼いでくれる。【原注:教育を受けた16人の夫は平均年間16ポンド6シリングを妻のために費やす一方、そうでない夫19人の平均の出費は8ポンド9シリングである。教育を受けた妻に与える最も高価な品物はくつだった。そうでない妻はlappasで十分なのだ。】しかも、夫に対する要求も少なく、他の妻を娶っても反対はしない。【原注:一夫多妻婚は教育を受けた階層の男性の間では広く普及している。62人の教育を受けた男性のうち、38人が一夫多妻婚をしていて、24人が一夫一婦だった。】

 こうした状況の中で、教育を受けた女性はますます夫に依存するようになる。こうした女性の立場をさらに苦しくしているのは、結婚に起因する裁判の法的条件が、保護領のすべてのアフリカ人と同様であることである。言い換えれば、教育を受けた女性が婚資を介して土着の様式で結婚した場合、夫が先に死亡した時、他の女性と同じように夫の親族に身請けされるのだ。一方、教会で契約結婚をし、婚資が取引されなかった場合には、その結婚は「合法」だとはみなされない。その場合、結婚後に夫やその親族から虐待されたり、夫のもとを去ったりした時、妻はその件で訴えることはできず、夫や夫の家族に扶養してもらえる法的権利はないのだ。たとえば、婚資が介在しない場合、妻は実家から縁を切られるかもしれないし、彼女が実家に戻ろうとする場合には実家に頭を下げることを余儀なくさせられる。いずれにせよ、実家に戻るということは、彼女が見下していた生活に戻ることを意味している。教育を受けていない女性が同じような状況に置かれ、夫の元を離れたとしても、社会的もしくは経済的に困ることはない。

 さらに、西欧的な結婚の形式に関するミッションの態度が変わりやすいことが、すべてに影響を与えている。宣教師の中には、「相続」の一部という理由で婚資を与えることに反対している。明らかに、ローマカトリックは男性が洗礼を受けていればキリスト教の結婚式を挙行する。女性は必ずしも洗礼を受けていなくてもよい。メソディスト派は、アフリカ人のやり方で契約された結婚を「認めて」いるが、男女ともに教会のメンバーでないと挙式はしない。一夫多妻を認めている教派はないし、教会で挙式をしたいと思う男性は、そこで結婚したいと思っている女性以外の妻とは別れなければならない。

 しかし、本当に難しいのは法的なことではなく、妻が生活することになる環境の変化である。拡大家族では、近代的な状況とは違い、夫と妻の個人的な関係は重要ではない。夫婦の諍いは親族集団という意味での「家の中」で解決されるし、すべての決定権も親族集団にある。指導や忠告はその場で与えられ、両方の親族集団が双方に関する行動に責任がある。

 教育を受けた夫婦の状況はこれとは違う。夫の職業は、比較的大きな町にしか労働の場はない。したがって自動的に、夫と妻の両方か片方が、家族や田舎の共同体から離れたミッションの統括するところへと移動することになる。キリスト教徒とムスリムが混在するところでは、社会的統制に一貫性を欠く。その結果、自分の行動に責任を持ってくれる人がほとんどいない妻は、しつけがなっていないとの非難にさらされることになる。新しい環境は、自分たちで調整できるようになるための社会的訓練を欠いているために、夫婦の間に諍いや不協和音を作り出す。

 こうしたことは、物質的な虚飾への誘惑があふれている環境によって、さらに悪化する。教育を受けた男性―そのうちの大多数が独身で同じ習慣や趣味を持つ女性より人数がはるかに多い―は洗練された女性やファッショナブルな衣装に特別な価値を置き、結局、結婚前および婚姻外の「愛人」を持つことに解決策を見出すことになる。伝統社会における男女間の差異はヨーロッパ的外観の表面下でくすぶっており、さらに、女性は、学校に行こうが行くまいが、通常、夫の教育レヴェルよりずっと低いという事実が現在の両性間の不協和音を増幅している。少しずつ変化してはいるものの、余暇を別々に過ごす習慣は残っており、男性はカードをしたり、酒を飲んだりして一緒に過ごし、女性は針仕事をしたりゴシップ話に興じたりしている。【原注:最近、保護領で教育を受けた人たちの集まるもっとも重要なセンターであるBo African Clubが女性にも門戸を開き、女性が重要な機能を担っている。】ただし、子供がいるとかその他の理由で、夜間に夫婦で外出することは難しいのだが、ダンスだけは例外となっている。

 5.まとめと結論

 シエラレオネ保護領の女性の地位は母親、妻、畑での労働者としての役割の上に成り立っている。女性の義務は拡大家族(extended family)と家族集団(household group)との関係で規定されており、女性の権利は、一方で先祖から受け継いだ伝統と秘密結社における任務に、他方で女性が属している集団の階層組織(status-structure)に由来している。

 女性の地位は変化の過程にある。それは、鉄道沿線やそのほかの都市部でもっとも顕著であるが、「田舎」(bush)にも広がり始めている。主として外部からもたらされるさまざまな出来事が現金の普及を促しており、経済的な富裕層であるクレオールに象徴されるようなヨーロッパ文化との接触が自分で使える現金を稼ぎたいという願望を女性に与えている。その結果、労働者としての女性ならびに男性との関係における女性のサーヴィスにより大きな価値が置かれることになり、家父長的な支配に依存していたかつての一夫多妻の社会構造の崩壊が進行している。

 ヨーロッパ的生活と生活規範に影響を受けた新しいタイプの社会が古い社会から生まれようとしている。しかし、相対的に低い地位に置かれた女性の手にはまだ届いていない。その理由は、彼女たちの生活基盤が伝統的であることにあるが、新しい秩序が主として依存している経済活動に参加するには、彼女たちの技能が男性よりずっと劣っているということを指摘できる。                     (富永智津子訳)