【エッセイ】アフリカ事情雑感②中東の地殻変動    エッセイ&イラスト  富永智津子

中東の地殻変動(1)

 カイロに住む日本人の友人から「無事です!」とのメールが届いた。1月25日に始まった民衆革命がムバラク大統領の辞任で一段落した後のことである。メールには、「カイロの若者たちは積極的に道路を清掃したり、街のあちこちで今回の革命を忘れないようにするため国旗のペインティングをしたりしています。その一方で、焼き討ちされた役所関係の建物を見ると、いまだに恐怖を感じます。あの最大のデモの日は、刑務所からの脱走や略奪・強盗などが起き、街の中から警官の姿が消えてしまった日でもありました。腐った悪い警官でも、やはり居てくれた方が安心です・・・」とあった。
チュニジアから始まった民衆革命は、エジプトの政権を覆し、イエメン、リビア、バーレーン、イランなどに広がった。共通しているのは、この民衆革命が、「自由」「パン」「人間の尊厳」への人びとの希求によって突き動かされているということである。長期独裁政権が封殺してきたエネルギーが、インターネットなどを通して野火のように燃え上がったのだ。その長期独裁政権を支えてきたのは、第一次大戦後に英仏が創出し、第二次大戦後はアメリカがコントロールしてきた「中東諸国体制」である。
この体制は、中東が、名ばかりの主権を与えられた「見せかけ」の国家の寄せ集めであることを意味している。そこでは、英仏米によるキリスト教とイスラーム教、イスラーム教内部のスンニ派とシーア派、ユダヤ人とパレスチナ人、といった宗教・宗派対立・民族分断という仕掛けがフルに利用されてきた。
こうして、一方に「見せかけ」の超近代的金満階級を、他方に貧困層や無国籍難民や少数民族化された住民から構成される広大な下層空間がつくりだされたのである。
今、目の前で進行している中東の地殻変動は、こうした歴史の中に位置づけることによって初めてその革新性を理解することができるのだろう。カイロの友人はコプト教徒(エジプトのキリスト教)のエジプト人と結婚している。彼女が抱いた「恐怖」こそ、まさにこの「中東諸国体制」のねらいそのものだったのかもしれない。(『婦民新聞』2011年3月)

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中東の地殻変動(2)

2011年2月28日、私は数名の中東研究者と代官山のエジプト大使館を訪れた。弾圧によってデモの参加者を傷つけないようにとの要望書を連名でエジプト大使に提出したわれわれへの返礼として、大使からお呼びがかかったのである。
面会時間は45分。大使の話は新体制にむけての取り組み、経済的損失と復興、今後予定されている警察や軍隊による暴力行為の調査の見込み、など多岐にわたった。配布されたA4の軍最高評議会の声明文には、憲法の停止、6カ月後の選挙までは軍最高評議会が暫定的に国家を統治すること、憲法改正委員会の設置などが盛り込まれていた。
大使の話が終わると、質問タイムに移った。最初に指名された私は、デモが始まった時の大使の気持を尋ねた。大使は「2004年ころから、ストライキや反政府運動が時々起きていたので、今回もしばらくすれば納まるだろうと思っていたが、2~3日して、事の重大さに気づいた」とのことだった。
民衆を支持して辞任するつもりはなかったのか、と重ねて質問したかったが、遠慮してしまった。そのような選択を迫られる前にムバラクが辞任したということなのだろう。話を聞きながら、私は、前々日に行われた板垣雄三氏の講演「中東は、そして世界は、どこへ行く?ナイルの市民決起の波紋」を思い出していた。中東で今起こっていることは、歴史的にも現在も、決して日本と無関係なことではないという論点が特に印象に残った。
もちろん、それは原油の話ではない。英仏から米へとシフトした中東支配の構図の原点となったサンレも会議(1920年)には日本も参加していたし、アメリカの沖縄における軍事戦略は中東と密接に関係している、といった視点である。
それらは、他人事のように眺め、論評しているマスメディア批判でもあった。中東の地殻変動に乗り遅れれば、日本の「パレスチナ化」は避けられない、というのだ。その台風の目にイスラエルがあることは言うまでもない。こうした中東の地殻変動がサハラ以南アフリカに与える影響を考えながら、私は大使館を後にした。(『婦民新聞』2011年4月)

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中東の地殻変動(3)

チュニジアに端を発した中東の地殻変動は、盤石だと思われていたカダフィ政権のリビアにも及んだ。盤石だと思われていたのは、カダフィが1999年以降、西欧諸国に急接近し、大量破壊兵器の廃棄に同意して国連の制裁を解除されたということで、イメージが大きく変化していたこととも関係していた。
その一方、国内情勢は闇に包まれていたといってよい。今、その闇に光があてられ、ようやく国際社会は、「国家元首」であるカダフィの奇行や言動、そして形骸化した「直接民主制」の実態を知ったのである。少なくとも私はそうだった。
私のリビアのイメージは、1980年代に形づくられ、その時点で止まっていたからである。その頃、リビアは欧米と最悪の関係にあった。米軍は2度にわたりパレスチナ解放戦線やイスラーム過激派を支持するリビアを攻撃、60トン以上の爆弾を投下、カダフィの養女を含め101人が犠牲となっている。
その報復として、1988年、カダフィはアメリカのパンナム機をスコットランド上空で爆破、翌年にはアフリカのニジェール上空でフランス機を爆撃し、ともに200人前後の犠牲者をだした。
こうしたテロの応酬と並行して、中東・アフリカ研究者の注目の的になっていたのが、カダフィの掲げる資本主義でも共産主義でもない「第三の普遍理論」だった。憲法も議会もない人民会議による独特な直接民主制を説いたカダフィの『緑の書』は、1986年に日本語にも翻訳されている。当時、日本の中東研究者の間には、反イスラエル・親パレスチナのスタンスから反米感情が強く、リビアを擁護し、欧米を批判する声明書をイギリス大使館に提出したこともある。私もその末端に連なっていた。先にカダフィの邸宅を奇襲攻撃した英米に非があると思っていたからだ。
その後、正当性を主張するイギリス大使からの親書が届き、その丁寧な対応に驚いたことを鮮明に記憶している。おそまきながら親欧米路線に舵を切り、他の中東諸国の支配層と足並みをそろえようとしていた矢先の地殻変動は、カダフィの目には、まさに歴史の皮肉と映ったことだろう。(『婦民新聞』2011年5月)

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中東の地殻変動(4)

img147 2011年初頭に起きた中東の地殻変動の中で、サハラ以南のアフリカへの影響がもっとも大きいのは、リビアのカダフィの失脚であろう。カダフィは1980年代以降、サハラ以南のアフリカ諸国の反政府運動に深く介入し、資金提供を行って影響力の拡大を図ってきたからである。
それは、1983年のチャド内戦の火付け役にはじまり、シエラレオネやリベリアの反政府組織のリーダー養成にまで及んだ。しかし、チャドの内戦で反政府組織にテコ入れしたカダフィは、フランス軍の介入によって7千人以上の戦死者を出して惨敗したし、リビアで軍事訓練を受けたシエラレオネの反政府組織のサンコーは夢を果たすことなく2003年に病死、同じくリビアで軍事訓練を受けたリベリアのテイラーは1997年に首尾よく大統領の座を射止めたものの、内戦で国土を荒廃させた挙句、サンコーと時を同じくして2003年に追放された。
このテイラー追放にパワーを発揮したリベリア女性の活動については、「内戦を終わらせた女性たち」というアメリカのドキュメンタリーで日本にも紹介された。その後のカダフィは、内戦から政治経済の領域へと軸足を移して影響力を発揮しようとした。たとえば、経済面では2006年に「リビア・アフリカ投資ポートフォリオ」を設立してマダガスカルやルワンダなどにさかんに投資を行い、政治面では「アフリカ合衆国」構想を掲げて、2009年、アフリカ連合(AU)の議長に選出されている。再選はされなかったが、こうしたネットワークと豊富な石油収入を武器に、多くの傭兵をアフリカ各地から高給でリクルートしていることは、報道されてきた通りである。
とりわけマリ、ニジェール、アルジェリア、ブルキナファソに広く居住する遊牧民のトゥアレグ人を大勢リクルートしており、その中にはマリやニジェールの反政府勢力も含まれている。
カダフィが倒れ、彼らが故郷に戻った時、何が起きるか。そうした不安要因を抱えてはいるが、カダフィの失脚がサハラ以南のアフリカ諸国にとっても「福」となることを願ってやまない。ただし、欧米による反カダフィ派支援という軍事介入には、疑問符をつけておきたい。(『婦民新聞』2011年6月)