【史料紹介】イスラーム法が活きて働いていた19世紀末の東アフリカ


執筆:富永智津子(元宮城学院女子大学教授)2024年10月記述

 

『シャリーア(イスラーム法)の奉仕者たち―ブラヴァ法廷の民事案件記録 1893-1900』第Ⅰ・Ⅱ巻
Servants of the Sharia:The civil register of the Qadis’ court of Brava 1893-1900,
Vols.Ⅰ&Ⅱ: Edited by Alessandra Vianello, Mohamed M. Kassim, BRILL, 2006
アレッサンドラ・ヴィアネッロ、モハンメド・M・カースィム共編、発行:ブリル社(ライデン・,ボストン)
 
キーワード:裁判記録、19世紀末、ブラヴァ、ソマリア、イスラーム、ザンジバル、女性、離婚、イタリア

1984年、皮の表紙の分厚いアラビア語の文書が、ソマリア南部のブラヴァBravaという町の裁判所の倉庫で発見された。それが、ここで紹介する1000枚にのぼる1893~1900年の法廷記録である。記録したのはアラビア語でカーディーqādīと呼称されるシャリーアsharīʕa(イスラーム法)法廷の裁判官である。

本史料の舞台であるブラヴァは、ベナディールと呼ばれるソマリア海岸部の南部に位置し、1830年代以降、ザンジバル島(現在はタンザニアの島嶼部で、大陸部と連合を構成している)にアラビア半島から統治の拠点を移したオマーン国スルタンの支配下にあった。アラビア半島の東南端に位置するオマーンは、オスマン帝国が背後から領土を拡張する圧力に抗し、インド洋交易の拠点を求めて、東アフリカ海岸部に進出したのだった。1856年そのスルタンが死ぬと、ザンジバル島はオマーンから分離独立し、ベナディール海岸部はザンジバルの領土の一部として引き継がれた。

当時の領土は、国境線で区切られていたわけではなく、ごく曖昧な形でザンジバルから派遣された総督によって統治されていた。そこに進出して来るのが欧州諸国である。ベナディール海岸から南へモザンビーク北部に至るザンジバル領(一般に「スワヒリ世界」と呼ばれる)を植民地化するのは〔既に足掛かりをもっていた〕ポルトガルや英国と〔1861年統一王国となる〕イタリアとで、国境が画定するのは1880年代以降である(1881年成立のドイツ帝国がそこに参加、ドイツ領東アフリカが1890年に出現する)。

史料の対象時期である19世紀末、ザンジバル領の一部だったブラヴァを租借していたイタリアは、裁判をザンジバル・スルタンの名のもとに、イスラーム法にのっとってカーディーに委ねる政策を採っていた。以下、編者による序文を紹介する。 

       (それぞれ、1000ページ以上にのぼる大著)

〈編者による序文〉

 本書は、ソマリア南部の町ブラヴァの住民と、その住民とビジネスを行っていた人々とがシャリーア法廷に上程した様々な案件の記録であり、19世紀最後の10年のブラヴァの状況を読者に垣間見せてくれている。
ここに収められた案件の具体的な社会経済行動の主体は、女性を含めた多様な人々である。お金の貸し借りについての争いや、馬や土地、家畜、奴隷などの財産の売買、あるいは商品や人間などの運搬といった各種サービスの契約文書が含まれている。相続、時には家財道具の競売の他、婚姻契約や離婚に関する訴訟も含まれる。すべてイスラーム法にのっとってカーディーが裁定を下している。

もともとアラビア語で書かれているこの一次史料とその英語訳に描かれているのは、きわめてローカルで小宇宙的なブラヴァの日常生活である。しかし、ブラヴァはソマリアの農耕牧畜を主とする後背地とインド洋商業圏の両方にとって不可欠の一部であり、こうした異なるすべての地理的文化的拠点の言語的・宗教的・法的・政治的・商業的伝統を共有している。
さらに、この文書が記された時期、ブラヴァとその周辺は、次第にヨーロッパの商業的・政治的影響を受けるようになっていた。それゆえ、こうしたローカルな一次史料は、同時に地域的・地球的規模の現象と深く関連している。

 

           
    
 本史料の公刊のため必要だった知識と能力は、史料の性質と深く関係している。ブラヴァ社会の一員としての深い経験知(チミニChiminiと呼ばれるブラヴァ方言の理解力など)なしには、編者は史料のローカルな文脈を翻訳できなかったし、アラビア語(史料の言語)╱ソマリ語╱スワヒリ語╱イタリア語の知識、またとりわけイスラーム法とザンジバル╱スワヒリ沿海部╱イエメン╱ソマリア╱の歴史とへの理解なしには、この史料が示唆するグローバルかつローカルな状況を解読することができないからである。

 アレッサンドラ・ヴィアネッロ(富永注:イタリア人女性)は1970年に弁護士として仕事をはじめ、ブラヴァ社会の男性と結婚した。夫のアブド・ムサアド・アブド博士との間に2人の娘をもうけ、ブラヴァで養育した。彼女は「親密なアウトサイダー」の典型であり、その「二重思考」により内部と外部の両方を展望する力を持ち合わせている。カーディーの記録は数十年にわたる彼女と彼女の家族の生活の一部だったのである。
 モハンメド・カースィムはブラヴァとモガディシュで育ち、彼の祖先は、この記録の中にも登場している。コンピューター・サイエンスで学位を取ったのち、ブラヴァの歴史に関心を向けて博士号も取得した。
両人にとって、ここに公刊される編著はまさにブラヴァへの愛の結晶なのである。2人のブラヴァに関する知見なには、この史料が陽の目を見ることはなかった。19世紀のブラヴァ世界への案内人として、この2人を超える適材を望むことは不可能である。

           (左:裁判記録原文、右側:英訳)


                 目次 頁

編者による序文 ix
謝辞 xi
地図 xiii

1 序文  1                            
2 歴史    ・歴史的背景 5
        ・ブラヴァとその住民
        ・女性の役割と地位
        ・奴隷制度
        ・経済
3 カーディーと司法組織 50
4 法廷記録  (1893~1900) 67~2097

付録                              2098~2113


ここでは、編者による解説の中の、以下の2項目を紹介しておく

女性の役割と地位

 伝統的なイスラーム社会の女性は従属的地位にあり、消極的役割しか与えられていなかったと考えられがちである。だが本史料は、そのように社会の底辺に追いやられた女性像とは異なり、自分の権利を主張し、ブラヴァの経済生活に活発に参加している女性たちの姿を映し出している。家父長的社会構造の強い中にあって、女性たちがそのような目覚ましい役割を演じていたということは、ブラヴァの都市生活の重要な特徴であった。ただし、これは結婚した女性のみに該当する特徴である。結婚は、ブラヴァの女性に、完全な社会的権利と並外れた自由度、さらに夫の権利下にはない財産の処分権を付与していたのだ。しかし、未婚の女性の権利は、遺産相続人として、あるいは婚姻契約の中でだけ、言及されている。
 ブラヴァのイスラームで広く受容されたシャーフィイー法学派は、女性は結婚によって夫と同等ないし十分に高い社会的地位を与えられるべきだと規定している。この史料の中に記録されている多くの婚姻契約には、こうした法的規定の実践を見ることができる。つまり、生まれる子供たちが夫の部族に属し、彼の社会的地位を引き継ぐことによって、社会的地位の低い女性もより高い地位を得る可能性が与えられている。しかし、異なる階層間の婚姻が必ずしも多くはなかったことも間違いない。望ましい婚姻は同じ祖父を持つ第一いとこ婚(父母のきょうだいの子ども同士)だったことが、この史料に登場する結婚相手の名前から明らかとなる。これは、当時のソマリア社会で一般的でなかったとしても、ブラヴァの名家であるトゥンニ家の何人かによって実践されている。一夫多妻は広く行われ、離婚は珍しくなかったし、再婚はほとんど絶対的な義務だった。
 婚約の時点で契約(リスク想定の協定)が交わされ、男性は婚資(マフル[別名:サダーク]、契約時に半額の財貨、離別時の残額約束)を渡す。その額はブラヴァではかなり高額で、しばしば100キルシュ(当時は、小さな石造の家の価格に等しい)に達したが、標準は60キルシュで、この額は、アシュラフ/ハーテミー/バラウィ・ビダ / など諸部族や名家の誉れ高いトゥンニ家の女性との婚約で支払われる婚資の額である。一般的には30~50キルシュで、地位の低い女性との結婚や離婚した女性が再婚する時には、婚資はもっと少額だった。奴隷身分の女性はもとより自由身分の女性でも3~5キルシュといったお印程度の額だった。移民してきたハドラミー(富永注:アラビア半島南部ハドラマウト[オマーンやイエメン]出身者)の女性への婚資は、453グラムの銀と設定されていた。この額は当時の価値に換算すると約16~19キルシュに相当する。通常、婚資は、婚姻時に全額支払われることなく、離縁される妻が要求するまで夫の負債として留めおかれる。史料の中では、夫の死後に夫の遺産から支払われた事例や妻が支払いを拒絶された事例も見られる。しかし、妻が早期支払いを要求することも珍しくはなく、分割払いについて夫との間で合意することもあった。あるいは、現金でなく、同じ価値の家畜や奴隷や不動産を婚資残額として与えられることもあった。
 このように、女性は婚資や相続を通じて自分の資産を増やすことができた。ブラヴァではイスラーム法が厳密に適用され、女性は男性の半分の相続権が保証されていた。また親族―しばしば女性の親族―からの贈り物が女性の資産に加えられた。例えば金や奴隷である。このようにして女性の手に蓄積された資本は、かなりの額にのぼった。この史料の中では、石造りの家屋の半数が女性の所有だった時期がある。女性が所有していた不動産にはアリーシュ(アラビア語で「茅葺など植物で快適な日陰を創る」)小屋も含まれていた。アシュラフ部族を筆頭にすべての部族の女性たちが牛を所有し、子牛を産ませて資産を増やしていたし、ヤギやロバやラクダを所有する者もいた。また、奴隷の多くは女性の所有物だった。女性の経済力は男性親族が困窮した時の助けとなった。金、牛、土地、家屋、アリーシュ小屋など、女性の資産が借財の担保として夫や息子や兄弟に貸し出されたとの記録が、繰り返し史料に登場する。ある女性の遺産がブラヴァで二番目に大きかったという史料の事例は、女性の資産がいかに大きかったかを示している。それには石造りの家屋、現金、宝石類、衣類、家具、1,100キルシュ相当の個人所有物が含まれていた。しかし、これは例外的な事例であり、女性の遺産は30~900キルシュ相当で、平均すると150~200キルシュとなる。ただし女性は生前に特定の親族に贈与することを良しとする傾向があり、そうした贈与を合計すれば、かなりの額にのぼる。その中には、9部屋を持つ2階建ての石造りの家や数人の奴隷、製油所やアリーシュ小屋や金銀・宝石からなる女性の全財産という事例も含まれる。こうした贈与の事例には、夫と妻の間で行われる贈与もある。その際、妻は夫からの婚資を夫に贈与し、妻は夫の他の資産を受け取るという形態が多かった。
 女性の中には、多様な経済活動によって増収を図る者もいた。史料には、製油所を保有している女性が2人、布や酢などの輸入品を売ったり、トウモロコシやハチミツを売買したりしていた女性が登場する。こうした経済活動は必ずしも小規模のものではなかった。ソマリア内陸部からやって来た人々と交易していた女性や、ザンジバルの貿易会社のエージェントからかなりの資金を前借していた女性の事例が史料に記録されている。また、女性たちは家を建てるといった特定の目的のために、自由に金貸しから融資を受けていた。女性たちだけで、あるいは男性と組んで、ビジネスをする女性もいた。また、妻たちの中には夫のビジネスの詳細を熟知していた者がいたことを示す史料も多い。
 ブラヴァの様々なビジネス活動への参加という文脈の中で、女性たちは司法の権威とも定期的に接触していた。カーディーの法廷で債権を主張し、直接または代理人を通じて債務者に返済を求めた。それとは逆に、被告として法廷に召喚されることもあったが、女性たちが自分たちや子供たちの経済的権利を守るために法に訴えることを躊躇することはなかった。彼女たちは自分が不利な立場にある時、執拗に自分の立場を主張し、男性を不利な立場に追い込んだ事例も見られる。また、婚資などの支払いをめぐって離婚した夫を自ら訴えた事例も散見される。カーディーは、こうした争いを和解という手段で決着させることがよくあった。
 とりわけ注目すべきは、女性が離婚を求めて法廷に訴え出ている事例である。その場合、いくつかのパターンがあった。女性が離婚の意志を表明することも可能だったし、女性が離婚するために相当の金額を提示して、この案件を夫の手に委ねるという方法もあった。もしくは婚姻を解消する旨の宣言を夫にさせるかわりに、自分への負債を帳消しにしてあげるという方法もあった。また、妻が夫に婚資の支払い義務を免除し、逆の補償金の積み増しを約束することで、夫に離婚を承諾させるという事例があったことを史料は示している。夫が家庭維持責任の忘却の異常が目に余るとか、気が狂った兆候があるといった懸念から、女性自身が離婚取消しへの変更を求め、カーディーに直接訴えることもあった。史料は、こうしたすべての事例でカーディーが女性の訴えを聞き入れていたことを記録している。

 

奴隷制度

 入手可能なデータは少ないものの、18世紀まで、ソマリアでは欧州の奴隷貿易活動は限定的だったと思われる。しかし、1770年代から1817年にかけ、〔東南アフリカのマダガスカル島の東方インド洋上に浮かぶ〕仏領レユニオン島(革命前の呼称はブルボン島)と英領モーリシャス島で奴隷労働力の需要が高まり、それに伴って東アフリカ南部で奴隷貿易がキルワを拠点として盛んになった。当時、ソマリアは奴隷商人にとって魅力的な市場ではなかった。遠方に奴隷を運ぶリスクや運賃に見合う利益が望めなかったから。遊牧・牧畜が生業のソマリア人は奴隷の労働力を必要としなかったし、農耕を生業としバントゥー語を話す人々は、当時、耕作よりは生存ぎりぎりの採集経済を営みながら、ソマリアの富裕部族の下働きで生計を立てていた。当時はややマイナーな陸上東西を結ぶ交易が主だったので、内陸ボーラナ地域周辺で捕らえられた奴隷は、ベナディール海岸に向かうキャラバンルートで送り出され、そこから主に先ずはアラビア半島に輸出されていた。
 この状況は19世紀初頭の数十年、とりわけザンジバルが東アフリカ最大の奴隷市場として台頭した1840年代に大きく変化した。ベナディール海岸に南方からもたらされる奴隷の数は飛躍的に増加し、何千人にも及んだとの報告が残されている。その背景には、南方への奴隷輸出が制限されたり禁止されたりしたという事情があった。19世紀を通じて流行を呈する英国による奴隷貿易禁止キャンペーンは、一方で英海軍による沿岸パトロールと奴隷船の追跡と、他方ザンジバルのスルタンに圧力をかけるための法令という手段で行われた。これによって奴隷商人は奴隷を内陸経由でベナディール海岸へと運び、そこからアラビア半島に連れ出したのである。しかし、その道中で売却され、シェベル川流域の肥沃な地域で農場労働者として雇われることになった奴隷も多かった。この川は下流で海岸と並行しており、モガディシュのすぐ南のアフグーイェからブラヴァの南のバッリ湿地帯へと続いている。この肥沃な河川流域に住んでいたソマリ集団、なかでもアフグーイェ周辺のゲレディ部族/ジェシラからムンギヤと内陸のメルカ地域に住むビマール部族/ブラヴァの後背地に住むトゥンニ部族/は、遥か以前から農耕牧畜を営み、小作人を労働力として使用していた。1840年代、彼らは奴隷を労働力として使用し始め、農地を増やし、新しい作物を導入し、いわゆるプランテーション型の農業を発展させた。ソルガム/トウモロコシ/ゴマ/豆/綿花/などを栽培し、沿岸部の需要を満たしただけでなく、主要産品をザンジバルやアラビア半島にまで輸出し始める。ブラヴァなどの町は新たな繁栄の時期を迎え、貿易商はこうした商業用作物の輸出に直接関与するようになり、町の富裕層は、家事労働者として奴隷を購入することができるようになった。
 20世紀が始まろうとする頃、奴隷制は、ザンジバル駐在のイタリア人領事の言葉によれば「ベナディール海岸一帯に広まった」。シェベル川下流域の農場では、住民の3分の1が奴隷で、その数は2万~2万5千に上ったとされる。ベナディール地域を租借したイタリア人が、本国の議会やメディアの要望には耳を貸さず、奴隷制廃止に進もうとはしなかった。新たに獲得した領土やそれが抱える問題が、イタリア政府の主要関心事となることもなかった。この時期、イタリア王国の目的はベナディール海岸を経済的に搾取することで、ザンジバルから引き継いだ統治の枠組みに手を加える必然性がなかったのだ。大多数のソマリ人は遊牧民であり、生存可能なぎりぎりの農耕牧畜の担い手だったため、イタリア人はベナディール後背地の穀物生産が奴隷労働に依存するのを当然と確信していたにちがいない。したがって、奴隷制廃止は植民地農業の未来に深刻な影響を与えると信じていたと思われる。さらに、イタリア人がソマリ後背地を訪れ、奴隷が耕している厳しい環境を目撃したとすれば、沿岸部で実施されている緩やかで家父長的な家内奴隷制は廃止する必要なしと考えるようになったとしても不思議ではない。したがって、イタリア植民地時代に、奴隷制廃止に向けての見るべき動きは全くなかった。フィロナルディVincenzo Filonardi(初代総督1889-93、弁務官1896-97)は、政治的・財政的障害を誘発するセンシティブな問題に対して慎重だった。さらに彼は、解放された奴隷にしかるべき働き口がなければ、浮浪者として町に溢れかえるに違いないとも考えていた。彼の事業を継ぎ改革にあたったドゥリオEmilio Dulio (弁務官1897、第2代総督1898-1905)とベナディール会社イタリア商会Società Anonima Commerciale Italiana del Benadir(1898-1905)も解放に後ろ向きだったし、イタリア政府もこの状況を黙認していた。イタリアは1890年の奴隷制廃止に向けたブリュッセル条約Brussels General Actに署名したものの、ベナディールへの適用は1903年を待たねばならなかった。
 ここで議論の対象となっている時期、海路による奴隷貿易はほぼ行われなくなったが、ブラヴァの奴隷はこの町の重要な構成員であり、住民の財産のかなりの部分を占めていた。1903年に実施された非公式の調査によれば、ブラヴァの町の奴隷数は434人、その他に395人の奴隷がブラヴァ人のもとで農耕に従事したり、ザンジバルやモンバサやキスマユにまで貸し出されたりしていた。その多くは労働の場を自分で決め、決められた日当の一部を主人に納めていた。このような奴隷の自立性は、彼らが自由人であるかのような印象を与え、彼らの法的地位に疑念を抱かせることもあった。
 史料には奴隷に関する100以上の事例が採録されている。アラビア語で奴隷を意味するアブドabdという語はあまり使用されず、ジャーリヤ(女性の奴隷) jarīyaという語が使われることはあったが、一般に召使いを意味する(男)ハーディムkhādim/ (女)ハーディマkhādimaという語が使われていた。しかし、これらはいずれも実際には奴隷という社会的地位を指す語としても通用していたのである。奴隷を「言葉を話さぬ物体」ないし「口をきけない物体」の対極に位置する「言葉を話す物体」と規定する場合もしばしば見られる。通常、動産扱いのジンス・アル-マールjins al-mālという用語も使用され、牛と同じく頭数で数えられたが、反面、女も男も、奴隷はアミーナAmīnaとかバクルBakrといったムスリムの名前を与えられており、アッバ、ハーッジ、ガウ、モハンメド・シェゴといったブラヴァ人並みの名称を得た者もいた。ファーイダ(もうけ)fā’ida、ニーヤト・ンナジュム(幸運星念じ)、nīya al-najm、バラカ(祝福の力)といった評価名もあれば、逆にスワヒリ語のshikazako(お前の友達=品質劣る)といった蔑称もあった。通常、奴隷の出自は不明だったが、結婚の時に父親の名前が明らかになることがあった。このことは、第二・第三世代の奴隷がいたことを示している。ルイージ・ロベッキ・ブリケッティLuigi Robecchi Bricchetti(1855-1926、イタリアのエンジニア/冒険家/ 地理学者/博物学者)によれば、1903年の記録に登場する153人の奴隷、あるいは奴隷人口の8.5%が1か月から10歳だった。このことは19世紀末のブラヴァの奴隷は、大多数がブラヴァ生まれだったことを示している。例えば、ある女性奴隷が主人の家で生まれたことを示すスワヒリ語でのmzalia (富永注;英語ではnativeとする理解が多いが、vernacularのほうが当たっているのではないか)だったと明言する記録もある。史料に登場する奴隷の多くは、以前のブラヴァ人オーナーから相続あるいは贈与によって現在の所有者に渡っていたことが記されている。所有者が死ぬと、その遺産の一部とみなされ、相続人に分割される場合、相続人のひとりが奴隷を受け継ぎ他の相続人に補償金を渡す場合もあれば、カーディーが奴隷を売却してその収益を相続人の間で分配する場合もあった。もし奴隷が死者の最大の遺産だった場合、奴隷を売却した収益は葬儀のために使われたり、役人に支払われたり、死者の負債に当てられたりし、残金があれば相続人が受け取った。寡婦になった女性に対し、カーディーが夫に代わり遺産の一部だった奴隷への権利を彼女に認めることによって、60キルシュの婚資を支払ってやった事例も記録されている。
 奴隷の価値は多様だった。女性の奴隷の価格は平均60キルシュで、もっとも安い場合は17キルシュだった。女の赤ん坊を抱えた女性の奴隷は100キルシュで、男性の奴隷はもっと安かった(56~46キルシュ)が、時には66キルシュで売買されることもあった。奴隷を贈与することは日常的に行われており、夫から妻へ、祖母から孫へという事例が多く記録されている。奴隷の貸出はそれほど一般的ではなかったが、水夫として12か月間、アラブ人の船舶に貸し出されていた事例の記録が残っている。奴隷が死ぬと、その財産は主人のものとなった。所有者が不明の場合、奴隷の所有物は売りに出され、奴隷の負債分を除き、貧者に分け与えられた。イスラーム社会では、奴隷の解放は善行とされており、所有者が死の床で宣言したり、遺産執行人により解放されたりした。解放された奴隷については、カーディーが記録を残していたはずであるが、残念なことに残存していない。しかし、解放された奴隷の男女については、彼らの結婚の際や彼らが交易に関与した際の事例が、史料に残っている。中には、多額の資金を貸すことができる経済的資力を手にした解放奴隷もいた。また、相続人が到着するまで、死亡した以前の主人の管財人に選ばれるほど、周囲の信頼を集めていた解放奴隷もいた。解放奴隷の中には、殊に女性の場合に目立つことだが、時を経ずして高い社会的地位を得る者もいた。例えばアッバシェイフ=ビン・ハビーブAbbasheikh bin Habībが解放した女性の奴隷ファーズマFādhumaは、以前の主人の息子と結婚している。
 奴隷の所有者については、部族単位で記載されている1903年の国勢調査が役立つデータを提供してくれている。ブラヴァ人の中で最大の198人の奴隷を所有していたのはトゥンニ-ゴイガリ Tunni Goigali部族だった。この人数はブラヴァの全奴隷数の4分の1に相当した。そのメンバーのひとりアブー・モハンメド・ビン・ガウAbu Mohammed bin Gawは31人の奴隷をブラヴァ周辺の農場で働かせていた。ダファルジスDafaradhisでは、ハーッジ-アブドルカーディルHājj ʕAbd al-Qādirが27人の奴隷を所有、内19人が農業に従事し、3人がミルクを後背地からブラヴァへ運ぶ係だった。これらはトゥンニ部族の主要な生業が農業・牧畜で、これに奴隷を使っていたことを示す。アシュラフAshraf部族は136人の奴隷を所有、そのうち108人は町に住んでいた。その中の31人はSharīf Mohammed Qullattenが所有し、内28人(4人は女性)は町で暮らし、専業は水汲みだった。同部族にとって、奴隷所有は社会的地位の強化、富の象徴だった。移住して来たばかりのアラブ人19人が所有する奴隷は49人。彼らは小商いに従事し、農業への参入は未だ着手段階。奴隷6人が商店で働き、10人が農耕に従事、という実態がそれを物語る。
 ブラヴァの奴隷は比較的厚遇されており、罰を受けるとしても比較的軽いことは、同時代のすべての記述が証明している。史料も、間接的にだが、そのような奴隷の処遇を照射している。例えば、7年間に逃亡奴隷と奴隷殺害とがたった1件ずつしか発生していない。もっとも興味深いのは、誘拐されてビマールBimālという人物に売られた後、自発的に元の主人の元に戻った女性の奴隷がいたという事例である。

富永智津子コメント

裁判記録は貴重な一次史料である。イギリス統治下のザンジバルにも、多くの法廷記録が残されている。かつてその一部を参照して研究ノートを書いたことがあるが、通常では見えてこない市井の住民の日常生活を知ることができ、記録を読んでいるだけで興味深かったことを思い出す。
ここに紹介した史料も、10年という短い期間ではあるが、普通にはなかなか知ることができないソマリアの人びとの日常、インド洋貿易の拡がり、奴隷貿易との関連などを垣間見せてくれる。ソマリアの歴史、インド洋史、イスラームの社会史などに関心のある方々に参照していただければ幸いである。ガザのパレスチナ人の行先としてトランプ大統領がソマリアを挙げたことから、ソマリア側は拒否だが、俄然ソマリアに世界の関心が集ってもいる。

参考文献  

富永智津子『スワヒリ都市の盛衰』(世界史リブレット103)山川出版 初版2008年.
  富永智津子『ザンジバルの笛―東アフリカ・スワヒリ世界の歴史と文化』未來社 初版2001年.
  富永智津子「ザンジバル保護領判例集解読の試み」上・中・下:宮城学院女子大学附属キリスト教文化研究所『研究年報』2004~2006.
 (ちなみにザンジバルの判例集:Zanzibar Protectorate Law Reports Ⅰ~VIIIはJETROアジア経済研究所に寄贈してあります)