目次
【独立後の歩み―国別年表】①東アフリカ
掲載:2016-05-24 執筆:富永智津子
<エチオピア連邦民主共和国>
- 1936
イタリア軍、首都アジス・アベバ占領。ハイレ=セラシエ皇帝亡命。 - 1937
アジス・アベバで、イタリア軍による市民大虐殺 - 1941
ハイレ・セラシエ軍、スーダンよりエチオピアへ進攻。連合国側、アジス・アベバ占領・解放。 - 1952
エリトリア、国連決議によりエチオピアと連邦を形成(エチオピア・エリトリア連邦の成立)。 - 1953
・エチオピア・アメリカ軍事同盟。 - 1962
エチオピア、エリトリアをエリトリア州として併合。 - 1963
エチオピア軍、オガデン地域に住むソマリ人遊牧民を攻撃。 - 1967
スーダン・エチオピア国境紛争。 - 1973
オガデン地方のソマリ人の反政府闘争、および旱魃による10万人の餓死者。 - 1974
軍部クーデタにより、ハイレ=セラシエ皇帝を廃位。臨時軍事行政評議会(PMAC)、社会主義に基づく国家建設を打ち出す。 - 1975
・外資系企業国有化宣言
・「エリトリア解放戦線」(EFL)と「エリトリア人民解放戦線」(EPLF)、ゲリラ活動を活発化。
・土地国有化を発表。
・帝政の廃止を宣言
・ハイレ=セラシエ皇帝、幽閉中に死去。 - 1976
・エチオピア教会大司教テオフロスを追放。
・「エチオピア人民革命党」(FPRP)を弾圧。 - 1977
・メンギスツ・ハイレ・マリアム、臨時軍事評議会議長に就任、恐怖独裁政治を展開、数十万人が殺害されたとされる(エチオピア内戦)。
・ソ連とキューバ、エチオピアへの武器空輸開始。
・ソマリアとの間でオガデン戦争勃発→1978:ソマリア軍撤退声明。 - 1978
エチオピア軍、エリトリア解放勢力に総攻撃開始。 - 1984
・旱魃被害
・エチオピア政府、飢餓に関する非常事態宣言。
・エチオピアのユダヤ教徒(ベタ・イスラエルまたはファラシャとも)1万人、空輸作戦でイスラエルに移住(モーゼ作戦)。 - 1987
国民投票で臨時軍事評議会を廃止、国民議会を設置。メンギスツ、大統領に就任、国名を「エチオピア人民民主主義共和国」と変更、「エチオピア労働者党」による一党独裁制を敷く。 - 1991
・「エリトリア人民解放戦線」(EPLF)、「ティグレ人民解放戦線」(TPLF)とともに首都アジス・アベバに突入、メンギスツ政権を打倒、独立を宣言。
・TPLFを中心とした反政府勢力連合「エチオピア人民革命民主戦線」(EPRDF)によるエチオピア新体制の確立。
・メンギスツ大統領、国外に脱出。暫定政権の樹立とEPRDFのメレス、暫定大統領に選出。
・旱魃と内戦によるエチオピア国内難民約800万人(国連調査)。 - 1992
・東部で700万人が飢餓に直面。
・ユダヤ人のイスラエルへの空輸作戦(ソロモン作戦)。11万人以上、85%が「帰還」したとされる。 - 1993
エリトリア州で、分離独立を決める国民投票で独立決定。 - 1994
9つの州の自治権を承認。 - 1995
エチオピア新憲法発布。初の総選挙。ネガソ・ギダダ大統領、メレスは首相として事実上の最高指導者に就任。国名を「エチオピア連邦民主共和国」に改称。 - 1998
・エリトリアとの国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦闘状態に(エチオピア・エリトリア国境紛争)→2000年:エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相、アフリカ統一機構(OAU)の停戦提案を受け入れる。 - 1999
エチオピア、エリトリアの提案した和平案を拒否。 - 2000
初の複数政党参加の総選挙で与党EPRDF圧勝。メレス、首相再選。 - 2001
・エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。
・ネガソ大統領の任期満了を受け、ギルマ・ウォルドギオルギス、新大統領に就任。 - 2006
東部の油田を開発中の中国企業が200人の武装集団に襲撃され、中国人9人を含む74人が殺害される。
歴代元首
1941~1974 ハイレ・セラシエ1世(ソロモン朝)
1974 アマン・アンドム(臨時軍事評議会議長)
1974 メンギスツ・ハイレ・マリアム(臨時軍事評議会議長・無所属)
1974~1977 テフェリ・バンテ(臨時軍事評議会議長)
1977~1991 メンギスツ・ハイレ・マリアム (臨時軍事評議会議長 →エチオピア人民民主共和国大統領・「エチオピア労働者党」)
1991 タスファレ・ゲブレ・キダン (エチオピア人民民主共和国大統領・「エチオピア労働者党」)
1991~1995 メレス・ゼナウィ(エチオピア暫定政府大統領・「ティグレ人民解放戦線」)
1995~2001 ネガソ・ギダダ(エチオピア連邦民主共和国大統領・「オロモ人民民主機構」)
2001~2013 ギルマ・ウォルドギオルギス(エチオピア連邦民主共和国大統領・無所属)
2013~ ムラトゥ・テショメ(エチオピア連邦民主共和国大統領・「オロモ人民民主機構」)
<エリトリア国>
- 1世紀~940
アクスム王国領の一部として繁栄 - 1137
「ミドゥリ・バリ」と呼ばれるティグレ人の国家が勃興。 - 1557
オスマン帝国領となる。 - 1882
イタリアが植民地宣言。 - 1885
イタリアによる占領。 - 1889
エチオピアとイタリア王国との間で締結されたウッチャリ条約により、エリトリア、イタリアの支配に委ねられる(「イタリア領東アフリカ」)。 - 1941
イタリアに代わり、イギリス軍が駐留、イギリスの保護領となる。 - 1952
国連提案で、エチオピア・エリトリア連邦の形成。 - 1961
「エリトリア解放戦線」(ELF)、エチオピアとの武装闘争を開始。 - 1962
エリトリア議会、連邦離脱を決議したため、エチオピアはエリトリアを州として併合。エリトリア独立戦争の勃発。 - 1970
マルクス主義を掲げる「エリトリア人民解放戦線」(EPLF)がELFから分離。 - 1978
・ソ連・エチオピア友好条約。ソ連型社会主義モデルの導入。 - 1979
・この年までにソ連、その他の社会主義諸国から社会主義に基づく国家建設に関するアドヴァイザー、数千人規模でエチオピアに到着。 - 1987
EPLF、マルクス主義路線の放棄。 - 1990
EPLF、マッサワを制圧。 - 1991
EPLF、州都アスマラを解放、暫定政権樹立を宣言。エチオピア全政党会議で独立を認める。 - 1993
・分離独立を問うエリトリア住民投票を経て独立。
・国連の承認。 - 1998
エリトリアとの国境付近のバドメ地区の領有権をめぐり戦闘状態に(エチオピア・エリトリア国境紛争)→2000:エリトリア軍が撤退を表明。メレス首相、アフリカ統一機構(OAU)の停戦提案を受け入れる。 - 1999
エチオピア、エリトリアの提案した和平案を拒否。 - 2001
エチオピア、エリトリアとの国境に臨時緩衝地帯を設置することで合意。
歴代元首
1991~現在 イサイアス・アフェウェルキ(大統領・「民主正義人民戦線」)
<ルワンダ共和国>
- 1962
ベルギーから独立。ルアンダ=ウルンディ第二代大統領だったフトゥ人のカイバンダがそのまま共和国の初代大統領に就任。 - 1963
亡命していたトゥチ系武装勢力、一時首都キガリ14キロまで迫る。 - 1964
多数のトゥチ人の殺害 - 1973
軍事クーデタ、ハバャリマナ(フトゥ人)率いる軍事政権成立。ハビャリマナ、第二代大統領に就任し、独裁開発路線を選択。 - 1975
ハビャリマナ大統領、単一政党「MRNDL」創設 - 1982
ウガンダ国境付近でルワンダ難民集団の自殺 - 1987
ウガンダで亡命トゥチ系難民主体の「ルワンダ愛国戦線」(RPF)結成。 - 1990
「ルワンダ愛国戦線」(RPF)、ウガンダよりルワンダ北部に侵入(ルワンダ内戦勃発)。 - 1991
複数政党制を認める新憲法制定。 - 1992
・野党4党を含めた連立政権発足。
・政府とRPF、タンザニアの仲介で停戦合意。 - 1993
・タンザニアのアルーシャでルワンダ和平協定調印。
・国連安保理、「国連ルワンダ援助ミッション」(UNAMIR)の設立を決議。
・軍のクーデタ(未遂)により、大統領ら4名殺害される。
・新内閣の首相に女性のAgathe Uwilingiyamana就任(→世界女性史年表)。 - 1994
・ルワンダとブルンジ両大統領同乗の航空機撃墜、住民虐殺はじまる(ルワンダ虐殺)。100日間のうちに約80万から100万人のトゥチ人 と穏健派フトゥ人が殺害され、210万人が難民化したとみられている。この難民問題が、隣国ザイール(現コンゴ民主共和国)の内戦の遠因となった。
・国連安保理、UNAMIR平和執行軍を300人に削減。
・RPF主導の挙国一致内閣発足(フトゥ人のビジムングを大統領、RPFのトゥチ人カガメが副大統領)
・日本からPKO派遣
・国連安保理、ルワンダの大量虐殺を裁く国際法廷設置を決定。
- 1995
ザイール、ルワンダ難民の強制送還を開始。 - 1996
・ザイールのルワンダ難民、退去して帰還。
・「国連ルワンダ犯罪特別法廷」アルーシャで開幕。 - 1997
「国境なき医師団」によると、「コンゴ・ザイール解放民主勢力」の皆殺し作戦によりザイール東部で約19万人のフツ系ルワンダ人が行方不明。 - 1998
1994年の虐殺事件で、フランス軍の派遣がフトゥによるトゥチの虐殺につながったのではないかとの批判あり。フランス下院での証言にたったバラドュール元首相、国連の「受け身」の態度を指摘。 - 2001
ブリュッセルで、ルワンダ虐殺裁判はじまる。被告はベルギーに移住したルワンダ4人。 - 2003
下院議員選挙。トゥチ人のカガメ大統領率いる「ルワンダ愛国戦線」圧勝。 - 2015
女性議員の比率が世界で1位の63.8%(虐殺事件後、国連などの指導で、クオータ制を憲法に組み込む)。
歴代国家元首
1961 ドミニク・ムボニュムトゥワ(ルアンダ=ウルンディ自治政府首長・「フトゥ解放運動党」)
1961~1962 クレボワール・カイバンダ(ルアンダ=ウルンディ自治政府首長・「フトゥ解放運動党」)
1962~1973 グレゴワール・カイバンダ(ルワンダ共和国大統領・「フトゥ解放運動党」)
1973~1994 ジュベナール・ハビャリマナ(ルワンダ共和国大統領・無所属→「開発国民革命運動」)
1994~2000 テオドール・シンディクブワボ(ルワンダ共和国大統領・「民主主義・開発国民共和運動」)
2000~ ポール・カガメ(ルワンダ共和国大統領・「ルワンダ愛国戦線」)
【参考文献】
竹内進一『現代アフリカの紛争と国家―ポストコロニアル家産制国家とルワンダ・ジェノサイド』明石書店、2009
<ブルンジ共和国>
- 1962
国王を元首とするブルンジ第二王国としてベルギーから独立。 - 1966
・エンディゼウェ皇太子、全権掌握を発表
・軍部クーデタにより王制廃止、共和制成立。初代大統領ミコンベロ。 - 1972
・トゥチ人による少数支配に不満を持つフトゥ人の反乱で、約1万人をトゥチ人殺害。
・その報復としてトゥチ兵の軍人がフトゥ人約10万人を虐殺。 - 1976
軍事クーデタ、バガザ政権誕生 - 1987
軍事クーデタ、バガザ大統領失脚。ブヨヤ少佐、民族解放軍部評議会結成。 - 1988
民族暴動により、フトゥ人住民の虐殺。 - 1991
・国民投票で、国民統一憲章採択。
・「フトゥ人解放党」(PALIPEHUTU)による住民襲撃。 - 1992
ブヨヤ大統領、複数政党制の導入を宣言し、新憲法を国民投票によって採択。 - 1993・複数政党制による大統領・国会議員選挙で「ブルンジ民主戦線」(FRODEBU)勝利。フトゥ系のナダダイエ内閣発足。首相にSylvie Kinigi。大統領は就任直後、トゥチ強硬派に暗殺される(ブルンジ内戦に突入、~2005)(→世界女性史年表)
- 1994
・ルワンダとブルンジ大統領同乗の航空機撃墜(暗殺とも言われている)。
・政府協約で1992年憲法を事実上停止 - 1996
国軍のクーデタでブヨヤが軍事政権の元首として復帰するも国際社会は承認せず。 - 1997
軍事政権、アルーシャでの和平会議への参加を取り消す。 - 1998
・反乱軍、国際空港を攻撃。
・軍事政権下で初の国民議会開会。
・「移行期憲法」公布。
・ブヨヤ、大統領に就任。
・アルーシャ和平会談第一回会合開催。 - 2003
和平協定成立。 - 2005
フトゥ系のンクルンジザ大統領のもとで挙国一致政府樹立するも、同じフトゥ系の旧反政府組織「民族解放軍」(FNL)は武装活動を続行。 - 2008
政府とFNLとの間に正式な和平と権力分担が合意調印。 - 2015
ンクルンジザ大統領の3選への出馬をめぐり混乱状態に陥る。
歴代大統領
1966~1976 ミシェル・ミコンベロ(大統領「民族進歩連合」・トゥチ人)
1976~1987 ジャン=バティスト・バガザ(無所属・軍政→大統領「民族進歩連合」・トゥチ人)
1987~1993 ピエール・ブヨヤ(無所属・軍政→大統領「民族進歩連合」・トゥチ人)
1993 メルシオル・ンダダイエ(大統領・「ブルンジ民主戦線」・フトゥ人)
1993~1994 シルヴィ・ギニギ(大統領・「民族進歩連合」・トゥチ人)
1994 シプリアン・ンタリャミラ(大統領・「ブルンジ民主戦線」フトゥ人)
1994~1996 シルヴェストル・ンティバントゥンガニャ(大統領・「ブルンジ民主戦線」フトゥ人)
1996~2003 ピエール・ブヨヤ(大統領・「民族進歩連合」トゥチ人)
2003~2005 ドミシアン・ンダイゼイエ(大統領・「ブルンジ民主戦線」フトゥ人)
2005~ ピエール・ンクルンジザ(大統領・「民主防衛国民会議・民主防衛勢力」フトゥ人)
<ソマリア連邦共和国>
- 1960
イギリス領、イタリア領両ソマリランド独立。両者を合わせてソマリア共和国発足。 - 1961
憲法制定 - 1963
ソマリア、イギリスと断交 - 1968・ウラン採掘権をイタリアに与える。
- 1969
シアド・バーレによる軍事クーデタ。国名を「ソマリア民主共和国」とし、シアド=バーレを議長とする最高革命評議会が閣僚を任命。 - 1970
外国企業を国有化し、社会主義国家を宣言。「ソマリ社会主義革命党」の一党独裁に。 - 1974
・ソマリア・ソ連軍事同盟。 - 1977
・ソマリア軍、エチオピアのオガデンに侵攻(オガデン戦争、~1988)。
・ソ連軍事顧問団に国外退去を要求、ソ連との友好協力条約を破棄、キューバと断交。 - 1978
ソマリア軍、エチオピア領オガデンから全兵力の撤収を発表。 - 1979
・新憲法、国民投票で支持される
・エチオピア領オガデンからの難民流入で非常事態宣言。「ソマリ社会主義革命党」の一党独裁体制へ。 - 1980
・ソマリア・アメリカ軍事同盟(青マリア・アメリカ協定)。
・アメリカに対する基地提供を公表。人民議会、バーレを大統領に選出。 - 1982
反バーレの武装闘争の表面化。 - 1988
反政府ゲリラ「ソマリア国民運動」(SNM)の作戦拡大(ソマリア内戦の勃発)。 - 1990
反政府勢力、「統一ソマリ会議」(USC)結成。 - 1991
・USC、首都を制圧。バーレ大統領、モガデシオ脱出。しかしUSC内部の抗争激化。アリ・マハディ大統領派とアイディード将軍派との間で戦闘。
・ソマリア北部のSNM、「ソマリランド共和国」の独立を宣言。 - 1992
・アイディード将軍、「ソマリ国民同盟」(SNA)結成。
・国連安保理、「第一次国連ソマリア活動」(UNOSOM)採択。
・UNOSOMの平和維持軍、ソマリアに派遣。 - 1993
国連が「第二次国連ソマリア活動」(UNOSOMⅡ)を決議し派遣。のアメリカ兵18人死亡。 - 1994
UNOSOMⅡのアメリカ軍撤退。 - 1995
UNOSOMⅡ、ソマリアから完全撤退。 - 1996
アイディード将軍死去。 - 1997
ソマリアの各派代表、カイロで和平協定に調印。国家救済評議会設立。 - 1998
北東部の氏族、自治を宣言し「プントランド共和国」を樹立。内戦は続行。 - 2004
「ヒズブル・シャバーブ」結成。半年後、「アル=シャバーブ」に改名。 - 2006
・「イスラーム法廷会議」(ICU)、首都を占領。
・エチオピア軍の侵攻と制圧により、暫定政府が国権を掌握。
・米軍、ソマリア南部空爆。 - 2007
アメリカ軍、エチオピアを支援してソマリアを空爆。 - 2008
イスラーム法廷勢力との間で停戦協定。 - 2012
ソマリア連邦共和国に改名。大統領選挙。 - 2013
IMF、ソマリア連邦政府を22年ぶりに承認。
歴代大統領・元首
(ソマリア共和国)
1960~1967 アデン・アブドラ・ウスマン(大統領・「ソマリ青年連盟」・ハウィエ氏族)
1967~1969 アブディラシッド・アリー・シェルマルケ(大統領・「ソマリ青年連盟」・ダロッド氏族)
1969 シェイハ・ムクター・モハメド・フセイン(大統領代理・「ソマリ青年連盟」・ラハンウェイン氏族)(ソマリア民主共和国)
1969~1991 モハメド・シアド・バーレ(大統領・「ソマリ社会主義革命党」・ダロッド氏族)
(ソマリア内戦)
1991~1997 アリ・マフディ・ムハンマド(大統領・「統一ソマリ会議」・ハウィエ氏族)
1997~2000 空席
1995~1996 モハメッド・ファッラ・アイディード(自称大統領・「ソマリ国民同盟」・ハウィエ氏族)
1996~1997 フセイン・モハメド・ファラー・アイディード(自称大統領・「ソマリ国民同盟」・ハウィエ氏族)(ソマリア暫定国民政府)
2000~2004 アブディカシム・サラ・ハッサン(ハウィエ氏族)
(ソマリア暫定連邦政府)
2004~2008 アブドゥラヒ・ユスフ(大統領・「ソマリ救済民主戦線」・ダロッド氏族)
2008~2009 アダン・モハメド・ヌール・マドベ(大統領代理・「ラハンウェイン抵抗軍」・ラハンウェイン氏族)
2009~2012 シャエイフ・アフマド(大統領・「ソマリア再解放連盟」・ハウィエ氏族)(ソマリア連邦共和国)
2012 ムッセ・ハッサ・アブドゥレ(大統領代理・無所属・ダロッド氏族)
2012 モハメド・オスマン・ジャワリ(大統領代理・無所属・ラハンウェイン氏族)
2012~ ハッサン・シェイク・モハメド(大統領・「平和・開発党」・ハウィエ氏族)
<スーダン共和国>
- 1956
エジプトとイギリスより独立、ウンマ党のハリール、首相に就任 - 1958
スーダン軍部によるクーデタ、アブード軍事政権の樹立。 - 1964
アブード政権崩壊 - 1965
・ウンマ党と国民統一党との連立政権の誕生
・Fatima Ahmed Ibrahim、女性で最初の国会議員となり、女性の権利を擁護する法令の制定に尽力。しかし、1969年にヌメイリ軍事政権の誕生によって、弾圧を受け、夫は処刑され、自身も終身刑を受ける。(→世界女性史年表) - 1968
・ソ連との軍事協定発表
・総選挙、マグーブ首相組閣 - 1969
ヌメイリ将軍による軍事クーデタ、革命評議会が全権掌握。国名を「スーダン民主共和国」とする。 - 1970
外国企業の国有化 - 1971
・ヌメイリ、大統領に就任。単一政党「スーダン社会主義同盟」(SSU)発足
・第一次スーダン内戦(~1972) - 1973
・新憲法発効
・南部スーダンの最高行政委員選挙 - 1975
アビエイで油田の発見 - 1978
「アニャーニャⅡ」の結成 - 1983
・国民投票でヌメイリ大統領再選
・スーダン南部の駐屯師団で反乱
・南部にエチオピアとソ連に支援された「スーダン人民解放軍」(SPLA)結成。「アニャーニャⅡ」と反政府組織の主導権争い始まる。
・ヌメイリ政権、スーダン全土にイスラーム法を導入→南部はこれに反発、SPLA、ゲリラ闘争を拡大し、第二次スーダン内戦に突入(~2005) - 1984
旱魃被害とエチオピアからの難民の流入 - 1985
軍部のクーデタによりヌメイリ政権失脚、ヌメイリはエジプトに亡命。国名をスーダン共和国に戻る。 - 1986
議会選挙で、サーディク・アル=マフディーを首相とする文民政権誕生。 - 1989
オマル・アル=バシールによる無血クーデタ。 - 1991
・エチオピアにメレス・ゼナウィ新大統領登場し、SPLAは後ろ盾を失い3分裂。
・バシール軍事政権、イスラーム原理主義に傾斜。 - 1992
・ロンドンに本部を置く人権擁護団体アフリカ・ウォッチ、スーダン政府によるヌバ山地(スーダン中部コフドファン州)での「民族浄化」作戦に警報。
・スーダン南部のジュバ(中央エクアトリア州)で反政府軍と政府軍との戦闘激化、多くの住民虐殺の報告あり。 - 1993
バシール、首相を兼任したまま大統領に就任。 - 1994
バシール大統領、12歳の少年に徴兵制(従来は18~30歳の男子にたいする3年間の義務制度)。国家意識の高揚のため。 - 1998
・新憲法が国民投票により信任され、政党活動が解禁。
・ビン・ラディンの滞在を認めたとして、米軍、スーダンを巡航ミサイル攻撃。 - 2002
アメリカの仲介で政府、SPLAとヌバ山地での停戦に合意。 - 2003
・ダルフール紛争の激化
→2004年までの1年半で西部ダルフール地域の黒人イスラーム教後5万人がジャンジャウィードと呼ばれるアラブ系民兵に殺害される。難民100万とも。
→2009:ダルフール紛争での人道に対する罪で、バシール大統領に国際刑事裁判所(ICC)から逮捕状。
→2010:ICC、バシール大統領にジェノサイドの容疑で2回目の逮捕状。
→2015:ICC、バシール大統領に出国禁止令 - 2005
バシールと「スーダン人民解放運動」(SPLM)との間で包括和平合意成立(250万もの南部住民の犠牲を伴った第二次スーダン内戦の暫定停戦合意)。 - 2011
スーダン南部、分離独立を問う国民投票で、「南スーダン共和国」として独立。193番目の国連加盟国となる。「アフリカ連合」(AU)の54番目の加盟国となる。首都はジュバ。 - 2012
アビエイ油田をめぐり、南スーダン・スーダン国境紛争勃発。
歴代大統領
1958~1964 イブラヒーム・アブード
1964~1969 イスマーイール・アシャリ
1969~1985 ムハンマドアン=ヌメイリ(1969~1971年までは「革命評議会議長」)
1985~1986 スワル・アル=ダッハーブ
1986~1989 アフマド・アル=ミルガニ
1989~ オマル・アル=バシール(1989年6月から1993年10月までは「革命評議会議長」)
<南スーダン共和国>
- 2011
スーダン南部10州がスーダンから分離独立 - 2013
解任されたマシャール服大統領派によるクーデタ未遂事件。キール大統領派とマシャール副大統領派、武力衝突状態入り、内戦に突入。避難民190万人以上。 - 2015
和平協議により、対立していた大統領派と副大統領派、調停案を受け入れる。 - 2016
マシャールが首都にもどり第一副大統領に就任、国民統一暫定政権が発足。
-
歴代大統領
- (南部スーダン自治政府大統領) 2005 ジョン・ガラン(「スーダン人民解放運動」)
2005~2011 サルバ・キール・マヤルディ(「スーダン人民解放運動」) - (南スーダン共和国大統領)
2011~ サルバ・キール・マヤルディ(「スーダン人民解放運動」)
<ジブチ共和国>
- 1963
フランス領ソマリランド議会選挙 - 1967
国民投票の結果、フランスの海外県にとどまることを決定。フランス領アファル・イッサ(アファルはエチオピア系、イッサはソマリ系)と国名を変更(~1977)。 - 1977
・パリにてアファル=イッサ植民地独立会議
・ジブチ共和国として独立、イッサ人のハッサン・グレード・アプティドンが大統領に就任。 - 1981
大統領選挙、ハッサン・グレード・アプティドン再選、単一政党制をとり「進歩人民党」(RPP)以外の政党を禁止。 - 1984
フランス、ジブチ駐在の軍事力を強化 - 1990
エリトリアと2度の国境紛争 - 1991
内戦勃発(~2001)→フランス、ジブチ内戦介入へ - 1992
新憲法制定と複数政党制の導入。事実上「進歩人民連合」(RPP)の一党支配。 - 2008
エリトリアとの国境紛争
歴代大統領
1977~1999 ハッサン・グレード・アプティドン(進歩人民連合)
1999~ イスマイル・オマル・グレ(進歩人民連合)
<ウガンダ共和国>
- 1962
イギリスから独立 - 1963
ムテサ二世、大統領に就任 - 1964
軍隊の反乱発生 - 1966
・オボテ、憲法を停止し、全権を掌握。新大統領に就任。
・ウガンダ議会、新憲法を承認し、連邦制を廃止。
・ブガンダ議会、ウガンダ中央政府立ち退きを決議。
・ブガンダに緊急事態発令
・オボテ、ムテサ二世の宮殿を襲撃。ムテサ二世、イギリスに亡命(1969年死去) - 1967
ウガンダ共和国憲法制定。伝統的な4王国を廃止。 - 1970
・「ナキブボ宣言」を発表し、外国企業を国有化。
・非ウガンダ人非熟練労働者の国外追放を発表 - 1971
軍事クーデタにより、アミン、オボテを追放し政権を掌握、大統領に就任 - 1972
・イスラエルと断交
・アジア人の国外追放を宣言
・オボテ支持派、タンザニアよりウガンダに侵攻。ウガンダ・タンザニア間の国境紛争に発展(1か月後にソマリア大統領の和平工作により停戦協定締結)。
・イギリス高等弁務官に国外退去命令
・イギリス、対ウガンダ経済・技術援助打ち切りを通告
・ウガンダ、イギリス系7企業を接収 - 1973
イギリス系全企業を接収 - 1976
イギリス、ウガンダと断交 - 1978
アメリカ、アミン大統領の虐殺行為に対し、ウガンダとの貿易禁止決議を可決 - 1979
・タンザニア軍、ウガンダ亡命グループの解放勢力とともにウガンダに侵攻
・ウガンダ人亡命グループ、タンザニアのモシで「ウガンダ民族解放戦線」(UNLF)を結成
・UNLF、カンパラを制圧、アミン軍敗走
・UNLF、臨時政府樹立、議長ルレ、大統領に就任するも即辞任し、ビナイサが大統領に就任。
・タンザニア軍、ウガンダから撤退 - 1980
・UNLF軍事委員会が実権を掌握、ビサイナ大統領失脚
・総選挙で、オボテUPC党首、大統領に復帰 - 1981
ウガンダ内戦勃発(~1986) - 1985
・オケロ准将に率いられた軍部クーデタにより、オボテ大統領亡命
・オケロ軍司令官を厳守とする軍部評議会発足 - 1986
・反政府ゲリラ「国民抵抗軍」(NRA)カンパラ攻略。ムセベニNRA議長、大統領に就任
・経済の自由化政策を採用。
・霊媒師Alice Lakwena、NRAのアチョリ地域への侵攻に抵抗し、Holy Spirit Mobile Frocesを設立し、キリスト教の預言者として「聖戦」を開始(→世界女性史年表) - 1987
キリスト教原理主義の反政府勢力「神の抵抗軍」(LRA)の結成 - 1990
かつてのトロ、ブニョロ、ブソガ、ブガンダの伝統的な王国の王位、儀礼的存在として復活。 - 1993
イギリスに亡命していたロナルド・ムテビ皇太子、ブガンダの「国王」に即位 - 1995
新憲法制定。伝統的な5王国の儀礼的復権を承認(ブガンダ、アンコーレ、ブニョロ、トロ、ブソガ)。 - 1996
大統領選挙と国会議員選挙、ムセベニ当選 - 1990年代後半
・アミン大統領が追放したインド・パキスタン系移民に資産を返還し、投資を促す。 - 2000
複数政党制を廃し、独特の「無党制」を導入。「国民抵抗運動」(NRM)以外の政治かつ同は禁止。 - 2005
国民投票により、複数政党制へ移行 - 2006
・北部で約20年にわたって内戦を続けてきたLRAの指導部とムセベニ大統領との和平、南スーダン副大統領の仲介で合意。→2007:和平合意の失効
・エボラ出血熱の発生、51人が感染し16人死亡 - 2008
ウガンダと南スーダン、およびコンゴ民主共和国軍によるLRAに対する攻勢。 - 2010
首都カンパラで「アル=シャバーブ」による同時自爆テロ発生、73人死亡。
歴代大統領・元首
1963~1966 ムテサ2世(大統領・「カバカ・イェッカ」KY)
1966~1971 ミルトン・オボテ(大統領・「ウガンダ人民会議」UPC)
1971~1979 イディ・アミン(大統領・無所属)
1979 ユフス・ルレ(大統領・「ウガンダ民族解放戦線」UNLF)
1979~1980 ゴッドフリー・ビナイサ(大統領・UNLF)
1980 バウロ・ムワンガ(軍事評議会議長・UNLF)
1980 大統領委員会(単一の大統領職なし)
1980~1985 ミルトン・オボテ(大統領・UPC)
1985 バジリオ・オララ=オケロ(軍事評議会議長・無所属)
1985~1986 ティト・オケロ(軍事評議会議長・無所属)
1986~ ヨウェリ・ムセベニ(大統領・「国民抵抗軍」NRM)
<ケニア共和国>
- 1963
独立 - 1964
・軍隊の反乱発生
・新憲法制定により、ケニア共和国となる。
・ケニヤッタ大統領就任。 - 1966
Grace Ogot、The Promised Landで作家として本格デビュー。その後も作品を通してルオ社会におけるジェンダー関係や、植民地主義と政治的独立という歴史的過程の中で揺れるアイデンティティの問題を追及(→世界女性史年表) - 1967
・ケニア、ウガンダ、タンザニア間で「東アフリカ共同体」発足。→1977:「東アフリカ共同体」の解消
・新移民法制定
・Gaudencia Aoko、男性中心のローマ・カトリック教会を批判、Communion Church of Africaを創設(→世界女性史年表) - 1969
「ケニア人民連合」(KPU)のオディンガほか7名逮捕(~1972釈放)→1971:オディンガ「ケニア・アフリカ人民族同盟」(KANU)に復帰(事実上のKANU一党制の実現) - 1960年代~80年代
Wambui Otieno、女性と開発の問題に取り組み、国連女性会議に代表として参加(→世界女性史年表) - 1971
イギリス系2銀行の合併と、ケニア政府の50%株式取得を発表。 - 1974
ケニヤッタ大統領、スワヒリ語を公用語とすることを宣言。 - 1978
ケニヤッタ大統領死去、モイ副大統領、新大統領に就任。 - 1980
・アメリカと海軍基地協定に調印。
・旱魃 - 1981
・ケニア政府、『デイリー=ネーション』紙主観ら6人逮捕
・日本の援助によるジョモ=ケニヤッタ大学開校。 - 1982
・法制上もKANUの一党制となる
・軍部の一部、モイ政権打倒のクーデタ未遂事件 - 1985
ナイロビで「世界女性会議」開催 - 1991
・複数政党制の復活 - 1992
複数政党制下での大統領選挙と議会選挙(有権者数約800万)、モイ再選。 - 1993
ケニア、ウガンダ、タンザニア3国、「東アフリカ協力常設委」設置 - 1998
・ナイロビのアメリカ大使館、アルカイーダにより爆破。
・207の政府機関の民営化方針のうち、159が民営化を達成。 - 1999
ケニア、ウガンダ、タンザニア3国大統領、地域経済の発展のため、関税や人の移動、あるいはインフラの向上に関する「東アフリカ共同体」条約に署名 - 2001
モイ大統領、16歳以下の少女に女子割礼を施した場合、懲役刑に処す、との法令を出し、「女性性器切除」(FGM)を禁止。 - 2002
モンバサでイスラエル人経営のリゾートホテル爆破事件。アルカーイダが犯行声明。 - 2004
環境活動家Wangari Maathai(1940~2011)、アフリカ女性として初のノーベル平和賞受賞(→世界女性史年表) - 2005
国民投票により憲法改正案否決、内閣解散へ - 2007
大統領選挙後、結果を不満とする野党勢力とそれを支持する民衆の暴動発生(ケニア危機、~2008) - 2010
新憲法制定 - 2011
・東アフリカ大旱魃
・FGM全面禁止法成立。 - 2013
ソマリアを活動拠点としたイスラーム過激派「アル=シャバーブ」によるショッピングモール事件 - 2015
ガリッサ・ユニバーシティ・カレッジ、「アル=シャバーブ」に襲撃され、学生ら150人以上が死亡。
歴代大統領
1964~1978 ジョモ・ケニヤッタ(KANU)
1978~2002 ダニエル・アラップ・モイ(KANU)
2002~2013 ムワイ・キバキ(「国民虹の連合」NARC→「国家統一党」PNU)
2013~ ウフル・ケニヤッタ(「国家統一党」PNU)
【参考文献】
松田素二・津田みわ編著『ケニアを知るための55章』明石書店、2012
<ザンジバル>
- 1963
イギリス保護領ザンジバル独立(12月10日) - 1964
・ザンジバル革命(1月12日)により王制廃止、アラブ系政権崩壊、アラブ人が排斥され、インド人が国外流出。革命評議会が実権を掌握
・ザンジバル人民共和国初代大統領にカルメ就任。
・タンガニーカと連合共和国を形成、タンザニア連合共和国となる。
・ザンジバル革命政府大統領は、タンザニア連合共和国の第一副大統領を兼務することとなる。 - 1972
ザンジバルにて、大統領カルメ暗殺される。 - 1984
経済の自由化 - 1992
複数政党制に移行。 - 2010
新憲法制定。複数政党制、副大統領は議会第一・第二政党が一人ずつ出すこと、閣僚も議席に応じて配分することを決定。
歴代大統領
1964~1972 Abeid Karume(革命評議会)
1972~1984 Mwinyi Aboud Jumbe(革命評議会→革命党CCM)
1984~1985 Ali Hassan Mwinyi(CCM)
1985~1990 Idris Abdul Wakil(CCM)
1990~2000 Salmin Amour(CCM)
2000~2010 Amani Abeid Karume(CCM、初代大統領の息子)
2010~ Ali Mohamed Shein(CCM)
<タンザニア共和国>
- 1961
イギリスから独立 - 1962
大統領選挙で、ニエレレ圧倒的多数で当選、共和国となる。 - 1964
・軍隊の反乱勃発
・タンガニーカ・ザンジバル連邦の結成
・タンザニア連合共和国成立 - 1965
・法による一党制の発足
・ローデシアの白人政権の一方的独立宣言に対し、強い態度をとらなかったイギリスの政策に抗議してイギリスと断交→1968:イギリスと国交回復 - 1967
・「タンザニア・アフリカ人民族同盟」(TANU)、「アルーシャ宣言」を採択し、主要外国企業を国有化、社会主義路線を採択
・Bibi Titi Mohamed、「アルーシャ宣言」の「借家禁止令」に抗議し、TANUの中央委員会を脱退(→世界女性史年表)
・ケニア、ウガンダ、タンザニア間で「東アフリカ共同体」発足→1977年:「東アフリカ共同体」の解消
・タンザニアとザンビア、中国のタンザン鉄道援助計画に調印→1976:タンザン鉄道完成 - 1971
ウガンダ・タンザニア国境紛争 - 1972
ザンジバルにて、タンザニア第一副大統領カルメ暗殺される - 1973
・TANU,「ウジャマー村」(村落の集村化と共有部門の拡大設置政策)の設立を決議
・第一次石油危機 - 1973
旱魃による「ウジャマー村」政策の見直し。共同農場にかわり個別の家族農場の生産を重視するも、集村化は進展(本土部の人口全体に占める村人口率は86%になる)。 - 1977
・TANU、「アフロ・シラジ党」(ASP)と合併して「革命党」(CCM)を結成
・タンザニア新憲法制定 - 1978
ウガンダのアミン軍タンザニアに侵攻、タンザニア軍ウガンダ亡命グループの解放勢力とともにウガンダ侵攻(ウガンダ・タンザニア戦争、~1979) - 1979
第二次石油危機 - 1983
経済政策への不満によるニエレレ政権転覆をねらうクーデタ未遂事件 - 1984
憲法改正 - 1985
ニエレレ大統領を引退、新大統領にムウィニ。ムウィニ、IMFの勧告を受け入れ経済自由化に舵を切る - 1987
ニエレレ、CCMの議長に再選(~1990)。 - 1992
・憲法改正
・複数政党制に移行 - 1993
ケニア、ウガンダ、タンザニア3国、「東アフリカ協力常設委」設置 - 1998
ダルエスサラームのアメリカ大使館、アルカーイダにより爆破。 - 1998
Sexual Offences(Special Provision)ActでFGM禁止:5~15年の懲役刑あるいは30万タンザニア・シリングの罰金(約230ドル) - 1999
・ニエレレ、ロンドンで没
・ケニア、ウガンダ、タンザニア3国大統領、「東アフリカ共同体」条約に署名 - 2001
世銀とIMF、重債務貧困国救済イニシアティヴに沿って、タンザニアの債務30億ドルを削減。
歴代大統領
1964~1977 ジュリウス・ニエレレ(TANU→CCM)
1977~1995 アリ・ハッサン・ムウィニ(CCM・ザンジバル出身)
1995~2005 ベンジャミン・ムカパ(CCM)
2005~2015 ジャカヤ・キクウェテ(CCM)
2015~ ジョン・マグフリ(CCM)
<セーシェル>
- 1976
イギリスより独立。 - 1977
ルネによるクーデタ。社会主義に方向転換。以後一党独裁制に移行。 - 1991
複数政党制に移行。
歴代大統領
1976~1977 ジェイムス・マンチャム(セーシェル民主党)
1977~2004 フランス=アフベール・ルネ(セーシェル人民進歩戦線)
2004~ ジェイムス・ミッシェル(セーシェル人民進歩戦線→人民党)