【特論5】Ⅰ-⑭ アフリカの儀礼は、どの程度キリスト教の体系に統合されうるか?
2015.03.02掲載 執筆:富永智津子
T.Cullen Young, “How far can African Ceremonial be Incorporated in the Christian System? “ Africa ,1935, vol.8, no.1:210-217
この問題へのわたしのアプローチは、タイトルが示している方向とは異なっている。見ての通り、このタイトルは、クリスチャンとアフリカ人がともに合意できるような慣行と儀礼を生み出すために、われわれは今持っている知識を手掛かりに、アフリカ人のさまざまな信仰を選択したり拒否したりすることが可能であることを示唆している。しかし、わたしはそれが可能であるとは思わない。まさに、現在の状況下におけるすべての宣教師の活動は時間の無駄以外の何物でもないとの実感をわたしは抱いている。確かに、15~20年前に比べれば、われわれのアフリカ人の信仰に関する知識は格段に増えたが、この知識をもってこの類の活動をアフリカ人が許し、アフリカ人との新しい関係を構築できると考えるのはいかがなものか。われわれの目的は何か?アフリカ人の心の中に入り込むというわれわれの行為は、アフリカ人の目線で見た場合に、どのように正当化できるのか?われわれ自身とアフリカ人を包摂するような信仰を基盤とした教会(ecclesia)を作ることがわれわれの願望なのか?多様な経験を分かち合い、それぞれの宗教的伝統の相互理解を分有するような共同体(community)的なものの実現を目的としているのか?さもない場合、われわれの目的は何か?
わたしは、アフリカ人の典礼(rite)と儀礼(ceremony)をキリスト教の信仰体系(system)に統合する難しさに関しては、たしかに不安を感じている。それ以上にわたしは、われわれ自身が、統合された信仰体系(shared system)の中にアフリカ人を受け入れることができるかどうかについては疑問を感じている。・・・・その理由は、アフリカ人をキリスト教化しようとした経験や、「純化されたアニミズムのアイテム」とでも呼べるものを統合する試みに関して書かれたり話されたりしていることが、本質的に非現実的であると私が感じているからである。それゆえアフリカ人の価値観や、できるならば私が抱いている不安や疑念を明らかにするために、こうした典礼や儀礼を生み出したアフリカ人の信仰の基本的構造に光を当ててみたいと思う。
典礼や儀礼は単なる信仰の所産にすぎない。アフリカの典礼や儀礼は、われわれが選択したり拒否したりできるような部分に腑分けできるものではない。アフリカ人にとっての信仰体系とは教育や訓練という形で表現されるものだからである。そしてアフリカ人が典礼や儀礼に投影されている思想(thought)は、クラン性(clansmanship)や集団(association)の理論、もしくは原理、もしくは政策(policy)であり、それは仲間意識にもとづいた社会システムへの加入の階梯であり、一連の集団の機能はその信仰体系を通して大人の生活の中に反映されている。
その信仰体系は集団内の安定を維持するための完璧な集団教育を要求している。すべての典礼や儀礼は、それゆえ、安定、調和、互酬性を中心とした思考体系の一部である。それゆえ、この典礼や儀礼を他の信仰体系に採用するとしたら、他の信仰体系においても安定、調和、互酬性が中心である場合にのみ可能となる。もし、バントゥーの儀礼がキリスト教の信仰体系に統合されるとしたら、共同体における仲間意識というバントゥーの核となるものが中心とならなければならないし、それがキリスト教の信仰体系においても不可欠のものとならねばならない。わたしが不安を覚えるのはこの点である。この不安は、両者の間に横たわる垣根のようなものである。適応(adaptation)と統合(incorporation)を行おうとしているわれわれは、その意味するところのものや、それに巻き込まれるすべての人々について十分自覚的なのだろうか?
また、バントゥー人の典礼や儀礼をキリスト教の信仰体系に統合するというわれわれの安易な考えを、彼らはどの程度認めているのだろうか?それについて、われわれは一致した見解に達しているだろうか?キリスト教への統合の仕方について書かれたものは多いし、ほんの少しアフリカを知っただけで、あとは勢いにまかせて書かれているものも多いが、ここで、立ち止まって考え直すのは正しいことだと思う。見ての通り、キリスト教の信仰はバントゥーの信仰とはきわめて異なる。キリスト教は神との個人的関係において成立しており、そのほかのすべては付随的なものである。他方、バントゥーの信仰は解体しえない人間関係の上に成り立っており、われわれが「神」と呼べるような観念はあくまでも付随的なのである。もし、この基本的な違いを認めるなら、袋小路に陥る回路に沿って注がれている現在のエネルギーを、両者の間に横たわる垣根を取り除く活動へと振り向けることができるかもしれない。
アフリカ人の信仰とその所産としての儀礼は、外国人の手によっては変えたり適用したりはできないが、内部からならできるかもしれない。アフリカの信仰体系とキリスト教の信仰体系の根本にかかわるこの大きな違いは、閉ざされたアフリカの信仰体系が新しい考え方の影響を受けて門戸を開けば縮小するだろう。アフリカの信仰体系が門戸を開けば、祖先崇拝の観念に満たされている核心部分のスペースに余裕ができる。相対的に大きな観念が求められるのは、それが必要とされるからである。その結果―もしキリスト教の信仰体系が完全に可視化されるなら―核心部分のその場所はイエスに見られるようなキリスト教の神の観念以外の観念にはふさわしくないことがわかるだろう。
重要な事は―ここではアフリカ人の儀礼をキリスト教の様式に適用しようとする人々の道を塞いでいるものについて触れておく―キリスト教の体系の可視化であり、それによって、他でもない現在のアフリカの信仰体系に風穴を開けることが期待できるということである。それこそが成功といえるものであり、これは外国の文化の侵入などではない。・・・われわれはアフリカ人が完成された信仰体系を持っているということを認めなければならない。信仰の投影である儀礼は、その信仰体系にのみ適合する。信仰のよってたつ基盤が変化しなければ、他の信仰体系に統合することはできない。アフリカ人の考えを拡大するような影響のもとでのみ、それは適応可能になる。
では、われわれはアフリカ人の思考の拡大に期待することができるのだろうか?・・・わたし自身の経験から、わたしは、バントゥーアフリカが、本来、共に分かち合える信仰体系であるはずのキリスト教の導入に、途方もない大きな貢献をすると信じている。しかし、わたしはこれを達成することができるのはアフリカ人のみであり、しかもかれらが共同体の仲間意識を核心に置くことが重要だと認めているような包容力のある信仰体系からの誘いを受ける時のみであると信じている。また西欧出身のわれわれがアフリカの儀礼をキリスト教に適用することへの協力を申し出ることができるのは、アフリカ人の仲間意識という原理を受け入れるという確約をアフリカ人に与えたあとのことになる。
アフリカ人は想像されているよりずっと高いレヴェルでものを考えており、アフリカ人の慣行をキリスト教の鋳型に流し込むことによって、われわれの信仰体系にアフリカ人の信仰体系を統合できるなどと思ってはならない。われわれにはそのような能力はないのだ。むしろ、キリスト教の信仰体系がアフリカの信仰や儀礼の拡大版であることをアフリカ人に提示することなら可能かもしれない。キリスト教の信仰体系はアフリカ人の仲間意識や共同体意識という基本的欲求を満たすものであるということが可視化されるなら、アフリカ人は拡大された共同体の様式と調和するような儀礼を保持できるし、キリスト教徒としての統合が可能になるだろう、ということを示唆しておきたい。問題は、われわれがアフリカ人を信頼することができるかということである。
この問題を自分に問いかけるとき、わたし自身はアフリカ人一般を念頭に置くのではなく、わたしが知っている個々人の男女を念頭に置いている。たとえば、Africa の前号で記したような「住みやすい村」という定義を定着させた老人の事を考える。・・・アフリカ人がわれわれに出す要求―キリスト教の信仰体系はアフリカ人にとって何が核心であるかを示してほしいという要求―について考える時、わたしはその老人の事を思い浮かべる。観念の領域においては、アフリカ人と仲間意識を共有することは不可能ではない。
わたしの心に浮かぶアフリカ人は他にもいる。長老たちとの議論に加わっているある長老である。彼は、牛やお金や女性のことではなく、本当の名誉を構成するものは何か、という議論をしている。彼の答が心に浮かぶ。彼は言った「私に関して言えば、わたしの名誉は、乳牛と未経産の牝牛の守護者であること、疫病を生きぬくような幼い雄ヤギや雌ヤギを世話すること、これがわたしの名誉であり、人々がわたしに期待していることなのだ」と。
彼を引き入れようとしているキリスト教の信仰体系は、狭いクラン制度の中で維持されているようなリアルな仲間意識を彼に提供できるのだろうか?キリスト教の信仰体系が粗野な(bush)アフリカ人にすぎない彼の基本的な要求を満たすような状況を与えたとして、彼が自分から思考を広げることはできるのであろうか?「未開の状態を理想化すること」を批判するものがいる。彼らは新しい思考の発展は、古いものをすっかり消滅させたうえでのみ可能であると主張する。しかし、その反対の事態が起こらないかどうか(訳注:古いものを消滅させたが、新しい思考は発展しない、ということか?)、彼らに注意を促す必要があるとわたしは考えている。わたしは、アフリカの「非キリスト教的」と呼ばれている信仰体系を考察しているのだ。確かにその慣行にはキリスト教とは調和しないものや反感を覚えるものがあることを私は認めるが、その一方で次のような老人の独り言も聞こえてくる。「もし他人を貶めたり、他人に危害を加えたりする人物がひとりでもいるなら、村はダメになる。」そこでわたしは自分の中にある反感を封じ込め、他の考えに切り替えることにした。つまり、もしわれわれ西欧人が「統合」(incorporation)という言葉には仲間意識という意味(comradely implication)が含まれていることを認め、キリスト教の信仰体系はクラン性や共同性に理解があることをアフリカ人に伝えることができれば、アフリカ人自身は心を許すにちがいない、という考えである。
このように、アフリカの「非キリスト教的体系」について考えることによって、わたしは否応なくアフリカで現在可視化されているキリスト教について考えさせられている。もちろん、なんらかの理想的なキリスト教の信仰体系が存在するふりをするのは時間の無駄である。バントゥー人がじっくりと観察したり批判したりしている中で、実践的な目的のために、日々先頭にたっているのは、キリスト教の信仰体系である。そして、それは強くあるべきところで、弱くなっている。それは仲間意識や共同性を提供していない。それゆえ、たとえば成人儀礼といったアフリカの儀礼について言えば、もしアフリカ人のクラン性を受け入れていないようなヨーロッパやアメリカの信仰体系にこの成人儀礼を組み込もうとするならば、それは時間の無駄である。
こうしたアフリカの儀礼を適用したあと、もし、キリスト教の信仰体系が、現在厳格に隔離されたクラン天国(clan-heavens)である現存の小さな共同体を拡大した「大きな村落」を提示しないならば、その努力はいたって偽善的なものになるだろう。「大きな村落」は拡大されたクラン性(clansmanship)と共同性(association)の基盤の上でのみ発展できる。もしバントゥー人の典礼や儀礼の目的が、仲間意識のメカニズムの上に築かれた自己の永続性と増殖を目的とした組織の中での居場所と責任を個々人に教え込むことにあるということを理解しないならば、バントゥー人の典礼や儀礼のいかなる部分も選び出すことはできない。そして、われわれ自身が、成人儀礼を受けるその拡大共同体の側に身を置く用意がないならば、アフリカ人の典礼の適用を示唆することすら不可能だ。それゆえ、わたしの考えでは、統合の可能性の問題にとって極めて重要なのは、アフリカ人の信仰や儀礼についての議論ではなく、むしろキリスト教徒によるキリスト教の慣行についての議論なのである。というのは、われわれは「ひとつの動物の群れがいる」(There shall be one flock)という5つの単語の答を引き出すことができないようなものには、「キリスト教の信仰体系」というフレーズをあえて適用できないということに気づき始めているからである。
現在適用できないものをより大きな上位の体系に適用させるとことを目指しているすべてのアフリカの信仰と儀礼に関する研究を続けるためには、このことを認識しなければならない。さもなければ、それは欺瞞であり、そのようなものとしてアフリカ人は認識するだろう。ある状況の元では、むしろあせりのしるしと言えるかもしれない。キリスト教のサーヴィスといったような事柄への本物の個人的な関心からではない、単に、興味ある文化人類学的実験のような純粋にアカデミックなアプローチは、キリスト教徒にとっても、アフリカ人にとっても役に立たない。教育を受けたり訓練を受けたりする居住場所が限定されたクラン単位の村であるかぎり、アフリカ人は心の平和を達成したり、未來の安全を確保したりするために「神」といった新しい原理を必要としていない。クランを基盤とした「大きな村」(Great Village)と関連がない場合、拡大されたキリスト教の教えやメッセージを伝達することは時間の無駄である。
「神」(God)という観点からの道徳的・社会的責任―つまりクラン範囲を超えた責任―に関しては、先祖崇拝を離れてはわれわれがアフリカ人に伝達できるものはない。
・・・・・・(後略) (富永智津子訳)
【小泉真理氏によるコメント】
この論文は、当時のエスノセントリズム的キリスト教宣教や文化人類学研究への批判であると考えます。著者Youngは、1904年にマラウィで活動していたイギリス人宣教師であり文化人類学者でした。初期のキリスト教宣教は、進化論的考え方で未開の人々の信仰(邪教)をキリスト教に置き換えようとしていました。それは、西洋人のエスノセントリズムを象徴するものであったといえます。彼もそうした風潮の中で活動してたと思われます。しかし、著者はアフリカにおけるキリスト教宣教活動において、アフリカ人の信仰体系を認め、理解を深める必要性を主張しています。この論文が書かれた1935年ごろ、アメリカの文化人類学ではフランツ・ボアスにより文化相対主義が唱えられ始めています。
また著者は、アフリカ人(バントゥー人)の信仰体系(祖先崇拝)の基盤に「クラン性」「共同体意識」「仲間意識」があると指摘しています。その信仰体系は、クランという「小さな共同体」で機能しており、キリスト教は「大きな村落」という考えのもとに理解さなければならないと述べ、アフリカ人の思考の拡大なしに、キリスト教への理解は進まないと論じています。こうした彼の主張は、当時イギリスにおいてエヴァンズ=プリチャードがアザンデ社会(1937)やヌアー社会(1940)で祖先崇拝について研究し、アフリカ人の信仰体系を明らかにしていることとも繋がります。つまり、この論文は、新しい扉を開けつつある当時の文化人類学の研究動向を反映するものであり、それまでのキリスト教宣教活動の考え方に一石を投じようとするものであると思います。
この論文から80年が経ち、多くのアフリカ人がキリスト教に改宗し、キリスト教はアフリカの地で根を張っています。その間、人々の村落での生活は国家に繋がり、さらに世界へと繋がっていきました。20世紀末からアフリカで急速に拡大したペンテコステ主義的キリスト教では仲間意識や共同体意識が強調され、神という観点からの道徳的責任が強調されています。Youngが論じている「大きな村落」が現代のキリスト教において具現化されたということができるのではないでしょうか。