目次
【アフリカとわたし―フィ―ルドの風景】
エッセイ&イラスト 富永智津子
ここでは、『婦民新聞』に連載した中から、フィールドの風景を転載します。フィールドは、年を追うごとに、東アフリカのザンジバル島からヨーロッパ、そしてアメリカへと広がっていきました。
王女サルメとその末裔たち①
-
2008年3月、わたしはドイツ北部の港町ハンブルク市内の墓地にいた。手入れのゆき届いた林に抱かれた広大な墓地だ。小雪が舞う寒い日だった。ようやくたどり着いた小さな墓標、ここにはわたしが20年ほど前からその生涯を追跡してきたひとりの女性が眠っている。
- 女性の名は、サルメ・ビンティ・サイード、またの名をエミリー・リューテ。1844年、東アフリカ沿岸のインド洋に浮かぶサンゴ礁の島ザンジバル(タンザニアの島嶼部)にイスラーム王家の一員として生まれ、1924年にドイツで没した王女である。
- 父は、オマーンと東アフリカ沿岸部一帯を支配するイスラーム王国の盟主、母はコーカサスからザンジバル島の王室に売られてきたチェルケス人の奴隷だった。
- 生まれ育った離宮は、他にもアビシニア人やアッシリア人、あるいはグルジア人の側室とその子供たちが大勢おり、多民族・多言語の国際色豊かな空間だった。いや、離宮だけではない。王宮のある都市部は、インド洋海域とアフリカ内陸部との象牙や奴隷の交易地であり、アラブ商人やインド人商人が繁栄を謳歌する国際都市だった。そこに割って入ってきたのが、西欧諸国の商社である。
- 父王の死後、後継者をめぐる宮廷クーデタに巻き込まれて傷ついていたサルメは、こうした商社がもたらす西欧文化に魅かれるようになっていった。やがて、サルメは、ドイツ商社の代表としてやってきていた青年と恋におち、妊娠する。1866年のことだった。禁じられた愛を貫くために、サルメは密かに島を脱出し、アデンで恋人と合流、キリスト教に改宗して結婚式を挙げ、ただちに夫の故郷ハンブルクに向かった。その途中、悲劇がサルメを襲った。アデン滞在中に生まれた長男が、列車の中で息を引き取ったのだ。
- しかし、ハンブルクでは、夫の両親や親せきに温かく迎えられ、異国での新しい生活をスタートさせた。だが、その幸せな日々は3年あまりで終止符が打たれる。3人の幼子を遺し、夫が交通事故で急死したのである。1924年、79歳でこの世を去るまでの長いサルメの苦闘の年月の始まりだった。(『婦民新聞』2009年11月)
王女サルメとその末裔たち②
- サルメは1886年に回想録を出版している。アフリカ生まれのアラブの王女の自叙伝として評判を呼び、ただちに英語やフランス語に翻訳された。そのハイライトは、女性だけが知り得るイスラーム社会のハーレムのこまごまとした暮らしぶりや人間関係と、サルメが3人の子供たちを同行した初めてのザンジバルへの「里帰り」であろう。
- この「里帰り」の背後には、あわよくばサルメを利用してザンジバルを植民地化しようとするドイツ宰相ビスマルクらの思惑が絡んでいた・・・・・。2009年5月、わたしはサルメのひ孫に会うためにアメリカのノースカロライナ州に向かっていた。ハンブルクの墓地を訪ね、サルメの墓標の前に立った時、わたしは初めてサルメを身近に感じた。それが、サルメの末裔探しにつながったのだ。ひ孫の長女が世銀に勤務しているという情報が手がかりになった。
- 上空から見るノースカロライナは、一斉に芽吹いた木々の緑が美かった。整然と区画された町は、迷路のようなザンジバルの町と対照 的だ。空港に出迎えてくれたのは、ショートカットの栗毛色の髪にブルーの瞳、そして知的な雰囲気の漂う女性だった。名はウァスラ。黒髪が似合うサルメは、どちらかというとスラヴ的な容貌をしていた。眼の前のウァスラは典型的なドイツ人。両者をつなぐ糸をどのようにして手繰って行ったらよいか、不安がよぎる。だが、ウァスラの自宅に足を踏み入れたとたん、その不安はたちまち解消した。
- 部屋のいたるところに、サルメとウァスラをつなぐ写真や絵や家具があふれていたのだ。話を聞く中で、彼女が癒しがたい悲しみを抱えていることがわかった。2005年、アフリカを愛してやまなかった長男が不慮の死を遂げたのだ。長男は国連平和維持部隊に参加し、紛争が続くコンゴ民主共和国で「ラジオ・オカピ」の創設にも携わり、サルメの映像化もすすめていたのだという。ウァスラのサルメへの想いは、長男の死を通して深まりつつあったことを、わたしは、別れ際に渡されたウァスラのワープロ原稿から知った。(『婦民新聞』2009年11月)
王女サルメとその末裔たち③
- サルメのひ孫ウァスラのワープロ原稿の後半部分を紹介しよう。「わたしは言語が好きです。言語は、それぞれの文化を反映する鏡であり、素晴らしい挑戦であると同時に素晴らしい財産です。
- わたしの4人のこどもたちは、多言語話者として育ち、あちこちの大陸で勉強し、仕事をしてきました。とりわけ、息子のマーティンは、アフリカ育ちのアラブ人サルメの足跡をたどっていました。
- マーティンは国連の組織の一員としてコンゴ民主共和国で仕事をし、音響エンジニアとしてアフリカ音楽のレコーディングを手掛けました。彼はザンジバルに2回行っています。最初は、われわれ両親と姉と一緒でした。また、
サルメのフィルムを制作しようと、オマーンにも2回足を運んでいます。彼の夢のひとつは、オマーンとザンジバルの絆を深めることでした。
- わたしの祖国に境界はありません。わたしは、自分を世界市民だと考えています。世界のすべての人々は神の子供たちなのです。そこでは、国籍は何の役割も演じていません。わたしが世界や私自身やわたしの家族をこのような視点から見ることができるということは、何とうれしいことでしょう。わたしは、この自由を楽しむことができます。サルメはこうした生き方のモデルなのです。
- しかし、彼女には限界がありました。ですから彼女は世界市民であることを全うすることができませんでした。限界というのは、彼女の悲劇的な運命と彼女を苦しめた偏狭な地域性です。
- 回想録を執筆することが、彼女にいくばくかの自由を与えたと言えるでしょう。その回想録は、ヨーロッパで大きな反響を呼びました。そのことが、サルメに安らぎと達成感を与えたに違いありません。そして、この回想録は、彼女が心血を注いで、文明間の理解を促し、国際的理解を進展させるための意義ある仕事をした何よりの証拠だと言えるでしょう。」
- この原稿のタイトルには、「アメリカ初アフリカ系アメリカ人大統領バラク・フセイン・オバマの歴史的な就任式の日に」という副題がつけられていた。(『婦民新聞』2010年1月)
王女サルメとその末裔たち④
- 2009年5月、ザンジジバルの王女サルメの曾孫をアメリカのノースカロライナ州に訪ねた折、曾孫がもうひとりフロリダ州に在住しているとの情報を得た。聞けば、ともにサルメの子孫であることがわかったのは、インターネットを通じてのことだったという。しかも、つい5年ほど前のことだという。
- わたしはさっそく年末年始を利用して、フロリダに飛んだ。上空から見るフロリダは奇妙な地形をしていた。川もないのに、湖もどきの大小の池が点在しているのだ。曾孫のアン・バウアーは、そんな池のひとつに面した一軒家にひとりで住んでいた。赤みがかった髪、彫の深い顔立ち、しかし、目は細く優しげだ。インタヴューは苦手と言いながらも、ぽつりぽつりと話をしてくれた。
- 生まれたのは1934年・・サルメが所有していたイギリスのマンションでね・・5歳の時戦争がはじまり、大勢の子どもと一緒にカナダに送られたの・・。ニュージーランド船だったわ・・3隻でね・・だけど2隻は沈没してしまった・・5年後イギリスに送り返された時には母は離婚していて・・再婚相手は映画俳優・・その後また離婚して(笑)・・3人目の義父はジャーナリスト・・アイゼンハワーの下で仕事をしていたことや、ヒトラーに4回もインタヴューしたことなどを話していたわ・・この義父がアメリカに転勤になったので一家で移住したのよ・・わたしがカレッジを卒業した頃、彼はポーランドへ転勤・・わたしもアメリカ大使館で働いたの・・J・F・ケネディがよく来ていたわ・・手紙をもらったこともあるのよ・・このジャーナリストの義父と母との結婚生活は20年以上も続いたけど、結局別れて4度目の結婚・・母は自由奔放な人だったわ・・。わたし自身は10年と1カ月で離婚したけど再婚はしなかった・・後悔しているのは2人の息子を一緒に育てられなかったこと・・長男は夫のもとに・・サルメの末裔だということをどう思うって?・・そうね~・・特にどうってことはないわね・・あとは息子に聞いてね・・。
- こう言って話を打ち切るとアンはわたしを連れて息子マイケルの家に向かった。(『婦民新聞』2010年2月)
王女サルメとその末裔たち⑤
- 2009年12月のフロリダ。半袖でも過ごせる温暖な気候である。サルメの曾孫アンは、わたしを伴って息子マイケルの家に向かった。マイケルは、アンの家から目と鼻の先の一軒家に、ひとりで暮らしている。38歳、独身主義を貫いているという。しかし、「ゴッド・サン」が2人いるのだと母親のアンは自慢げだ。聞きなれない言葉にとまどっているわたしにアンが解説する。ゴッド・サンはマイケルがポリス・アカデミーで訓練を受けていた時の親友夫婦の息子たち・・彼らとマイケルは一生「親子」の関係を続けるの・・。こういう生き方もあるのだ。
- わたしはちょっとしたカルチャーショックを受けた。しかし、それよりもっと驚いたのは、マイケルの家に足を踏み入れた時だ。居間に隣接する部屋にサルメゆかりの品々が並べられ、さしずめ小さな博物館のようなのだ。並べられている品々を一つ一つ見てゆく。ザンジバルで使われていた古いコインの山、スルタンの所持品だったと思われる刀や短剣、サルメの長男にあたる曾祖父がさまざまな機会に授与された勲章・・・そうした中で、わたしがもっとも惹きつけられたのは、サルメと成長した3人の子供が一緒に写っている写真や、サルメの長男とそのユダヤ系の妻の写真など、これまで公表されていない写真の数々だった。マイケルのサルメへの関心は、10年ほど前、家族の誰も関心を示さなかった祖母の長持ちを開けた時に火がついたのだという。それは、自分がかつての東アフリカのイスラーム王国ザンジバルのロイヤル・ファミリーの末裔であり、現オマーン王国の王族とも血縁関係にある、ということにある種のアイデンティティを見出した瞬間だったのではないか。マイケルは、2007年にサルメの生まれ故郷ザンジバル島を訪れてもいる。それが、さらに彼のルーツ探索の情熱に油を注いだ。19世紀半ばに、はるかアフリカの地で起こった王女サルメとドイツ人青年との恋の物語は、150年近い年月を経て、フロリダの小さな町で麻薬と売春の取り締まりを担当するマイケルの人生と交差しはじめている。(『婦民新聞』2010年3月)
スワヒリの家族 ①
- 2009年8月、長女一家と次女の6名で、タンザニアのザンジバル島を訪れた。2人の孫は、1982年にロンドンからザンジバル島に同伴した時の娘2人とほぼ同年齢の15歳と11歳。
- ザンジバル島には、20年以上も前から親しくしている友人一家がいる。初めて出会った時1児の母だった友人は、今や24歳を頭に6人の子持ちだ。そのうちの年少の2人が、孫たちと同年代。
- スワヒリ語で家族のことを「ジャマー」という。辞書を引いてみる。「一緒に集う人々、家族、社会、会社、集会、会合、親族、友人・・・」。日本語の家族はどうか。「夫婦の配偶関係や親子・兄弟などの血縁関係によって結ばれた親族関係を基礎にして成立する小集団」。明らかに「ジャマー」の定義の方が広い。いわば、小さな共同体だ。血縁や親族関係を越えて、はてしなく広がる可能性を秘めている。
- 実際、タンザニア初代大統領のニエレレは、この「ジャマー」から派生した「ウジャマー」(家族共同体)を新生独立国家の理念とした。そんなジャマーの基本型が友人一家だ。一家は、子ども部屋などあろうはずもない狭い長屋に暮らしている。夫の親と障害を持った妹も一緒だ。最近、長男が結婚して孫が生まれた。近所に暮らしている孫一家は毎日やってきて、ほとんどの時間を友人の家、つまり実家で過ごしている。孫の母親は幼稚園で英語を教えており、夫の実家で塾も開いている。床に座って膝の上でノートとにらめっこの生徒。先生は、赤ん坊に母乳を飲ませながら、ノートの点検だ。授乳が終われば、めんどうをみてくれる手には困らない。
- 一方、子供たちは個室がないから、学校から帰ると必ず外で遊んでいる。女の子は家の近くで遊び、男の子は広場でサッカーだ。孫たちも、この仲間に入れれば「ジャマー」になれる。新しいスワヒリ語の辞書を引くと「ファミリア」という言葉が目に飛び込んできた。その第一義は「妻」。そこまで狭めなくても・・・と思いは複雑!
- ザンジバルがすっかり気に入った孫2人だが、異文化の中で感じたことをまだうまく表現できないでいる。それが、熟成するにはもう少し時間がかかるだろう。(『婦民新聞』2009年9月)
スワヒリの家族 ②
- ザンジバルの友人一家について、もう少し紹介しよう。東アフリカ沿岸部の歴史と文化が埋め込まれている典型的な一家だからである。友人の名前をファティマ(仮名)としておこう。
- ファティマは、インド人移民の父親とアフリカ人の母親との間に生まれた。母親の民族名は「バジュニ」。ケニア北部沿岸のバジュン諸島出身で、その父親はイエメン系のアラブ人男性とアフリカ人女性との間に生まれた混血だったという。
- 母親の妹はオマーン系のアラブ人と結婚している。ファティマ自身は、ザンジバル生まれのインド人と結婚したため、家庭の雰囲気はいたってインド的だ。
- 家の中では、夫の母語であるカッチーというインド北西部の言語とスワヒリ語が飛び交い、衣服もインド風。子供たちは、膚の色が比較的白い子から黒い子までのグラデーションがあり、顔立ちも極めてインド人的な特徴を備えた子からアラブ的、あるいはアフリカ的ともいえる子まで六人六色だ。
- ファティマ自身もアフリカ・インド・アラブの特徴が微妙に混在した顔立ちをしている。しかし、ある時、アフリカ的な容貌の女性を妹だと紹介されてびっくりした。
- 日本人からすると、何ともややこしいが、スワヒリ社会ではこんな一家はめずらしくはない。アフリカ文化を基盤にアラブ文化とインド文化が交差する東アフリカ沿岸部のスワヒリ文化の人的交流の歴史は、そこに住む人々のDNAにも埋め込まれているのだ。
- しかし、いつも気になっていたことがひとつある。それは、異なる民族間の婚姻の場合、夫がアラブ系かインド系で、妻はアフリカ系という場合がほとんだということ。これは一体、何を意味するのだろうか。
- 世界的にみて、経済的に豊かで、文化的に優位にあるという意識をもつ民族の女性は、経済的に貧しく、文化的に劣位にあるとみなす民族の男性とは結婚しない傾向がある。この傾向はスワヒリ社会にも当てはまるのだ。いや、つい最近まではそうだった。というのは、この夏、とても色白なファティマの姪が、「本物」のアフリカ系の男性と結婚したのだ。
- 新しい時代を象徴する新しい「家族」の誕生だった。(『婦民新聞』2009年10月)
ザンジバル実習(その1)
- 「あの太っちょのマサイのおじさん、本物かな~。」ザンジバルに出稼ぎにきているマサイのビジネスネットワークを調査の対象に選んだ学生は、この疑問がいつも頭から離れない。
- この夏、ゼミの学生3名とザンジバルでのワーキング・ホリデイを楽しんだ。実は2002年以来、私のザンジバル調査には学生が同行するのが恒例となっている。2002年は、初めてザンジバルに38名の学生を連れていった年。ザンジバルの小さな空港に到着し、マイクロバスに分乗してストーンタウンに向かった時の感動が今も忘れられない。ようやく、学生をフィールドに連れて来ることができたという感動である。
- わたしの勤務する国際文化学科では、毎年、海外で学生に実習をさせるカリキュラムが組まれている。今年で20年目。折々の世界情勢に合わせて、エジプト、インド、フィリピン、カナダ、中国・・・など様々な地域で行ってきた。私の担当はアフリカ地域。エジプトから始まり、モロッコにまで足を延ばしたこともあった。
- その頃、サハラ以南アフリカでの実習など夢のまた夢だった。ザンジバルもしかり。理由は、足となる交通機関なし、ホテルなし、手ごろなレストランもない。それが、なんと90年代に入って状況が一変した。観光ブームである。
- もともと穏やかな民族性とも相まって、治安よし、サンゴ礁特有の風光明媚な海岸よし、歴史的な名所旧跡もそこそこ・・・ということで、一気に欧米からの観光客が増えたのだ。それに伴い、ホテルもレストランも増え、ストーンタウンはすっかり様変わりした。
- 2000年にストーンタウン全体がユネスコの世界文化遺産に登録されたことも、観光ブームの追い風となった。これなら学生を連れてきても大丈夫!と確信したのが2001年。1年かけて準備し、2002年暮れ、1か月間の実習が実現したのである。
- 以来、人数にはバラつきがあるが、学生を伴ってのザンジバル詣でが続いている。帰国の日を目前にして、学生からの報告があった。「先生、太っちょマサイ、本物のマサイでした!」連日のインタヴューですっかり仲良くなった成果だった。(『婦民新聞』2008年10月)
ザンジバル実習(その2)
- 「先生、映画館、やってました!」ザンジバルの映画事情をテーマに選んだ学生の興奮した声に、私もうれしくなる。実は、ザンジバルには2軒の映画館があった。そのうちの1軒は売却されてビジネスコンプレックスとして生まれ変わろうとしていることはすぐにわかったのだが、もう1軒が営業しているのか、閉鎖されたのかがわからない。
- 聞き込みがはじまった。閉鎖されたという確信犯もいれば、いや営業しているという人もいる。映画館の周囲を眺めまわしても、営業している様子はない。窓はといえば、すべてベニヤ板が打ちつけられている。隣の店の店員ですら、わからないという。
- 思案に暮れていた時である。学生が、今しがた映画を見てきたという男の子に出くわした。学生曰く「あわてて駆けつけると、ドアが開いて、上映中との看板がでていたんです。ちょっともぐりこんで中をのぞいたら、なんと客席2百以上、アメリカ映画がかかっていました!」
- 衛星テレビやDVDの普及で映画は斜陽になっているとはいえ、まだかろうじて存続していることがようやく判明したのである。
- フィールドワークの醍醐味とは、ひとつの事をつきとめる過程がおもしろい。そこから、ザンジバル社会の人びとの日常や動きが見えてくるのだ。その醍醐味が、次のステップへのエネルギーを補充してくれる。
- 学生が海外、それも途上国の生活を体験すると、時に人生観が変わるほどのインパクトを受ける。偏狭な価値観から自分を解き放つ機会にもなれば、自分を見つめなおす機会にもなる。
- そういう学生の変身ぶりを目の当たりにすると、準備や指導に費やした苦労も吹っ飛んでしまう。映画館が営業しているかどうかで、こんなにも興奮できるなんて、日本では考えられないことだ。
- その後、当の学生が、ちょっと映画を見てくるね、と言って、ひとりで映画館に出かけて行ったのは言うまでもない。帰っての報告「観客のほとんどは男性、スワヒリ語の字幕はついていませんでした、みんな英語がわかるのかな~。」
- こうして、ようやく調査の入り口にたどり着く。(『婦民新聞』2008年11月)
ザンジバル実習(その3)
- 学生の調査に付き合いながら、私も負けまいとアンテナを張る。そのアンテナがキャッチした人物がいる。シティ・ビンティ・サアディ(1870~1950)という歌手のひ孫だ。
- シティは、ザンジバル農村部の貧しい壺造り職人の家に生まれ、天性の美声を見込まれ、やがてタアラブ歌手として大成した伝説的な女性である。
- タアラブとは、エジプト起源のスワヒリ音楽。つまり、アラブ音楽にアフリカやインドのリズムが取り入れられ、それが独特のスワヒリ音楽に転化した歌謡である。この転化に決定的な役割を果たしたのがシティだった。
- シティの美声は海外でも注目され、初のレコーディングも経験した。女性が公衆の面前に出ることすら憚られていた時代、シティはヴェールで顔を覆って歌った。それが、妬みと相まって「顔が悪いから隠しているのだ」、いや、「本当はやけどをした顔を見られたくないのだ」などといったさまざまな中傷誹謗にもさらされたという。
- 私は、そのシティのひ孫のひとりに、タアラブ歌手となったムハラミという女性がおり、顔も声もそっくり!という情報をキャッチした。何とかムハラミに会えないものかと、彼女の親族ネットワークを洗った。そして、とうとう彼女の居場所を突き止めたのである。
- そこは、ストーンタウンから車で20分ほどの水道もガスも電気もない農村部の一軒家だった。薄暗い部屋から、熱帯の太陽光を片手で遮りながら出てきた女性を見て、私は一瞬息を呑んだ。シティに生き写しなのだ。
- 挨拶もそこそこに、私は、持参していたシティの写真を彼女の手に渡し、「2人」を写真に収めた。考えてみれば、何と不躾な・・・。しかし、彼女は恥ずかしそうに笑うだけ・・・。その笑みは心なしか、少し寂しげだった。
- その後のインタヴューで寂しげな表情の理由が判明した。なんと今、彼女はタアラブを歌えない状況に陥っているのだ。同じくタアラブ歌手となった兄が、シティの後継者の名を独占したいがために妹が歌うことを禁じてしまったのだという。
- ムハラミの、シティを彷彿とさせる声は、私のテープレコーダーに大切に保存されている。(『婦民新聞』2008年12月)
ブサラ2010(1)
- わたしが1980年代から通い続けているタンザニア連合共和国のザンジバル島では、毎年、サウティ・ザ・ブサラ(スワヒリ語で「知恵の音」の意)と呼ばれる国際音楽祭が開催されている。開催は2月と決まっている。現役教員は、入試業務で動きのとれない時節だ。定年を迎え、自由になったのを機に、まずはこの音楽祭に行ってみることにした。
- 2月のザンジバルは年間で最も暑い季節。しかも、昨年12月から全島停電が続いている。15名ほどいた同行希望者は、この情報を聞いて、どんな状況でもサバイバル可能と自負する4名に激減した。
- バイトで必死にお金を貯めてきた学生のためを思って、なるべく安い旅程を組んだ。仙台から新宿へは格安の高速バスを使用、羽田から関空までの無料フライト付きのエミレーツ航空便でドバイ経由タンザニアに飛び、プロペラ機でザンジバル、というコースだ。
- 往復旅費は入国ビザ代も燃油特別付加運賃もすべて含めて17万ちょっと、宿泊は少々贅沢をして海岸に面したプール付きの瀟洒なホテルにしたが、ふたりでシェアすれば、朝食付きで一泊6千円。日本時間の午後11時過ぎに関空を発って、翌日の午後6時にはザンジバルのホテルに着く。時差はマイナス6時間だから、トランジットの時間を含めての所要時間は約24時間ということになる。
- 音楽祭の会場はオールド・フォートと呼ばれる要塞の中庭だ。ホテルから歩いて5分の距離である。食事がてら、さっそく様子を見にでかけた。停電とあって、日没後は懐中電灯が必要だ。しかし、ホテルやレストランや土産店は自家用発電機を導入しており、通常通りに営業している。心配していたほどではなさそうだ。ただし、町中、この発電機の轟音が鳴り響いていてかしましい。
- 音楽祭の会場への狭い入口をくぐりぬけ、押し合いへしあいしている群衆にもまれながら、広々とした中庭に入る。中庭の芝生には、大勢の聴衆が思い思いに腰をおろしている。舞台のライトも大丈夫そうだ。
- その夜は場所の確認にとどめ、明日の演奏を楽しみに、レストランでスワヒリ料理を食べ、ホテルに戻った。(『婦民新聞』2010年4月)
ブサラ2010(2)
- 南半球の2月は、さすがに暑い。濡れタオルで拭いても、シャワーを浴びても、皮膚はいつもじっとり汗ばんでいる。国際音楽祭「ブサラ」は、2003年にダウ文化圏(ダウ船と呼ばれる古代から使用されてきた船舶が結ぶ地域―東アフリカ・中東・インド・東南アジアを含む)の音楽振興を目的にザンジバルで発足したNGOが主催している。
- 8回目に当たる今年のラインナップも国際色豊かだ。地元のザンジバルはもとより、タンザニア本土、エチオピア、ガンビア、南アフリカなどのグループの他、日本人・イギリス人・アメリカ人などが加わった複数の混成グループが名を連ねている。
- 音楽祭は日没後が本番だ。サッカー場2つ分ほどの芝生は、千人ほどの聴衆で埋め尽くされている。静かに耳を傾けている老人や、ひたすら音楽に合わせて踊っている若者がいるかと思えば、ビールを飲んでいる外国人や、おしゃべりに興じている現地の女性たちもいる。音楽を介して、思い思いに集っているといった感じである。
- ヨーロッパ人が3分の1ほどはいるだろうか。演奏される音楽のジャンルもさまざまだ。民族音楽あり、ボンゴ・フレイバあり、ロックあり・・・。しかし、何といっても聴衆待望の的は自称百歳を超えるビ・キドゥデばあさんだ。伝説的なザンジバル出身のタアラブ(エジプト起源のスワヒリ音楽)歌手である。
- 海外公演も数しれず、日本にも2回訪れている。ところが、この待望の「歌姫」が出演できなくなったらしいとの噂が流れ、やがて、それが現実となり、失望感が広まったのだ。理由は、タンザニア本土で連合政府の大統領肝いりで催されるマラリア撲滅キャンペーンに動員され、日程がバッティングしたのだ。
- 19世紀、ザンジバルはダウ文化圏の中心として本土を凌ぐ繁栄を享受していた。そのザンジバルが、電力さえ本土に依存せざるを得ない状況に陥っている。ザンジバルにも大統領はいるものの、経済力・政治力の格差は誰の目にも明らかだ。
- わたしには、ビ・キドゥデの突然のキャンセルは、ザンジバルと本土とのこの力関係を象徴しているように思えてならなかった。(『婦民新聞』2010年5月)
インド人移民(1)
- 先日、東京の大学で教えている友人から、タンザニアのインド人社会をテーマに卒論を書いている学生がいるので相談に乗って欲しい、との連絡が入った。後日、その学生に直接会って話を聞いた。何と、彼女の母親はタンザニア生まれのインド人、父親は農業指導員として赴任していた青年海外協力隊員の日本人だという。
- ふたりは現地で知り合って結婚、以来ずっと日本で暮らしている。日本で生まれた彼女は、日本語を母語とし、日本の教育を受け、文化的にも日本人として暮らしてきたとのこと。容貌も、目が少し大きいことを除けば、日本人とかわらない。両親が時々スワヒリ語で会話するので、スワヒリ語はわかるという。
- 大学に入って母親のルーツに関心を持ち、いろいろ聞き出そうとしたのだが、母親自身、祖先がインドのどの地域の出身かもわからなくなっており、なかなか手がかりは得られない、と当惑気味。彼女が持参した卒論の中間報告のレジュメを見ると、参照しているのはほぼ私の論文や著書・・・そういえば、インド人移民社会を追いかけていたころがあったな~・・・。
- こうして私は、東京の友人を通して、学生の卒論相談に乗ったことをきっかけに、すっかり記憶から消えていた20年以上も前の自分に再会することとなった。インド人移民の調査で世界各地を歩きまわっていた頃の私である。
- 最初の調査地はタンザニア、それからイギリス、日本の神戸・沖縄・東京を歩き、香港とフィリピンにも飛んだ。東アフリカへの移民送出地であるインド西部のグジャラートやオマーンも歩いた。各地でインタヴューに応じてくれたインド人移民の顔が次々に浮かんでくる。ヒンドゥー教徒、シク教徒、イスラーム教徒にジャイナ教徒、そしてゾロアスター教徒のパールシー・・・もちろんキリスト教徒もいる。
- さらに、ヒンドゥー教徒はカーストとサブ・カースト(ジャーティ)集団に、イスラーム教徒も大きくスンナ派とシーア派にわかれ、それぞれがいくつもの集団に枝分かれている。
- 本当にインド人社会は複雑だった。そして、いずれもがそれぞれに慣習を維持しながらも、定住先のホスト集団と必要最低限の折り合いをつけて共存していた。そうしたインド人移民の生き様を、記憶をたぐりながら紹介してみたい。まずはタンザニアから始めよう。(『婦民新聞』2013年2月)
インド人移民(2)
- 初めてタンザニアの首都ダルエスサラームに足を踏み入れた1979年のことである。仕事をしていた国立文書館は午後2時半には閉館となる。日暮れまでの時間は目抜き通りの散策に費やした。
- そんなある日、商店街のどの店にも、申し合わせたようにインド人が帳場に陣取っていることに気がついた。アフリカは「黒人の国」との思い込みの中で、インド人の存在など、たとえ目に入っても気に留めていなかったのだ。しかし、いったん気になると、いろいろなことが見えてきた。目抜き通りの商店街は例外なくインド人が経営していること、集合住宅や二階・三階建ての建物はほとんどがイギリス統治下でインド人によって建てられたものであること、街の一角にヒンドゥー寺院やスポーツクラブなどインド人関係の施設が密集している地区があること、インド人の建てた学校や病院がアフリカ人にも解放されていること・・・。
- こうした参与観察を通して、私はダルという街がインド人によってインド人のために建設された街ではなかったか、という印象をもったことを記憶している。同時に見えてきたのは、インド人とアフリカ人とのある種の緊張関係である。その根底にあったのは、独立によってイギリス支配の手先だったインド人は二級市民に、アフリカ人は一級市民へと立場が逆転したにもかかわらず、依然として両者の間に存在する経済的な格差だった。
- 当時、タンザニア経済が、「オイル・ショック」にともなう原油価格の高騰とウガンダとの戦争とによって疲弊しきっていたことも、この緊張関係に油を注いでいた。海外ネットワークを持つインド人商人は、この不況時をいいことに、うまく立ち回って金儲けをしているとのアフリカ人の疑惑が、根も葉もない噂となって広まってもいた。
- 高級車で移動しているインド人と、テクテクあるくしかないアフリカ人・・・この対照的な光景が、それを裏づけているようにも思えた。その後、ダルと眼と鼻の先のザンジバル島に研究の拠点を移した私は、そこでも同じような社会構造が展開していることを知ることになる。いや、ダルよりもっとインド人が幅をきかせていたといってよいかもしれない。その歴史の糸をたぐっていくと、アラビア半島のオマーンに辿り着く。(『婦民新聞』2013年3月)
インド人移民(3)
- インド洋・・・英語ではインディアン・オーシャン。それは「インド人の海」とも訳せる。その名のとおり、まさに、インド人の商業ネットワークが動かしてきた世界、それがインド洋海域なのだ。
- アラビア半島のオマーンもそのネットワークに含まれる。オマーンの首都マスカトは、中世の面影を残した小さな港町。そこから10分ほど車を走らせるとマトラと呼ばれる別の港町にでる。この港に面した住宅街の一角に、インド人移民の居住区がある。建設されたのは400年前とも300年前ともいわれる。
- 周囲を高い塀で囲われ、入り口は一箇所しかない閉鎖空間だ。1986年8月のある日、私は、この居住区の長老の家で、彼の生い立ちに耳を傾けていた。「私どもはシーア派のイスラーム教徒です。インド西部からの移民の子孫です。ヒンドゥー商人は隣の王都でもあるマスカトを拠点として貿易をしていました。おそらく宗教上の理由もあってヒンドゥー商人は王の庇護が必要だったからでしょう。ここはイスラームの地ですから・・・。」
- 一方、イスラームの王にとっても、ヒンドゥー商人は何かと便利な存在だったに違いない。というのは、複雑な派閥抗争を繰り広げていたオマーン社会にあって、どの派閥にも属さないヒンドゥー商人は、決して王を裏切らない存在だったからである。その王がヒンドゥー商人に託した事、それは王の財源である関税の徴収だった。王は、内陸で生産されるナツメヤシを輸出し、綿布や生活必需品をインドやアメリカから輸入するイスラーム商人の流通を支配することによってオマーンを統治していたのである。
- そんな歴史に新しい風を吹き込んだのが、もっと有利に関税収入を見込める東アフリカに目をつけたサイード王である。その東アフリカの中で、サイード王がもっとも気に入り、王都を建設して移り住んだのがザンジバル島だった。
- その時、懐刀であるインド人商人が王と行動を共にしたことはいうまでもない。こうして、イスラームの王とヒンドゥー商人とが構築した関税徴収のシステムが、東アフリカに移植されたのである。
- やがて、インド亜大陸から、一攫千金を夢見るさまざまなインド人商人や職人がザンジバルに吹き寄せられ、東アフリカでもっとも大きなインド人社会が出現することになる。19世紀のことだった。(『婦民新聞』2013年4月)
インド人移民(4)
- ザンジバルに移住したインド人の末裔で世界的に有名な歌手がいる。イギリスのロックバンド・クイーンのフレディ・マーキュリーだ。1991年、45歳でこの世を去ったが、その代表曲「ボヘミアン・ラプソディ」や「伝説のチャンピオン」は、今なお残されたメンバーによって歌い継がれている。
- 世界最高のヴォーカリストと評されるフレディだが、同性愛者であったこと、そしてエイズで死亡したことから、イスラーム社会のザンジバルではあまり評判がよくない。
- しかし、最近、彼の名前をつけたレストランが海辺に開店されたり、生誕の場所を示すパネルがインド人の店の外壁に貼り付けられたりして観光客の注目を集めている。
- フレディというロック歌手は、彼が生を享けたパールシーという共同体が生み出したといっても過言ではない。パールシーとは、イランからインド西部に移住したゾロアスター教徒の末裔である。移住後も独自の慣習を守り続け、マイノリティとして生きてきた。
- イギリス領となったインドでは、支配者の庇護を受け入れ、植民地支配を支えている。インド人ナショナリズムが伝統回帰に傾斜する中、西欧文化を受け入れてインドに音楽や文学の新しい風を吹きこんだのも彼らである。
- そうしたパールシーの歴史が、フレディの血には流れていたに違いない。そう私には思われる。10年ほど前のことになるが、フレディの親戚だという女性に偶然ザンジバルで会ったことがある。しかもザンジバルで唯ひとりのパールシーだという。
- 高齢のせいで外出はほとんどしない、と言って、熱帯の太陽を避けて室内でひっそり暮らしていた。フレディのことなどを聞きたくて、翌年彼女を訪ねたところ、家の扉は固く閉じられていて人の気配がない。近隣に住む人に尋ねたところ、病気の治療もあってムンバイ(ボンベイ)に引き上げたとのこと。
- こうして、かつては鳥葬(土地を汚すのを避けるために、遺体を高い塔の上に安置して鳥に処理させる葬法)のためのサイレントタワーまで建設していたパールシー共同体の最後のひとりがザンジバルを去った。
- パールシーは今やフレディとともに、語り継がれるザンジバル史の一部となってしまった。インド西部を拠点とするパールシー人口は現在約6万人。その頂点に、インド最大の財閥タタが君臨している。(『婦民新聞』2013年5月)
中東の家事労働者(1)
- かつて「ねえや」、「女中」、「お手伝いさん」、「使用人」、「メイド」などと呼ばれていた住み込みの家事労働者は、先進国ではほぼ姿を消した。姿を消したといっても、つい最近のことだ。
- わたしの家にも住み込みの中卒の「お手伝いさん」がいたことがあり、同じ年頃の私はひどく気まずい思いをしていたことを記憶している。そんな家事労働者の中で、日本で唯一残っているのが宮家の「侍女」である。
- 1912年末、昭和女子大で一般企業と並んで「高円宮家の侍女募集」との求人票がアップされて話題となった。調べてみると、「侍女」とは、宮内庁の職員でも公務員でもなく、宮家の家事一般を担う住み込みの私的な使用人だという。
- 一方、途上国では、この「使用人」がいないと成り立たない社会構造になっている。もう15年ほど前のことだが、インドである教授の家に招待された時、8歳くらいの男児の使用人がいてびっくりしたことがある。その私に教授は言った。「この子は、食べられるだけ幸せなんですよ」と。その子の暗い表情と悲しげな目は、今も脳裏に焼き付いてはなれない。
- 私のフィールドであるザンジバルの友人アシャも、常にお手伝いの女の子を置いている。たいていは、親戚の娘であるが、そうでない場合もある。インドと違い、家事見習い的な色合いも濃く、年頃になると結婚の面倒も見てもらえる。というわけで本人はいたって明るく、楽しんで仕事をしている。同じ共同体に属する娘であることが、こうした雇い主と使用人との親和的人間関係を生み出しているのだ。
- その対局に位置づけられるのが、オイルマネーで潤う中東諸国の家事労働者である。その人数も、一国で数万から数十万単位にのぼり、しかも、すべてが外国人契約労働者である。
- 私の初めての中東経験は、東アフリカ沿岸部と関係が深いオマーンである。何度か調査に通ううち、東アフリカ出身のあるファミリーと親しくなった。その家にはインド人女性が住み込んでおり、料理・洗濯・子守など家の中の雑事を切り盛りしていた。
- オマーンにはフィリピン人の子守も多く、雇い主の赤ん坊が最初に覚える言葉がフィリピン語という笑えない話も伝え聞いた。それから10年、中東の状況はどうなっているのか。2013年の2月、それを自分の目で確認する機会が訪れた。レバノンへの旅である。(『婦民新聞』2013年6月)
中東の家事労働者(2)
- はじめてのレバノン・・その首都であるベイルートの中心街には、1975年から15年間続いた内戦の傷跡がまだ生々しく残っていた。破壊され尽くしたビルの壁面に残る銃痕である。その後遺症は、キリスト教徒地区とイスラーム教徒地区というベイルートの町の東西分断にも見て取れた。訪問の目的は、第一次大戦前、晩年の20年以上をこの地で過ごしたザンジバル生まれのオマーン王女サルメの足跡を訪ねることだったが、思いがけず外国人家事労働者の現状を垣間見るというチャンスにも遭遇した。
- ある日、ホテルの部屋の掃除にやってきた女性が、明らかにアフリカ出身の、しかもエチオピアの女性だったのだ。片言英語での応答を試みる・・・エチオピアの人?イエス・・・もう何年になるの?7年・・・国に帰ったことある?ノー・・・他に来ている人はいるの?イエス・・・何人くらい? たくさん・・・。
- 世界の最貧国から労働力として駆り出されているアフリカ人女性に出会ってはじめて私は、レバノンも他の中東諸国と同じく、海外からの出稼ぎ労働者が大勢いることに気づいた。目が開けるとはこういうことを言うのだろう。それまで気づかなかったことが見えてくる。
- 買い物をしているフィリピン人メイド、乳母車を押しながら「奥様」のお供をしているエチオピア人の子守・・・そうした女性の姿が嫌でも目に飛び込んでくるようになった。
- 人口統計が整っていないレバノンでその実態を知るのは困難だが、ホテルのレセプションでの情報によれば、一番多い外国人労働者はエチオピア人、次いでスリランカ人、第三位にスーダン人がくるという。知人がくれた情報によれば、2006年の推計では、スリランカ人8万人、フィリピン人3万人、バングラデシュ人2万人、エチオピア人2万人、インド人1万人強となっていたという。
- この数値が当時の外国人労働者の国別状況を反映しているとすれば、7年後の2013年、首位はエチオピア人が占めていることになる。この変化の理由は何か?
- ひとつは、レバノンの不安定な政情によるアジア系労働者の国外脱出、もうひとつはアフリカ系の方が安く雇えるという事情。グローバリゼーションの波はアフリカにも波及し、ついにもっとも安価なアフリカ人女性を家事労働者としてリクルートし始めた、と私は思った。
- 次なる私の関心事は、彼女たちの労働環境である。中東における家事労働者の扱いは、常に問題となってきたからである。(『婦民新聞』2013年7月)
中東の家事労働者(3)
- インターネットを開いてみると、中東における女性の住み込み家事労働者の悲惨な状況を知ることができる。雇い主からのレイプを含むセクハラや虐待・・・長時間労働によって精神的にも肉体的にも限界状態のメイドが、たまりかねて雇い主を殺すという事件も起きている。
- ここベイルートではどうなのか。情報を入手できないかと、知人を通して関連組織を紹介してもらった。ひとつはフェミニストの組織、もうひとつは出稼ぎ労働者を対象とした調査団体である。
- これらの組織はウェブサイトを持っており、そこでは最近、エチオピア人のメイドが不自然な死に方をした事件がアップされていた。ベイルート当局側は「自殺」、エチオピア人コミュニティ側では「他殺」と主張、見解が食い違っているのだという。
- どうやら、この事件は氷山の一角に過ぎず、他の中東諸国と同じく、ここでも家事労働者は、さまざまな問題を抱えていることがわかってきた。パスポートを取り上げられ、高層マンションの上階に何年も閉じ込められて酷使されている外国人家事労働者も少なくはないという。
- レバノンからの帰路、ドバイ経由の乗り継ぎが間に合わず(シリア内戦の影響で、飛行ルートが変更になったため)、ドバイのホテルに一泊することを余儀なくされたのだが、そのホテルのレストランでもエチオピア人従業員の姿があった。彼女は1年ごとの契約で、もう1年働くという。ベイルートのホテル従業員に比べると格段に英語が達者だ。接客が必要な職場には、それなりの教育レベルのエチオピア人女性が配属されているのだろう。
- 帰国した私に、オマーンで調査中の知人からメールが届いた。ついにオマーンにもアフリカ人メイドが登場したというのだ。しかも、やはりエチオピア人で、雇い主は低所得層の家庭だという。こうした、世界的に劣悪な労働条件を余儀なくされている家庭内労働者の権利の救済のためにILO(国際労働期間)は2011年6月に『家事労働者のディーセント・ワークに関する条約』を採択した。
- しかし、どんな条約も労働契約も労働法も、家庭という密室の中では力を失う。送り出される家事労働者の背景にあるのは「貧困」である。プッシュ要因としての「貧困」と中東諸国の家事労働者への需要というプル要因が存在する限り、これからも家事労働者の流れがとだえることはないだろう。(『婦民新聞』2013年8月)