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【特論5】Ⅱー③「パン=アフリカニズム運動とジェンダー:シャーリー・グレアム・デュボイスの軌跡」
掲載:2015.09.01 執筆:富永智津子
これは、東京外大AA研共同利用・共同研究課題「アフリカ史叙述に関する研究」(代表:永原陽子)の2012年度第2回研究会での報告要旨を一部修正したものである。紹介しているシャーリー・グレアム・デュボイスは、男性中心のパン=アフリカニズムの歴史の中で光を当てられることがなかった女性のひとりである。かの著名なパン=アフリカニズムの提唱者デュボイスの妻として、彼の思想に大きな影響を与えるとともに、ガーナ移住後のデュボイスの晩年を支えた。時の大統領ケネディにもっとも危険な人物のひとりとしてマークされ、常にCIAの監視下に置かれていた。ガーナ大統領失脚の際、アメリカの介入があったとされているが、その背景には、シャーリーの挙動を追跡していたCIAの情報網があったという。
資料
Gerald Horne、RACE WOMAN:The lives of Shirley Graham Du Bois(New York University Press, 2000)
ジェラルド・ホーンがシャーリーのライフヒストリーを執筆するきっかけとなったのは、偶然、彼女の息子から、シャーリーの遺品がカイロの旧自宅に残されていることを知ったからだった。ただちにカイロに飛んだ彼は遺品を整理するとともに、その後、全米の文書館や資料館に保管されているシャーリー関連の文書をすべて洗い出した。皮肉なことは、常にCIAの監視下に置かれていたため、その報告書の中に、シャーリーの足取りが正確に記録されていたことである。こうして、ホーンは、見事にシャーリーのライフヒストリーの再現することに成功している。
課題
研究史の中の位置づけ:パン=アフリカニズム運動とジェンダー
Shirley Graham Du Bois(1896~1977)は、インディアナポリスで牧師の娘として生まれ、幼い時に経験した人種差別、父親の人道主義、父親への白人優越主義者からの脅迫といった環境の中で黒人としての意識に目覚め、次第に左翼思想にのめりこみ、1940年代に共産党員となり、戦後吹き荒れたマッカーシズムの中で国外追放になった女性である。彼女がトランスナショナルな活動の拠点として選んだのが独立後の国家建設期にあったガーナである。
ガーナ大統領ンクルマの片腕としてTV局の設立や教科書の書き換え、出版局の立ち上げなどの仕事をこなしたが、ンクルマの失脚により拠点をカイロに移す。以後、エジプトのナセル大統領やタンザニアのニエレレ大統領との交流の傍ら、モスクワや中国とも接近、最後まで社会主義とパン=アフリカニズムの思想を捨てることなく、中国で病死した。
グレアムが歩んだ軌跡には、アフリカ大陸から連れだされて離散した奴隷の子孫としてのディアスポラ性と、アメリカ当局から追放され、祖先の地アフリカに辿り着いた現代のディアスポラ性が重なりあっている。そこには、アフリカとアメリカとの間を繋ぐ幾本もの細い糸が次第に太くなり、アフリカとアメリカで「革命」的変化を同時に起こすという「夢」に結集していくプロセスが編みこまれている。そこでは、socialism, communism, anti-colonialism,left-nationalism, pan-africanism, race-feminism,Afrocentrismがさまざまな表現媒体(オペラ制作、劇作、作曲、演奏、俳優、ピアニスト、詩作、自伝作家、教師、政治運動、アドヴァイザー・・・)を通して展開する。そうした活動の集大成として、彼女が夢を託したのは、アフリカではンクルマやニエレレの社会主義とパン=アフリカニズム、そしてナセルのアラブ社会主義、アメリカではマルコムX、カーマイケル、アンジェラ・デイヴィスといったブラック・パワーだった。
モスクワや中国について、彼女は、両国の外交政策が、見掛けは左翼だが本質はアメリカとかわらないことを見抜いていた。しかし、彼女の政治理念を支える源として、最後まで両国、なかんずく中国に希望を託した点においては、生涯、主義主張を通し変節しなかった数少ないひとりだった。シャーリーの悲劇は、アメリカ社会の黒人解放運動が穏健なキング牧師の市民権運動へ傾斜して国際性を失い、ンクルマの失脚によって実践拠点としたガーナから追放され、まさにデラシネとなったことであろう。
女性史/ジェンダー史から見ると、当時の白人男性優位のジェンダー秩序の中で、社会から要求される母親・妻としての義務と責任を、ある時は放棄し、ある時は別の形で補いながら、黒人の女性として、左翼の女性として、有能な女性として政治思想を実践し、国際的に影響力を発揮したグレアムの軌跡は、当時の国際社会の人種とジェンダーの重層的な秩序を反映していたといえるだろう。その中で、彼女があえて、女性の解放より人種差別と植民地主義との闘いを優先したことは、彼女のアフロ・アメリカンとしてのアイデンティティの強烈さを示している。
彼女の生き方と行動は、理想と幻想、現実と虚像とのズレが引き起こす相克や葛藤の軌跡である。そのような女性を輩出した歴史的背景に、トランスナショナルでありながら、あくまでも族的(アフリカ系)アイデンティティに固執して「アフリカ」と「アメリカ」を結びつけようとしたブラック・ディアスポラ性があり、国際的アリーナでのパン=アフリカニズムがあった。
課題と展望
①「アフリカ」を浮かび上がらせる方法としての個人史記述
②女性・ジェンダーの視点を導入する方法としての女性の個人史
③世界史へのアフリカ史の接続のためのパン・アフリカニズム再考
その他の情報
1960年代のleft internationalismとPan African activismとの間の関係を探る上で重要なその他の女性たち・Maya Angelou(1928~2014)・Vicki Ama Garvin(1915~2007)・Amy Ashwood Garvey(1897~1969)・Claudia Jones(1915~64)
初出:AA研共同利用・共同研究課題「アフリカ史叙述の方法にかんする研究」
http://www.aa.tufs.ac.jp/ja/projects/jrp/jrp181
2012年度第2回研究会(通算第6回目)日時:2012年6月2日(土)