【現代アフリカ史2】姉妹交換婚―「平等社会」の落とし穴
掲載:2015.09.24 執筆:富永智津子
婚姻に関するさまざまな慣習や法律は、ジェンダー平等の試金石のひとつである。日本では、戦後はじめて憲法に「婚姻は、両性の同意のみに基づいて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」(第24条)との文言が記載された。しかし、実際には、両親の承諾を得なければ結婚しない若者も多く、憲法の条文を骨抜きにしている。アフリカにおいても同様に、憲法や法律の文言だけから実態が見えてくるわけではない。世界のどの地域でも、人の生活は、憲法や法律に記載されていない社会的規範や慣行によって支えられている。
現在、アフリカの諸民族の間で、もっともジェンダー的に平等であると言われているのが、ピグミーやサン(ブッシュマン)などの狩猟採集民族である。コンゴ民主共和国東北部の森林に住むエフェとよばれるグループとの一九八〇年代以来の長年にわたる付き合いの中で、寺嶋秀明は、狩猟採集社会は一般に平等主義とよばれている行動様式が特徴となっているが、エフェ・ピグミーでも例外ではない、いわゆる権力者はおらず、すべての共同体の成員が発言権と拒否権を持ち、この平等性は「男女間にも浸透している」、夫婦は基本的に対等と考えられており、公共の場でも男女の発言権は平等であり、家庭のなかでも「家長」といった権威は存在しないと記している(寺嶋、1996)。今村薫が調査したカラハリのブッシュマン(グイ/ガナ)の社会も、階層的な男女の差異はみられず、さまざまな儀礼で行われる行為も男女対象か、さもなければ男女がともに参加するという(今村、2010)。
さて、このエフェ社会で、寺嶋が唯一「男性中心的」として挙げているのが「姉妹交換婚」である。交換婚とは、ある男性が妻をめとる際、自分の姉妹(イトコもマタイトコも含まれる)のひとりを妻の兄弟のひとりに嫁がせる、という形態である。その際、姉妹が納得することが条件となっている。それでも、嫁いだ女性が逃げたり、若くして死亡したり、はては駆け落ちする、といった想定外の事態が起こりうる。そうした場合でも、交換の義務がなくなったわけではなく、その埋め合わせを将来に先送りすることで問題を解決しているのだという。そうすることによって集団間のバランスが回復されることになる。寺嶋が、エフェ社会の中で、この交換婚で交換されるのが「女性」であり、「男性」ではない点のみがジェンダー的にみれば不平等であるというゆえんである。
このエフェの姉妹交換婚に変化をもたらした要因として、寺嶋はベルギー植民地下でのキリスト教ミッションやプランテーションでの労役や蜂蜜販売による現金収入、最近では近隣農耕民との接触による物質文化の普及による婚資婚の展開を指摘している。婚資とは、夫方が妻方に支払う財貨(牛、ヤギ、ラクダ、鍬、地酒、布、あるいは現金など)を意味し、これを婚姻の成立に欠かせない要件としている民族は多い。交換婚がうまくいかないが、婚資は支払えるというエフェの男性にとって、婚資婚が交換婚の代替方法として浮上したのである。それにともない、婚資に使用する鍋や衣類や現金を調達できない男性が、農耕民からそれらを捻出してもらうという新しい慣行も展開した。その際、返礼としてエフェに課されたのが、生まれた長女を養女として差し出すという義務である。しかし、エフェと農耕民との間には親族のような絆が育まれており、決して人身売買のような意味合いはなく、自然に受け入れられているという。問題は、女性の流れがエフェから農耕民へという一方通行であることだ。婚資婚とその変形ともいえる新たな交換婚の展開が、ジェンダー秩序を含む集団形成自体にどのような変化をもたらすことになるか。追跡調査が待たれるところである。
ところで、姉妹交換婚をおこなっていた民族は他にもある。ウガンダのルウェンゾリ渓谷に住む農耕民アンバ人もそのひとつ(ウィンター、1968:27)であるが、ここではナイジェリアやカメルーンの焼畑農耕を生業とする少数民族の調査記録を紹介しよう。
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調査は、植民地行政官としてナイジェリア北部に赴任(1912~33年)したイギリス人の社会人類学者C.K.ミークによって行われている(Meek,1936)。彼は、1921年に実施された植民地政府のセンサスによれば、当時12の少数民族が姉妹交換婚を行っていたこと、しかし、負債の帳消しのために交換婚が利用されているとして、この年、植民地政府が交換婚を禁止したこと、その結果、その後、これらの少数民族の間では姉妹交換婚が行われなくなったこと、一方、北東部のアダマワ州の少数民族の中には、まだ交換婚の慣習を維持していた民族がいたことを報告している。カメルーン北部の交換婚の事例も紹介されていることから、この地域一帯では、かなりの少数民族の間で交換婚が行われていたと思われる。
注目すべきは、植民地政府によって禁止される以前に多くの少数民族が交換婚を止めてしまっていたというミークの報告である。その理由として、ミークは、結婚相手を自分で選びたいと思うようになった女性が交換婚を拒否するようになったからだというある長老の言葉を紹介している。つまり、集団の原理で強制的に交換される形態の結婚からの解放を女性自身が望んだのである。長老は一貫して、集団にとっての交換婚の安定性を高く評価したが、やがて、それに反対する女性への理解も示し始めたという。主体的な女性の行動が婚姻の慣行を変えた事例である。
エフェの居住するイトゥリの森とは異なり、ナイジェリアやカメルーンの北部の場合、19世紀初頭まで奴隷制や奴隷交易が深く介在しており、当時は、強制的な姉妹婚の結果、夫のもとを逃亡した姉妹が奴隷として売り飛ばされる事件は頻繁に起きていたという。こうした歴史的経緯も、女性による姉妹交換婚への主体的な挑戦と関係しているのかもしれない。
ちなみに、植民地政府によって1947年に禁止され、今では消滅した婚姻制度に「一妻多夫制度」がある。ベルギー領コンゴ(現在のコンゴ民主共和国)の一部の焼畑農耕民レレの間で行われていた制度である。その慣行を調査したイギリスの社会人類学者メアリー・テウ(Mary Tew、イタリア生まれ、のちに結婚してダグラス姓を名乗る)によれば、実態は「村の妻」、つまり誘拐、保護、夫からの逃亡といったさまざまな理由で他の村に引き取られた女性が、その村の共同の妻となる慣行であった(Tew, 1951)。かつて、村落間の争いを、女性を差し出すことによって解決していた慣習の延長上に展開したシステムであるという。村落間の政治に深く関わっていたこの制度が廃止された結果、ジェンダー関係がどのように変化したかについての報告は入手できていない。
さて、狩猟採集民や牧畜民の世界とは異なり、農耕民の生活全般を圧倒的な力で規制していたのが、「宗教」である。その研究領域は広く、深く、筆者の紹介能力を超えているが、ここでは、およそのイメージを把握できるという意味で、ひとつの事例を挙げておく。道徳的規範としての「宗教」である。