目次
【エッセイ6】アフリカ人の死生観(富永智津子)
アフリカ人の死生観(1)
アフリカに限らず、文化の基層には「宗教」が居座っている。私が最も苦手とする領域である。というのは、私自身が「無宗教」を選択した両親に育てられたからである。
今思うと、その「無宗教」ぶりはかなり徹底していた。お宮参りや七五三といった子供の誕生・成長に関わる儀礼は全くしない。初詣にも行ったことはない。霊園に家族墓はあるが、お盆に家族揃って墓参りをすることもない。
お別れの儀式としての葬儀はするが、献花だけでよい。だから、両親の葬儀にお坊さんはいなかった。そのため戒名もなければ位牌もない。もちろん、家に仏壇も神棚もない。そのせいで、「神」とか「仏」とか「幽霊」とか「あの世」といった宗教的現象は一切信じていない今の私がいる。
人は死ねば何も残らない。魂と肉体は切り離せないものだからだ。死者は遺された人の記憶の中で生き続けているのみ・・・。それがわたしの死生観。そのわたしが足を踏み入れたアフリカは、なんとキリスト教やイスラームといった一神教に加えて、精霊や死靈が跋扈し、それらを操る呪術師や邪術師や妖術師が人びとの生活を仕切っている世界だった。
私のフィールドであるザンジバルも、表面的にはイスラーム教徒が90%以上を占めているが、精霊や死靈と交信できる霊媒師も共存している。そうした存在は認めるが、なぜ人びとがそれを信じる事ができるのかが理解できない。自分で信じられない現象を解き明かすことは無理、とばかりこの領域とはずっと距離をとってきた私である。
しかし、最近、そうも言っていられない現実に直面している。それは、時折現地から伝えられる殺人事件である。たとえば、その身体が強力な呪薬になるとして、いわゆる「アルビノ」と言われる色素異常の子供が相次いで殺されている事件。2006年以降の犠牲者は70人以上にのぼるという。また、妖術師と名指しされて殺される年配の女性も2011年の統計によれば600人にのぼる。これらはタンザニアの事例だが、その他にも書くに書けないような悲惨な事件が各地で起きている。
なぜ、こうした超法規的殺人が許容されているのか。その謎に私なりにせまってみたい。(『婦民新聞』2014年8月)
アフリカ人の死生観(2)
なぜアフリカでは、わたしからすると不条理と思われるような殺人が絶えないのか。この謎と向き合うことをためらっていた私の背中を押してくれたのは、かつての勤務校から「生きるための死生学」という社会人向け連続講座のひとこまを任されたことだった。私は、話のサブ・テーマを、迷わず「アフリカ人の死生観」とし、講義の準備にとりかかった。さまざまな文献の行間から見えてきたのは、アフリカ人にとっての生と死に関する基本的な問いは次の四つに集約できるということだった。
問い①「われわれはどこから来たのか?」
問い②「どうしたらわれわれは平安に生きることができるのか?」
問い③「われわれはなぜ苦しみ、病気になり、死ぬのか?」
問い④「死者はわれわれにとっていかなる存在なのか?」
考えて見ると、この4つの問いは、アフリカに限らず、ほぼ全人類が共有している問いである。民族や文化によって、その内実が違うということなのだろう。その一端にアフリカ諸民族も連なっている。
問い①に対応するのは「創世神話」である。キリスト教の聖書がそうであるように、アフリカの創世神話でも、人間の誕生と苦しみの始まりが語られている。さまざまなヴァージョンがあるが、共通しているのは至高神の存在。多神教の世界といわれているアフリカだが、最近では一神教的な宗教観が基底にあるとされるゆえんである。
社会秩序の形成が、その延長に位置づけられる。その秩序の維持が、いかにしたら平安に生きることができるのかという問い②への回答となる。そして、秩序を維持する役割は、天界の至高神と地上の人間とを仲介するさまざまな媒介者―預言者、祭司、占い師、霊媒師、呪術師など―が担っている。これも、媒介者の種類や数はさまざまであるが、構造的にはどの宗教もにたりよったりである。違いは、誰にその役割が託されているかであろう。たとえば、キリスト教では神父や牧師に、イスラム教では導師に、仏教では僧侶、神道では神主、そして、アフリカの伝統宗教では霊媒師や呪術師に、その中心的な役割が振り当てられている。こうした媒介者は共同体の安全を祈願したり、成員によって脅かされた共同体の秩序を回復するために「儀礼」を司ったりする。そうやって、共同体の平安は維持されてきたのだった。(『婦民新聞』2014年9月)
アフリカ人の死生観(3)
さて、問い③「われわれはなぜ苦しみ、病気になり、死ぬのか?」を個人的領域に則して考えてみよう。これもアフリカ人に限らず、人間であるかぎり誰もが日々直面している問いであり、人類は、古今東西、この問いに向き合うべくさまざまな聖典を編纂してきた。例えば、「聖書」「コーラン」「仏典」「経典」「叙事詩」・・・。いずれも、この世の苦しみや死の恐怖に打ち勝つための処方箋を提供してくれている。今、日本で健康ブームに乗って流行しているインド起源のヨーガも、本来の目的は苦から解放されるための宗教的実践であることが叙事詩『バガヴァット・ギーター』(岩波文庫)を読むとよくわかる。
一方、文字化されずに今日にいたった「宗教」は、その本義を継承する職能者によって伝承されてきた。アフリカの場合、それが「呪術師」である。呪術師は悩みを聞き、受け止め、さまざまな技を繰り出す。占い、生薬、呪薬、精霊との交信・・・いわば、東洋医学や心療内科的な役割を果たしているといってよい。違いは、「妖術」対策を依頼されることがあることだ。この場合、呪術師は、妖術をかけた人物を特定して対抗措置を講じる。時にはその人物の抹殺に至ることもある。
恐ろしいのは、妖術師と特定された人物のほとんどが、全く身に覚えのないことだ。しかも、多くの場合、近隣の者や親族が標的にされる。つまり、苦しみや病気や死は、嫉妬や憎悪を抱いた者が妖術を使って攻撃を仕掛けてきたからだと考えるのである。
「妖術師」と名指され、殺害される者には男性も含まれるが、タンザニアの場合は高齢の女性が圧倒的に多い。かつてヨーロッパで女性を恐怖に陥れた「魔女狩り」を想い起こされる方もいるだろう。弱者である女性が「ガス抜き」のために犠牲となるのだ。
妖術をかけられたり、妖術師の嫌疑をかけられたりすることを避けるためには、嫉妬や憎悪が渦巻く時空間に身を置かないようにすることしかない。かといってひとりでいることも怪しいと疑われる。実際、東アフリカのスワヒリ社会には「付き合いの悪い人は妖術師」ということわざがある。つまり、妖術に対処するためには、嫉妬されぬよう、さりとて孤立しないよう、きわめて難しいバランス感覚が要求される。
妖術根絶運動も、法的規制もなされてきた。しかし、ひとたびインストールされた信念の呪縛を解くのは至難の業だ。そのためには何が必要なのか。アフリカ人は、まだその回答を見出せないでいる。(『婦民新聞』2014年10月)
アフリカ人の死生観(4)
さて、最後の問い④は「死者はわれわれにとっていかなる存在なのか?」である。
私自身に即して言えば、死者は記憶の中にだけ生きている、肉体を離れた霊魂など存在しない、だから、墓も死者供養も、生きている者の気休め・・・といったところ。
近年、無縁墓が増え、墓石の不法投棄が問題になっているという。必ずしも、私のような「無宗教」観が拡散しているとは思わないが、「死者」を供養し記憶するのに、墓は不可欠ではないと考える人が増えていることだけは確かだ。
そんな中、二万人近い犠牲者を出した東日本大震災が勃発し、死者の存在がさまざまな形でクローズアップされた。その理由は、死者のすべてが「横死」だったことにある。遺された者は、「横死」という現実を受け入れられない状況にある。自分だけが生き残ったという「サバイバー・ギルト」にも襲われる。横死した人たちも、自分の死に納得していない、と遺された者は考える。被災地に「幽霊」が出没したという話も、横死者の無念を考えると笑えない。このことは、生者にとっての死者は、勇気を与えてくれたり、愛する心を取り戻させてくれたりする存在であると同時に、突然、納得のゆかない死に方をした死者は生者を悩ませる存在ともなる、という死者の両義性を示している。その背後には、死者の肉体は滅んでも、「霊魂」は生き続けているという二元論が見え隠れしている。
アフリカ人の伝統的な死者のイメージも、これと基本的に同じであるが、もっと様式化されている。もちろん、民族の数だけ多様な様式があるわけだが、死者と生者とのつながりが重視されている点は共通している。
エボラ出血熱で多数の死者がでている西アフリカ、その感染拡大に「遺体に触れることで死者との絆が受け継がれる」との死生観が関わっているというのもその証左。極め付きは、「記憶されている限り死者は生きている」と考える東アフリカの死生観。だから、何が何でも子孫を残そうとする。祖父の名前を男の子の孫に、祖母の名前を女の子の孫に与えるのも、命の連鎖を意識してのこと。記憶が途切れた時、はじめて死者は名前を持たない祖霊となる。祖霊は、ないがしろにされると不幸をもたらす怖い存在でもある。だからこそ、祖霊は儀礼の中心に居座り、共同体の一体感を演出してきた。
イスラームやキリスト教が根付いているかにみえる地域でも、そうした祖霊への信仰は根強い。しかし、マサイなどの遊牧民の死生観はこうした農耕民とは対称的で、人は死ねば無になると考える。「無神論」者の私にはきわめてわかりやすい。(『婦民新聞』2014年11月)
アフリカ人の死生観(5)
締めくくりに、死生観とジェンダーとの深い関わりについて触れておきたい。この世のジェンダー規範は、そのまま死後の世界に反映されているからである。たとえば、ヒンドゥー教では、「(女)は夫につかえることによって、(死後)天界において栄える」(『マヌ法典』)とされ、その究極の形態が寡婦の殉死(サティー)であった。仏教界では、10世紀ころから女性を不浄とする見方が広まり、女性は男子に生まれ変わらねば成仏できないとされるようになった。「変成男子」「転女成仏」「女人変成」という言葉は、その証左である。ユダヤ教の社会では、「重い皮膚病にかかった人」「娼婦」「徴税人」は天国にいけなかった。かれらを救ったのはキリスト教である。キリスト教は現世におけるジェンダー差別はあるものの、その差別が死後にまで引きずられていることはなさそうだ。イスラム教では、死後、天国で「清浄無垢の妻たちをあてがわれ」て、永遠の命を約束されるのは男性であり、女性にそれに相当する恩典はない。
さて、アフリカ土着の宗教ではどうか。一般化はできないが、年齢、男女、しかも未婚か既婚か、女性の場合には産んだ子どもの数、そして死に方によって埋葬方法も埋葬場所も、そして生者との関係も異なっていた。こうした現世のジェンダー規範をそのまま反映した死者の位置づけは、同じ「アニミズム」としてよく同列に論じられる日本の神道とアフリカ土着の「宗教」との違いを際立たせている。なぜなら、日本の神道においては、死は汚れとされ、神社に死者が葬られることはないからである。ここからは、逆に、女神であるアマテラスオオミカミを総氏神とする、相対的にゆるやかなジェンダー規範を持っていた、現世中心の神道の世界を覗き見ることができるのではないか。
こうして死生観を通して宗教を見てきて気づいたことがある。それは、宗教とは、神話(歴史)と呪術と倫理・道徳規範(哲学)から構成されており、それぞれの比重と相互の絡み合いが宗教によって異なるということ。その比重や絡み合いも、時代によって変化している。これは、「宗教」とは何か、という長年の疑問への私なりの当面の答えである。たとえば、道徳規範に重点が置かれているのが儒教や道教、神話(歴史)と道徳規範の両方がバランスよく配置されているのがユダヤ教とキリスト教とイスラーム、そしてアフリカの土着の宗教は呪術的要素が圧倒的比重をしめており、それが道徳規範ともなっている。こうした神話や呪術や倫理・道徳規範が現実の社会構造の形成とどのような関係にあるかは、ジェンダー秩序の問題とも関連して、注意深く考察・分析すべき研究課題である。たとえば、イスラームのようにコーランに書かれたジェンダー平等的な倫理観は、同じくコーランに書かれている女性の自律性を封じ込めようとする章句と緊張関係にあり、そのどちらを重視するかによってさまざまな宗派がうまれているが、一般的に男性の法学者が女性に差別的な部分にのっとって法規範を作成し、それが現実のジェンダー構造を規定しているというライラ・アハメドの考察は注目に値する(『イスラームにおける女性トジェンダー』参照)
いずれにせよ、宗教と死生観は、自然科学や合理主義一辺倒では解けない深い人間の心の営みを照らしだしており、アフリカ社会を理解する上で、欠かせない領域であることは確かであろう。
(2014年12月)