【現代アフリカ史4】母系から父系へ
掲載:2015.09.24 執筆:富永智津子
一夫多妻制を実施している社会には、血統や相続の系譜を父系でたどる社会と母系でたどる社会の他に、その両方が併存している社会がある。
結論から言えば、妻方居住の婚姻形態が優先する母系社会では、夫方居住の父系社会より女性に有利なさまざまな慣行が存在する。視点を変えれば、母系社会では、男性がかなりの忍耐と隷従を強いられてきたと言ってよい。ここでの問題は、その母系社会が、アフリカのいたるところで父系社会へと移行してきたという歴史的経緯である。それは、母系社会で「隷従」を強いられてきた男性の「自立化」と一本の線でつながっている。この変化は、どのような契機によって起こったのか。いくつかの事例を紹介しよう。
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1930年代にキリスト教宣教師の立場からシエラレオネのイギリス保護領下にあったメンデ社会の一夫多妻の実態を調査したE.H.クロスビーは、論文の冒頭で「メンデ社会は、夫方居住と妻方居住の婚姻形態が混在しているが、今では夫方居住が優勢である」と記している(保護領は西部州をのぞく南・東・北の各州)。1930年代のメンデ社会(1931年センサスによれば男性の97.2%が農業に従事)は、まさに妻方居住が消滅寸前の状況にあったのだ。この変化は「メンデ社会の経済的な発展の結果、富を蓄えた家族が出現し、婚資による労働奉仕の代替が起こった」ことによって生じた、とクロスビーは記している(Crosby,1937)。労働奉仕とは男性が女性の家族に支払う婚資のかわりに行う義父母の畑への労働提供のことであり、母系社会にみられる慣行である。この慣行は、男性を身体的に束縛することによって、複数の妻を娶ることにブレーキをかけるという効果があった。男性が、婚資婚によってこの労働奉仕から解放されるということは、財を蓄えれば一夫多妻を実践し、夫方居住に移行できることを意味する。ましてや、母系と父系が混在していたメンデ社会においては、この移行は容易であったにちがいない。
メンデ社会には男性(ポロ)と女性(ザンデ)の秘密結社があり、対等の立場で社会的な責務を分担している。しかも、かつては、身分の高い女性が土地や財産の管理や首長職、あるいは植民地下での原住民行政官を任じられた社会でもある。19世紀初頭に19年間にわたりクパー・メンデ国の首長として広大な領域を支配したマダム・ヨコも、こうした母系社会から台頭している。しかし、以上のような歴史的変化を見ると、親族レヴェルで妻方居住によって守られていた女性の生活は、夫方居住と一夫多妻制の普及によって、1930年代以降、徐々に男性優位の社会へと変化したということが見て取れる。
一方、平民とは異なる身分に属しているメンデ社会の首長層は父系と一夫多妻の実践者である。なかでも大首長と呼ばれる権力者の中には300人以上の妻を抱えた者もいて、何人かのお気に入りの妻以外は、農園の労働力として働かせていた。こうした状況が社会にもたらす影響は、「保護領において、首長と富者は大勢の妻を持っている。女性人口は男性人口に比して多いというわけではないので、多くの貧者は妻を持てない。その結果として社会的な悪がはびこっている」とのセンサスの報告書に現れている。父系の原理は、富者の男性の特権と結びついている。
ところで、シエラレオネの人類学的研究や紛争研究をしている岡野英之によれば、1991~2009年の内戦時に反政府勢力が兵士を集められた背景として、農村社会におけるこうした周縁化された男性の存在が指摘されているという。彼らが内戦を農村社会から離脱する機会として捉えたというのである。岡野は、この1930年代の論文は、それを歴史的に検証する上で貴重な史料だと評価している。この事例は、紛争研究におけるジェンダー視点の重要性を示している。
同じく、母系と父系が併存していたベナ社会(タンザニア)の変化については、カルウィック夫妻による詳細な報告が残っている(A.T.&G.M.Culwick,1934)。ベナ社会の男性は、結婚が完了するまで妻の父親への農奴的な労働奉仕が義務づけられており、かつては通常でも10年、婚資の支払いができなかったり、義父との折り合いが悪く婚資を受け取ってもらえなかったりすると、もっと長期の奴隷的労働を強いられていたという。ところが、夫妻が調査した1930年代には、次第に父系が拡大し、母系を圧倒し始めるようになっていたというのである。カルウィック夫妻は、そうした変化の背景は正確にはわからないとしながら、社会全体の経済的変化が関係しているとの仮説を提示している。
ちなみに、メンデ社会やベナ社会と同じく、母系と父系が併存していたケニア沿岸部のドゥルマ社会では、イギリスの植民地当局が母系制廃止を打ち出した。経済発展の遅れが父親の財産が父親の姉妹の息子たちによって相続される母系相続にあるというのがその理由であった。その結果、再三の長老たちの反対を押し切って、1961年に父系相続に一本化にする決議がなされ、急速に母系制は消滅したという(浜本満,2001:51~52頁)。それが、ジェンダー関係やジェンダー秩序にどのような影響を与えたかは明らかにされていない。
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母系制社会における女性の地位の最近の変化については、1980年代以降ザンビアのベンバ社会の村落調査を継続している杉山祐子の報告がある(杉山,1996)。その中で興味深いのは、九割近くの成人女性が離婚経験を持っているということである。しかも、離婚した女性が社会的な非難を受けることもなく、再婚も極めて容易だという。
離婚が多い理由はいくつかある。そのひとつは、婚姻が完了するまでに10年という長い期間がかかり、その間、原則として夫が妻の実家で暮らし労働を提供する労働奉仕の慣行にある。離婚は、その期間のどの時点でも成立する。とりわけ、夫が労働の義務を果たしている期間に、その働きぶりに対する妻の両親からの苦情が引き金になる事が多いという。その後は、夫婦間のいさかいが原因となる。離婚して出てゆくのは夫であり、妻はそのまま子供とともに実家に残るから生活に困ることはない。離婚後は実家に戻れない、夫の死後は夫の親族に引き取られる(レヴィレート)、慣習婚をしていない場合には夫の財産は夫の親族が継承する・・・といった慣行を保持している父系社会と比べると、ベンバ女性のライフサイクルは安定している。ただし、母系社会で実権を握っているのは、妻の兄弟であり、必ずしも女性が「自立」しているわけではない。
この状況は、ザンビア政府による近代化政策によって大きく変化することになる。政府は、焼畑農法で自給用のシコクビエを生産している地域を対象に、換金作物である化学肥料を使ったハイブリッド種トウモロコシの栽培を奨励したのである。杉山の調査村(北部州カサマの南東部)もその対象となった。その結果、それまで狩猟や行商による現金収入を担い、ほとんど農耕に従事していなかった男性が、この新しい農業に参入し、女性が担っていた自給用のシコクビエ生産は、手痛い打撃を被ることとなった。ベンバ社会では、焼いて肥料とする木の枝の伐採は男性が担っており、女性世帯はそうした男性労働力を雇っていたのだが、男性がトウモロコシ栽培にかける時間が増えるにつれ、それが困難になったからである。
一方、トウモロコシ栽培で成功した男性は、逆に女性世帯の労働力を雇うことによって、ますます収益を上げていく。これまで妻の実家に縛りつけられていた男性が、労働奉仕の代わりに婚資婚を選択することは目に見えている。
このプロセスは、他の母系社会では、すでに植民地政府が鉱山地帯の労働力として農村の男性をリクルートし始めた時から始まっていた(杉山、2007)が、同じプロセスが、政府の近代化政策によって杉山の調査村でも進行し始めたのである。その結果、他の地域で見られたように、一夫多妻が可能となり、いずれは父系化が進むことになるのかどうか・・・。少なくとも、杉山の報告からは、男性を母系家族の支配から解放し、男性に「自立」への希望を与える過程が透けて見えていることは間違いない。しかし、先に紹介したメンデ社会の事例が示しているように、父系の一夫多妻社会になっても、持たざる男性の苦悩は終わることはない。
一方、女性にさまざまな制約を課している父系社会の一夫多妻制も、現在なお多様な歴史的展開が進行中である。キリスト教会は一貫して一夫多妻に批判的だが、イスラームはアフリカ固有の一夫多妻制と親和的だ。しかし、チュニジアはイスラーム国にもかかわらず1956年に一夫多妻を禁止している一方、国としては積極的に是認しないものの、民族の文化を尊重するという立場から、大統領自らが一夫多妻を実践している南アのような国もある。また、2014年に婚姻法を改訂したケニアでは、以前には規定されていた「妻の了解を得る」という文言が削除されて夫は自由に次の妻と結婚できるようになるなど、一夫多妻とジェンダーをめぐる攻防は21世紀にも引き継がれている。
ちなみに、21世紀のサハラ以南アフリカで、もっとも一夫多妻の人口比率が高い国はブルキナファソの約55%、次がマリの44%、そしてセネガルとチャドの40%、以下、ナイジェリア、コートジボワール、タンザニア、ウガンダなどが続いている(早瀬保子・大淵寛編著、2010)。ただし、民族集団の慣習によって多様な婚姻の比率を、国家毎にはじき出す方法は、当を得ているとは言えない。