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【年表】アフリカ史(2)ー奴隷貿易(構築中)

 【年表】アフリカ史(2)ー奴隷貿易

掲載:2016-05-05 執筆:富永智津子

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(1)奴隷貿易

Ⅰ 紅海・サハラ、およびインド洋奴隷貿易

論点】
 ・イスラーム世界では、どのような反奴隷制運動が展開したのか?
 ・なぜ、イスラーム世界での奴隷貿易や奴隷制の廃止や禁止が、西欧社会よりかくも遅れたのか?

  • 【サハラルート】

    最盛期は10~15世紀。およそ800万~1000万人(622万との数値もあり)のアフリカ人がアラブ人奴隷商人によって、サハラルートで西アジアに運ばれたとされる(Niane,1984:82;Inikori(ed.)1982:22)。

  • 8世紀前半
    ウマイヤ朝の支配者たちが、イスラーム以前から存在したサハラ縦断交易路を利用して、軍事遠征と奴隷狩りを開始。モロッコからサハラ南縁のガーナ王国にまでおよび、奴隷と多くの金をイスラーム社会にもたらした(盛 2012:32~33)。
  • 8世紀半ば
    (セネガル)
    以前から西アフリカと交易していたマグリブのベルベル商人たちが金と奴隷を求めてサハラ以南に進出し、10世紀初頭にはカオ、ガーナ、タクルールといった国家の首都にムスリム居住区を建設。サハラ以南の支配者たちも、アラブ人やキリスト教徒との奴隷交易に参入(盛 2012:33、36)。
  • 1645年
    (モーリタニア・セネガルイスラーム神秘主義を奉じるベルベル系のナースィルッディーン、信仰復興運動(本来のイスラームに戻ろうとする運動)を起こし、セネガル北部の君主が臣民を襲撃・奴隷化し、フランス人商人に売るのを止めるように求めるも失敗、1674年に死亡(盛 2012:140)
  • 16731674
    (セネガル)イスラームの導師(マラブー)、ヨーロッパ人やヨーロッパ人に協力する在地の諸王国の奴隷狩りに反対して反乱を起こす(マラブー戦争)。
  • 1818年
    (セネガル)西サハラのアラブ人から購入する馬1頭が、捕虜(奴隷)15人に相当したとの記録あり(盛 2012:37)
             
  • 【紅海・インド洋ルート】

    このルートで西アジアやインド亜大陸に運ばれたアフリカ人は約500万人(330万人との数値もあり)。最盛期は19世紀。拠点はオマーン支配下の東アフリカのキルワ島やザンジバル島(Niane,1984:82;Inikori(ed.)1982:22)。

    北方ルート・・・・インド亜大陸、アラビア半島へ
    南方ルート・・・・セイシェルを北限とし、モーリシャスやレユニオンの島々へ

  • 【参考:奴隷身分の存在とアフリカ社会内部の奴隷供出メカニズム】
  • イスラーム以前のアラビアでは売買、略奪によって他人を奴隷とすることができた。そして、イスラームも、旧約聖書が合法と認めている奴隷制を一挙に廃絶できなかったため、それを大幅に制限し、数世代のうちに奴隷がその状態から脱しうるよう配慮している。預言者ムハンマドの時代には、イスラーム勢力に敵対して捕虜になった場合、身代金が支払われるぬ限り捕虜は奴隷となった。ただし、アラブ人が捕虜となった場合には奴隷となされないという原則を打ち出した。売買についても同様であり、アラブ人の父親が子どもを奴隷として売り払うことはできなくなった。ローマ法が認めているように、債権者が負債を抱えた者を奴隷にすることも禁じられている。ここから、奴隷はムスリムが非ムスリムを捕虜にした場合にのみ発生することになった。(黒田1995:190)
  • 『コーラン』には奴隷に関する言葉が多く登場する。もっともよく引用されるのが「資産が足りなくて、信仰深い身分のよい女を娶れない者は、自分の右手の所有にかかる信仰深い端女を(妻にする)がよい」という「女―メディナ啓示、全175[176]節」の29[25]である。この「右手の所有にかかる者」はすなわち「奴隷」であるとされている。(井筒俊彦訳『コーラン』(上)岩波文庫:113)
  • サハラルート、およびインド洋・紅海ルートはいずれもムスリムの奴隷商人が関わっている。イスラーム法においては、ムスリム同士の戦闘は原則として禁じられており、奴隷化の対象も不信仰者に限られている。そこで、信仰者と不信仰者とをどこで線引きするかの議論が19世紀初頭のウスマン・ダン・フォディオによってなされている。線引きを緩やかにすることによって、聖戦や奴隷化を容易にしたのである。(この議論に関しては苅谷『アフリカ研究』89,2016年5月号参照のこと)
  • アフリカの中には、「奴隷身分」をひとつの階層として組み入れていた社会が多く存在していた。たとえば現セネガルのウォロフ社会は、自由民(ゲール)、下層民(ニェーニョ=鍛冶師や革細工師などの職人層)、奴隷(ジャーム)から構成されていた。奴隷身分は「家の奴隷」、「交易奴隷」、「王の奴隷」の三種類に類別されていた。「家の奴隷」は、主人の家の奴隷から生まれた者で売買はされず、かなりの自由が保障された。交易奴隷は戦争捕虜で、奴隷商人に売り渡される。王の奴隷は軍隊の兵士チェッドであり、奴隷身分にもかかわらず権力と富を持っていた。チェッドは王に交易奴隷を提供するために、王国内外のみならず、王国内の自由農民すら襲撃した。こうした社会構造と奴隷交易の伝統は、16世紀末までにヨーロッパとの奴隷貿易へと受け継がれていくことになる。(盛 2012:36,37)   
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奴隷貿易(紅海・サハラルート)

Ⅱ 大西洋奴隷貿易

【論点】
・人数:アフリカから新大陸へもたらされた人数は900万~1100万人( Curtin 1969) 。
・奴隷化の方法:①刑罰としてアフリカ人首長によって売られる、②飢饉のとき、家族によって売られたり、自らを売る、③白人奴隷商やアフリカ人の盗賊によって誘拐される、④すでに奴隷だったものが主人の手で売りに出される、⑤戦争捕虜(マニックス 1976:59)
・なぜヨーロッパで黒人奴隷制が重要な制度にならなかったのか:アイルランドやスコットランド
からの安価な白人労働者が大量に存在したため(マニックス 1976:78)。アメリカ南部の綿花プランテーションのような大規模農業の有無とも関連するだろう(筆者コメント)
・アフリカの「奴隷制」の特徴:「アフリカの奴隷は、権力者の保護下にある隷属状態」(メアリー・キングスリー);「われわれの国では、奴隷と我々との間には目立った違いは存在しなかった」オラウダー・エキアノ(自伝を書き残したアフリカ出身の奴隷)(マニックス 1976:62)
・「16世紀、奴隷貿易はどこの国でも公認されていた。貿易を正当化するのに宗教がしばしば利用されたが、この時期には人種的な観点からの弁明はほとんど行われていない。残虐性と苦難についていうなら、そんなものはいたる所にみられた。エリザベス朝時代の「海賊」アンソニー・ニベットは、船長が面倒をみるに値しないと判断したため、18人の病人とともに置き去りにされた体験を語っている。彼は捕えられ、奴隷としてポルトガル人に売られた」(マニックス 1976:42)。宗教的観点からの正当化に人種的観点からの正当化への転換、あるいはその付加が17世紀ごろに生じたというこのマニックスの説明は重要(筆者コメント)
  • 1441
    (ポルトガル)
    ポルトガル人アントン・ゴンサウヴェス、西サハラ沿岸で拉致したアフリカ人男女をポルトガルのエンリケ航海王子に献上。
  • 1441~48
    (ポルトガル)この7年間に927人の奴隷(ベルベル人)がポルトガルに拉致される。
  • 1452年(1455?)
    (ローマ教皇
    ローマ教皇ニコラウス5世、異教徒を奴隷にする許可をポルトガル人に与える。
  • 1482
    (ガーナ)
    ポルトガル、黄金海岸のエルミナに城塞を建設。→1637年:オランダ東会社に引き継がれ、奴隷貿易の拠点となる。
    →1872年:イギリス支配下に入る。
    (コンゴ共和国・コンゴ民主共和国・アンゴラ)ポルトガル人、コンゴ王国との交流を開始
  • 1518年
    (西インド諸島)最初のアフリカ人が奴隷となるべく西インド諸島に陸揚げされる→陸揚げ記録として残っているのは1865年まで。(マニックス1976:7)
  • 16~18世紀末
    (セネガンビア)
    16世紀の終わりごろまでにセネガンビア地域はヨーロッパ向け奴隷の最大の供給地となり、毎年2000~3500人の奴隷が輸出され続けた(盛 2012:37)
  • 1518年(1517?)
    スペイン)新大陸植民地への黒人奴隷輸入について最初の独占的許可状を発行(アシエント)→1701年:アシエント、フランスの手に
    →1713年:ユトレヒト条約(スペイン王位継承戦争などの終結にともなう講和条約)により、アシエント、イギリスに譲渡される。
  • 1526
    (コンゴ民主共和国)
    コンゴ王アフォンソ1世、奴隷貿易に抗議する親書をポルトガル王ジョアン3世に送るものちに深く奴隷貿易に介入。
    (ギニア)イギリス生まれの奴隷商人ジョン・ホーキンズの初航海。民間の小船団(100人以下の乗組員)を指揮し、300人の黒人を入手(マニックス 1976:38)。
  • 1566年
    (南米)スペイン人司祭ラス・カサス、死の直前に「黒人を奴隷にするのはインディアンの場合と同じく、また同じ理由から不正な行為である」との言葉を残す(マニックス1976:20)
  • 1568~1648年
    (オランダ)オランダ、スペインからの独立を求めて戦争(オランダ独立戦争)。
  • 1576年
    (アンゴラ)
    ポルトガル、アンゴラに奴隷貿易の拠点ルアンダを建設。
  • 1580年
    (ポルトガル)ポルトガル、スペインに併合され、1640年までの60年間、同君連合としてスペイン国王に支配される(マニックス 1976:43-44)
  • 1617年
    (アンゴラ)ポルトガル、アンゴラにベンゲラを建設し、さらに奴隷貿易を活性化。
  • 1619年
    (オランダ)オランダ軍艦、新大陸のイギリス植民地に最初の黒人奴隷を陸揚げ(マニックス 1976:69)
  • 1620年
    (イギリス)メイフラワー号、現マサチューセッツ州プリマスに到着。
  • 1621
    (セネガル)
    オランダ、この年に「オランダ西インド会社」設立、あらゆる民間奴隷会社を統合(1674年まで存続)(マニングス 1976:84)
  • 1641
    (赤道ギニア)
    オランダ奴隷商人、フェルナンド・ポー島(現ビオコ島)を実効支配
  • 1645
    (モザンビーク
    ポルトガル領モザンビークからブラジルへの奴隷貿易開始
    (北アメリカ)マサチュセッツの奴隷船「レインボー号」、アフリカのギニア海岸に初めて到着。連れ帰った2人のアフリカ人は、襲撃によって捕獲されたことが判明したため、不道徳とみなされ、「自由の憲章」(1641年制定)にもとづき、船長は裁判にかけられ、アフリカ人はマサチュセッツ植民地議会の費用で故国に送還された。(マニックス 1976:83)
  • 1658
    (南ア)
    ケープのオランダ人入植地に、初めてアンゴラとギニアから奴隷導入
  • 1662年
    (オランダ)ポルトガルとの条約により、オランダはギニア奴隷貿易権と引き換えにブラジルの領有をあきらめる(マニックス 1976:44)
  • 1663年
    (イギリス)イギリス人の組合がチャールズ2世の弟ヨーク公により特許状を与えられ、「王立アフリカ貿易イギリス冒険商人組合」の名称で年間少なくとも3000人の奴隷を新植民地に輸送できるようになる。この組合の貿易に投資していた国王チャールズ2世は、宣伝のために西アフリカの金で当たらに金貨を鋳造させ、それをギニーと名付けた。新発行の赤味を帯びた「ギニー金貨」は、ポンドと同じ価値を持つことになっていたが、きわめて純度がたかかったため人気を呼び、1694年には銀貨30シリングの価値が出た。最終的には1ギニーは21シリングに固定された(マニックス 1976:44)
  • 1672年
    (イギリス)「王立アフリカ会社」を設立、セネガルからアンゴラに至る沿岸部で独占権を入手、奴隷貿易の支配権を次第に確立していく→1698年:もぐり業者対策として、奴隷貿易の門戸をイギリス商人全員に開く。そのかわりに商人は輸入した積荷の10%を税金として会社に支払った
    →しかし、次第に経営が困難になり、「王立アフリカ会社」は1750~52年に解体。以後は政府補助を得たイギリス人商人の委員会によって奴隷貿易が維持されていくことになる(マニックス 1976:45)。
  • 1680年
    (アフリカ)
    この頃の奴隷貿易の主導権は現地の支配者の手中にあった。たとえば、あるフランス人の貿易商は「莫大な富の故にファンティ人は非常に高慢、かつ尊大になっている。同地におけるヨーロッパ人の貿易は彼らの言いなりになっている」と証言している(マニックス 1976:47)
    →16世紀のヨーロッパ人による奇襲作戦で奴隷を捕獲するといったやり方から、17世紀以降の奴隷は、海岸地帯のアフリカ人王の配下の役人とアフリカ人商人の手で売られ、王自身も大部分が奴隷商を兼ねていた。(マニックス 1976:48~49)
  • 1713年
    (イギリス)ユトレヒト条約により、アシエント(奴隷貿易請負権の発行)、フランスからイギリスに譲渡される。
  • 18世紀 奴隷貿易の最盛期
    リヴァプールの奴隷商人は、ラム酒やタバコ、鉄棒や砂金や布地、火薬や銃と交換に奴隷を購入し西インド諸島で売却、砂糖などをヨーロッパに持ち帰る「三角貿易」を展開し、莫大な富を本国にもたらした(マニックス 1976:127)。
  • 1759
    (ギニア、シエラレオネ)
    アフリカ人とイギリス人の混血女性Betsy Heard、現在のギニア・シエラレオネ地域で奴隷貿易に従事(→世界女性史年表)。ポルトガル人船長と結婚したBibiana Vazも奴隷貿易で活躍(→世界女性史年表
  • 1776
    (タンザニア、モーリシャス)
    フランス人商人モリス、キルワのスルタンと奴隷貿易の共訳を結び、奴隷をフランス島(現モーリシャス)のサトウキビ農園に供給。
  • 1787
    (シエラレオネ)
    解放された黒人奴隷を入植させるためにイギリスで民間会社「シエラレオネ会社」が設立され、会社が管轄する入植地フリータウンに、最初の入植者として400人が送られた。
  • 1798年
    (イギリス)この頃までに、リヴァプールの全奴隷貿易船150隻のうち、69隻がアンゴラに、34隻がビアフラ湾のポニーに行っていた。黄金海岸の黒人を買いに行ったのはわずか11隻だけであり、かつて栄えたガンビア川の商館に向けて出港した船は一隻もなかった。奴隷貿易は人間という商品がより安く手に入る南に移動した(マニングス 1976:36)
  • 1800
    (シエラレオネ)
    イギリスの民間会社「シエラレオネ会社」に不満をもつノヴァスコシアからの解放奴隷の入植者の反乱。1808年、この反乱を受けて、イギリス政府、シエラレオネを直轄植民地とする。
    (セネガル、シエラレオネ)
    19世紀に奴隷商人として活躍した女性商人Mãe Aurélia Correiaの登場(→世界女性史年表
  • 1802
    (モザンビーク)
    この頃、モザンビークから南米への奴隷、毎年1万5000人~2万5000人に達す(~1850年ころまで)
  • 1810年ころ
    (ナイジェリア)
    西アフリカで、奴隷貿易で商人としての手腕を発揮したMadame Tinubu誕生(1887年没)(→世界女性史年表
  • 1839年
    (中米)ハバナからキューバに向かっていたアミスタッド号の奴隷の反乱
  • 1841年
    (北米)沿岸スクーナー船クレオール号の奴隷反乱
  • 1864年
    (アメリカ)ニューヨークのハントレス号による奴隷輸送。記録に残るアメリカ最後の奴隷密輸船(マニックス 1976:343)

(2)奴隷貿易の廃止

  • 1641年
    (北米)
    マサチューセッツ州で「自由の憲章」が制定され、「正当な戦争で合法的に捕虜にしたのでなければ、また自発的に自分の実を売り、われわれの所に売られた外国人である場合を除き」植民地での奴隷の売買を禁止(マニックス 1976:211)。
  • 1772年
    (イギリス)
    イングランドとウェールズで「奴隷売買禁止条例」(スコットランドでは1776年)
  • 1787年
    (イギリス)「奴隷貿易廃止協会」設立
  • 1788年
    (イギリス)ジョン・ニュートン(1725~1807)奴隷商人から聖職者になり、奴隷貿易反対運動を展開。この年、Thoughts Upon the Slave Tradeを著す。「アメイジング・グレイス」の作詞者。
  • 1807
    (イギリス)奴隷貿易廃止法の成立
    (アメリカジェファーソン大統領、奴隷貿易廃止法あんに署名(1808年に効力を発揮)(マニックス 1976:233)
  • 1808
    シエラレオネ)
    イギリスによる奴隷貿易取締の拠点となる。
  • 1813年
    (スウェーデン)奴隷貿易廃止
  • 1814年
    (オランダ)奴隷貿易廃止
  • 1818年(1817?1815?)
    (フランス奴隷貿易禁止→セネガルでは、奴隷に代わる商品として「落花生」が基幹栽培作物として取引されるようになる(盛 2012:44)
  • 1820年
    (スペイン)奴隷貿易廃止 
    1852

    (ナイジェリア)
    ラゴスの新首長、イギリスと奴隷貿易禁止の協定を締結。イギリス、領事館を設置。
  • 1873
    ザンジバル)イギリス保護領ザンジバルで奴隷貿易禁止
  • 1879
    (イギリス・ドイツ)英独間に、奴隷貿易禁止条約

(3)奴隷制の廃止

  • 1688年
    (北米)フィラデルフィアのクウェーカー京都、奴隷制に対して、アメリカで最初の抗議(マニックス 1976:212)。
  • 1761年
    (ポルトガル)本国とポルトガル領インドで奴隷制廃止。→1836年:アフリカの植民地での奴隷制廃止
  • 1793年
    (フランス)ハイチのサン=ドマングでのハイチ革命後に奴隷解放を宣言→1802年:奴隷制度の復活
    →1848年:奴隷制の廃止
  • 1823年
    (イギリス)「反奴隷制協会」設立
  • 1930年代
    (モロッコ)奴隷制廃止
  • 1833
    イギリス)
    英領における「奴隷制禁止法」成立(ただし、モーリシャスでは1835年;東インドでは1838年)
  • 1848
    (フランス)
    フランス領で奴隷制廃止(すべての植民地を含む)
  • 1863年
    (オランダ)オランダ領で奴隷制廃止
  • 1865年
    (アメリカ合衆国)憲法で奴隷制禁止
  • 1876年
    (トルコ)オスマン帝国奴隷制廃止(しかし、1908年まで女性の奴隷が売買された)
  • 1894年
    (朝鮮)奴隷制廃止(世襲奴隷は1886年に終了)
  • 1896年
    (マダガスカル)フランス領マダガスカルで奴隷制廃止
  • 1897年
    (ザンジバル)イギリス保護領ザンジバルで奴隷制廃止
  • 1910年
    (中国)奴隷制度廃止
  • 1924年
    (スーダン)イギリス・エジプト共同統治下のスーダンで奴隷制廃止(実際には現在も継続)
  • 1936年
    (エチオピア)イタリア占領下のエチオピアで奴隷制度廃止
  • 1962年
    (サウジアラビア)内政基本政策10か条の10番目に、奴隷制度の廃止とすべての奴隷の解放が明示
  • 1980年
    (モーリタニア)奴隷制度廃止(実際には継続状態)
  • 2003年
    (ニジェール)奴隷制廃止(フランス植民地下で奴隷市場は閉鎖されたが、違法となったのはこの年)

【参考文献】

小田英郎他監修2010  『新版アフリカを知る事典』平凡社

苅谷康太「19世紀初頭の西アフリカにおける不信仰者の分類と奴隷化:ウスマン・ブン・フーディーの著作の分析から」『アフリカ研究』89,2016年5月

川田順三編 2009  『アフリカ史』山川出版社

黒田寿郎編  1995(1983)  『イスラーム辞典』東京堂出版

『コーラン』(上)井筒俊彦訳、岩波文庫

竹沢尚一郎 2014  『西アフリカの王国を掘る―文化人類学から考古学へ』臨川書店

富永智津子 2007(2001)『ザンジバルの笛―東アフリカ・スワヒリ世界の歴史と文化』未來社

マニックス、ダニエル・P、 1976 『黒い積荷』平凡社

盛恵子   2012  『セネガル・漁民レブーの宗教民族誌―スーフィー教団ライエンの千年王国運動』明石書店

レディカー、マーカス 2016 『奴隷船の歴史』(上野直子訳)みすず書房

Curtin, Philip D., 1969   The Atlantic Slave Trade: A Census.

Inikori,J.E.,(ed.)  1982  Forced Migration, The impact of the Export slave trade on African societies, Huchinson University.

Niane, D.T.,  1984  General History of Africa, IV, Heinemann-California UNESCO, Paris.

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