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【特論2】西洋中世の大学と学生生活ーバルトルスとその遺産(三成美保)

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三成美保(掲載2014.02.28.)

◆バルトルス

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バルトルス

バルトルス・デ・サクソフェラート(1313/14-1357年)。中世最大の法学者の一人である(⇒*【法制史】中世ローマ法学(三成美保))。17世紀に至るまで「バルトルスの学徒にあらずば法律家にあらず」と言わしめた。モーツァルト『フィガロの結婚』第1幕にも彼の名が登場する。医師バルトロは自らの名声ぶりを自慢するが、それは法学者バルトロ(バルトルス)にあやかったものであった。観客にとってバルトルスは法律家の代名詞だったのである。

40数年の人生でバルトルスは膨大な著作を残した。活版印刷術発明後の15世紀後半に出版された「揺籃期本(インキュナブラ)」では、バルトルス著作のタイトル数は中世最大の神学者トマス・アクィナスのタイトル数に匹敵する(⇒*【文化】活版印刷術の発展ーグーテンベルク(三成美保))。大学講義用文献、個別テーマ論文、裁判用鑑定書など多方面に業績を残したバルトルスは、すぐれた大学教師であり、研究者であり、そして法実務家だったと言えよう。

◆大学

大学universityは、中世ヨーロッパならではの産物である(⇒*【法制史】中世の大学(三成美保))。語源のラテン語universitasは「団体・組合」を意味する。大学は、中世都市や同職組合(ギルド・ツンフト)と同様、「自由と自治」を認められた特権団体であった。初期の大学は自前の学舎を持たない。著名な教師の噂を聞きつけた若者たちがヨーロッパ中から集まり、聴講料とひきかえに講義をうけた。こうした人的関係が大学の起源である。

12世紀以前の自生的大学として知られるのは、ボローニア、パリ、オクスフォードなど数大学。その後、大学の経済的・政治的利益に気づいた諸侯たちは、教皇や皇帝から大学創設特許状を得て、自領の都市に大学を作りはじめる。教養部と専門3学部(神・法・医)をそろえ、博士号が「万国教授資格」として通用し、奨学金(任地を留守にして勉学を続けながら得られる聖職録)支給の特典がある学校は「ストゥディウム・ゲネラーレ」を満たしているとされ、設立勅許を受けることができた。こうした大学は、中世末にその数75-80。法的承認や社会的認知を受けることができず、大学になりきれなかった学校も25校ほどあった。

◆女性の排除

母語を異にする教師・学生を結びつけたのが、古典古代のテキストとともによみがえったラテン語である。大学の成立は、ラテン語で思考・著述する学識層を生み出した。

これらの学識層に女性は含まれない。いかに識字能力があろうと、1900年頃まで女性は原則として大学から排除されていた。たとえば、プロイセンで女性が大学入学を許可されたのは1908年、ワイマール憲法が女性参政権を保障したのは1919年。女性解放運動の二大目標とされた高等教育を受ける権利と参政権が達成されてようやく、大学教師や法律家、医師などの専門職に女性も名を連ねるようになる。

◆大学遍歴

中世ヨーロッパ社会は、定住を縦糸に旅が横糸をなして人的ネットワークが築かれる遍歴社会であった。学生たちもヨーロッパ各地の大学を巡った。しかし、道路も治安も未整備な時代、遍歴は並大抵のことではない。たとえば、フランス北部からイタリア北部までの1300キロの旅には49日かかった(14世紀半ば)。関所ごとに通行税をとられ、アルプス越えの峠とボローニア近くの森は追い剥ぎが出没する最警戒地域として恐れられた。

遍歴先の人気は時代や分野によって異なる。法学部の場合、12世紀にはイタリア、16世紀にはフランス、17世紀にはオランダ、19世紀にはドイツに学生が押し寄せた。新しい法理論が生まれたところに学生が向かったのである。

◆入学登録

中世の大学に入試はない。だれでも望めば入学登録ができた。身分も関係ない。一週間の生活費は「ブルサ」として徴収されたが、その額は学生の支払い能力に応じて決められた。「パウペーレス(貧困者)」にはブルサが免除され、その割合は登録者の15ー25%にも達した。

中世には貴族はほとんど大学に通わない。13世紀に唱えられた三職分論では、貴族の職分は「戦う」こととされた。代わりに、聖職者(clerusの原意は「秘書」)が行政に必要な文書作成にあたった。大学をめざしたのは、市民や農民である。バルトルスは、イタリア中部の小村で比較的豊かな農民の子として生まれた。同時代人ボッカチオ(『デカメロン』の著者・1313生まれ)はフィレンツェ商人の子で、ナポリ大学で法学を学んだ。

大学への関門となったのは、ラテン語能力である。8ー9歳から学べる文法学校は各地にあった。一般的には修道院や大学附属の文法学校あるいは都市・ギルドが作った学校で学び、裕福な者は家庭教師についた。早い大学では13ー14歳、遅くとも15ー17歳で教養科目(自由学芸7科)を学んでいる。専門学部への登録は18ー25歳。ボローニアで法学博士をとるには5ー7年かかった。神学部はもっと長く、学位取得まで8年以上を要した。

◆学位

「生まれ」ですべてが決まる身分制社会にあって、学位だけは身分を超えることができた。奨学金制度が手厚い神学部はエリートコースであり、優秀な学生が集まった。また、法学博士号を取得すれば、一代限りの下級貴族になれた。

ただし、入学者のすべてが学位を取得したわけではない。中世末の学位取得者は登録者のわずか数%。博士号は「教授資格」であり、今で言う「学士」としての卒業は中途退学扱いを意味したが、それでも専門知識を生かした仕事につくことは可能であった。16世紀以降、貴族が大学に通うようになると大学は堕落し、学位売買が横行するようになる。

バルトルスはきわめて優秀かつ早熟だった。彼は故郷近くの町ペルージアで修道士から自由学芸を習得し、13ー14歳でペルージア大学で法学を学んでいる。20歳のときにはボローニアで博士号を取得。異例の早さである。その後しばらく裁判実務に携わったのち、1339年、20歳代半ばでピサ大学のローマ法教授となる。1343年、ペルージア大学に招かれ、終生をここで過ごした。かれの業績のほとんどはペルージア大学時代のものである。

◆ペルージア大学とボローニア大学

ペルージア大学は1309年創設の新興大学である。当時、ペルージアは自由な共和制都市国家として最盛期を迎えていた。

中世における法学部の雄はボローニア大学。ビザンツ帝国の修道院に眠っていたユースティーニアーヌス法典(6世紀)の写本がボローニアに伝わったのは1070年頃(⇒*【法制史】ユースティーニアーヌス法典(三成美保))。契約や民事訴訟の内容が豊かなローマ法は貨幣経済に移行しつつあるヨーロッパ社会には不可欠であった。とはいえ、何百年も前の法。その理解は容易ではない。内容理解のための研究(註釈)がはじまる。多くの註釈者のなかで傑出していたのが、ボローニア学芸学校の修辞学(文章作成術)教師イルネリウス。彼の評判はヨーロッパ中に広がった。ここに法学部が誕生する。

法学部は、ユースティーニアーヌス法典を「ローマ法大全(ローマ法の集大成)」として復元し、内容を正しく理解するための研究者集団として出発した。養成したのは学者(法学部教授)であり、裁判官や弁護士ではない。ローマ法大全と教会法大全をテキストとし、講義と討論を柱とするボローニアのカリキュラムは、他のすべての法学部の範となる。ボローニアで取得した学位は最高の権威を有した。

1339年、ペルージア大学法学部には教授7名、学生119名しか在籍しなかった。しかし、バルトルスが就任するや、彼の名声を伝え聞いた学生たちが殺到する。優れた弟子たちが教授陣に加わり、まもなくペルージア大学法学部はボローニア大学法学部と肩を並べるほどになった。ペルージア市はバルトルスに破格の厚遇を与え、彼もまたこれに応えて町と大学を愛した。

◆バルトルスとローマ法

バルトルスの最大の業績は、ローマ法大全の包括的註解をなしたことにある。彼は、民法・民事訴訟法というローマ法の本来的機能を「理性」に基づいて再構成しようとした。こうしてようやくローマ法は大学の研究対象から抜けだし、現実の裁判で役立つものとなる。難しい紛争につき、バルトルスたちはローマ法にもとづく助言を与えた。このため、バルトルス学派を「註解学派/助言学派」とよぶ。

中世社会では、身分・地域別に法が分かれていた。ある人がトラブルに巻き込まれて、法が違う場合、どうするべきか。たとえば、ローマ法はそれらのいずれとも抵触する可能性が高かった。たとえば遺言。都市法では3人の証人、ローマ法大全では5人の証人が必要と書かれている場合、どちらの法に従えば遺言は有効となるのか。バルトルスは、都市法等の地域法がある場合にはそれらを優先し、それらがない場合には補充的にローマ法を適用すべきだと説いた(条例優先理論)。

補充的にしろ、ローマ法が裁判に使われるようになると、ヨーロッパ大陸の法廷の光景は様変わりする。「ローマ法の継受」という現象である(⇒*【法制史】ローマ法の継受(三成美保))。それまで都市や農村では定期的に裁判集会が開かれ、仲間同士で裁判を行っていた。しかし15世紀末以降、法律家が裁判官席に座り、弁護士として法廷弁論を繰り広げ、裁判記録は膨大になり、裁判は長期化する。貴族も市民も農民も「法律家はローマ法ばかりを重んじて伝統的慣習法を軽んじる」と敵対心をあらわにした。だが、継受の流れはもはや止まらなかった。

◆後世への影響

バルトルスとその弟子たちの業績は、日本をはじめ、その後の社会に大きな影響を及ぼす。日本国憲法が保障する基本的人権は、宗教や民族に関係なく万人に生まれながらの権利(自然権)があるとする自然法思想に由来するが、それはローマ万民法に多くを負う。国際法の必要性を最初に唱えたのは16世紀のバルトルス学派である。これが、17世紀オランダでグロティウスにより大成された。

バルトルス学派に代わるものが生まれないまま、17世紀にローマ法は低迷する。しかし、19世紀ドイツでローマ法はよみがえった。ベルリン大学創設(1810年)とともにローマ法教授として招かれたサヴィニーは、ローマ法を手がかりに高度に理論化された近代私法学(パンデクテン法学)を打ち立てていく(⇒*【法制史】ドイツ同盟体制(三成賢次))。官僚養成機関たるベルリン大学は法学部優位の近代型大学であり、東京帝国大学のモデルとされた。また、パンデクテン法学の粋を集めたドイツ民法典を範として、19世紀末、日本民法典が成立する(⇒*【法制史】ドイツ民法典の編纂(1874-1896年)(三成賢次))。

バルトルスはローマ法の普遍性と人間理性を信じ、知的集団の先頭に立って新しい時代を切り開こうとした。グローバル化と新たな貧困化に入った21世紀の大学はどうあるべきか。わたしたちもまた過去と向き合いつつ、常にそれを問い続けなければなるまい。

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