【法制史】ドイツ同盟体制(三成賢次)

 2014.10.29 三成賢次
(初出:岩村等・三成賢次・三成美保『法制史入門』ナカニシヤ出版、1996年、一部加筆修正)

(1)法の統一と国家構想

法典論争 

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ティボー

ナポレオン体制の崩壊ののち、ドイツでも新たな国家秩序の確立が課題となる。そうした新国家構想は、ばらばらな状態にある法制度をどのようなかたちで統一していくのかという議論、すなわち法典論争と一定の関係を持ちながら推移していく。まず、1814年にハイデルベルク大学のティボー(Anton Friedrich Justus Thibaut、1772ー1840)が、「ドイツ一般市民法の必要性について」を著して、これまでの錯綜した法制度を廃止し、私法、刑法、訴訟法についてドイツ統一市民法典を編纂することを主張した。ティボーは、啓蒙期自然法の思想を基礎にして、新たな法典には完全性と民衆性が必要であると説いた。つまり規定が明瞭で一義的で遺漏がないこと、法制度が合理的で国民の必要に合致していること、そして内容が民衆に親しみのもてるもので普通の能力をもった者に理解可能なものでなければならないのである(→*【法制史】啓蒙期の法典編纂(三成美保))。

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サヴィニー

それに対して、同年ベルリン大学のサヴィニー(Friedrich Carl von Savigny、1779ー1861)は、「立法と法学に対する現代の使命について」と題した論文を発表し、ティボーの主張する統一法典編纂を時期尚早として批判した。サヴィニーによれば、法とはまず習俗および民族の確信によって、つぎに法学によって生み出されるものであり、つまり「内部の、秘かに働く力」によるであって、立法者の意思によって生ずるのではないのである。この論争は、結局はサヴィニーの完全勝利に終わり、統一法典の編纂は先に見送られることになる。

しかし、ティボーとサヴィニーは、ドイツの統一法典を編纂することが必要であるということでは認識は一致していたのであり、ただその方法が異なっていたにすぎないともいえる。むしろ問題であったのは、ランヅフート大学のゲンナーのようにドイツの各国家の法典編纂を支持し、ラント固有法の維持を主張する傾向であった。

【史料】法典論争

●ティボー「ドイツ一般市民法の必要性について」(1814年)→デジタル史料:http://dlib-pr.mpier.mpg.de/m/kleioc/0010/exec/bigpage/%22272169_00000002.gif%22pdficon_large
●サヴィニー「立法と法学に対する現代の使命について」(1814年)→デジタル史料:http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/savigny_gesetzgebung_1814pdficon_large

歴史法学派 

ヤーコプ・グリム

さきのサヴィニーの論文は、法典編纂論としてだけでなく、法学方法論としても重要な意味をもつものであった。この論文は、「歴史法学派」の綱領論文でもあるのである。サヴィニーにとって、法制度とは民族の代表として法にたずさわる法学者がその学問的営為である法学によって徐々に創造していくものである。そして、そのモデルとなるのが古典期ローマ法であった(→*【法制史】古典期ローマ法(三成美保))。純粋なローマ法学を再生させることによって錯綜した普通法学を革新すること、つまり法源を歴史的にとらえ直す作業が法学として認識されたのである。したがって、歴史法学はローマ法学としてロマニステンとよばれるグループを形成することになる。サヴィニーは、アイヒホルン(Karl Friedrich Eichhorn, 1781­ー1854)らとともに1815年に『歴史法学雑誌』を創刊し、その後7巻の『中世ローマ法史』を、さらに8巻におよぶ『現代ローマ法体系』を著している。しかし、歴史法学特有の思考は、当然のこととしてドイツ民族自身の法伝統にも関心がおよんでいく。サヴィニーの弟子であるグリム(Jacob Grimm、1785ー­1863)は、ゲルマン古来のものと考えられる法慣習の収集につとめ、『ドイツ法古事誌』ならびに『判告録』を発表していくのである(→*【特論1】歴史のなかの読書-グリム童話と近代家族の誕生(三成美保))。こうした傾向は、ゲルマニステンとよばれるグループを形成する。ロマニステンとゲルマニステンという歴史法学派の二つの潮流は、こののち互いに影響しあいまた対立しながら近代ドイツ法学を構築していくのである。

【史料】

●サヴィニー『現代ローマ法体系』全8巻→デジタル史料
第1巻 http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/savigny_system01_1840
第2巻 http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/savigny_system02_1840
第3巻 http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/savigny_system03_1840
第4巻 http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/savigny_system04_1841
第5巻 http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/savigny_system05_1841
第6巻 http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/savigny_system06_1847
第7巻 http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/savigny_system07_1848
第8巻 http://www.deutschestextarchiv.de/book/show/savigny_system08_1849

 国制構想 

シュタインは、中央権力の強化された連邦国家を念頭においており、帝国裁判所を再興し、立法権は帝国議会と皇帝に属するが裁判権はラント高権と考えていた。フムボルトは、連邦国家的要素をもった国家連合を構想し、主権を保持する諸侯の防衛同盟を想定していた。また、裁判権はラント事項とするが、三審制を保障し、さらに固有の裁判所と立法院の設置によって漸次的かつ有機的に法の統一をはかろうとした。ハルデンベルクは、1814年7月の段階では、一般法典の編纂を全ドイツ的課題と考えており、ティボーの主張の影響を読みとることができる。

しかし、この間に法典論争の推移が影を落としていく。同年9月にハルデンベルクが提出したいわゆる「41箇条案」では、以前とは異なり法典編纂の主体があいまいな表現となり、10月にメッテルニヒと共同作成した草案「12箇条」では、構成国に統治権を認め、防衛、司法などに関して一定の主権制限が取り入れられている。しかし、バイエルンとヴュルテンベルクがいかなる主権放棄にも反対し、また中小国が大国の指導に反対したために、こうした提案も実現をみなかったのである。

(2)ドイツ同盟

ドイツ同盟規約

ドイツの位置

ドイツ同盟:プロイセン(青)・オーストリア(黄)・その他(灰)

統一法典の構想が挫折したなかで、1815年にウィーン会議において6月8日ドイツ同盟規約が締結され、ドイツ同盟(Deutscher Bund)が結成された。同盟規約によれば、ドイツ同盟の意思決定機関は、同盟議会(Bundestag)であり、それには本会議(Plenum)と小会議(engerer Rat)があった。同盟加盟国はどちらの会議にも投票権があり、議長はオーストリア代表がつとめることになっていた。

本会議では、オーストリアと諸王国が各4票の投票権をもち、それ以外の加盟国は各1票しか認められていなかった。票決は、3分の2の多数決で行われ、同盟基本法の制定と改正ならびに同盟構成的諸制度(同盟軍制、同盟裁判制度などの国法的に同盟機構に属する諸制度)と公益的指令(一般的福祉の増進を目的とする指令 gemeinnützige Anordnung)などについての重要事項に関して決議がなされた。小会議は、本会議の議題以外の事項を審議し、単純多数決で決議がなされ、11の大国が各1票を、その他の加盟国は定められたグループごとに6票を行使した。なお、各加盟国には、完全な裁判高権が認めれており、ただ例外的に小国は共同して最高裁判所を形成することができた。

同盟規約ではその第13条において、加盟国はラント・シュテンデ制(landständische Verfassung)を創設することが求められていた。当時、シュテンデという言葉が自由主義者からは国民議会を意味するものとしてとらえられたが、最終的には君主主権を基本にした身分制議会であると有権的に解釈された。その他、加盟国住民の権利が同盟加盟国間の自由な協定によって定めれることになり、宗教の自由、移転の自由、土地所有権などが認められることになった。旧帝制と比較すれば、第2条と第11条で相互援助義務が定めれ、ドイツ全体の共同防衛の理念がもたらされたこと、また「一般ドイツ市民権」の概念が生み出されたことは重要である。その意味で、ドイツ同盟は、「単なる国際法的な、解約可能の関係以上のもの」であり、「一つの永続的な生活共同体」(ハルトゥング)になったのである。

国家同盟としてのドイツ同盟

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ドイツ同盟(クリックすると拡大)(Putzger – Historischer Weltatlas, 89. Auflage, 1965)

しかし、ドイツ同盟は一つの近代国家とは言い難く、あくまでも国家同盟であった。加盟国には完全な主権が認められており、近代国家としての統一的な立法、行政、司法は欠如していた。同盟会議は単なる使節会議にすぎなかったのである。また、大国であるプロイセンとオーストリアは旧帝国に属した部分だけが加入し、それ以外の領土については同盟とは無関係であった。さらに、外国が加盟していることも特徴であった。たとえば、イギリスが同君連合つまり君主を同じくするハノーファー王国との関係で加盟しており、その他オランダとデンマークが同盟内の領土の関係で関わっていた。この点でもドイツ同盟は、ドイツ民族の統一国家とはいえず、国際的な同盟であったのである。

同盟の政策

ハンバッハ祭

同盟体制のもとでプロイセンとオーストリアは、現状維持政策を進め、ドイツ統一運動を抑圧した。当時、1815年に学生の運動組織であるブルシェンシャフトが創設され、1819年3月にブルシェンシャフトの学生であるザント(Sand)が劇作家でロシアのスパイとみられていたコッツェブーエ(Kotzebue)を刺殺するという事件が起きた。さっそく、同年6月に同盟の主要10カ国の代表がカールスバードに集まり、8月にはいわゆる「カールスバートの決議」を発表する。さらに、大学法、出版法、審問法、そして執行法の4法律が同盟議会の採択され、同盟組織を利用してメッテルニヒの反動政策が同盟加盟国に対して押しつけられることになった。これらの法律によって、学生組合や当時一種政党団体化していた体操団体などが禁止され、出版物の事前検閲ならびに大学に対する監督が行われ、さらにマインツにおかれた中央審問委員会によってデマゴーグ訴追が実施されることになった。

1820年5月には、同盟体制強化のために同盟規約の改訂が行われ、ウィーン最終規約として締結される。同規約では、同盟権力の強化がはかられるとともに同盟の非解消性が言明され、同盟決議に関する強制執行規則の大綱が定められ、そして「君主制原理」の確立がうたわれるにいたる。しかし、こうした弾圧立法や同盟施策によってドイツの自由主義運動が完全に閉息したわけではない。その後、1832年にはハンバッハ祭がライン・プファルツで開かれ、また1833年にはフランクフルト警察衛舎襲撃事件が起こるなど統一と自由を求める運動は継続され、1848年の3月革命へと結びついていくのである。

【史料】カールスバートの決議

●大学法→http://www.heinrich-heine-denkmal.de/dokumente/karlsbad1.shtml
●出版法→http://www.heinrich-heine-denkmal.de/dokumente/karlsbad2.shtml
●審問法→http://www.heinrich-heine-denkmal.de/dokumente/karlsbad3.shtml

関連ページ

*【法制史】三月革命期(1848-49年)における法と社会(三成賢次)

*【法制史】「上」からの近代化ー19世紀初頭のプロイセン改革(三成賢次)