「<子供>の誕生」とフェミニズム史学

フィリップ・アリエス『<子供>の誕生-アンシャン・レジーム期の子供と家族生活』杉山光信・杉山恵美子訳、みすず書房、1980年

掲載:2019-12-09 執筆:姫岡とし子

〈子供〉の誕生―アンシァン・レジーム期の子供と家族生活

一九八〇年代から九〇年代初頭の日本は、社会史の時代だった。ブームのきっかけを作ったのが、本書『<子供>の誕生』を皮切りに、その著作がつぎつぎと翻訳刊行されたアナール派の歴史学である。

一九七〇年代のアナール歴史学の主流は、人びとの心・意識のあり方に焦点を合わせる心性(マンタリテ)史であった。一九六〇年に原書が出版された『<子供>の誕生』は、アナール派が心性史の方向に舵をきる画期となる。本書でアリエスは、人びとの子供に対する捉え方、すなわち子供観の歴史的変化と、これに密接に関連する家族認識の変化に照準を合わせたが、他に性、愛、母性、老い、死などが心性史の考察対象となった。従来の歴史学では想定すらできなかったテーマだが、それはたんに政治や経済などの公的領域こそ歴史学の研究対象と考えられていたためだけではない。母性は本能、家族の情愛は普遍という見解が浸透し、これらは歴史の影響を受けない自然なものとみなされていたことこそ、その主な原因であった。

アリエスが考察した子供についても、私たちは、子供は家族にとって可愛く、かけがえのない存在で、年齢段階に応じて発達していくものと信じていた。ところがアリエスは、このわれわれの常識をくつがえし、伝統社会の子供は、一人で自分の用を足すことができない時期を過ぎると大人と一緒にされて仕事や遊びを共にした、つまり、子供は青年期を過ごすことなく子供から一挙に大人になったと主張したのである。

Philippe Ariès.jpgアリエスは、日記や手紙といった文書史料だけではなく、絵画や墓碑銘など多様な図像や物を史料として用いることによって、中世から一九世紀にいたる子供に向けられるまなざしの変化を読み解いていった。一七世紀頃になるまで子供は絵画のなかで大人と一緒に描かれ、墓碑肖像に子供が登場するのは、ようやく一六世紀になってのことだった。子供の服装は年齢に無関係なもので、遊びも、七歳を過ぎると、狩猟、馬術、武術、芝居など大人と共有のものになる。大人との混交、子供の特徴を示すものが史料のなかにほとんど見られないことから、アリエスは、伝統社会の子供は「小さな大人」だったとみなしたのである。

変化は一七世紀頃にあらわれる。子供の肖像が一般的になり、単独で子供自身のために描かれるようになった。家族の肖像も子供を中心とする構図を取るようになり、子供独特の表現が日記や芸術作品のなかにあらわれ、服装や遊びも大人のものとは区別される子供に特有のものに変わっていく。子供期は特別のまなざしで見られるようになり、子供を慈しむという意識が生まれてくる。まさに「子供の誕生」であった。

アリエスは、子供への関心の増大と家族意識の興隆との相互関連について筆を進め、一六世紀以降の図像記述から両親と子供たちからなる家族が一つの価値として認識されるようになったことを読み取る。ただし、親子間のあらたな情愛の発達が、ただちに家族成員だけの私的な世界の形成につながるわけではない。一七世紀にはまだ社会と家族を融合させる求心力が働いていたが、同時に両者を分離させようとする遠心力も作用し、一八世紀以降、両者は距離を取るようになる。その結果、夫婦と親子からなり、情愛によって結ばれ、その中心には子供がいる閉鎖的な私的空間としての家族、すなわち近代家族が誕生するのである。

われわれが超歴史的な典型的家族と考えていたものは、たかだか二五〇年あまりの歴史しかもたない近代家族にすぎなかった。アリエス以降のアナール派の研究も、母性など、これまで歴史とは無関係な本能だと思われていた心性が歴史性を帯びていることをつぎつぎに明らかにしていった。こうした従来の神話を打破する研究成果は、フェミニズム史学の進展に決定的なインパクトを与えることになる。

アナール派に刺激されたフェミニズム的女性史研究は、社会構造の変化にも注目し、主婦や家事労働は公領域と私領域が分離する近代になってはじめて誕生したものであることを明らかにした。こうした家族・女性史研究はフェミニストに、「家事や育児は女性の天職」説を「自然ではなく近代に誕生した歴史的形成物」として退け、性役割は変革可能だと主張する論拠を提供したのである。

アリエスはフェミニズムに関心を寄せていたわけではないが、『<子供>の誕生』が主発点となって、フェミニズム史学や理論はあらたな境地を切り拓いていったのだ。

(初出はミネルヴァ通信の『究』2014年9月, No.42、書籍化の予定あり)

【参考】フィリップ・アリエスの本

死を前にした人間

図説 死の文化史―ひとは死をどのように生きたか

死と歴史―西欧中世から現代へ

中世ヨーロッパの結婚と家族 (講談社学術文庫)

「教育」の誕生

歴史家の歩み―アリエス1943‐1983 (叢書・ウニベルシタス)

歴史の時間

日曜歴史家