一六世紀の農民女性と主体性(姫岡とし子)

ナタリー・Z・デーヴィス『マルタンゲールの帰還-16世紀フランスの偽亭主事件』成瀬駒男訳、平凡社、1985年

掲載:2019-12-09 執筆:姫岡とし子

マルタン・ゲールの帰還―16世紀フランスの偽亭主事件

デーヴィス(一九二八~)は、フランス近世の文化と社会を専門とし、単行本だけで五冊の邦訳出版のあるアメリカを代表する歴史研究者だが、定職を得たのは四三歳と遅い。女性であること以外に、左翼の集会で知り合い、一九歳で駆け落ちした数学者の夫が反共旋風の嵐のなかで失職し、職を求めて転居をくり返したこと、夫婦のパスポート剥奪、三人の子どもの出産と育児、強いられる孤立など、彼女の私生活が関係していた。だが、デーヴィスはこうした困難をプラスにかえ、アカデミズムの人間関係にまどわされずに自分の道を進んでいった。

曲がり角の多い彼女の人生経験は、研究テーマの選択や研究方法にも生かされている。社会のアウトサイダーだったユダヤ人という出自や左翼とのかかわりは、民衆や下層への注目につながり、母親になって、女性に関心をもつようになった。

マルクス主義からの出発とはいえ、演繹的な研究方法ではなく資料から答えを導く彼女は、階級以外にも、宗教、年齢、ジェンダーなど、さまざまな要素が社会の結びつきや分裂に関与していることを見いだしていく。その中で彼女は、人間の認識や行動を規定するものとしての文化コードを解読する人類学に接近する。

本書は、人類学的手法にもとづくミクロストーリアの代表的著作で、一六世紀ラングドックでおこった偽亭主事件とその裁判という『驚くべき物語』(シュウールが判決直後に執筆した文学的著作のタイトル)を題材しながら、当時の農村社会を生き生きと蘇らせている。底本となったのは、この『物語』と、トゥールーズ高等法院での担当判事であったコラによる『忘れ難き判決』である。裁判記録そのものは散逸していて使えなかったが、高等法院の判決記録や財産・結婚などに関する公正証書を丹念に調べ、また文学作品も援用しながら、人びとの生活の規定要因となる地域の支配形態、経済生活、宗教、慣習・慣行などをふまえていく。事件と裁判の背景や関係者の思惑と行動を再構成するにあたり、著者が創作で補っている部分もあるが、過去の声にしっかり耳を傾け、想像の域をこえた裏づけのある創作となっている。

この事件は、失踪していた夫マルタンだと称して帰ってきた偽亭主のアルノーを、周囲も本物だと認め、家督継承者としての彼は妻ベルトラントと仲睦まじい生活を送って娘も設けるが、財産をめぐって叔父と対立し、偽者として告訴される、というものだ。本物が帰ってきた結果、最終的に偽者は死刑宣告を受けるが、それまで判事たちはアルノーを偽亭主だとは断定できなかった。

なぜ偽亭主はあれほどまでにみごとに実の夫の役割を演じられたのか、妻は偽亭主の共犯者だったのか、という疑問は、コラの『忘れがたき判決』の執筆動機になったが、デーヴィスも同じ疑問に対して、当時の農民生活における束縛と可能性を見極めながら彼女の答えを出していく。

叔父の圧力で告訴には協力したものの、偽亭主だと気づいていたベルトラントの希望は、自分が敗訴して「夫」との日常を取り戻し、かつ不義密通の汚名を回避して、村での自分の立場と評判を守ることだった。そのために彼女は裁判で完璧に一人二役をこなし、偽亭主の発言と齟齬をきたさないよう細心の注意を払ながら、だまされた女のイメージを演じきった。本物の登場後も彼女は気力を保ち、今度は夫を歓迎して、偽物にまるめこまれたと主張する。誠実さを認められた彼女は姦通罪を免れ、その上、「本物だと信じていた間の懐妊」という理由で、偽者との間の子どもは嫡出子とされたのである。

コラが弱い存在である女性がたぶらかされた、という無自覚な犠牲者説をとったのに対して、デーヴィスは、妻が彼女の意志で主体的に行動したという前提に立った。ベルトラントの行動の背後に秘められた心理の分析は、もちろんデーヴィスの推論によるものだが、彼女は一〇代半ばで結婚した妻の性格と周囲の女たちの価値観を注意深く観察して、「主体的対応」という、当時の農民たち、とりわけ女性を選択の自由をもたない存在として捉えていた多くの歴史家たちとは異なる結論に達したのだ。

この作品が書かれたのは、新しい女性史が、女性は歴史の被害者ではなく、歴史に主体的に働きかける存在だと主張はじめた時期である。本書も、そのような試みと呼応するものだったといえよう。

(参考)ナタリー・Z・デーヴィスの本

贈与の文化史―16世紀フランスにおける

歴史叙述としての映画―描かれた奴隷たち