目次
【特論8】「子殺し女」の罪と罰ー法のなかの淑女と淫婦(三成美保)
三成 美保(掲載:2014.05.31/初出:『書斎の窓』一部加筆修正・図像追加)
歴史のなかの子殺し
子殺しというテーマは古くて新しい。かの王女メディアは苦悩のあげく、愛するわが子を手にかけた。1970年代前半には、日本でも「コインロッカー・ベイビー」がマスコミをにぎわせた。メディアは自分を裏切った夫に復讐するため子を殺し、生まれたばかりの子の死体をコインロッカーに隠した女たちには男に捨てられた未婚の母が多い(1)。ギリシア悲劇でも、殺伐とした現代の世情でも、子を殺す女には特別の同情がよせられる。しかし、子殺しがこと法律上の問題となれば、生命の尊重という大原則がからむだけに感傷的になるだけではすまされない。
よく知られているように、近世の日本では「間引き」がなかば公認されていた。織田信長の寵愛をうけたイエズス会士フロイスもこう述べている。「ヨーロッパでは、嬰児が生まれたのちに殺されることなどめったにないか、またはほとんどまったくない。日本の女性たちは、育てることができないと思うと、嬰児の首筋に足をのせて、すべて殺してしまう(2)」。しかし、じつはヨーロッパでも中世初期には障害をもつ子はしばしば殺されたし、中世後期には子を殺した女にたいする処罰はさほど厳しくない。中世に子殺し事件がきわめて稀なのは子殺しがなかったからではなくて、子殺しが摘発されなかったからにすぎない。たとえ子殺しが発覚しても、犯人女性は町からの追放刑ですまされた。当時、犯罪を追及する公権力がいまだ十分に発達しておらず、大人とはちがってまだ労働力としてあてにできない子どもがいなくなろうと当局はさしたる関心をよせなかったのである(3)。
事情がかわるのは一六世紀である。ドイツでは『カロリナ刑法典』(一五三二年)が、子殺し犯を溺殺刑と定めた(4)。こののち、多くの「子殺し女」が命を落とすことになる。しかし、手足を縛ったり、不浄獣とともに袋詰めにして生きながら河にほうりこむという溺殺刑はそのあまりの残酷さゆえにしだいにすたれ、打ち首(斬首刑)が一般化する。一六世紀末、有能な首切り役人として名をはせたフランツ親方は処刑方法を溺殺刑から打ち首にかえたことを誇らしげに日記に記しているが、彼が活躍した町ニュルンベルクでは、一五一〇年から一七七七年までに九四人の女たちが子殺しの罪で処刑された(5)。子殺しは神をおそれぬ大罪であり、捨ておいては共同体全体に大きな災いがふりかかるーー子を殺した女を処刑台におくる近世の論理のもとでは、子殺しにいたった女の身の上はまったく考慮されなかったのである。
啓蒙期知識人の子殺し論
古来より、キリスト教ではしばしば女は男を誘惑して破滅させる危険な存在として描かれた。しかし、それはある意味では出産をはじめとする女性特有の能力への男たちの畏れをあらわすものでもあった。啓蒙主義の時代をむかえて女性イメージが一変する。性に貪欲な存在から性に無縁な存在へーー。当時の道徳的啓蒙書ではさかんに男女それぞれの美徳が説かれた。「男は女の保護者であり首長であるが、女は男に体を擦り寄せて、縋りつつ支えつつ忠実で感謝心ある従順な伴侶であり、男の生活の助手となることが、自然と人間社会の一致した意思である(6)」(カンペ)。ゲーテもまた妹にしたためた手紙で、女はあまり知識を身につけるな、男の領分を侵すなと戒めている(7)。こうして、男たちは公的世界の担い手となり、女たちは意思をもたぬ受動的存在とされていった。
知識人が性別分業論に公私の区別や自然的本性という理屈をつけくわえはじめた一八世紀後半、子殺しはときの一大トピクとなる。汚れなき美しい乙女グレートヒェンは恋人ファウストに捨てられて子を殺し、処刑台の露と消えた。無垢な女と無責任な放蕩男ーー。『ファウスト』で描かれる男と女の構図はゲーテだけのものではない。当時はやった多くの詩や小説によく似たモチーフが展開する。そして、こうした構図は文学の世界にとどまらず、近代法の世界にも持ちこまれていく。
ゲーテのグレートヒェン悲話は、一七七一年にフランクフルト市でおこったズザンナ事件をもとにしている。このセンセーショナルな事件から九年後、『ライン学術論集』という雑誌で懸賞論文が募集された。テーマは子殺しの防止。「美徳と紙一重の犯罪、悪徳と化した美徳、そういうものの中に嬰児殺しがある」と述べた提案者ラメツァンにとって、子を殺した女は「女性というものの柔和な弱さと愛、無垢と慎ましさが、母でありかつ殺人者であるものにしてしまった生け贄」にほかならなかった。募集記事は大きな反響をよび、四五〇篇もの論文が集まった。入選したのは三篇。それぞれの著者は宮廷顧問官、博士号をもつ啓蒙主義的官吏、大学教授という肩書をもつ。そこでは、売春婦のような淫婦が子を殺したときには晒し刑を厳しくせよとか、男性をりっぱな国民に教育すれば女性をだます不埒な輩は減るだろうし、そのうえで女性には家庭的で無垢で純真で美徳あふれるドイツ女性たるべく教育をほどこせと唱えられた(8)。ここには女を淑女と淫婦にわけて論ずる方向、男女の性別分業が国家の利害にもかなっていることがはっきり示されている。
著名な教育学者ペスタロッツィもこれに応募するつもりで執筆にとりかかった。しかし、論文が長くなりすぎて応募をあきらめ、一七八三年に独自に出版した。『立法と嬰児殺し』がそれである。彼によれば、すべての未婚の母がもつ「恥を隠し、その児から逃れようとする」気もちが子殺しの誘因である。この気もちは「とりわけ女性にとって本質的に必要で、かつその徳と本分とにとって必要不可欠であるところの衝動と素質」から発したもので、それ自体は不徳でもなければ、恥ずべきものでもない(9)。ペスタロッツィにとって、子殺しは女性が美徳を重んじるあまりにおこった犯行なのである。
哲学者カントは死には死をという同害報復論を唱えたことで知られるが、二つの犯罪についてだけ例外を認めている。子殺しと決闘である。「これら両犯罪に誘うものは名誉感情である」。彼によれば、社会は「公共体の中へと言わば[禁制品のように]忍びこまされた」婚外子の存在もその殺害も無視できるが、「婚姻外の出産が知れわたった場合に生じる母親の恥辱は、どんな命令によってもこれを排除することはできない(10)」。カントは婚外子の生命よりも未婚の母となる不名誉を免れるほうに重きをおいたのである。
法のなかの淑女と淫婦
啓蒙期の法典編纂としてよく知られる『プロイセン一般ラント法』(一七九四年)では、百条以上にわたって子殺しにかんする条文がもうけられている。その冒頭部、第八八八条にはつぎのようにある。「嬰児殺をできるだけ避けるよう、法律は、無垢な未婚女性が結婚の約束をして妊娠した場合には、彼女には妻としての権利と名誉があるものとみなし、結婚がありえない場合でも主婦としての権利と名誉があるものとみなす(11)」。時をおなじくして国家は、公立の産児院を設置したり、妊娠を理由として解雇しないよう命令を発するなど子殺しの防止に力をそそいだ。
では、子殺しは減ったのだろうか。答えは否である。立法者や啓蒙期知識人たちの「子殺し女」にたいするイメージはかならずしも現実に即していたとは言いがたい。実際には、子殺しにいたった女たちの多くが結婚への戦略としてみずから婚前交渉をえらんだ農村出身の都市奉公人であった。しかも、彼女たちの故郷ではそうした選択は悪徳でもなければ、罪でもない。ひろくいきわたった慣習にほかならない。娘たちは結婚相手となりうる独身の男たちと懇ろになり、妊娠すればまさか捨てられることもあるまいと考えたのである。大半の娘たちはおそかれはやかれ首尾よく結婚にこぎつけた。しかしなかには結婚できず、しかも生まれた子どもの面倒を見てくれる親族もいない娘たちがいた。子殺しにはしったのはこうした娘たちである(12)。名誉をまもるための措置がいくら講じられたところで、名誉という動機とはほとんど無縁のところで子殺しに手をそめた娘たちの救いにならなかったのは言うまでもない。
しかしなお、立法者は「名誉」にこだわりつづけた。その過程で、子殺しは溺殺刑という残酷な刑を科せられる「加重類型としての犯罪」から、死刑を免れる「軽減類型としての犯罪」へと改められていく。フォイエルバッハが起草したドイツ最初の近代的刑法典である『バイエルン刑法典』(一八一三年)では、「子殺し女」の刑は無期懲役刑と定められた。立法委員会の注解にいわく、「嬰児殺はその概念上、婚外子の母に限定される。またこれに応じて、その刑も規定される。婚外子の場合にのみ、女性の名誉の維持、公然たる恥辱の回避、幸福な生活全体の破壊(以上が嬰児殺の通常の動機である)が、産婦の神経全体が非常にいらだっていることともあいまって、立法者の目には嬰児殺の可罰性を減じることができるように思われる。……ただ、公然たる売春婦として暮らしていた者、あるいはかつて秘密妊娠や秘密分娩で処罰されたことがある者は、女性としての名誉を主張できないため、彼女たちの場合には刑を軽減する主たる根拠はない(13)」。立法者は、女たちを淑女と淫婦にわけて論ずる。無垢な娘たちの子殺しは許すが、売春婦やかつて妊娠したことのある未婚女性、そして妻たちの子殺しは許さなかったのである。
女の美徳と男の美徳
無垢な娘にかぎって救済するという発想は、女の不貞行為をきびしく責める発想とうらはらの関係にある。それはさらに男の性欲を本能として肯定する姿勢とむすびつく。「男性は、自分の尊厳を捨てることなしに、性衝動を認め、その充足を求めることができる。……堕落していない女性にあっては性衝動は発現せず、いかなる性衝動も住まっておらず、愛だけがある。そしてこの愛は、男性を満足させるという女性の自然衝動である(14)」(フィヒテ)。こうした考え方はナポレオン法典にも色濃くあらわれている。近世までとは逆に、姦通罪は男よりも女のほうが罪が重くなり、妻はもはや夫の不貞行為を理由に離婚請求できなくなった。イギリスでは、子殺しにたいする刑罰がゆるやかになるにつれて、堕胎の罪が重くなっている(15)。「子殺し女」を救う論理は、未婚女性の守るべき美徳(純潔)や妻としての美徳(貞節・従順)、母としての美徳(母性愛)を強調する論理とつながっていたのである。
もっとも、「女の美徳(女らしさ)」は男から女への一方的な押しつけとばかりは言えまい。それは階層を異にする女たちの闘いであり、また、連載の③(「それでもあなたは男!?」)で述べられたように女から男への「男の美徳(男らしさ)」の押しつけの過程でもあった。教養市民とよばれるエリートの妻や娘たちは、「女らしさ」をみずから率先して受けいれていく。彼女たちは、農民や労働者といった「大衆」の妻子たちをボランティア活動によって啓蒙しようと躍起になった(16)。その一方で、女らしいと自認する女たちほどみずからの夫や息子に「男らしさ」を期待した。子殺しとおなじく、決闘もまた故意の殺人でありながら死刑を免れた。決闘は男性的美徳を証明する場であったからである。「男らしさ」賛美は容易に暴力賛美に転化し、はてはナチズムにいきつく。しかし、ナチスの母性保護政策が世の女たちの絶大な支持をうけたことも見のがされてはならない(17)。
法はそれぞれの社会の価値観を免れることはできない。二一世紀をまえにしてもなお、法のなかの「女らしさ」や「男らしさ」は攻撃されてはまた息をふきかえし、ことあるごとに顔をだす。その呪縛がとける日はくるのか、それとも、不景気や国際情勢激変のなか男はますます過労死や戦死を拒めなくなり、出生率減少のあおりで女にふたたび産育が義務づけられる日がくるのかーー。わが国の歩みをふりかえってみたとき、そこにはいったいどのような答えが見いだされるのだろうか……。
(1)中谷謹子編『子殺し・親殺しの背景、《親知らず・子知らずの時代》を考える』有斐閣新書、一九八二年、佐々木保編著『日本の子殺しの研究』高文堂、一九八〇年。
(2)松田毅一、ヨリッセン『フロイスの日本覚書、日本とヨーロッパの風習の違い』中公新書、一九八三年、八一ページ。
(3)荻野美穂「子殺しの論理と倫理ーーヨーロッパ社会史をもとにーー」『女性学年報』
九号、一九八八年、フランドラン、宮原信訳『性の歴史』藤原書店、一九九二年、一八三ページ以下。van Duelmen,R.,Faruen vor Gericht. Kindsmord in der Fruehen Neuzeit,Frankfurt/M.1991.
(4)塙浩訳「カルル五世刑事裁判令(カロリナ)」『塙浩著作集四、フランス・ドイツ刑事法史』信山社、一九九二年、一九九ー二〇〇ページ。ビルクナー編著、佐藤正樹訳『ある子殺しの女の記録、一八世紀ドイツの裁判記録から』人文書院、一九九〇年、資料篇参照。
(5)フランツ・シュミット、藤代幸一訳『ある首切り役人の日記』白水社、一九八七年、二八ページ、Bode,G.,Die Kindestoetung und ihre Bestrafung im Nuernberg des Mittelalters,Archiv fuer Strafrecht und Strafprozess,Bd.61(1914),S.431-432.
(6)フレーフェルト、若尾祐司他訳『ドイツ女性の社会史ーー二〇〇年の歩み』晃陽書房、一九九〇年、一六ページ。
(7)田邊玲子「純潔の絶対主義」荻野美穂他『制度としての<女>、性・産・家族の比較社会史』平凡社、一九九〇年、一〇八ー一〇九ページ。
(8)Drei Preisschriften ueber die Frage:welches sind die besten ausfuehrbaren Mittel, dem Kindermorde abzuhelfen, ohne die Unzucht zu beguenstigen(Verfasser:Pfeil,
Klippstein,Kreuzfeld),Mannheim 1784,ビルクナー『ある子殺しの女の記録』「訳者による解説」参照。
(9)ペスタロッチー、杉谷雅文訳「立法と嬰児殺しーー真理と夢、探求と象徴ーー」『ペスタロッチー全集第五巻』平凡社、一九五九年、三九ー四〇ページ。
(10)カント、加藤新平、三島淑臣訳「人倫の形而上学、第一部、法論の形而上学的基礎論」『世界の名著三九、カント』中央公論社、一九七九年、四七九ー四八〇ページ。
(11)Allgemeines Landrecht fuer die Preussische Staaten von 1794,Textausgabe(Hg.v.
Hattenhauer,H.),Frankfurt/M.1970,S.701.
(12)van Duelmen,Faruen vor Gericht,S.76ff.ミッテラウアー、ジーダー、若尾祐司、若尾典子訳『ヨーロッパ家族社会史ーー家父長制からパートナー関係へーー』名古屋大学出版会、一九九三年、「6、婚姻・生殖・セクシュアリティ」をも参照。
(13)Anmerkungen zum Strafgesetzbuche fuer das Koenigreich Baiern,nach den Protokollen des koeniglichen geheimen Raths,Bd.II,Muenchen 1813(Nachdruck,Frankfurt/M.1986),S.32f.シューベルト、山中敬一訳『一八二四年バイエルン王国刑法典フォイエルバッハ草案』関西大学出版部、一九八〇年、二三七ー二四一ページをも参照。
(14)フィヒテ、藤澤賢一郎、杉田孝夫、渡部壮一訳「自然法論第一補論、家族法綱要」『フィヒテ全集第六巻、自然法論』晢書房、一九九五年、三六一、三六四ページ。
(15)辻村みよ子、金城清子『女性の権利の歴史』岩波書店、一九九二年、四六ー四七ページ、マクラレン、荻野美穂訳『性の儀礼、近世イギリスの産の風景』人文書院、一九八九年、第五章。
(16)フレーフェルト『ドイツ女性の社会史』第二章。
(17)フレーフェルト『ドイツ女性の社会史』第四章、姫岡とし子『近代ドイツの母性主義フェミニズム』勁草書房、一九九三年、ファークツ、望田幸男訳『ミリタリズムの歴史、文人と軍人』福村出版、一九九四年。