目次
【特論13】たかが紅茶、されど紅茶――女たちが「国民の嗜好」を決めた!?(井野瀬久美惠)
2014.12.19掲載 井野瀬久美恵
「紅茶の国」イギリス
イギリスは「紅茶の国」といわれる。イギリスで暮らしてみると、食事の後はもちろん、ランチの前(午前11時前後)やアフタヌーン・ティ(午後4時前後)を含め、家庭でも職場でも、紅茶を飲む習慣は生活のリズムのなかに今なおしっかり刻み込まれている。
とはいえ、よく考えてみれば、イギリスにとって紅茶は実に不思議な飲み物である。
第一に、茶はイギリスに自生しない。中国南西部の雲南省や福建省あたりが原産地といわれる茶は、1630年代、オランダ東インド会社によって、ジャワ島バンダムからアムステルダム経由でロンドン港に入ったといわれている。ちなみに、紅茶も緑茶もウーロン茶もみんな同じ茶葉から作られ、発酵の度合いで違いができる。全く発酵させず蒸したり炒ったりしたものが緑茶、半分だけ発酵させたものがウーロン茶、それ以上発酵させると紅茶になる。
第二に、茶、コーヒー、ココアはほぼ同時期、イギリスに入ってきたのだが、そのなかで、まず人気を博したのはコーヒーであり、17世紀末のイギリス(正確にはイングランド)は西ヨーロッパ最大のコーヒー消費国であった。
ではいつどのようにして、イギリスは「紅茶の国」になったのだろうか? そこに見えてくるのは、17世紀の女たちのパワーである。
コーヒーは男の飲み物――「革命の17世紀」の嗜好
イギリスに入ってきたコーヒーが飲める場所――それがコーヒーハウスだった。1650年、大学町オクスフォードに初お目見えしたこの娯楽と社交の空間は、その2年後にロンドンに登場すると、またたく間にイギリス全土に数を拡大する。コーヒーの人気はコーヒーハウスの人気でもあった。ではなぜコーヒーだったのか?そこには、いわゆるピューリタン革命とよばれた当時の時代状況が深く関わっていた。
この革命で、オリバー・クロムウェル率いる議会派は国王チャールズ1世を処刑(1649)した。この瞬間、イギリス(イングランド)は、前代未聞、空前絶後の「共和国」となった。コーヒーが「アルコールの害毒を消す万能薬にして健康促進剤」として、その薬効がおおいに宣伝されたのはこの時代である。人間の理性を目覚めさせ、知性の活動を活発にする、醒めた温かい飲み物コーヒー――それは、飲酒を厳しく戒めるピューリタン支配の時代の理想的な飲み物だったのだ。
当時のイングランドでは、コーヒーや茶、砂糖や木綿といった非ヨーロッパ産品を扱う貿易商人が力を持ちはじめていた。土地所有に基盤を置く(それゆえに田舎暮らしが中心となる)貴族や地主ジェントルマンとは異なり、都市に住む彼らは、自分たちの生活や仕事のためにまったく新しい経済・社会システムを必要としていた。たとえば、遠隔地貿易関連の情報を提供してくれるメディア、株や商品の取引所、増資に欠かせない銀行、海上保険、郵便制度――これらすべてが、当時のイギリスにはなかったのだ。それらを提供してくれる多目的空間こそ、コーヒーハウスだった。ジャーナリズムも文学も、ここコーヒーハウスでの議論がなければその後の発展もなかっただろう。
ただしコーヒーハウスは女性禁止の男性空間だった。そこに入りびたりの夫に怒った女たちが立ち上がる・・・という設定のパンフレットが出た。タイトルはちょっと長い。『コーヒー反対を公衆の思慮に訴える女たちの請願――人体をひからびさせ、衰弱させる、かの液体の過度の飲用が、彼女らの性に及ぼす大いなる不都合』(Women’s Petition against Coffee Representing To Public Consideration: The Grand Inconveniencies accruing to their SEX from the Excessive Use of that Drying, Enfeebling LIQUOR. , 1674)!!! 女たちはコーヒーの害悪を次のように告発する。曰く、コーヒーは男たちを無意味なおしゃべりに駆り立てる。しかもその後、男たちは静かに眠ってしまう。つまりコーヒーは、性的な興奮ではなく、精神的な興奮をもたらすことで、男たちを不能にしてしまうのだと、女たちは嘆くのである。
このパンフレットがほんとうに女性によって書かれたかどうかは不明であるが、ここでご注目いただきたいのは、「コーヒーは男の飲み物」というジェンダー・イメージが、紅茶を「国民的飲み物」に変える新たな戦略を開いたことである。新たな戦略――それは、紅茶を飲む空間に女性を取り込むこと、に他ならない。
女たちは紅茶を飲む――階級を超え、国民的嗜好へ
17世紀後半から18世紀にかけて、コーヒーから紅茶への転換はゆっくりと、だが確実に進んだ。ここで重要な役割を果たしたのは王室の女性たちである。
ピューリタン革命で処刑されたチャールズ1世の息子、チャールズ2世が王政復古(1660)で返り咲くと、ポルトガルの名門ブラガンザ家から嫁いだキャサリン王妃は、茶を飲む習慣を「嫁入り道具」に持ち込んだ。その20年余り後、チャールズの弟ジェイムズ2世を廃位した名誉革命で、夫ウィリアム3世とともにイングランドの王位に就いたメアリ2世(ジェイムズ2世の長女)も、彼女の実妹であるアン女王も、いずれも大の紅茶好きだった。彼女たちは宮廷で何度も茶会を催し、それが、まずは上流階級の間に紅茶を定着させた。東インド会社の独占輸入だったことから、紅茶がとても高い飲み物だったこともある。同じ頃、王室がモノの消費を支援する「王室御用達」というシステムが成立し、単なるモノに新たな意味や役割を与えることになる。
やがて、紅茶を飲む習慣は階級を超えはじめる。1706年、ロンドンに「トム・コーヒーハウス」を開いたトマス・トワイニングは、その10年余り後、イギリス初のティーハウス「ゴールデン・ライオンズ」をオープンさせた。ティーガーデンとも呼ばれるこの空間は、理性重視で殺風景なコーヒーハウスとは対照的に、インテリアに凝り、感性にアピールするおしゃれな雰囲気を特徴としており、女性客の間で大評判となった。茶とコーヒーの消費量が逆転しはじめるのは、その直後、1720~30年代にかけてのことであった。その背景には、もっぱらコーヒーハウスで飲まれたコーヒーとは異なり、茶が量り売りされて自宅に持ち帰り、家庭で楽しむことができたことが大きいだろう。
こうして上流階級から中流階級の家庭へと広がった茶は、18世紀後半以降、産業革命の時代に、労働者階級の生活にもじわじわと浸透していった。労働時間の長時間化にともない、労働者の食事時間が大きく変化した当時、いつでも手軽に食べられるよう、時間のかかるスープや粥に代わって、パンと砂糖・ミルク入りの紅茶が彼らの朝食の定番となったのだ。紅茶は、冷たい食事に温かみを与えるだけでなく、当時清潔とは言いがたい水を沸騰させることで、身体にも安全な飲み物であった。と同時に、労働者をアルコール、とりわけジンから遠ざけるために、飲茶が推奨された。当時一般的だった午後8時以降の遅い夕食までの空腹を満たすべく、アフタヌーン・ティーの習慣も、19世紀半ば以降、「上から下へ」と浸透していき、労働者階級の間では、夕方遅くに飲むハイ・ティーが主食となっていった。茶はイギリス人の食事のありようを大きく変えたのである。
かくして紅茶は・・・
イギリスには、「家は城である」ということわざがある。ヴィクトリア女王の時代には、「女性の居場所は家庭」であることが強調された。そのころ、イギリスを旅したあるフランス人はこう記している。
「私にも容易にわかったことは、イギリス人にとっての幸福な家庭とは、夕方6時に帰宅し、貞淑な妻にお茶を入れてもらい、膝のうえにはいあがる4,5人の子どもたちに囲まれ、うやうやしく使用人にかしずかれる状況である、ということだ。 (イポリット・テーヌ『イギリス覚書』1872)
人間の嗜好は個人の問題、だけではない。時代のなかで、さまざまな条件や要因が絡まりあいながら、作られていくものでもある。たかが嗜好品、されど嗜好品――だから、文化史はおもしろい!!!