スコット『ジェンダーと歴史学』

掲載:2020-01-04 執筆:姫岡とし子

ジョーン・W・スコット『ジェンダーと歴史学』(荻野美穂訳、平凡社、1992年)

一九七〇年代に開始された新しい女性史研究は、九〇年代にジェンダー史へと移行した。その転換のレールを敷いたのが、『ジェンダーと歴史の政治学』という原タイトルで公刊された本書である。著者のスコットは、もとはフランス労働史を専門とするアメリカのフェミニスト歴史研究者で、工業化期の女性労働をいちはやく家族との連関のなかで考察したり、近代化論に抗して伝統的心性の近代における連続性を指摘したりと、一九七〇年代から画期的な研究を発表していた。

そのスコットに方向転換を促したのは、女性史研究の蓄積がいくら豊富になっても、それが歴史学全体の書き直しにはつながらない現状に対する苛立ちであった。女性の歴史の存在や政治変革への女性の参加の掘り起こしを、多くの歴史家は自分たちの歴史理解とは無関係なものと捉え、女性史を特殊なものとして分離主義的に扱っていたのである。

既存の方法論にのっとって女性に関する叙述を積み重ねることに限界を感じたスコットは、女を周縁的なものにしてしまう歴史学の権力性を暴く必要性を痛感するとともに、それを可能にする、固定的で二項対立的な「女」と「男」というカテゴリーの問い直しを開始した。

そのさい彼女は、女と男を切り離さずに一対の互いの存在によって定義されるものと捉え、女/男が歴史的に差異化されて構築される性差をジェンダーとして把握し、その知による構築過程に注目した。八〇年代後半にはまだ耳慣れなかったジェンダーは、もとは文法上の性別を示す用語で、諸現象の分類・識別のためのものという含意があったため、性差の生物学的決定論を退け、その社会性・文化性を主張するフェミニストが用いはじめていた。スコットはこのジェンダーという用語を分析概念として精緻化し、ジェンダーが歴史のなかで作動することによって、政治・経済・社会・文化を秩序づける、「構造を作りだす力」であることを明らかにしたのである。女性が不在な場での女性史研究は不可能だが、ジェンダー史なら、たとえ不在であっても、不在の構造が作りだされるメカニズムを考察するという研究が可能になる。

スコットは、ジェンダーを「身体的性差に意味を付与する知」と簡潔に定義する。それ自体では、いかなる意味も生みださない女/男の身体的差異に、知がさまざまな意味を付与することによって、女/男の本質的な差異として認識され、しかも権力関係をともなって語られていく。知とは、彼女にとって「世界を秩序立てる方法であり、社会の組織化と不可分なもの」であった。

こうした理論化の後押しをしたのが、意味の多様性や可変性を主張し、意味の構築過程や定着・実践に権力関係が働いているとして、その政治的性質を強調したポスト構造主義である。スコットは、その構築主義的な立場から出発するとともに、言語論的転回の推進に決定的な貢献することになった。

つづくII部以降では、労働史の分野におけるジェンダー分析の具体例が示され、階級、労働のあり方、労働のアイデンティティ、政治的アピールなどが、ジェンダーに依拠して構築されていることが、明らかにされる。そのさい、トムスンの『イングランド労働者階級の形成』とステドマン・ジョーンズの『階級という言語』という彼女自身も含めて評価の高い著作が俎上に載せられ、労働運動や生産活動、またそれと対比された家庭などの言説について、彼らが注目しなかった言語による意味構築という観点から読み解き、歴史のなかで階級が男性的なものとして形成されていく過程を、またトムソンの表象においては、女性を排除した男性だけの労働者階級概念として形成されていることを鮮やかに示して見せる。労働者や階級の理解形成における歴史家の役割を指摘することによって、スコットは、歴史学の政治性、すなわちジェンダー構築への参与も同時に浮き彫りにするのである。

また数量データで客観的だと思われている統計について、テクストとしての読み方を示し、統計が、調査対象のイメージ作りや社会の組織化・秩序化に貢献していることを喝破する。

歴史学とジェンダー関係のラディカルな変革を求める本書は、そこに孕まれる権力メカニズムを白日の下にさらし、ジェンダー差別の原因解明の方策を提示した。それゆえ本書は、その理論を、すべてのジェンダー研究者が共有すべき、ジェンダー研究のマニフェストともいいうるもので、すべてのジェンダー研究者にとっての基本文献であり必読書となった。

(初出はミネルヴァ通信『究』(2015年6月, No.51))