年表:イスラーム世界の発展(600~1550)

今回更新:2017-03-12 掲載:2014-03-30 執筆:三成美保

三成・姫岡・小浜編『歴史を読み替えるージェンダーから見た世界史』(大月書店、2014年)掲載の年表(各章冒頭の「概説」に掲載)をベースにして、随時、記事・情報・図版を追加しています。

570頃 ムハンマド、メッカに生まれる。

【5-1】(2)預言者ムハンマドの妻たち(小野仁美)

610 ムハンマド、神の啓示を受けて、預言者となる。妻のハディージャが最初のイスラーム教徒となる。

622 メディナへの移住(ヒジュラ)=この年がイスラーム暦元年。イスラーム共同体形成の開始。

630 ムハンマド、メッカを占領→アラビア半島の統一

632 預言者ムハンマドの死去。アブー・バクルが第1代正統カリフとなる→正統カリフ時代(632-661)のはじまり。

642 ニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシアを破る→651 ササン朝ペルシアの滅亡。

○占領地の征服民に、地租(ハラージュ)人頭税(ジズヤ)を課す。

650 第3代正統カリフ・ウスマーンによるコーラン(クルアーン)の正典化。

【解説】イスラーム法

イスラーム法(シャリーア)の第1の根拠となるのは「クルアーン」であり、「ハディース」(伝承)と「イジュマー」(合意)と「キヤース」(類推)がこれを補った。
イスラーム諸学を学ぶ場所が「マドラサ」(学院)である。マドラサを卒業すると、「ウラマー」(法学者)となる。ウラマーは、学院の教授、裁判官(カーディー)などをつとめた。

●以下のページを参照してください。

【5-1】(1)クルアーンのジェンダー規範(小野仁美)

【5-2】(1)イスラーム法にみる母親の位置づけ(小野仁美)

661 第4代正統カリフ・アリー(ムハンマドとハディージャの娘ファーティマの夫)暗殺。
ムアーウィヤ(位661-680)がウマイヤ朝(首都ダマスクス)を創設(都はダマスクス)
→カリフを宣言したことにより、のちにスンナ派シーア派と呼ばれる宗派に分裂。

○現在にいたるまで、スンナ派が多数派である。シーア派が多いのはイランなどである。

現在のイスラーム教諸派:緑~青はスンナ派、黄~赤はシーア派 (出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Sunniten

732 トゥール=ポワティエの戦い(フランク軍に北進を阻止される)
【法制史】フランク時代の法と社会(三成美保)

イスラーム国家の拡大:ムハンマド時代(濃緑)→正統カリフ時代(緑)→ウマイヤ朝(薄緑):トゥール=ポワティエの戦いでフランク王国への北進が阻止される (出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Schlacht_von_Tours_und_Poitiers

750 アブー=アルアッバース(位750-754)がウマイヤ朝を倒して、アッバース朝(首都バグダード)を創設。

751 タラス河畔の戦い(唐を破る)→中央アジアに進出→中国の製紙法がつたわる。

○製紙法の改革者蔡倫については⇒4-5.前近代中国の外戚と宦官

ラービア・アダヴィーヤ Rābiʿa al-ʿAdawiyya al-Qaysiyya

752 女性神秘家ラービア・アダウィーヤ死去。
⇒竹下政孝「イスラームの聖女ラービア・アダウィーヤ」『中東教育センターニュース』2011年8/9月号http://www.jccme.or.jp/japanese/11/pdf/2011-08/josei0830_05.pdfpdficon_large

756 後ウマイア朝の成立。

762ー766 バグダード建設

786 アッバース朝第5代カリフ:ハールーン=アッラシード即位(位786-809)

○イスラーム文化の繁栄・バグダードの最盛期
○『千夜一夜物語』

870年頃の交易ネットワーク (出典)https://en.wikipedia.org/wiki/Silk_Road

909 ファーティマ朝(シーア派、首都マフディーヤ、後にカイロに遷都)の成立。

中カリフ帝国の位置
ファーティマ朝

1171 アイユーブ朝成立(1171~1250)。スンニ派(スンナ派)の王朝で、始祖は、サラディン(サラーフ・アッ=ディーン)(アルメニアのクルド族出身)。

1187 サラーフ・アッ=ディーンがエルサレム王国を攻撃、占拠。

1189 サラーフ・アッ=ディーンが第3回十字軍と戦う。

【女性】十字軍時代の女性たち(富永智津子)

アイユーブ朝

1250 マムルーク朝(1250~1517)成立(スンニ派)。シャジャルドゥッルが初代君主となる。マムルーク朝には、世襲の伝統はなく、有能なマムルークがスルタンの地位についた。

→マムルーク朝は、前半の「バフリー・マムルーク朝」(1250~1382)と後半の「ブルジー・マムルーク朝」(1382~1517)に分かれる。

○バフリー・マムルーク朝(サーリフが創始したマムルーク軍団バフリーヤの出身者がスルタンとなった)

○ブルジー・マムルーク朝(チェルケス人バルクークがスルタン位について以降、ブルジー軍団出身のマムルークがスルタンになった)

【女性】シャジャルドゥッル

マムルーク

シャジャル・アッ=ドゥッル(شجر الدر (Shajar al-Durr) ? - 1257年)は、アイユーブ朝の第7代スルタン、サーリフ(1205頃ー1249:位1240-1249)の正夫人。マムルーク朝(マムルークとは奴隷身分出身の軍人をさす)の初代君主(位1250年)となった。

幼少時に親族を失い、女官見習奴隷としてアッバース朝のカリフの後宮で育ち、アラビア語を身につけたとされる。民族的にはテュルク系とみられる。1240年頃までにサーリフに寵愛されるようになり、子(夭折)を生んで正夫人(2名)の1人となった。本名は不詳。伝記作家のサファディー(1363年没)は「シャジャル・アッ=ドゥッルは類まれな美しさで、見識があり、抜け目がなく、知性的であった」と記している。

<第7回十字軍との戦い~スルタン即位~殺害>

1249年6月 フランス王ルイ9世が十字軍(第7回)を率いてナイル河口に上陸。

第7回十字軍に出かけるルイ9世(14世紀の絵) (出典)https://en.wikipedia.org/wiki/Seventh_Crusade

1249年11月 もともと重篤であったサーリフが急死。サーリフは後継者を指名する遺言を残していなかった。当時、サーリフの息子トゥーラーン・シャーは不在。シャジャル・アッ=ドゥッルは夫スルタンの死を隠して「病気」と偽り、夫に代わってマムルークを率いて指揮をとった。

1250年2月 トゥーラーン・シャーがエジプトに帰国してスルタンに即位、

1250年4月6日 戦いは最終的にエジプト側の勝利に終わり、ルイ9世を人質にとることに成功。しかし、シャジャル・アッ=ドゥッルは夫の遺産を手放さず、トルコ系のマムルークは、同じトルコ系のシャジャル・アッ=ドゥッルを支持し続けた。このため、トゥーラーン・シャーは、マムルークを脅威と感じて排除・弾圧しようとした。

○ルイ9世の母でフランス王ルイ8世王妃ブランシュ・ド・カスティーユ(Blanche de Castille, 1188年3月4日 - 1252年11月26日)は、カスティーリャ王アルフォンソ8世と王妃エレノア(アリエノール・ダキテーヌの娘)の三女。結婚後からルイ8世の外交に関与し、1226年に12歳で即位した息子ルイ9世の摂政となり、ルイ9世が第7回十字軍に出たときも摂政となった。

ルイ9世(右)とその母ブランシュ(左)(1235年頃のミニュアチュア) (出典)https://de.wikipedia.org/wiki/Blanka_von_Kastilien#/media/File:Bible_of_St_Louis_detail.jpg

1250年5月2日 トゥーラーン・シャーがマムルークに殺害され、アイユーブ朝は滅亡、シャジャル・アッ=ドゥッルがスルタンに即位。しかし、トゥーラーン・シャーの関係者やアッバース朝カリフが女性スルタンを認めなかった。マムルーク以外のムスリムの反発も強かった。

1250年7月 シャジャル・アッ=ドゥッルは、マムルーク武将のなかでもっとも有力であったアイバクを離婚させて、彼と再婚。7月31日、夫アイバクにスルタン位を譲る。しかし、サリーフの遺産を継承したシャジャル・アッ=ドゥッルは、政治的権力を掌握し続けたため、アイバクとの関係は悪化した。

1257年4月~5月 アイバクは、軍事同盟を結ぶためにモースルのアミールの親族から若い妻を娶ろうとし、シャジャル・アッ=ドゥッルは部下に夫の暗殺を命じた。数日後に夫の配下のマムルークに捕らえられたのち、夫アイバクの元妻の命令によって殺害された。アイバクの元妻の息子アル=マンスール・アリー(15歳)が次のスルタンとなったが、若年のため、将軍ムザッファル・クトゥズが執権と総司令官を兼任した。

1259年11月 クトゥズがスルターンに即位。

(参考文献)

●佐藤次高『新装版 マムルーク: 異教の世界からきたイスラムの支配者たち』(UPコレクション)、東京大学出版会、2013年

●Shagrat al-Durr、Sultan of Eqypt (died, 1259),in:womeninworldhistory.com -(Women in World History Curriculum's Website)=http://www.womeninworldhistory.com/heroine1.html

●https://en.wikipedia.org/wiki/Shajar_al-Durr

●https://de.wikipedia.org/wiki/Schadschar_ad-Durr

赤色がバフリー・マムルーク朝(1250-1382年) The Egyptian Mamluk Sultanate during the Bahri Mamluks (出典)https://en.wikipedia.org/wiki/Bahri_dynasty

1258 モンゴルによるバグダード攻略。アッバース朝の滅亡→イル=ハン国(1258ー1353)が成立。

○1271 元(1271-1368)の成立→1274/81 元寇(日本)

ティムール帝国

1370 ティムール(1336-1405):ティムール帝国、中央アジアに支配権確立(都はサマルカンド)。

1414 マラッカ王、イスラームに改宗。

○イスラーム教が、13世紀末にインドネシアに伝わる。
○15世紀 マレー半島のマラッカ王国(1402-1511)のイスラーム化が本格化する。マラッカ王国は「港市国家」として海洋交易の拠点の1つとなる。
→1511 ポルトガルがマラッカを占領。

【解説】マラッカ王国

マラッカ王国の位置
マラッカ王国

マラッカ王国は、1402~1511年にマレー半島南岸に栄えたマレー系イスラム港市国家。マレー半島は交易上重要な位置にあり、マラッカは、香料貿易の中継港としてインドや中東からイスラム商船が多数来航し、東南アジアにおけるイスラム布教の拠点ともなった。建国当初から一貫して明(中国)王朝の忠実な朝貢国であり、琉球王国とも通好があった。

○アユタヤ日本人町(14世紀中ごろから18世紀頃)の発展。15世紀後半から16世紀初頭までアユタヤ王朝下、軍事力と貿易による利潤を背景に政治的に力を持つようになった。

1453 オスマン朝がコンスタンティノープル攻略、ビザンツ帝国滅亡。
7-6.オスマン帝国のジェンダー秩序

1500年頃のソンガイ王国

1473 ソンガイ王国成立、マリ王国にかわってアフリカのイスラーム化を促進。

1501 サファヴィー朝、イラン地域に成立。シーア派を国教とする。

1526 ムガル朝、インド地域に成立。

【参考文献】

シリーズ<イスラームを知る>(山川出版社)

①佐藤次高『イスラームー知の営み』

②谷口淳一『聖なる学問、聖なる人生ー中世のイスラーム学者』

③三浦徹編『イスラームを学ぶ』

④森本一夫『聖なる家族ームハンマド一族』

『岩波イスラーム辞典』岩波書店、2002年