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【5-2:家父長制】(1)イスラーム法にみる母親の位置づけ
掲載:2016-09-20 執筆:小野仁美
※本稿は、小野仁美「イスラーム法の子育て観―法学者間のイフティラーフからみたマーリク派の特徴」(博士論文)第4章のダイジェスト版である。 |
イスラーム法にみる母親の位置づけ
イスラーム教徒の聖典クルアーンや預言者ムハンマドの言行録(ハディース)においては、母親についての多くの言及があり、イスラームにおいて母性尊重の姿勢が強調されていることはよく知られている。
われは、両親に対し優しくするよう人間に命じた。母は懐胎に苦しみ、その分娩に苦しむ。懐胎してから離乳させるまで30ヶ月かかる。(クルアーン第46章第15節)
ムアーウィヤ・ブン・ジャーフマによれば、ジャーフマは預言者のところへ行って尋ねた。「預言者様、私は戦いに行きたいのですが、お考えをうかがいに参りました」すると預言者は言った。「おまえに母親はいるのか」「います」「では母親のもとにとどまるがよい、天国は母の足下にある。」(ハディース集「スナン・アル=ナサーイー」)
アブーフライラによれば、ある男が預言者に、最も親しくすべきなのは誰なのかを尋ねた。すると預言者は言った。「おまえの母親である。そのつぎも母親である。そのつぎも母親である。そしてそのつぎに父親である。」(ハディース集「サヒーフ・ムスリム」)
このようにイスラームの規範的価値観においては、母親の占める位置は高く、その役割も尊重されているようにみえる。イスラームの母親観を、イスラーム以前の一神教的伝統からの連続であるという立場から、諸預言者(イシュマエル、モーセ、イエス)とその母たちについて論じた研究もある。
ところが、クルアーンやハディースを主な典拠として作られたイスラーム法については、父権的であり、母親の役割を妊娠・出産とせいぜい幼少時の養育に限っているという評価が根強い。イスラームの母親観は、時代とともに変容したということなのだろうか。
本稿では、古典イスラーム法の諸規定において、イスラーム法学者たちが母親の役割についてどのように記述しているのかという観点から検討を行い、イスラーム法の規範の中に組み込まれたジェンダー規範を再考してみたい。イスラーム法学書を詳細にみていくと、母親の子育てについては、もう少し多様な見解をみることができるのである。
1.子への授乳は誰が行うのか
古典イスラーム法の授乳規定
クルアーンは、生まれた子への母親による授乳について以下のように命じている。
「母親は、乳児に満2年間授乳する。これは授乳を全うしようと望む者の期間である。父親はかれらの食料や衣服の経費を、公正に負担しなければならない。しかし誰も、その能力以上の負担を強いられない。母親はその子のために不当に強いられることなく、父親もまたその子のために不当に強いられてはならない。また相続人もそれと同様である。また両人が話し合いで合意の上、離乳を決めても、かれら両人に罪はない。またあなたがたは乳児を乳母に託すよう決定しても、約束したものを公正に支給するならば、あなたがたに罪はない。」(クルアーン第2章第233節)
「もしかの女たちがあなたがたのために(子)に授乳する場合は、その報酬を与え、あなたがたの間で、正しく相談しなさい。あなたがた(夫婦)がもし話がまとまらなければ、外の女が授乳してもよい。」(クルアーン第65章第6節)
これらのクルアーンの章句の解釈が異なることによって、母親による子への授乳が義務であるか否かについては、スンナ派の四大イスラーム法学派がそれぞれ異なる見解を唱えている。
ハナフィー派は、必ずしも授乳を母親の義務とは考えない。授乳はあくまでも母親にとっては宗教的義務であり、法的義務ではないとする。マーリク派は、妻が夫権(イスマ ʿiṣmah)に服している間、つまり婚姻継続中は義務(ただしシャリーフの家系や高貴な身分の女性は除く)であり、夫権を離れた後は義務ではないとする。シャーフィイー派は、初乳のみ母親の義務であるが、それ以降は授乳は父(ないし父系血族)の義務であるとする。ハンバル派は、母に授乳義務はないという立場をとる。いずれの学派においても、子が母親の乳しか受付けない場合には、授乳は母親の義務となるし、母親が病気や乳の出が悪いなどの理由で授乳が困難な場合には、授乳は父親の義務であるとされる。
このように、イスラーム法学書の記述からは、母親による授乳義務について学派による相違した見解があるが、基本的にそれは母親と子の関係においてではなく、母親とその夫との関係において論じられていることがみてとれる。
しかし一方で法学者たちは、上述のような権利義務の観点とは別に、子にとって母親の乳が最良であるという認識を持ち合わせていた。イスラーム法学書には、「母親は最も深い愛情をもっている」といった表現がみられることがある。たとえば、マーリク派の法学者イブン・ルシュド・アル=ジャッドはつぎのように述べている。
母親が自身の子に授乳することが最も好ましい。神の使徒は以下のように言った。「子にとって、最大の恩恵をもたらす乳は、彼の母親の乳である。したがって離婚された女性は、彼女以外の女性よりも、彼女の子に授乳する権利がある」
同じくマーリク派の法学者ワンシャリースィーは、以下のように述べている。
母親が子にとってより親愛深く、またその乳が子にとってより恵みあることは以下のように伝えられている。子にとって最大の恩恵をもたらす乳は、彼の母親の乳である。
シャーフィイー派の法学者マーワルディーは、以下のように表現している。
もしも母親が、子への授乳を望んだならば、父親には彼女を禁じる権利はない。なぜなら彼女は、彼にたいしてより愛情深く、より情愛深く、その乳は豊富で、彼女の乳は子にとって最も有益だからである。
「子にたいする母親の愛情」を前面に出した記述というのは、法学書ではそれほど多くみられるわけではないが、授乳にかかわる権利義務の詳細を論じた諸規定のあいだに、こうした子育て論がたしかに存在している。
小児医学書の記述とイスラーム法
イスラーム圏では西暦10世紀頃にすでに、いくつもの小児医学専門書が著されていた。最古の小児医学書とも称される書は、イスラーム医学の分野で最も有名な学者のひとりであるラーズィー(d.313/925)によるものとされているが、現存する代表的なものは、9~10世紀に活動したカイラワーンの医師イブン・ジャッザール(285/895-369/980)の著書『子どもの扱い方』のほか、アンダルスの学者アリーブ・ブン・サアド(d.369/979or80)による『胎児の形成の書』、エジプトの学者バラディー(d.380/990)による『妊婦と小児の管理』などである。またラーズィーとならんでイスラーム圏のみならず中世ヨーロッパでも著名であったイブン・スィーナー(370/980-428/1037)もまた、名著『医学典範』の一部分において、子育てについて言及している。いずれの小児医学書も、その構成や内容は類似した点が多く、ヒポクラテス、ガレノス、アリストテレス等のギリシア医学の影響を大きく受けている。
母親による授乳が推奨されることは、これらの小児医学書においても記録が確認できる。たとえば、イブン・ジャッザールの書には以下のように書かれている。
ガレノスは、もし母親に病気などがないのならば母親の乳が最良の乳である、と述べている。なぜなら母親の乳は、子がそこから栄養を得ていたものであり、子はそこで形作られ育てられたのであるからである。
他の小児医学書においても、母親による授乳の大切さが強調されている。たとえばバラディーの『妊婦と小児の管理』の目次をみると、子どもの健康を維持するための重要な点のひとつとして、母親の授乳が挙げられている。
第一部(53節):妊婦、乳幼児、胎児への指南と病気にたいする投薬
[妊婦と乳幼児らの養生、男女の産み分け]
第二部(48節):乳幼児と子どもにたいするしつけとそれにたいする指南、彼らの健康の維持
[出産、出生時にすべきこと、授乳、母親による授乳の大切さ、乳母の選び方、授乳者の食事、気をつけるべきこと、授乳の仕方、初乳、乳児の歯、離乳、幼児の食事、7-14歳までの時期、14-21歳までの時期]
第三部(61節):乳幼児や子どもに発生する痛みや病気と、それぞれについての投薬
このような小児医学の知識がどの程度人々の間に浸透していたのかはわからないが、同じ時代の同じ場所で、イスラーム法の形成も進展していたことは確かである。ただし、医学的見解とイスラーム法規定との間に、大きな違いがあるものも見られる。たとえば、母親が出産後数日の間に出す初乳をめぐる記述である。
上述の小児医学書においては、「母親は、産後数日間は、授乳を避けるべきである。なぜならそこには不純物が混じっているからである」と書かれている。そしてその間は、適切な乳母を見つけることが推奨される。ところがシャーフィイー派の法学者たちは、「初乳を飲ませなければ、子が丈夫に育つことができない」という理由で、母親に子への初乳の授乳を義務づけていたのである。
現代の医学においては、初乳にのみ豊富に含まれる成分ラクトフェリンが、免疫力の弱い新生児が生きていくために非常に重要であることが証明されている。ところがこうしたことが知られるようになったのはごく最近のことであって、前近代においては世界中の各地において、その黄味がかった色が嫌悪されて、むしろ初乳は与えるべきではないとされていたことが報告されている。歴史上長らく医学の先端を誇っていたイスラーム圏の医学者たちですら誤認していたことを、シャーフィイー派の法学者たちは記述し続けていたということになる。
2.乳母の雇用について
母親が何らかの理由で授乳ができない場合、現代であれば代替乳を利用するのが普通である。そうした代替乳が期待できない時代にあっては、代わりの女性に授乳してもらうしかない。前述の小児医学書においても、母親が授乳できない場合の乳母について、その適性などが詳しく指南されている。では、乳母の雇用は実際にどの程度行われていたのだろうか。
19世紀末から20世紀初頭の中東における子育て観の画期的変化についての研究では、「前近代の文献の中では、生物学上の母が母乳を与えなければならないという考え方はみられなかった(事実、子どもは生まれてすぐに乳母に委ねられた)」などと述べられ、前近代の中東において、子どもは実の母親ではなく、乳母によって育てられることが少なくなかったことが示唆されている。
しかしながら、乳母の雇用が、実際に一般的であったことを示す明確な証拠は見つかっていない。たしかに、イスラーム法学書の記述において乳母の雇用に関連する規定は豊富であるが、そうした規定が乳母による授乳を積極的にすすめるものであるとは限らない。
預言者ムハンマド時代の乳母
西暦6世紀末頃のアラビア半島に生まれた預言者ムハンマド自身が、生後まもなく乳母に預けられて養育されたことはよく知られている。当時のメッカでは、身分の高い女性は自分で授乳や養育をせず、子どもが産まれると、空気が澄んで健康によく、また正しいアラビア語を身につけるために適している遊牧民のもとに、里子として預けたといわれている。ムハンマドは、遊牧民のサアド族の女性ハリーマのもとで養育された。またムハンマドがハリーマ以外にもいく人かの乳母から授乳され、何年かの後に実母アーミナのもとに戻されたたことも記録されている。
預言者ムハンマド自身の子については、実母に授乳されていたとみられる例と、乳母に託されていたとみられる例の両方が伝承されている。ひとつは、最初の妻であったハディージャとの間に生まれたアル=カースィムにまつわる伝承である。
神の使徒の息子アル=カースィムが亡くなったとき、ハディージャが言った。「神の使徒よ。アル=カースィムのお乳が流れ出ています。せめてお乳をすっかり飲み終わるまで神が彼をとどめておいてくれればよかったのに。」すると神の使徒は言った。「彼は天国で乳を飲み終えることだろう。」
ハディージャの胸からは、もはや受け取る者のいない乳が流れ出ているのであり、それは彼女が子に授乳を行っていた証拠である。ムハンマドの息子アル=カースィムは、乳母ではなく実の母親によって授乳されていたということになる。
もうひとつの伝承は、ハディージャの没後、妻のひとりとなったとされるコプト教徒マリヤとの間に生まれた息子イブラーヒームについてのものである。イブラーヒームは、生後まもなく神の使徒ムハンマドによってメディナ郊外の乳母のもとに送られたと伝承されている。また、次のような伝承もよく知られている。
神の使徒の息子イブラーヒームが亡くなったとき、彼(神の使徒)は彼(息子)のために礼拝し、「彼には天国に乳母がいる」と言った。
神の使徒は、子を失って嘆き悲しむ妻にたいして、夭折した乳児は天国の乳母によって養育されるのであるから、何の心配もいらないと慰めの言葉をかけている。これらの伝承から、ムハンマドの時代において、少なくとも一部の人々の間に乳母に子を託す習慣があったということはできよう。
イスラーム法における乳母の雇用規定
古典イスラーム法学書には、乳母の雇用に関わる詳細な規定が記述されている。乳母の雇用規定には、(a)乳母の雇用契約が有効であるか否か、(b) 乳母自身が契約締結した場合(契約当事者はふつう子の父親と乳母の夫)の詳細、(c)契約対象は乳母の乳なのか子の世話という労務なのか、(d)賃金を定めることは必須であるが、食事を賃金に代えることができるか、(e)授乳場所をどこに定めるか、(f)その他、などの項目がある。これらの規定は、乳母を雇用するときに必要な実務的な目的をもつようにも見える。しかし一方で、雇用契約一般にかかわる解説のための適当な素材として、乳母が例示されているにすぎないと見ることもできる。イスラーム法学書には、そのような形骸化された主題が繰り返し記述されることは珍しくない。
それにたいして、具体的事案が含まれることが期待できるファトワー集や契約文書の雛型集であれば、実際にイスラーム法が適用された現場の様子を知る可能性がある。そのような資料を用いた研究もなされているが、そうした法学文献には、乳母についての記述が非常に少ないうえに、いずれも規範学説の解説の域を出るものではなく、契約文書などの存在もいまのところ確認されていない。
母親が何らかの理由で授乳できない場合に、母親以外の女性の授乳が不可欠であったことは間違いないだろう。それが金銭や物品などの謝礼の授受を伴う場合もあったであろうことは想像に難くない。しかしながら、そのことと乳母の制度が十分に確立していたこととは別であり、イスラーム法学書において乳母の雇用規定が精緻化していたことが、乳母の雇用の需要を裏づけるための証拠であると結論することはできないのである。
3. 母親による子育ての権利
イスラーム法学書の監護(ハダーナ)規定
イスラーム法には、子どもの養育をめぐる諸問題のなかでも、とくに身の回りの世話などの実際の子育てに特化した監護(ハダーナ)という用語がある。監護とは、「子をその家で保護し、食料・衣服・寝床を供給し、身体を清潔に保つこと」などと定義される。両親が健在でかつ夫婦であるときには、監護は両親が行う。問題となるのは、両親が離別または死別した場合である。したがって、子育てを一般化して述べるものではないが、イスラーム法が子育ての担い手として誰を想定しているのかを知るための大きな手掛かりになる。
イスラーム法においては、子を保護する制度のうち後見については父親が優先するのにたいし、監護については母親を第一優先として女性親族が権利を有することが比較的よく知られている。しかし監護の期間は子の幼少時に限られ、母親の役割は実際に身の回りの面倒をみるだけにとどまる、という理解がなされることも多い。
ところが、この監護規定についても法学派による見解の相違は多く、とくにマーリク派においては、母親による子育てをより重視するような規定が見られる。
両親が離別したばあい、まず母親が看護者として第一優先となることについては、すべての法学者が一致している。母親が、子にとって近親婚の禁止される範囲外の男性と再婚した場合など、監護者としての条件を満たさない状態にあれば、監護権を失う。その場合、母親についで優先されるのが、母方の祖母であることについても、法学者たちは一致している。
問題はそのつぎ以降の順位である。最も大きな相違は、母方のおばと父方の祖母のどちらが優先するかという問題である。法学派によってさまざまなレベルの相違があるが、ハナフィー派とシャーフィイー派では、アブー・ハニーファとシャーフィイーの説をそれぞれ採用し、父方の祖母が母方のおばに優先する。ハンバル派も同様である。これにたいして、マーリク派においては、母方のおばが父方の祖母に優先するというのが通説となった。つまり、徹底した母系親族優先の立場が貫かれたのである。
17世紀のマーリク派法学者フラシーは、母系親族に監護権が優先される理由として、愛情の強さをあげている。実の母親が再婚したために監護権を失った場合、母方の祖母が監護者となるのは、彼女には、その子どもにたいして、母親と同様の愛情があるからであるという。そして、監護において母系親族が父系親族に優先するのは、より愛情が強いからであると説明する。
監護をいつまで行うのかという問題についても、法学派による相違がある。ハナフィー派においては、男児であれば、ひとりで食べ、ひとりで飲み、ひとりで着替えができるようになり、ひとりで排泄できるようになるまでとされ、女児であれば成人するまでとされている。シャーフィイー派とハンバル派では、弁識能力が備わる7、8歳ごろになったら、自ら両親のどちらかを選択する権利をもつことになっている。これにたいしてマーリク派では、男児は成人するまで、女児の場合は婚姻し床入りが完了するまでとする。
再婚した母親への監護権の復活をめぐる問題
子の監護については、後世のマーリク派法学書において、ある興味深い議論がなされている。父親と離別した母親が再婚した場合、母親の監護権は失効するが、さらに彼女が後夫と死別あるいは離別した場合、監護権は復活するのかという問題にかかわる議論である。
11~12世紀の法学者イブン・ルシュド・アル=ジャッドによれば、再婚した女性の監護権について、マーリク派には三つの説がある。第一は、彼女の監護権は完全に消失するという説である。この場合、現在の監護者が死亡し、彼女が再婚した夫と死別あるいは離別しても、監護権は決して彼女に復活することはない。第二の説は、彼女の再婚が継続中であり、かつ現在の監護者が監護している間は、彼女の監護権は復活しないというものである。この説によれば、現在の監護者が死亡するかそれに類する理由から監護権を消失し、かつ彼女が夫と死別あるいは離別して自由になれば、彼女に監護権が復活して、子を引き取ることができる。第三の説では、彼女が再婚した夫と死別あるいは離別すれば、現在の監護者の状況にかかわらず、彼女の監護権は復活するとされる。イブン・ルシュド・アル=ジャッド自身は、第二説を評価している。三つの説はいずれも、監護が監護者の権利であるという見解を反映している。しかし一方で、監護は監護される子の権利であるという見解もあるという。彼女が夫と死別あるいは離別して自由になれば、彼女に監護権が復活するという説は、この立場からはより当然に導かれる。
16世紀エジプトのマーリク派法学者バドルッディーン・カラーフィーは、彼の時代において頻繁に増加している法学議論のひとつとして、離婚した夫婦間の監護をめぐる問題をとりあげ、専論を残している。カラーフィーは、上述の『ムダウワナ』説、イブン・ルシュド・アル=ジャッド説なども引用しながら、さらに後の時代の法学者たちが、再婚した母親に監護権が残存するという見解すら示したことを紹介している。カラーフィーは言う。マーリク派の後世の法学者たちの見解というのは、いくつかの学説からの選択である。選択によって彼らは通説から離れることができ、裁判慣行や、利益を考慮したファトワーが成立している。法規定が、慣習や慣行に添うものになりうるのである、と。
4. まとめ
古典イスラーム法学書を、母親による子育てのあり方という観点から読み直してみると、以下のような価値観が浮かび上がる。子への授乳にかんする諸規定は、いずれの法学派においても、基本的には夫と妻との間に生ずる権利義務を問題とするものではあるが、イスラーム法学者たちのなかには、子にたいして最も愛情深いのは実の母親なのだから、母親による授乳はより重視されるべきであるとする立場を示した学者たちもいた。
前近代のイスラーム圏において、生まれた子を乳母に託す習慣があったかどうかについては、法学書に豊富な記述があるものの、その実用性には疑問が残る。乳母の雇用についての法学書の記述はたしかに精緻化しているが、関連の法学文献からは、それが直ちに乳母の雇用の需要を裏づけるものではないとも考えられる。母親が授乳できない子に他の女性が授乳するということは当然あったであろう。しかしながら少なくとも、イスラーム法が乳母による子育てを推奨したというような痕跡はみられないし、母親による授乳が軽んじられていることを示すものでもない。
子の監護にかんする諸規定からも、イスラーム法学派のなかでもとくにマーリク派が、子育てにおける母親の役割を重視していたことがわかる。マーリク派が、監護者として母系親族優先の原則を徹底させていることは、たとえ母親が監護者になれなかった場合であっても、折に触れ母親と子の関係が継続する可能性を示唆している。さらに監護期間についても、マーリク派では成人までとされていて、7、8歳を目安とする他の学派に比べてかなり長い。それは、子が母親とのかかわりを保つ期間が長いことを意味する。マーリク派のファトワーのなかには、再婚後の母親による子の監護権を復活させたケースも確認した。このことは、母子の関係を重視する姿勢が、規範学説の範囲を超えて、実生活においても要請されていた可能性をうかがわせている。
本稿の冒頭でも示したように、前近代のイスラーム社会は父権的であり、子は家長の男性を中心とした男系親族のなかに位置づけられるのであって、母親は妊娠・出産のみが主要な役割であったとされることが多い。しかし少なくとも古典イスラーム法学書の記述を詳細に調べていくと、とくにマーリク派では、授乳や監護にかんする規定において、母親による子育てが重視されていることが確認できる。そして、学派を問わずイスラーム法学者たちは、子育てにおける母親の存在の重要性を、愛情の深さという理由をもって積極的に評価していたことがわかるのである。