売春および慰安所関連小史
BC2400(古代バビロニア)
- ヘロドトス著『歴史』のバビロンの神殿「ゼウス・ペロス」に関する記述に神に仕える女性登場。「この神殿の中に美しい敷物をかけた大きい寝椅子があり、その横に黄金の卓が置いてある。神像のようなものは一切ここには安置していない。また夜もここには土着の女一人以外は誰も泊まらない。その女というのは、この神の祭司を務めるカルデア人の言葉によれば、神が女たち全部の中から選ばれた者であるという。・・・・同じカルデア人のいうところでは、神が親しくこの神殿に来て、この寝椅子にやすむのだという。エジプト人の話では、これとおなじことがエジプトのテバイにもあるという。・・・」(ヘロドトス『歴史』(上)松平千秋訳、岩波文庫 1971:156-57)。
- バビロニアの最古の職業リストに神殿の奉仕との関連で娼婦を意味する「カル・キド」(シュメール語)が登場。同じリストに、男娼または異性服装倒錯者の芸人を意味する「クル・ガール」という言葉も記載されている(ゲルダ・ラーナー『男性支配の起源と歴史』奥田暁子訳、三一書房1996:178)。
BC1300頃(中期アッシリア)
- 「君主の妻も寡婦もアッシリアの女たちは街にでかけるときに頭を覆わなければならない。・・・男と結婚した神殿娼婦は街ではヴェールを被らなければならないが、結婚していない神殿娼婦は街のなかで頭を隠してはならない。・・・娼婦はヴェールを被ってはならない。・・」(「中期アッシリア法40条」in: ゲルダ・ラーナー『男性支配の起源と歴史』奥田暁子訳、三一書房1996:184)。
- このように中期アッシリアでは、女性の身分の序列化がなされた。一番上が結婚している淑女とその未婚の娘、次が結婚している妾、最低辺に未婚の神殿娼婦・娼婦・女奴隷が位置づけられた(前掲書:187)。
BC1000年紀中頃(古代オリエント)
- 神殿内やその付近では、宗教儀式として性的祭儀と商業売春の二種類の性的活動が見られた(ゲルダ・ラーナー『男性支配の起源と歴史』奥田暁子訳、三一書房1996:178)。
- なお、神婚を大地母神崇拝との関連から考察した論稿に、山形孝夫『レバノンの白い山―古代地中海の神々』未来社 1976(285-291頁)がある。
BC10世紀~(古代イスラエル)
- 「イスラエルの女子は一人も神殿娼婦になってはならない。また、イスラエルの男子は一人も神殿男娼になってはならない。いかなる誓願のためであっても、遊女のもうけや犬の稼ぎをあなたの神、主の宮に携えてはならない。」(『旧約聖書』申命記23:18-19)。
BC7世紀ごろ(中国)
- 斉の時代、300~700もの廓を設置し、客から代金を徴収して国の歳費としていた記録あり(斉藤茂『妓女と中国文人』東方書店 2000:11)
BC6~7世紀(古代ギリシア)
- ソロン、アテナイおよびベイライエウスに「ディクテリオン」(国家の資金で購入した奴隷に売春させる宿)を設立、管理 を税務官吏に委ねた(ジャン=ガ ブリエル・マンシニ『売春の社会学』寿里茂訳、白水社:23)。[桜井万里子コメント]ソロンが公的な売春施設を設立したという説は、前5世紀アテナ イの喜劇作者ピレモンの断片4(アテナイオス『食卓の賢人た ち』第13 巻(569)に引用)に言及されている。しかし、そこでは売春の場としてオイケ マタ(住居の意)という語が使われている。ラテン語ディクテ リオンの語源となったとみられるギリシア語のデイクテリ オンは、その元来の意味は「見せる場所、見世物場」であるが、それが売春施設、娼館の意味を もつようになった時期 に ついては不明である。ポリュビオス第14巻11.4に 娼婦を意味すると解されるデイクテリアスという語がみられるの で、 このデ イクテリアスの関連語であるデイクテリオンもヘレニズム時代までには使用されるようになったと推測できる。売 春施 設を意味するディクテリオンという 語は、前5~4世紀以前にはなかったと言えよう。(細井敦子氏、中務哲郎氏に ご教示頂いた。ただし、文責は桜井万里子にある。)
BC6~BC5世紀(中国)
- 「斉人女楽を送る。季桓子これを受けて、三日朝せず。孔子去る。」(『論語』微子第十八)。すなわち、斉の人が女楽(妓女)を魯の国に送り、魯の宰相である季桓子はこの女楽にうつつをぬかして3日間も政治を怠ったため、魯に仕えていた孔子は祭儀の礼を欠いたことで、魯を去ったという故事。(緑川佑介『孔子の一生と論語』明治書院 2005:38;斉藤茂『妓女と中国文人』東方書店 2000:10)
- 【富永コメント】この故事から、孔子が生きた春秋時代に「女楽」、すなわち妓女が存在していたことが確認できる。
BC493~465(中国)
- 越王の句践[こうせん]が呉を伐とうとした時、寡婦を集め、戦士たちの相手をさせたという記録あり(斉藤茂『妓女と中国文人』東方書店 2000:12)
BC5世紀ごろ(古代ギリシア・アテナイ)
- 職業を持つ女性の多くは非市民の自由人であり、その職業として文献の中に最も多く登場するのがヘタイラと呼ばれた遊女・娼婦。ヘタイラには、歌舞音曲の訓練を受け、知的な会話もできる女性もいれば、体を売るだけのポルネ(ポルノグラフィーの語源)と侮蔑的に呼ばれる女性もいた。売春をもっぱらとするヘタイラの多くは奴隷であり、衛生状態の悪い売春宿で働かされていた。アテナイの外港ベイライエウスには、多くの売春宿が軒を連ねていた(桜井万里子『古代ギリシアの女たちーアテナイの現実と夢』中公文庫 2010:182-84)。
BC4世紀~紀元5世紀ごろ(インド)
- 釈迦と同時代に尼僧の教団が出現したことはよく知られているが、そうした教団に属していた尼僧が自分の俗世の経験とそ れからの解脱について告白した『尼 僧の告白ーテーリーガーター』(中村元訳、岩波文庫、1982)には、遊女が登場して いる。例えば、「[遊女としての]わたしの収入は、カーシー(ベナレ ス)国の収入ほどもありました。町の人びとは、それ をわたしの値段と定めて、値段に関しては、わたしを、値のつけられぬ[高価]なものであると定めまし た。」との告白が 掲載されている(前掲書、13頁)。
- 古代インドに遊女がいたことは『マヌ法典』の次の文言が示している。「(家長は)クシャトリアの出でない王から贈物を 受け取ってはならない。屠者、油絞 り、酒屋、遊女屋で生計をたてている者[から贈物を受け取ってはならない]」、「一 軒の遊女屋は十軒の[酒屋の]旗に等しく、そして王は十軒の遊女屋に 等しい」(『マヌ法典』渡瀬信之訳 中公文庫 1991:135)
BC1世紀(古代ローマ)
- キケロの弁論集に「よもや、情婦を陣営に連れていこうというのではあるまい」という文言がある(『キケロ弁論集』小川・谷・山沢訳、岩波文庫、2005:63)。これは、好色漢や姦夫や博打打ちといった無頼漢を抱える政敵に対して放たれたキケロの弁説の一節。
5世紀(ローマ)
- アウグスティヌスは娼婦の存在について次のように記述している。「娼婦、売春斡旋人、またその他この種の有害な人々よりも、もっと汚れた、もっと品の欠けた、醜さにみちたものが、何かあるだろうか。だが、娼婦を人の世からなくせば、きみはすべてを情欲によって混乱させることになるだろう。逆に彼女たちを既婚婦人と同等の位置におけば、堕落と下品さによってきみは後者を侮辱することになるだろう。」(『アウグスティヌス著作集』1初期哲学論集(1)教文館1979:271頁)
6世紀頃(インド)
- 寺院に少女を奉納する慣習(後に寺院売春に発展)について言及している『プラーナ』(神話、伝説、王朝史を記したヒンドゥー教の聖典)のほとんどがこの頃に作られていることから、この慣習は6世紀ごろには一般化していたと思われる(ジョーガン・シャンカール『寺院の売春婦ーDEVADASI CULT』鳥居千代香訳、三一書房、1995:56)。
- 寺院に奉納された少女は、「デーヴァダーシー」「マハリ」「ムラリ」「デヴァリ」などと呼ばれ、神と結婚したとされ、祭儀や祝宴に参加したが、何世紀もたつうちに、僧侶や王や封建領主を相手とする「神殿娼婦」となり、さらに時代を下ると、金持ちたちの相手をするようになる。1985年の調査は、カルナータカ州において5000人近い神殿娼婦を記録している(ジョーガン・シャンカール『寺院の売春婦ーDEVADASI CULT』鳥居千代香訳、三一書房、1995:37)
7~8世紀(日本)
- 『万葉集』の末期(8世紀後半)には、「太宰府や越中国府伏木付近に定住していたと思われる『遊行女婦』がおり、名妓として高官たちの寵をえて、相交わっていたことが知られている。彼女たちは高い教養をそなえてもいた」(堀一郎『我が國民間信仰史の研究』創元社、1953:679)。この「遊行女婦」について、服藤早苗氏は「女官に准じた女性、すなわち「准女官的」専門歌人だったのではないか」と分析し、当時は「宴の後の男女の合意による性関係は、古来からの伝統であり・・・買売春は未成立だった。共寝に対する代償としての物品や金銭の授受が推定される史料は10世紀以降になる。」とコメントしている(服藤早苗「日本古代・中世の買売春の成立・変容と特質」『歴史学研究』925号、2014:2)
714(中国:唐)
- 玄宗、宮廷には宮妓を外教坊には妓女を置く。宮妓は皇帝の漁色の対象であり、賓客や寵臣に下賜品として与えられる女性であった。長安などの都市では官妓 ではあるが比較的自由な娼妓が妓館で売春をしていた。唐代には、公的組織に加え、遊郭的買売春が繁栄していた(服藤早苗「日本古代・中世の買売春の成 立・変容と特質」『歴史学研究』925号、2014:3)。
9世紀末(日本)
- 遊女に関する初の史料の登場。宇多上皇の狩猟行幸で行われた夜の宴に数人の遊女が来て、同行した貴族官人たちと性的に戯れる様子が描かれている(服藤 早苗「日本古代・中世の買売春の成立・変容と特質」『歴史学研究』925号、2014:4)。
9~12世紀(日本)
- 江口(大阪市)や神崎(尼崎市)などに組織化された遊女集団の出現。芸能に秀で、卑賤視されてはいなかった。卑賎視は13世紀以降に浸透する(服藤早苗「日本における売買春の成立と変容-古代から中世へ」服藤早苗・三成美保(編著)『権力と身体』ジェンダー史叢書1、明石書店2011:198;服藤早苗「日本古代・中世の買売春の成立・変容と特質」『歴史学研究』925号、2014:8)。
- この時期の遊女(9世紀~15世紀)、傀儡女(10世紀後期~)、歌女(10世紀後期~)、白拍子(12世紀中葉~15世紀)はいずれも芸能に秀で、貴族・武士・富裕民への性的サーヴィスも行った。ちなみに、服藤氏は、13世紀初頭までは、こうした芸能女性たちが比較的高い地位を保てた理由として、上皇たちが芸能を王権の権威高揚の装置としたことを指摘している。なお、一方で身寄りのない女性が媒介者の斡旋で男性と性的な関係を結ぶ事例は11世紀から多くなる。(服藤早苗「日本古代・中世の買売春の成立・変容と特質」『歴史学研究』925号、2014:4-5)。
10世紀~(高麗)
- 高麗太祖(918~943)の時代に百済遺民系統の否定住民を官庁に組み入れて奴婢としたのが妓女の起源。色芸のある婢に歌舞を教習させ妓生(キーセン)と し、唐制を取り入れ教坊を設置した(服藤早苗「日本古代・中世の買売春の成立・変容と特質」『歴史学研究』925号、2014:3)。
1162(イングランド)
- 議会の布告により「売春宿」が設置される(ジャン=ガブリエル・マンシニ『売春の社会学』寿里茂訳、白水社1964:34)。
1193(日本)
- 鎌倉幕府、遊女別当を設置。遊女の公的支配統括の始まりといわれるが、臨時的な役職であり、永続性はなかった(服藤早苗「日本における売買春の成立と変容-古代から中世へ」服藤早苗・三成美保(編著)『権力と身体』ジェンダー史叢書1、明石書店2011:202)。
13世紀(日本)
- 京や鎌倉に売春宿出現。この頃から性の売買を兼ねる遊女などの女性芸能者への卑賤視はじまる。このころから、史料に「遊女」にかわり「傾城」の言葉が多く登場する( 服藤早苗「日本における売買春の成立と変容-古代から中世へ」服藤早苗・三成美保(編著)『権力と身体』ジェンダー史叢書1、明石書店2011:203;服藤早苗「日本古代・中世の買売春の成立・変容と側室」『歴史学研究』925号、2014:7-8)。
1370年頃(明)
- 明の太祖、南京に富楽院(後の旧院)を設置し妓婦を置き、さらに16か所に遊郭を設け官妓を置く(大木康『中国遊里空間ー明清秦淮妓女の世界』清土社 2001:50、53)。
1392~1910(李氏朝鮮)
- 妓生(キーセン)廃止論が起こったが、廃止すると一般家庭の女子が官吏に犯されるとの反対で沙汰止みになる(山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉編著『朝鮮人女性がみた「慰安婦問題」』三一新書1992:131)。
- ちなみに、この時代は、「妓生政治」「妓生外交」と呼ばれるほど、妓生なくして国家体制は成り立たない時代だった。娼婦は、一牌(妓生のことで、歌舞・教養を修めた一番身分の高い妓生)、二牌(殷勤者[ウングンジャ]と呼ばれ、隠密裡に売春する女性)、三牌(タバンモリと呼ばれ、最下級の売春婦)の格差があった。1894年の甲午改革によって身分制度が廃止され、賤民階級だった妓生たちも解放されたが、自立の道は売春業以外にはなかった(川村湊『妓生ーもの言う花の文化誌』作品社、2001:43-44)。
- 【富永コメント】蛇足だが、歴史上の妓生の中でもっとも有名なのが、韓国ドラマ「トンイ」に登場し、外交にも一役買う「ファン・ジニ」である。しかし、川村氏も述べているように、妓生の本質は男たちへの「性的奉仕」にあり、その本質を隠蔽し、カモフラージュするものとして妓生文化なるものが発展したこと(前掲書:127)はしっかりおさえておかねばならないだろう。
14世紀(ドイツ)
- 北イタリアや南フランスと同じく、ドイツでも急速に都市公営の娼館が設立された。都市共同体成員の妻女を性犯罪から守るため。この公娼制は16~17世紀にすたれ、19世紀まで「非合法化」される(三成美保『ジェンダーの法史学-近代ドイツの家族とセクシュアリティ』勁草書房2005:84)。
16世紀(スペイン)
- スペイン軍がオランダに侵攻した際、売春婦が1200人ほど随行(ヒックス『性の奴隷・従軍慰安婦』濱田徹訳、三一書房1995:23)。
16世紀(ヴェネツィア)
- 娼婦の人数11,654(1509)~215(1574)との記録あり。モンテーニュの日記によれば、コルティジャーナと呼ばれた「高級娼婦が150人くらいはいた」。ローマやフィレンツェの娼婦についても言及あり(斉藤広信『旅するモンテーニュ:十六世紀ヨーロッパ紀行』法政大学出版局,2012:109)。
16世紀(日本)
- 漂泊の巫女が次第に土着して里巫女化する傾向とともに、「あるき巫女」の下級なる者が売春をも兼ね行っていたことが近世の文献に多く見られる(堀一郎『我が國民間信仰史の研究』創元社、1953:678)。
1521-46(日本)
- 足利幕府、財政逼迫対策として「傾城局」を設置して遊女たちに年15貫文の税を課す(小野武雄『吉原と島原』講談社学芸文庫 2002:13)。
1589(日本)
- 豊臣秀吉の時代、京の二条柳町に傾城町がつくられる(島原遊郭の前身)。(曽根ひろみ・人見佐知子「公娼制の成立・展開と廃娼運動-日本近世~近代へ」服藤早苗・三成美保(編著)『権力と身体』ジェンダー史叢書1,明石書店2011:212)。遊郭の発端であり、集娼制度の起こりとして画期的な出来事(小野武雄『吉原と島原』講談社学芸文庫 2002:15)。ただし、女性の身体的拘束は行われてはいなかった(服藤早苗「日本古代・中世の買売春の成立・変容と特質」『歴史学研究』925号、2014:10)。
1617(日本)
- 徳川家康、江戸日本橋葺屋町に遊郭吉原の設置を認可。明暦の大火で全焼し、千束日本堤下山谷に移転し、新吉原と称された。大阪新町遊郭もこの頃成立。以後、遊郭の設置、各藩に広がる。その数20か所以上(曽根ひろみ・人見佐知子「公娼制の成立・展開と廃娼運動-日本近世~近代へ」服藤早苗・三成美保(編著)『権力と身体』ジェンダー史叢書1、明石書店2011:212;小野武雄『吉原と島原』講談社学芸文庫 2002:20)。ちなみに、こうした幕府公認の公娼地とは別に、岡場所と呼ばれる私娼地が深川、築地、新宿、赤坂などに点在していた。こうした岡場所は田沼時代(1767~86年)に栄え、寛政・天保の幕政改革で一時蔭をひそめたが、幕末まで存続しつづけた。最盛期には江戸には61か所の岡場所があり、そのうち30か所が隅田川の近くにあった。大阪では島場所、外町と呼ばれた。
1630年代(中国)
- 南京の色町である秦淮の最盛期(小野武雄『吉原と島原』講談社学芸文庫 2002:62)
1672(沖縄)
- 尚貞王の時代、摂政向象賢、各地に分散していた遊女(尾類・ズリ)を辻(チージ)にまとめて遊郭とする(『琉球国旧記』)。ちなみに尾類(ズリまたはジュリ)は戦前まで首里や那覇の男性たちの妾になったり、結婚式の時に新郎と一緒に寝るニービチジュリ、あるいはミームクジュリと呼ばれる勤めも果たした他、馴染みになればその旦那と生涯関係が続くことも多く、単なる女郎というより芸妓や妾のようなものでもあり、辻の遊郭は歌舞音曲を楽しむ芸妓家、娼妓家、料理屋、旅館などを兼ねることもあった(塩月亮子「沖縄における尾類馬行列の歴史社会学的考察—<都市祝祭とセクシュアリティ>研究に向けて—」『日本生活学会叢書 第2巻 都市祝祭の100年』pp.102-128, ドメス出版, 2000年)。
- 【富永コメント】ちなみに、沖縄三大祭りのひとつ「尾類馬行列」は、遊女たちが着飾って待ちを練り歩いた都市祝祭だったが、戦後の娼婦廃止の米軍布令や婦人団体の批判などにより、たびたび中止に追い込まれている。なお、現在の那覇国際通り裏手にあったこの遊郭自体は、昭和19年の米軍の爆撃によって全焼し、消滅した。
1681(オランダ:ケープタウン)
- 「売春宿」に関する最初の記録。目的は「妾」の排除(Elizabeth B. Van Heyningen, “The Social Evil in the Cape Colony 1863-1902: Prostitution and the Contagious Disease Acts,” Journal of Southern African Studies, Vol.10,No.2, April 1984:170)。
1775-83(米)
- 独立戦争における女性の軍隊随伴者は主に兵士の妻、洗濯・料理・看護の役割をする女性たちだったが、その他に娼婦もいた(エレン・キャロル・デュボイス他『女性の目からみたアメリカ史』石田紀子他訳、明石書店2009:134)。
1780(米)
- ジョージ・ワシントン将軍、女性の軍隊随伴者に対する厳しい統制を命じる(エレン・キャロル・デュボイス他『女性の目からみたアメリカ史』石田紀子他訳、明石書店2009:135)
1802(仏)
- ナポレオン戦争を通して広まった性病予防策としての公娼登録の開始(近代公娼制の確立)(藤目ゆき『性の歴史学』不二出版1997:53)。
1830(仏)
- フランス軍、アルジェリア侵略の開始と同時にアルジェに売春所「メゾン・ド・トレランス(寛容の家)」を設ける。その後のチュニジアやモロッコの先例となる。当初、フランス人やその他のヨーロッパ人の娼婦が登録されたが、次第に現地女性が多数を占め、定期的な性病検診や「指定地域」への居住を義務づけた(永原陽子「「慰安婦」の比較史にむけて」歴史学研究会・日本史研究会(編)『「慰安婦」問題を/から考える―軍事性暴力と日常世界』岩波書店、2014:72)。
1851(プロイセン)
- 軍当局、一度廃止になった公娼制度を性病予防のために再開(藤目ゆき『性の歴史学』不二出版1997:53)。
1857(英領香港)
- イギリス香港政府、「性病が中国に寄港する軍艦の水兵の健康を脅かしている」との中国駐留の海軍少将の訴えに応じ、「性病の蔓延防止のための条例」
(Ordinace for Checking the Spread of Venereal Disease)を制定。売春宿の許可制度の導入(公娼制度)。10年後、イギリス本国の「伝染病法」
をモデルとして改訂された。公娼制度は1932年に廃止。(Bryer, Linda "Sex, Race, and Colonialism: An Historiographical Review",
International History Review 20:4,806-822,1998.)
1860頃~(英領インド)
- イギリス軍宿営地に付属するバザールに売春婦区画を設置。1888年までの売春婦登録簿あり(ヒックス『性の奴隷・従軍慰安婦』濱田徹訳、三一書房1995:24)。
1860~1958(イタリア)
- この期間、管理売春制度の導入と維持(菊川麻里「イタリア近代における性モラルの位相―ロベルト・ミヘルス『性モラルの境界領域』から」歴史学研究会編『性と権力関係の歴史』青木書店2004:216)。
1864,1866,1869(英)
- クリミア戦争による性病の蔓延を背景に、「伝染病法」(対象は梅毒)が議会で承認される。これに基づき公娼制度(司法の監視下で売春婦に定期検診を義務付けることで事実上公娼制度を法的に承認した制度)が導入される。目的は「帝国」の安定であり、その証拠にロンドン市には適用されなかった(藤目ゆき『性の歴史学』不二出版1997:53;菊川麻里「イタリア近代における性モラルの位相―ロベルト・ミヘルス『性モラルの境界領域』から」歴史学研究会編『性と権力関係の歴史』青木書店2004:212頁:Elizabeth B. Van Heyningen, “The Social Evil in the Cape Colony 1863-1902: Prostitution and the Contagious Disease Acts,” Journal of Southern African Studies, Vol.10,No.2, April 1984:173)
- 【富永コメント】ちなみに、1869年以降、ジョセフィン・バトラーらによる伝染病法(Contagious Diseases Act)の廃止運動は、F.ナイチンゲールやH.マーティノーらの支持を得て、同法は1886年に廃止されるに至った。その後、運動は植民地にも拡大。
1867~1881(日本)
- 日本駐留のイギリス人、イギリス政府の資金により、日本に売春婦の性病検査制度を導入(Bryer, Linda "Sex, Race, and Colonialism: An Historiographical Review", International History Review 20:4,806-822,1998.)[富永注:導入されたのは、外国人が多く住み、イギリス 船舶が寄港する長崎と横浜だったと思われるが、その実態に関しては、前掲論文が依拠しているJ.Kehoe, 'Medicine, Sexuality, and Imperialism: British Medical Discourses Surrounding Venereal Disease in New Zealand and Japan: A Socio-Historical Analysis' Ph.d. dissertation, Wellington, 1992,p.266を参照する必要あり]。
1868(英:ケープ植民地)
- 「伝染病法」の制定にともなう公娼制度の導入。登録された女性は、213人中カラードが112人、イギリス人24人、モザンビーク人20人、オランダ人19人など。相前後してジャマイカ、トリニダード、香港(1857,1867導入:1894廃止:その後、私娼館の取り締まりの強化と1934年の禁止令)、フィージー、ジブラルタル、マルタ、インド(1864、1868導入:1888廃止)、ビルマ、セイロン、オーストラリア(クイーンスランドとタスマニア)、シンガポール(1870導入:1927廃止)、ニュージーランド、マラヤ(1894年に登録制の廃止)、ケープなどの植民地にも導入された(Elizabeth B. Van Heyningen, “The Social Evil in the Cape Colony 1863-1902: Prostitution and the Contagious Disease Acts,” Journal of Southern African Studies, Vol.10,No.2, April 1984:171,173,182)。
1870~(中国)
- 太平天国の平定後、南京に妓楼復活。日本軍による1937年の南京大虐殺により全て破壊される(小野武雄『吉原と島原』講談社学芸文庫 2002:75,77)。
1870(米)
- セントルイスでヨーロッパ型の公娼制導入、その他の都市にも広がる( 藤目ゆき『性の歴史学』不二出版1997:54)。
1871(日本)
- この年、日本政府が清國と日進修好条約を締結したのを機に、人身売買業者による「からゆきさん」が増加。行き先は東
アジア、東南アジア、シベリア、オーストラリア、インド、南北アメリカ、アフリカ、ヨーロッパなど広域にわたった。
1883年以降、日本政府は各地方長官にたびたび取締令をだしたが、実行性をともなうものではなく、1905年の日露戦争
終結後には渡航者数が急増した(久留島典子・長野ひろ子・長志珠絵(編)『歴史を読み替える・ジェンダーから見た日
本史』大月書店、2015:180)
1871年(ドイツ)
- ドイツ帝国の成立によって、売春婦の国家管理は一律化、拡大か、厳格化された(レギーナ・ミュールホイザー『戦場の性ー独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』姫岡とし子監訳、岩波書店、2015年:xx)
1872(日本)
- 太政官布告第295号「芸娼妓解放令」の公布(近代公娼制=強制性病検診制度=娼妓の自由意志による「賤業」を国家が救貧のために許容する制度の成立の契機となる)( 曽根ひろみ・人見佐知子「公娼制の成立・展開と廃娼運動-日本近世~近代へ」服藤早苗・三成美保(編著)『権力と身体』ジェンダー史叢書1、明石書店2011:218頁;藤目ゆき『性の歴史学』不二出版2005:91)。
1873(日本)
- 東京府令第145号「貸座敷渡世規則・娼妓規則」令の公布により、自由意思の営業を容認(藤目ゆき『性の歴史学』不二出版2005:89~91)。
1876(ドイツ)
- 帝国刑法改正により売買春を禁止(180条)する一方、管理売春制度を合法化(361条)(姫岡・川越編[ドイツ近現代ジェンダー史入門]青木書店2009:219)。
1881(朝鮮半島)
- 日本領事、最初の開港場釜山で「貸座敷並びに芸娼妓営業規則」を導入、鑑札制度や梅毒検査を施行(山下英愛「朝鮮における公娼制度の実施」尹貞玉編著『朝鮮人女性がみた慰安婦問題』三一新書1992:133)。
1882(沖縄)
- 「貸座敷娼妓規則」布達、遊郭は辻、仲島、渡地とする公娼制度の成立。その後1908年に、仲島、渡地を廃して辻遊郭に統合。1944年には、辻遊郭が「性的慰安施設」となるも、同年米軍の空爆で焼失し、女性たちは「慰安婦」になった。WAM『軍隊は女性を守らない―沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』アクティヴ・ミュージアム・女たちの戦争と平和資料館 2012:8-9)。
1885(英:ケープ植民地/ヨハネスブルク)
- この年、ケープ植民地に「伝染病法」(実質は性病管理―翌年本国で廃止、南アでは1919年に廃止)に代わる新たな名称の法律が導入され、公娼制度の存続が図られた。ちなみに1902年にはケープの売春宿150に500人の白人女性と100人の非白人女性がいたとの最高裁判事の証言が残っている。(藤目ゆき『性の歴史学』不二出版1997:55,60;Elizabeth B. Van Heyningen, “The Social Evil in the Cape Colony 1863-1902: Prostitution and the Contagious Disease Acts,” Journal of Southern African Studies, Vol.10,No.2, April 1984:192)。
1886(英/植民地)
- イギリス本国での「伝染病法」廃止にともなう公娼制度の廃止。しかし、南アと同様、植民地シンガポールや香港では維持された(藤目ゆき『性の歴史学』不二出版1997:55)。
1895(日本:朝鮮半島)
- 京城領事館達第11号「芸妓営業取締規則」により芸妓営業を公式に承認(藤永荘「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程―1910年代のソウルを中心に」『二十世紀研究』第5号2004:15)。
1898~(フィリピン)
- アメリカの占領以降、売春宿が増加、米軍が娼婦の性病検診を導入。米政府は、本国の女性運動の抗議を受けて、性病検査の軍との関係を不明瞭にする努力をし、診断の中止を指示したが、実質的な性病検査と登録制は、1990年の米軍の撤退まで続く(藤目ゆき『性の歴史学』不二出版1997:56)。
1900(日本)
- 明治政府「娼妓取締規則」を制定(公娼制度の確立)(若尾典子「人身売買-性奴隷制度を考える」服藤早苗・三成美保(編著)『権力と身体』ジェンダー史叢書1、明石書店2011:239)。
1904~06(日本:植民地朝鮮)
- 日露戦争を契機に居留民団や日本軍、新町遊郭や桃山遊郭を開設、性病検査も開始( 藤永荘「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程―1910年代のソウルを中心に」『二十世紀研究』第5号2004:18)。
1906(日本:植民地台湾)
- 民政長官通達「貸座敷及娼妓取締規則」により、公娼地区の設定、性病検査の義務づけなどの方針を統一(『台湾・「慰安婦」の証言―日本人にされた阿媽たち』WAMアクティヴ・ミュージアム 2014:13)
1904~08 (ドイツ:アフリカ植民地)
- ドイツ領西南アフリカ(現ナミビア)、首都ウィンドフークにドイツ人兵士の慰安所としてヘレロ女性専用の収容所を設置(永原陽子「ナミビアの植民地戦争と「植民地責任」」永原陽子編『「植民地責任」論』青木書店2009:227)。
1910~20(日本)
- この頃、男は本来性欲の処理が必要なのだから、買春はやむを得ないという言説によって合理化される「大衆買春社会」が成立(横田冬彦「コラム「遊客名 簿」と統計―大衆買春社会の成立」歴史学研究会・日本史研究会(編)『「慰安婦」問題を/から考える―軍事性暴力と日常世界』岩波書店、2014年:
165)
1910(朝鮮)
- 朝鮮総督府統計年表によれば、日本の植民地支配下朝鮮の日本人女性人口66,200人の内48.2%の31,908人が芸娼酌婦だった。ちなみに、朝鮮に日本人芸妓が登場するのは1888年、1896年漢城(のちの京城)在住日本人1,749人中、女性730人のうち酌婦140人、芸妓10人、1930年には日本人女性の28.6%(3,846人)が芸妓・娼妓だった(広瀬玲子「植民地支配とジェ ンダーー朝鮮における女性植民者」『ジェンダー史学』第10号、2014:19-20)
1911(日本・植民地台湾)
・ 総督府令69号「芸妓酌婦取締り規則」(中国女性史研究会編『中国女性の100年ー史料にみる歩み』青木書店、2004)
1914~(仏)
- 第一次世界大戦、第二次世界大戦、インドシナ戦争、アルジェリア戦争においてBordel militaire de campagne(BMC)と呼ばれる「軍用野戦売春所」制度を植民地に導入(スーザン・ブラウンミラー『レイプ-踏みにじられた意志』幾島幸子訳、勁草書房2000:119)。ちなみに、この制度は、アルジェリアにおいては、おそらく征服と同時に導入されていたとの研究がある。BMCは、軍と契約を結んだ経営者(女性)が、指定地域から娼婦を募集して運営する形をとり、大きな駐屯地に継続的に設置されるものと、軍に同行して戦場を移動する小規模の巡回型のものとがあった。参謀本部がその規模などを指定し、当該地域の軍司令官が実際の運用の指揮にあたった。ヨーロッパ戦線に送り込まれた植民地兵は白人娼婦との接触を禁止されていたため、植民地で徴用されたアルジェリアやモロッコの娼婦がヨーロッパ戦線にも投入された。このBMCは1950年代には公式には廃止されたがアルジェリア独立戦争やインドシナ戦線において全面的に活用された。(永原陽子「「慰安婦」の比較史にむけて」歴史学研究会・日本史研究会(編)『「慰安婦」問題を/から考える―軍事性暴力と日常世界』岩波書店、2014:73-74)。
1916(日本:植民地朝鮮)
- 警務総監部令第4号「貸座敷娼妓取締規則」の公布による公娼制度の確立と私娼取締の強化。朝鮮人娼妓数1314(1919年)(藤永荘「植民地朝鮮における公娼制度の確立過程―1910年代のソウルを中心に」『二十世紀研究』第5号2004:27)。
1917年(ソヴィエト)
- 10月革命後、売買春禁止。売春婦は国家の経済セクターのどの仕事にも就かなかったので「労働忌避者」として犯罪者とみなされ、強制労働収容所に送られた。しかし、1921年の新経済政策(ネップ)施行後、そうした処罰は実質的に行われなくなり、再び売買春が広がった(レギーナ・ミュールホイザイー『戦場の性ー独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』姫岡とし子監訳、岩波書店、2015:109)
1918(日本・シベリア)
- シベリア出兵時のシベリア在住日本人娼婦は853人(若桑みどり『戦争とジェンダー』大月書店2005:200)。ちなみに1920年6月の外務省資料「在外本邦醜業婦員数調」によると、支那および満州の4,967を筆頭として、シンガポール1,136、バタヴィア1083など総計8,807人の娼婦が各地で働かされていた(久留島典子・長野ひろ子・長志珠絵(編)『歴史を読み替える・ジェンダーから見た日本史』大月書店、2015:181)
1930年代(ソヴィエト)
- スターリン体制下のソヴィエトでは、売買春は禁止された(レギーナ・ミュールホイザイー『戦場の性ー独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』姫岡とし子監訳、岩波書店、2015:109)
1932(日本:上海)
- 第一次上海事件直後、上海に軍慰安所第一号が設置される(吉見義明『日本軍「慰安婦」制度とは何か』岩波ブックレット2010:14)。
1929(植民地朝鮮)
- 朝鮮総督府から出された『生活状態調査・平壌府』によれば、この年現在で、芸妓は日本人(内地人)55名、朝鮮人164名、娼妓は日本人125名、朝鮮人148名、私娼は日本人79名、朝鮮人99名(川村湊『妓生ーもの言う花の文化誌』作品社、2001:134)。なお、宗連玉によれば、朝鮮人の芸妓・娼妓・酌婦は1916年から38年の間に、100人から483人に増加し、1939年からは朝鮮内の娼妓が日本人より多くなった(宗連玉「「慰安婦」問題から植民地世界の日常へ」歴史学研究会・日本史研究会(編)『「慰安婦」問題を/から考える』岩波書店、2014:20)
1937~(日本)
- 日中戦争以降、日本軍、中国、東南アジア、太平洋地域に「慰安所」を設置、日本人、朝鮮人、台湾人、中国人をはじめとして多くの現地の女性たちを性奴隷として徴集。その数8~20万人。慰安所は、華北100、華中140、南方100、南海10、樺太10、計400か所(吉見義明『従軍慰安婦』岩波新書1995:70)。
1938~(日本)
- 群馬、山形、高知、和歌山、茨城、宮城の各県内で日本軍「慰安婦」の国内での大規模徴集はじまる(小野沢あかね「芸妓・娼妓・酌婦から見た戦時体制―日本人「慰安婦」問題とは何か」歴史学研究会・日本史研究会(編)『「慰安婦」問題を/から考える』岩波書店、2014:96)。
1939(南ア)
- 南アフリカ統治下のナミビアの首都ウィンドフクの黒人居住区の未婚のヘレロ女性全員に対する強制的性病検査の導入(永原陽子「「慰安婦」の比較史にむけて」歴史学研究会・日本史研究会(編)『「慰安婦」問題を/から考える―軍事性暴力と日常世界』岩波書店、2014:75).
1940~45 (ドイツ)
- ナチ時代に国家によって設置された売春宿は、国防軍用、外国人強制労働者用、強制収容所の囚人用に分けられ、その数およそ500と計上されている。軍専用の慰安所は占領地にのみ開設。ただし、フランス、オランダでは既存の売春宿を利用したという。(ザンダー/バーバラ・ヨール(編)『1945年:ベルリン解放の真実―戦争・強姦・子ども』寺島あき子・伊藤明子訳、現代書館1996:15,79;クリスタ・パウル『ナチズムと強制売春―強制収容所特別棟の女性たち』明石書店1996:145,184;Robert Sommer, Das KZ-Bordell―Sexuelle Zwangsarbeit in nationalsozialistischen Konzentrationslagen, Ferdinand Schoningh, 2010:224,281~89;熊谷奈緒子『慰安婦問題』ちくま新書、2014:60)。
- 強制収容所内の売春施設は、「囚人」の業績向上のための刺激策として導入され、終戦まで実行された。そこで売春を強制されていたのは約210名で、そのうち174名の氏名が判明している。彼女たちは、「慰安婦」とは異なり、売春を強制される前から「囚人」であったし、売春することによって、生き残りにわずかな希望を見出していたが、生存者はひとりもいなかった。(レギーナ・ミュールホイザー『戦場の性ー独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』姫岡とし子監訳、岩波書店、2015年:xv、xvi)
- 1942年から44年にかけて、ナチス親衛隊は10か所の強制収容所に特権的な男性囚人のための売春施設を設置し、男性囚人が強制労働で高い業績を上げるうえでの刺激剤とした(レギーナ・ミュールホイザー『戦場の性ー独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』姫岡とし子監訳、岩波書店、2015年:11)。
- 占領地の軍売春施設については、①ソ連占領地域については、ほとんど研究がなされていない。②フランスの国防軍売春施設については、売春婦として働いていたり、売春婦ではないかと疑われた現地女性をさまざまな方法で迫害し、権利をはく奪し、性病検査から病院への入院や拘禁を経て収容所に移送された。③オランダの国防軍売春施設では、既存の売春構造に依拠したことが示唆されている(レギーナ・ミュールホイザー『戦場の性ー独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』姫岡とし子監訳、岩波書店、2015年:12)。
- 国防軍がソ連占領地域で売春施設をどれくらい設置したのかは、今後の研究にゆだねなければならないが、現時点では、リトアニアに1か所、ラトヴィアに3か所、ウクライナに9か所、ベラルーシに2か所、ロシアに1か所は確実に存在した(レギーナ・ミュールホイザー『戦場の性ー独ソ戦下のドイツ兵と女性たち』姫岡とし子監訳、岩波書店、2015:142)
1942(フィリピン)
- 日本軍のマニラ占領に伴い、各地に慰安所開設(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」編集出版『フィリピン・立ち上がるロラたち―日本軍に踏みにじられた島々からー』2011:44)。
1944(日本)
- 「高級享楽停止に関する要綱」により、花柳界の大部分が休業を命じられたが、貸座敷は休業を命じられなかった。同年に出された「高級享楽停止に関する前後措置」により、休業した料亭・待合・芸妓置屋などの一部が慰安所として復活させることが決定。その結果、慰安施設になったものは計4,842軒、休業前42,568人であった芸妓のうち、7,131人が慰安施設に移された(小野沢あかね「芸妓・娼妓・酌婦から見た戦時体制―日本人「慰安婦」問題とは何か」歴史学研究会・日本史研究会(編)『「慰安婦」問題を/から考える』岩波書店、2014:116)。
1944(沖縄)
- 日本軍第32軍、伊江島で慰安所設置に着手。沖大東島に朝鮮人女性7名、慶良間諸島の3島6か所に7人ずつ「慰安婦」として配置される。宮古島にも17か所の慰安所があったことが確認されている(WAM『軍隊は女性を守らない―沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』アクティヴ・ミュージアム・女たちの戦争と平和資料館 2012:9,26)。
- 以後、約10万の日本軍が駐屯した沖縄の「慰安所」は130か所におよび、1000人以上の朝鮮女性と数百人の沖縄女性が慰安婦となった(三成他著『ジェンダー法学入門』法律文化社2011:26)
1944(日本軍占領下のインドネシア)
- 日本軍占領下のジャワ島スマランにおいて民間人抑留所に収容されていtたオランダ人女性ら35人を強制的に慰安婦にした「スマラン事件」。約2ヶ月後に上級司令部の命令で慰安所は閉鎖。(林博史『戦犯裁判の研究―戦犯裁判政策の形成から東京裁判・BC級裁判まで』勉誠出版、2010)
1945~46(日本)
- 1945年8月18日の内務省警察保安局長、全国都道府県へ、占領軍の進駐に備えて性的慰安所を作るよう通達。資本金1億円(うち5500万円は大蔵省の保証により日本勧業銀行が出資)。慰安所第一号「小町園」を大森海岸に設置。10月以降「特殊慰安施設協会」(RAA=Recreation and Amusement Association)と称した。東京都と警視庁がコンドーム1200万個などの必要な現物を提供。以後、全国21か所に設置され、接客女性への性病検査と受診した女性への健康証明書が発行された。翌年3月、アメリカ軍の指示によって閉鎖後、集められた買春女性たちが街頭に出て「パンパン」と呼ばれる街娼に、特殊慰安施設は「赤線」と呼ばれる買売春公認地区となる。(平井和子「日本占領をジェンダー視点で問いなおすー日米合作の性政策と女性の分断」『ジェンダー史学』第10号、2014:8;吉見義明『日本軍「慰安婦」制度とは何か』岩波ブクレット2010:54)。RAAの閉鎖命令の発信源は、「日本の交渉制度は進駐軍が促進するデモクラシー思想に反するものであり、さらには進駐軍に蔓延している性病に原因があるという公式的理由」から類推すると、GHQ内部というよりむしろ、日本進駐軍が政策に反して軍管理買春を続行していることを危惧したワシントンの陸軍省ではなかったかという説もある。第二次大戦中の米軍の、建前としての管理買春制度の禁止と、管理買春の実態については、田中利幸「なぜ米軍は従軍慰安婦問題を無視したのか」(上)(下)『世界』(1996年10月、11月)の第一次資料にもとづく考察・分析を参照のこと。
1950(日本)
- 朝鮮戦争の開始により、朝鮮からの帰休兵向けにR.R.センター(Rest and Recuperation Center 休養開腹センター)が米軍により日本の4ヶ所(小倉、 伊丹[後に奈良に移転]、羽田空港付近、朝霞)に開設され、全国の基地周辺での買売春がピークを迎えた(平井和子「日本占領をジェンダー視点で問い なおすー日米合作の性政策と女性の分断」『ジェンダー史学』第10号、2014:9)
1950(沖縄)
- 沖縄占領下での米軍による飲食店の衛生検査や風俗店従業員への性病検査を目的とする「Aサイン制度」の導入(WAM『軍隊は女性を守らない―沖縄の日本軍慰安所と米軍の性暴力』アクティヴ・ミュージアム・女たちの戦争と平和資料館 2012:46)
1951~54(韓国)
- 朝鮮戦争中、日本軍慰安所を模して、ソウル地区、江陵郡などに韓国軍慰安所(「特殊慰安隊」)設置さる(金貴玉「朝鮮戦争時の韓国軍「慰安婦」制度について」宋連玉・金栄編『軍隊と性暴力-朝鮮半島の20世紀』2010:238、290;川村湊『妓生ーもの言う花の文化誌』作品社、2001:226~28)。
1952(台湾)
- 金門島駐留の5万を越える兵士の性欲を解消するため、中華民国国防軍、「軍中楽園」を軍施設周辺に設置、「特約茶室」と呼んだ。台湾本当では1974年に廃止されたが、金門島では1992年まで存続(『台湾・「慰安婦」の証言―日本人にされた阿媽たち』WAMアクティヴ・ミュージアム 2014:29)
1961(韓国)
- 「淪落行為等防止法」の制定。「淪落女=売春婦」処罰を基軸にしながら、1962年から全国104か所に「公娼制」とかわらない特定性売買地域を認める。(宋連玉『脱帝国のフェミニズムを求めて』有志舎、2009:13頁)
1966~(米)
- ヴェトナム戦争中、中央高原地帯のアン・ケに駐留する米軍第一騎兵師団、サイゴン北方40キロのライ・ケに駐留する同第一歩兵師団、プレイク省に駐留する同第四歩兵師団の各基地周辺に正規の軍慰安所の設置。設置許可は師団長である陸軍少将の裁量に、慰安婦の調達はヴェトナム民間人に委ね、アメリカ軍部は衛生面と安全保障面の管理を行った(スーザン・ブラウンミラー『レイプ-踏みにじられた意志』幾島幸子訳、勁草書房2000:122~23)。
1977(韓国)
- 韓国観光公社、「遊興営業所醜業証明書」を発行し、遊興レストランでの事実上の売春行為を許可(川村湊『妓生ーもの言う花の文化誌』作品社、2001:228)。ちなみに、この他に政府公認の「特定地域」があり、釜山の「ミドリマチ」、ソウルの「チョンリャニ588」、「ミドリ・テキサス」、仁川の「イエローハウス」などが、事実上の「赤線地帯」となった(前掲書:232-33)
1982(コートジボワール)
・ 人口2000万のアビジャン市で、専業的に売春に従事している者1万4,500人、副業的な者二万9,000人、アビジャン市成人女性人口の約
5%にあたるとの国立大学社会学者の調査報告。ちなみに、アビジャンで売春が職業的に確立したのは1940年代といわれている(原口武
彦『アビジャン日誌ー西アフリカとの対話』アジア経済研究所、1985:25)
1992(日本)
- 日本軍による慰安所の設置、「慰安婦」募集の統制を示す史料、吉見義明氏により発見され、日本国家の関与が史料的に裏付けられる(藤永壮「「失われた20年」の「慰安婦」論争ー終わらない植民地主義」歴史学研究会・日本史研究会(編)『「慰安婦」問題を/から考える―軍事性暴力と日常世界』岩波書店、2014:173)。
2011(台湾)
- 台湾立法院「社会秩序保護法」改正、赤線が復活(『台湾・「慰安婦」の証言―日本人にされた阿媽たち』WAMアクティヴ・ミュージアム 2014:31)
2014(日本)
- 朝日新聞、かねてより「誤報」として攻撃の対象になっていた吉田清治の証言―済州島で女性を「慰安婦」にするために暴力的に連行した―を虚偽と認定し謝罪(8月5日、6日朝刊)。