【年表5】日本史(800頃~1200頃)
781(天応元) 桓武天皇即位(~ 806)
784(延暦3) 長岡京に遷都
789 男女を問わず、良民と賤民の間に生まれた子は「良民」とすることに決める
789 アテルイ、蝦夷侵略軍を打破する
794(延暦13) 平安京に遷都
810(弘仁元) 平城太上天皇の変。蔵人所の設置
842(承和9) 承和の変
850頃 小野小町「小町集」できる
866(貞観8) 応天門の変 藤原良房摂政となる
884(元慶8) 藤原基経関白となる
894(寛平6) 遣唐使の派遣廃止
923(延長元) 藤原穏子皇后
935(承平5) 承平 天慶の乱(~ 941)
969(安和2) 安和の変 左大臣源高明大宰府に左遷
986(寛和2) ―条天皇即位(980-1011:位986-1011)
- 一条天皇の時代は藤原道隆・道長兄弟のもとで藤原氏の権勢が最盛に達した。
- 皇后定子(関白内大臣正二位藤原道隆の長女:977-1000/1001:入内990)に仕える清少納言、中宮彰子(藤原道長の長女:988-1074:入内999)に仕える紫式部、和泉式部らによって平安女流文学が栄えた。
1000(長保2) 彰子中宮 皇后定子没
1001 『枕草子』なる
1003(寛弘5) 一条天皇中宮彰子 敦成親王(後―天皇)出産。
1004以降 『和泉式部日記』なる
1008 『源氏物語』なる(一部?)
1016(長和5) 藤原道長(966-1028) 後―条天皇の摂政
1051(永承6) 前九年合戦(~ 62)
1083(永保3) 後三年合戦(~ 87)
1086(応徳3) 白河上皇(1053-1129) 院政を開始
1118 藤原璋子(のちの待賢門院:1101-1145)が、いとこの鳥羽天皇に入内
○崇徳・後白河の母。白河上皇の寵愛を受け続けたため、子の父について疑われた。
○1141年、鳥羽上皇は、崇徳天皇(位1123-1141)に譲位を迫り、近衛天皇(母は美福門院藤原得子)を即位させた。
1129(大治4) 鳥羽院政開始
1141 藤原得子(近衛天皇の母・のちの美福門院:1117-1160)を皇后とする。
○保元の乱に際して、崇徳皇子重仁の登位に反対し、後白河(得子の養子守仁親王の父)の即位を支持した。
1146 藤原頼長、三年来恋慕の藤原隆季に本意を遂げる(男色)。
○院政期には、男色が貴族社会に広く浸透していた。
(比較)→*【セクシュアリティ】旧約聖書にみる同性愛禁忌(ソドムの町)と近親姦(ロトの娘たち)(三成美保)
1156(保元元) 鳥羽上皇死去→保元の乱
○後白河天皇(弟)と崇徳上皇(兄)の争いに協力して、摂関藤原氏・平氏・源氏が親族間で分かれて争った。
○勝者=後白河天皇・関白忠通・平清盛・源義朝
○敗者=崇徳上皇(配流)・左大臣頼長(傷死)・平忠正(斬首)・源為義(斬首)・源為朝(配流)
○810年の薬子の変以来行われていなかった死刑が執行された。
1158 清盛、日宋貿易を本格化(宋:960-1279)
- 日宋貿易の最大の輸入品は宋銭(中国・北宋代に鋳造された貨幣である銅銭)である。
- 銅は、仏像建立の材料として需要が高く、大きな利益を生んだ(宋でも、銅銭を鋳潰して銅器を作製する利益は10倍以上になったため、刑死を覚悟で鋳潰する者が続出した)。
- 銅銭の流通は、それまでの代用通過であった絹の価値を落とすことにつながった。絹を単位とする賦課システムは破綻し、宮廷や地方武士・荘園領主の不満が高まった。
1159(平治元) 平治の乱
- 保元の乱の勝者間で恩賞等をめぐる対立が生じる。後白河上皇・二条天皇の近臣の地位を巡る主導権を争って平氏と源氏が戦い、平氏が勝利した。
1161(応保元) 障子内親王に二条天皇准母として八条院宣下
1178 後白河上皇、御所にて白拍子舞を催す
○「白拍子」は、男装で舞う芸能者。12世紀には、妓女・妓王・静などが有名。
1180 安徳天皇即位
○母は建礼門院平徳子(1155-1213)
1181(養和元) 平清盛没
1185(文治元) 平氏滅亡。源頼朝守護地頭任命権獲得
1189 奥州藤原氏滅亡
1192 源頼朝、征夷大将軍となる