【年表5】日本史①古代1(600以前)
掲載:2015.09.29
前3500~前2000 三内丸山遺跡
前4世紀頃 北部九州から水稲耕作の普及 定着。弥生文化成立
前1世紀頃 朝鮮半島から伝えられた銅鐸 銅剣 銅矛などが大型化した青銅器祭器の広がり
紀元前後 倭人社会は百余国に分かれ朝鮮半島におかれた前漢の楽浪郡に遣使
○朝鮮半島型のヒメ・ヒコ制が普及(ヒメ=巫女が巫術を担当し、ヒコ=男性首長のまつりごとをささえる)[時空1998:6]
1~ 2世紀 倭の王が中国の後漢に朝貢
239 邪馬台国女王卑弥呼 魏に朝貢し「親魏倭王」に任じられる(→*【史料】魏志倭人伝)
3世紀後半頃 卑弥呼が死に大きな塚が築かれる。この頃銅鐸祭器終焉
○前方後円墳が西日本を中心に出現。やがて東日本まで拡大
○素焼きの土師器が畿内でつくられはじめ 各地に普及
4世紀~ 朝鮮半島で高句麗 百済 新羅が国家形成(三国時代)
→*【年表】東アジア世界(200~1000)
→*4-3.朝鮮半島(三国~高麗時代)ー農耕社会における強い母権(略年表付き)
391 倭の朝鮮半島出兵(高句麗広開土王碑)
5世紀 倭の五王が中国南朝にあいついで朝貢
471 稲荷山古墳出土鉄剣に「ワカタケル大王」(雄略)
478 倭王武(雄略天皇にあたる)、宋皇帝より「安東大将軍倭王」に任じられる
5~ 6世紀 鉄器 須恵器 機織り等の技術が大陸 半島から伝えられ渡来人の技術者を組織化
○豪族の男女が王宮に出仕する伴部の仕組みも整う
○古墳に人物 動物埴輪等を並べ 儀礼表現
6世紀前半 百済から仏教が公式に伝えられる。善信尼ら 百済へ留学(660 百済滅亡)
【女性】善信尼(ぜんしんに)(574 - ?)
恵善尼や禅蔵尼とともに日本最初の尼僧の一人。
584年、高句麗から渡来した僧・恵便(えびん)に師事して出家した。同年、蘇我馬子が邸宅内に百済から請来した弥勒仏の石像を安置した際、弟子となった恵善尼・禅蔵尼とともに斎会を行ったと伝えられる。翌585年3月、物部守屋による廃仏運動により法衣を剥ぎ取られて全裸にされ、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処された。588年に戒律を学ぶため百済へ渡り、590年3月に帰国した。帰国後は大和国桜井寺に住し、善徳など11人を尼として出家させるなど、仏法興隆に貢献した。父は司馬達等。司馬達等は、522年に日本に渡来した。584年に、播磨国で恵便に、娘の嶋(善信尼)とその弟子2 人を出家させたという。崇仏派の蘇我馬子が邸宅内に仏殿を建立し、請来した弥勒仏を安置した際には、仏舎利を献上し、また法会を開催したとされる。585 年に排仏派の物部守屋は達等を面罵し、善信尼ら3人の法衣を剥奪して監禁したとされる。
甥に仏師・鞍作止利がいる。止利の代表作は、法隆寺金堂本尊銅造釈迦三尊像(623年、右写真、国宝)。中国北魏の仏像の様式の影響を受けたものとされる。
○群集墳が盛んにつくられるようになる
参考文献
「女と男の時空」編纂委員会編『年表ー女と男の日本史』藤原書店、1998