5-1 中世イスラーム社会のジェンダー秩序

 (2)預言者ムハンマドの妻たち

掲載:2017-03-12 執筆:小野仁美

 神の啓示を受け、イスラーム教を人々に伝えたムハンマド・ブン・アブドゥッラー(570年頃~632年)という人物は、生涯に12~13人の妻を持ったと伝えられている。彼女たちにまつわる伝承からは、ムハンマドの人となりはもちろんのこと、イスラーム初期のジェンダー観をうかがい知ることができる。男性中心の社会的規範が色濃い6~7世紀のアラビア半島に生きたムハンマドが、現代においてすら相当なフェミニストではないかと思えるぐらい女性に優しい態度をとっていたこともわかる。

本稿では、エジプトの歴史学者アーイシャ・アブドッラハマーン著(徳増照子訳)『預言者の妻たち』日本ムスリム協会, 2001(1977初版)をもとに、預言者ムハンマドと共にイスラーム史の黎明期を生きた彼女たちを紹介したい。

 ハディージャ・ビント・フワイリド(555-619年)

ハディージャとムハンマドとの出会いは、すでに2人の夫に先立たれて大商人となっていた彼女が、誠実な人柄という評判を見込んで彼を雇い、遠方への商いを任せたことがきっかけだった。ハディージャ40歳、ムハンマド25歳のときだった。母親ほどの年上のハディージャにとって、名門クライシュ族の男性への求婚はたいへん勇気のいることであったが、ムハンマドの方でも、彼女の美しさと優しさに惹かれ、すぐに結婚が整ったという。

経済的には恵まれているとは言えない暮らしをしていたムハンマドは、ハディージャとの結婚によってようやく安定した生活を送れるようになった。何よりも、出生前に父を、さらには幼い時に母を亡くした彼にとって、家庭の温かさを初めてもたらしてくれたのがハディージャであった。彼女はすでに幾人かの子を前夫との間にもうけていたが、ムハンマドとの間に2人の男児(一説では3人)と4人の女児を産んだ。男児はみな幼くして亡くなってしまったが、4人の女児はすべて成人しそれぞれ嫁いだ。彼女たちについては後述したい。

父系の系譜を重んじるジャーヒリーヤ時代(イスラーム以前のことをさす)のアラブにおいては、男児をもつことが一人前の男性の証にもなっていた。また一部の部族においては、困窮を理由とした女児殺しの習慣すらあったとされている。複数の妻を娶ることも珍しくない社会でもあった。ところがムハンマドは、後継ぎとなる男児を次々亡くしたにもかかわらず、新しい妻を迎えることなくハディージャが亡くなるまでの25年間、彼女を唯一の妻として寄り添った[1]

ハディージャは、妻として常に夫を気遣い、優しく包み込むようにムハンマドを支えた。それは、ムハンマドが神からの最初の啓示を受けたときも同様であった。結婚後15年ほどが過ぎ、ムハンマドは40歳になっていた。610年のことである。ヒラー山の洞窟で瞑想をしていたムハンマドに、神の言葉を伝える天使ジブリールの声が聞こえた。恐れおののき、うろたえて山を下りたムハンマドを、静かに受け容れて、神に選ばれた男となった夫を励ましたのがハディージャである。彼女は最初のイスラーム教徒となった。

ハディージャは、ムハンマドの子をのこした唯一の妻でもあった。ハディージャの没後に嫁いだ全ての妻たちは、ムハンマドの子を産むことがなかったのである。ムハンマドは、4人の娘たちに惜しみない愛情を注いだが、とりわけ四女のファーティマを寵愛したと伝えられている。彼女たちについても、数々の伝承からそれぞれの生活ぶりを知ることができる[2]

長女ザイナブは、イスラームの開始前に結婚し一男一女をもうけていたが、夫より先にイスラームに入信したため、敵となってしまった夫との別れを余儀なくされた。後にイスラーム教徒となった夫アブールアースと復縁し、630年(ヒジュラ暦8年)にメディナで亡くなっている。

二女ルカイヤと三女ウンム・クルスームは、いずれも父ムハンマドの叔父アブー・ラハブの息子たちにそれぞれ嫁いだ。ところが、アブー・ラハブがイスラーム開始後にムハンマドの最大の敵のひとりとなってしまったため、彼女たちは父のもとへと帰されてしまう。ルカイヤは、後に第3代正統カリフとなるウスマーンのもとに嫁ぐが、まもなく病死。ついで同じくウスマーンにウンム・クルスームが嫁いだ。

四女ファーティマは、父ムハンマドの従弟(養父アブー・ターリブの息子)アリーに嫁ぎ、長男ハサンと次男フサインをもうけた。ムハンマドは、孫となった彼らをことのほか可愛がったという。男児がみな夭折したムハンマドは後継ぎとなる男系子孫をもたなかったが、娘ファーティマを介したハサンとフサインの末裔が、ムハンマドの子孫として知られることとなった。

イスラームの開始以後、何年もの迫害の受難を耐えてきたムハンマドの傍には、いつも彼を温かく見守る妻ハディージャがいた。ハディージャの没後、ムハンマドは12人ほどの妻を次々と迎えることになるが、ムハンマドの心に深く住み着いた彼女を超える女性はいなかったと言われている。619年、ハディージャは、メッカの地において、夫にみとられて63歳でその生涯を閉じた。

アーイシャ・ビント・アブー・バクル(614-678年)

ハディージャ亡きあと、悲しみに沈むムハンマドに周囲の人々は新しい縁組を用意した。まず候補に上がったのが、ムハンマドの親友アブー・バクルの娘アーイシャであった。アブー・バクルはこの良縁に快諾したのだが、彼女は当時まだ6歳と幼く、実際に結婚生活に入るのは9歳の頃であった。

亡きハディージャが遺した娘たちの養育や、ムハンマドの身の回りの世話をするために先に嫁いだは、未亡人のサウダであった。彼女は亡き夫とともにイスラーム初期に入信した女性で、彼女との結婚は、後の多くの妻たちのような政略結婚の類でもなければ、愛情で結ばれたものでもない一種の憐みの情からのものであったとも言われている。気立ての良いサウダは、夫に誠心誠意尽くし、次に嫁いできたアーイシャの良き理解者としても、ムハンマドを支え続けた。

アーイシャは、ムハンマドが信徒たちと共にメディナの町に移住した後、ムハンマドのもとに入った。ムハンマドは、彼女の家柄や可愛らしさだけでなく、その聡明さを愛したと伝えられている。アーイシャの方でもまた、すでに神の使徒としてイスラーム共同体を導いていた夫の心が自分に開かれたこと、そして妻たちのなかで唯一処女のまま嫁いだことを誇りに思っていたという。

アーイシャはしかし、その後次々にムハンマドのもとへ嫁いできた若くて美しい、家柄も良い女性たちには嫉妬の炎を素直に燃やし続け、ときに大きな問題を起こすことすらあった。ムハンマドの従妹にあたるザイナブ・ビント・ジャハシが嫁いできたときには、夫が彼女と過ごす時間を測り、それが少しでも長くなった折には直談判までしている。また、ムハンマドに贈られてきたコプト奴隷のマーリヤがムハンマドの子を宿したとき(ただし生まれた男児は夭折してしまう)には、妻たちを束ねて騒動を起こした。

またアーイシャは、亡き前妻のハディージャについてさえも、「私はハディージャに嫉妬したほどに、預言者のどの妻にも嫉妬したことはない。それは彼があまりにも彼女をほめるから」などと言って、夫の心から決して離れることのなかった彼女のことをしばしば口にした。そんなアーイシャに、ムハンマドはときに厳しい態度を取ることもあったが、彼女の聡明さと愛らしさを好み、最愛の妻であると明言していた。

ムハンマドが、病床のなかで最期のときを迎えていたとき、妻たちに次のアーイシャの番がいつなのか(妻たちと過ごす夜は公平に割り当てられていた)を尋ねたという。事情を察した妻たちは、アーイシャに残りの日々すべてを譲った。預言者ムハンマドは、アーイシャの膝の上でその生涯を閉じ、彼女の部屋に埋葬された。

預言者ムハンマドの言行録(ハディース)と女性たち

預言者ムハンマドの言行録を集めたハディース集成[3]は、クルアーンに次ぐ第二の聖典として、イスラームという宗教の根幹となっている。イスラーム法学、イスラーム神学、さらにはスーフィズムやイスラーム哲学などの諸学問は、クルアーンと並んで、数多くのハディースの検討によって形成された。

預言者ムハンマドの言行(スンナ)が、日常生活の細部に至るまで詳細に伝えられたのは、女性たちによる功績といえる部分も多い。ムハンマドにまつわる伝承は、ムハンマドに直接接していた教友(サハーバ)と呼ばれる人々によってまず伝えられたが、その中にはムハンマドの妻たちをはじめとする女性たちも数多く含まれているのである。とりわけ、妻のアーイシャは、もっとも多くのハディースを伝承したことで知られている。

イスラーム共同体の形成期の政治や経済、そして軍事など主に男性が担っていた事柄については、男性によって伝承されたハディースが多い。一方で、身の回りの事柄や夫婦生活などについては、ムハンマドと同居していた妻たちによるハディースが多くなるのも当然である。礼拝の作法などの宗教的事項はもちろんのこと、食事の仕方やはみがきの仕方、さらには性行為後の清めに至るまで、細々としたことが伝承された。

アーイシャは、預言者ムハンマドの没後、自身が66歳で亡くなるまで、イスラームの教えを人々に示し続け、深くイスラームの発展に寄与したと伝えらえている。彼女をはじめムハンマドの妻たちは、「信徒たちの母」と称されて、ムスリム女性のあるべき姿を示す規範として後世に広く影響を及ぼしているのである。

イスラーム諸学の学問を担った学者たちは、そのほとんどが男性ではあったが、女性学者がいなかったわけではない。とりわけ、ハディース学者としてその名が残されている女性は少なくない。イスラーム学者の名を記録した人名辞典には、著名なハディース学者/イスラーム法学者にハディースを教授した師の名前に、女性ハディース学者が挙げられているケースもあるのである[4]

【参考】

【5-1】(1)クルアーンのジェンダー規範(小野仁美)

【5-2】(1)イスラーム法にみる母親の位置づけ(小野仁美)

(注)

[1] ムハンマドは、ハディージャが所有していた奴隷のザイドを養子とした。この縁組は、後にクルアーンの啓示が養子を禁じたことで解消されることになるが、ザイドは最初期のイスラーム教徒のひとりとして、イスラームの形成と発展に寄与した。

[2] アーイシャ・アブドッラフマーン著・徳増輝子訳『預言者の娘たち』日本サウディアラビア協会・日本クウェイト協会, 1988年.

[3] 9~11世紀にかけて編纂されたスンナ派の6大ハディース集成およびシーア派の4大ハディース集成は、権威あるものとして後世にまで大きな影響を与えた。これらのうち、ブハーリー(810-870年, スンナ派)による『真正集』とムスリム(817-874年, スンナ派)による『真正集』は最も権威あるハディース集成とされ、日本語訳も出版されている。

[4] Aisha Bewley, Muslim Women: A Biographical Dictionary, Ta-Ha Publishers, 2004.