【法制史】プロイセンにおける地方制度改革と行政改革ー地方自治の歴史(三成賢次)

2015.1.19更新 2014.11.16 三成賢次(初出『法制史入門』一部加筆修正)

(2)プロイセンにおける地方制度改革と行政改革

郡条令

帝国憲法はプロイセン優位主義を基本原則とし、帝国を君主制国家の連合による連邦国家と位置づけた。各邦は個別に憲法を持ち、基本的人権に関する規定とともに司法・行政制度についても独自の制度を定めることができた。したがって、この段階においても各邦は独自にその国制の近代化を進めたのである。プロイセンでは、帝国行政の担っていくために国内行政の近代化をはかるため地方行政組織に関して一連の行政改革が行われることになった。

Rudolf_von_Gneist

グナイスト Rudolf_von_Gneist

1872年12月13日にプロイセン、ブランデンブルク、ポムメルン、ポーゼン、シュレージエン、ザクセン各州に対する郡条令が制定される。この条令は、東部6州の郡制改革を規定したものであるが、その成立に際してグナイスト(Rudolf von Gneist, 1816ー­1895)の理論的影響があったといわれている。彼の自治理論は、自治を媒介として国民の国家統合を進め、それによってますます激化する階級対立の克服をはかろうとするものであった。そして、そのような機能を果たしうる自治団体として、彼は人材の有無あるいは経済的規模等からみて郡が適当であると考えていた。そうして郡制度の抜本的改革が行政改革における緊急課題であると認識されるにいたり、具体的立法が行われたのである。

本条令によって農村におけるグーツヘルの諸特権が廃止され、地方行政の近代化、すなわち合理化と中央集権化とが進められた。しかし、本条令においては独立した領主管区の存在が認められており、その区域内におけるユンカーの優越的地位はなんら実質的な変化を被むらなかったといわれる。さらに、土地所有者を優遇した選挙制度によってユンカー階級は郡議会においてその優位性を維持し、郡の自治行政に関しても彼らの利害を反映させえたのである。したがって、この郡制改革の主眼はユンカー支配の体制を打破することにあったのではなく、あくまで警察行政を中心に郡行政の中央集権化を強化することにあった。しかし、そのことによって郡の自治行政は強力な国家監督のもとにおかれることになり、郡行政の中枢機関である郡長が地方行政全般に関して決定的な影響力を持つにいたったのである。

ユンカー(Junker)とは?

「ユンカー」(Junker)とは、東ドイツ植民運動によってエルベ川以東に形成されたグーツヘルシャフトの領主(地主貴族=グーツヘル)をさす。グーツヘルは、裁判領主権・土地領主権・体僕領主権を一体化した支配権をもっており、農民は農奴=体僕(ライプアイゲネ)とよばれて、領主に隷属した。18世紀には、ユンカーは、プロイセン王国の貴族階級の中心として、将校と官僚を独占するようになった。19世紀の農奴解放によりグーツヘルシャフトは解体されるが、グーツヘルの特権が否定されたわけではない。むしろ、農地に対して重畳していた領主と農民の権利関係が整理され(近代的所有権)、もとグーツヘルは完全な所有権をもつ大地主になった。また、彼らの裁判権は19世紀半ばまで残り、農民への支配権は長く温存された。有名なユンカーの一人が、ビスマルクである。

州条令

郡制改革に続いて、1875年には郡条令が施行された地域であ るプロイセン、ブランデンブルク、ポムメルン、シュレージエン、ザクセン各州に対する州条令が制定された。この州条令では、国家行政と自治行政とが二元的に組織化された。国家行政については各州にその担当者として州知事が任命され、国家官庁として州参事会(Provinzialrat)がおかれた。それに応じて県にも県知事が任命され、県参事会(Bezirksrat)がおかれた。両参事会は一般地方行政に関して郡および市町村に対する監督を行うものとされていたが、それぞれの参事会の議長を務める州知事ならびに県知事には両参事会の承認のもとに警察命令を制定することが認められていた。

自治行政に関しては、各州に決議機関として州議会が、執行機関として州委員会がおかれた。州自治行政の日常事務を行い、対外的に州を代表する機関として地方長官(Landesdirektor, Landeshauptmann)が創設された。本条令によって国家行政と自治行政とは組織のうえで明確に二元化され、州は自治団体として独自の行政機関を持つことになった。しかし、一般地方行政に関する権限を集中化した<州知事・州参事会ー県知事・県参事会>の系列組織が形成されたことによって、自治行政も含めた地方行政全般に対する国家監督はますます強化されていくことになったのである。

東部諸州につづいて、1884年から87年にかけて西部諸州においても同様な郡ならびに州条令が実施されるにいたっている。しかし、それによって州・郡段階における地方制度の完全な全国的統一化がなされたわけではなく、例えば警察管区長の制度などは西部諸州には原則として取り入れられなかった。

行政改革 

地方行政組織の合理化とともに、さまざまな行政紛争を処理し 解決する機関を整備することが進められた。1875年には、行政裁判所法によって、<郡委員会-県行政裁判所-上級行政裁判所>という三審制の行政裁判制度が確立した。しかし、州と郡との間に県行政を介在させる構造を存続させ、さらにその上に県参事会を創設したために地方行政組織はその複雑さを一層増すことになってしまった。そこで州・県・郡の各段階でおかれている行政組織を簡素化し、地方行政 上の権限関係を合理化することが必要になった。1883年の一般地方行政法、行政官庁・行政裁判所管轄法によって、地方行政の合理化、統一化がはかられ、たとえば地方行政事務に対する国家監督を、都市については<県知事-州長官>の審級で行い、農村については<郡長-県知事>の系列で行うものとされた。地方制度ならびに行政機構の合理化、簡素化は、1891年7月3日に町村条令によって完了し、ここにプロイセン地方行政における官僚機構が確立したのである。

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