【法制史】「上」からの近代化ー19世紀初頭のプロイセン改革(三成賢次)

2014.10.29 三成賢次(初出:岩村等・三成賢次・三成美保『法制史入門』ナカニシヤ出版、1996年、一部加筆修正)

(1)崩壊と改革

神聖ローマ帝国の終焉

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1789年の神聖ローマ帝国(クリックすると拡大)

フランス革命がヨーロッパ全土にその影響を及ぼしていくなかでいわゆるナポレオン体制が形成され、ヨーロッパの新秩序が確立していく。ドイツでは、1803年に帝国代表者会議主要決議が行われ、マインツを除く教会領、帝国都市、小侯国、ベルギー領など、計112の帝国等族、人口にして約300万人がドイツ列強に分配され、プロイセン、バーデン、ヴュルテンベルク、バイエルンがその領土の拡大を果たした。これは、領土拡大を餌に諸侯を従属化させようとしたナポレオンの巧妙な政策であった。さらに1804年 には350の帝国騎士が陪臣化され、かつての帝国直属性を喪失するにいたった。そして1806年にライン同盟が結成されると、西南ドイツ諸侯はナポレオンに対して従軍義務を負うことになり、フランスへの従属化が強められた。ときの皇帝フランツ2世がそうした情勢のもと皇帝を退位するにおよんで、神聖ローマ帝国は名実ともに終焉をむかえたのである。

プロイセンの崩壊と改革の開始

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ナポレオンのベルリン入城(1806年)

1806年10月にイエナとアウエルシュテットの戦いでフランス軍にプロイセン・ザクセン軍が完敗したあと、 ナポレオンはベルリンに無血入城を果たした。そして、1807年7月のティルジット和約によってプロイセン領は分割されることになり、プロイセンはエルベ河以西の領土と西プロイセン以外の全ポーランド領を喪失し、また多額の軍税負担を強いられ、軍税完納まで領土内にフランス軍が駐屯することになった。

ドイツ諸国では、すでに国制の近代化をめざした改革が進められており、とくにフランス占領地域ではフランス法制が施行されるなど革命の成果が導入されていた。プロイセンでは、フランス軍に敗北を喫したあと改革派官僚が国政の主導権を握ることになり、とくにシュタイン(Karl Reichsfreiherr vom und zum Stein、1757­1831)とハルデンベルク(Karl August Hardenberg、1750­1822)が重要な役割を果たした。改革は、隷農解放、農地改革、営業の自由などの社会経済改革、中央と地方の行政組織改革、さらに軍制改革、そしてフンボルト(Karl Wilhelm von Humboldt, 1767­1835)によるベルリン大学創設に代表される教育改革にまでおよび、プロイセン国制を根本的に変革するものであった。ここでは、とくに改革事業の根幹となった社会経済改革とその後の国家・地方行政に影響を与える行政改革について述べることにする。

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シュタイン

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ハルデンベルク

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フンボルト

 

(2)解放と自由化

隷農解放 

プロイセンにおける隷農解放は、1807年10月9日の勅令、いわゆる10月勅令によって始まる。同勅令によって私領世襲の隷農制(Untertänigkeit)が廃止され、王領地についても翌年の法令で廃止された。10月勅令では、その冒頭部分で土地処分の自由化がうたわれ、第10条以下で隷農制の廃止が規定されている。この部分が従来本勅令の本質的部分とみなされ、別名「隷農解放令」といわれるのである。

しかし、隷農制とは何か、その具体的内容が問題であった。当時、隷農制という意味では、(1)土地への緊縛、(2)土地引受義務、(3)種々の結婚制限、(4)ゲジンデ奉仕、(5)領主警察権、領主裁判権への服属、(6)賦役、(7)土地保有権の不確実性が考えられていた。そもそも(1)から(5)が本来の隷農的関係といえるものであり、(6)と(7)は隷農制の内容ではなかったが、それぞれが不可分に結合していたのである。最終的に、(5)、(6)、(7)は隷農制とは別の問題であるとされ、(1)から(5)の制度が廃止されることになったのである。

【史料】

●10月勅令:→ドイツ語:http://www.lwl.org/westfaelische-geschichte/que/normal/que4656.pdfpdficon_large
●19世紀プロイセン史料集→http://www.lwl.org/westfaelische-geschichte/portal/Internet/finde/erweiterte_suche/recherche_go.php?urlNeueSuche=Nein&urlBlaetternVon=0
●ヴェストファーレン・デジタル史料→http://www.lwl.org/westfaelische-geschichte/portal/Internet/dokumentation/quellen/haupt.php?urlNeu=Ja

農地改革の過程 

10月勅令は一方で身分的差別を廃棄し、農民の人格性を承認するものあったが、他方でそれは土地所有権の近代化をはかり、領主権の所有権化を志向するものでもあった。10月勅令を補充するために、その後土地所有権を確定するための法令がだされる。まず、1811年の調整勅令では、土地所有権の配分方法として世襲的保有農民の場合には、その保有地の3分の1を領主に譲渡すれば、当該農民は残余の土地について所有権を取得し、現物ないし賦役による地代負担義務を免除されることになった。非世襲的保有農民については、その保有地の2分の1を領主に譲渡することによって、残りの土地の所有権を認められたのである。しかし、すべての農民に所有権が補償されたわけではなかった。1816年の調整令布告では、調整の適用をうけることができる者の資格規定が行われ、畜耕能力を有する農民だけが調整の対象とされた。手賦役の小農民や零細農は、排除されたのである。これら一連の改革法令は、たしかに農民的土地所有を創出したが、それはあくまでも中産農民を基盤とした資本主義的農業経営の確立をめざしたものであり、イギリスのジェントリーのような土地所有者層を創出することによって社会・経済の近代化をはかろうとしたのである。

1850年のプロイセン憲法によってようやく領主の公権力、人格的支配権は無償廃棄となったが、それ以外は土地所有権にもとづき契約によって取得されたものとされ、領主の封建的所有権は市民的所有権に読み替えられることによって法的保護をうけることになる。同憲法にもとづき、「物的負担の償却および領主農民関係の調整に関する法律」が公布され、領主の上級所有権に由来する物的負担の償却方式が定められた。こうした有償廃棄の方式によって領主は資本蓄積を進め、いわゆる「ユンカー経営」が成立する。その他、下級裁判権についても同じく1848年に廃止されるが、警察権などの行政的権力は1872年にようやく廃止されるのである。

共同体的拘束の消滅

1811年の農業促進令では、所有権の自由が宣言されするとともに土地に付着する耕作強制、私有林の利用制限が撤廃され、領主放牧権も廃棄されるにいたった。さらに、1821年の共同地分割令は、共同放牧地の利用権、森林利用権、そして堆土採掘権を廃止し、共同地の分割が進められる。共同地の私有化によって、大農ならびに中農は土地拡大の機会をえて、資本主義的農業経営のための基盤を整えることになる。それに対して、共同地を失った小農層は農業経営がもほや不可能となり、また零細農は一層の貧困化をむかえることになる。彼らが賃労働者化することによって、労働力の原始的蓄積が進められていくのである。

営業の自由 

10月勅令は、職業選択の自由についても定めている。それまで職業選択や営業活動は厳しく制限され、ギルドないしはツンフトによって特権的に営業独占が行われていた。同勅令にもとづいて1808年の事務訓令は、経済的自由主義の採用を宣言し、重商主義的産業規制とツンフト的営業独占の廃棄を明記した。そして、「営業の自由」を具体化するために、1810年の一般営業税実施勅令と1811年の営業警察関係法によって、一定額の営業税を支払い営業鑑札を取得することによって自由に営業を行うことが承認された。しかし、政府としては経済における自由競争よりも税収入の確保のほうが重要なのであり、あくまでも国家財政の観点から「営業の自由」が導入されたといえる。1845年1月17日に公布されたプロイセン一般営業令では、あらゆる営業制限が撤廃されることになり、さらに1869年の北ドイツ連邦営業令によって全ドイツで「営業の自由」が施行されることになるのである。

(3)行政の改革

中央行政機構 

シュタインは、これまでの複雑で錯綜した行政組織に変えて合理的な中央行政のシステムの確立を提唱し、大臣の合議を基礎にした近代的な中央集権制度を構築しようとした。既存の中央行政組織では、1722年に設置された総管理府(Generaldirektorium)のもとに、プロビンツ担当省、外務省、司法省などの専門省、審議官がおかれ、専門別の業務分担の形態をとっていた。行政は、極めて複雑で、かつ肥大化しており、些細な事項まで決定するという非合理的な形態であった。また、国王内局(Königliches Kabinett)が、内政において実質的な国家意思決定の権限もっており、国王親政つまり内局顧問官(Kabinettsrat)による政治が行われていたのである。1808年11月24日付の「プロイセン王国における最高行政官庁の制度改革に関する条令」では、執行機関として各大臣が統括する五つの省(内務、財務、外務、軍務、司法)がおかれ、そのもとに枢密顧問官(Geheimer Staatsrat,)が長官をつとめる局(Section)が設置されることになった。

国家参議会

シュタインの構想にもとづいて、官僚による行政独占を防ぐために行政監督機関として国家参議会(Staatsrat)がおかれた。国家参事会では、国王が議長をつとめ、18才以上の王子、5大臣、若干の枢密顧問官(各局の長官、国王の信任をうけた者)が参加した。会議は、合議制が原則であり、多数決で決議がなされ、国王は決議にしたがって決定を下すのみであった。しかし、上記条令の公布当日にナポレオンの横やりでシュタインは辞職することになり、1808年12月16日の布告によって国家参議会の設置は延期された。そして、1810年6月にハルデンベルクが主導権を握ると、同年10月27日付の条令によって、宰相(Staatskanzler)制度が導入されるとともに、さらに国家参議会は単なる諮問機関とされることになった。宰相は、国王への上奏権と重要事項に関する決定権をもっていた。国王親政の原則も残されたが、国王の裁可権は名目だけであり、国家参議会の決議を尊重することになっていた。国家参議会の官僚政治に対する監督機能が低下したことよって、一般に「官僚絶対主義」とよばれる体制が君主の専制政治に変わって形成されることになり、その後強力なプロイセンの近代官僚制が構築されていくのである。

都市条令 

1808年11月19日に公布された都市条令は、プロイセン改革のなかで10月勅令とともに有名な改革立法であり、一般にシュタイン都市条令ともよばれている。この都市条令に盛り込まれた理念は、シュタイン自身の改革思想を最もよく示している。つまり、あらゆる国家行政へ国民を関与させることを通じて、国民の公共心を育み、またその政治ならびに行政能力を陶冶し、そうして創出された自由でかつ責任感のある公民(Staatsbürger)を基盤として国家再興をはかろうとするものであった。そのような思想にもとづく改革の手始めとして、まず国民に身近な問題について自主的に処理していく訓練を積ませるために、国家行政の末端機構において自治制度が創設されることになったのである。

都市条令では、第一に、都市住民は、市民権を有する市民(Bürger)とそれを持たない居留民(Schutzverwandte)とに分けられた。市民権は市内に住居を有し、品行方正なる者に市参事会から与えられた。市民は市内に土地を保有したり、都市的営業を営むことができ、一定以上の所得がある場合に限り選挙権を有した。また、財産と能力に応じて都市に貢献し、あらゆる都市財政を負担すること、そして都市の公職を担うことが市民の義務とされていた。居留民のほうは、公共的な利益を享受する限りにおいて一定の負担ないし義務を負うべきものとされていた。

第二に、市政は市民の代表者である市議会議員が行うことになった。議員の選出については、市民が各選挙区単位で直接・秘密・平等の原則にしたがって選挙すべきものとされた。市議会は、市政における立法ないし議決機関であり、とくに都市財政の問題について決議を行う権限と義務とを有していた。各議員は、あくまで全市民の代表として無給で活動すべきものとされた。

第三に、市政の執行機関として市参事会(Magistrat)がおかれた。市参事会は全都市行政の一般的指導を行い、特別事務を処理すべきものとされていた。市参事会員は無給の名誉職と有給の専門職とからなり、市議会によって選出された。これは一方で職業的専門官僚による都市行政の合理的かつ効率的な運営を確保するとともに、他方において名望があり、実社会の経験が豊かな市民を積極的に行政に参加させることによって名誉職的な自治行政を創り出そうとするものであった。名誉職的市参事会員の活動によって専門官僚が市政を独占することを防ぎ、両者の調和のもとに市政が行われることを目指すものであった。市参事会は、市議会議決に対しては拒否権を持たず、実質的には市議会の市参事会に対する優位性が認められていた。

第四に、市議会あるいは市参事会のもとで都市行政の実務を行ういくつかの機関が設けられた。まず通常事務を監督し、指導する機関として部局(Deputation)ならびに委員会(Kommission) が設置された。それらは、市参事会員、市議会議員、そして市民代表によって構成された。市民代表については市議会が選出し、市参事会によって承認を受けた者とされていた。部局と委員会が扱うべき行政事項としては、教会・学校・救貧・防災・衛生・建築等に関する事務があげられている。さらに、市参事会の下級機関として都市の市区(Bezirk)ごとに無給の区長(Bezirksvorsteher)がおかれた。区長は当該市区に定住する家屋所有者で、公共心と見識を有する名望家であるべきものとされた。区長の選出は市議会が行い、それには市参事会の承認を必要とした。

第五に、中世以来都市が自治権の重要な要素として有していた裁判権と警察権は国家が独占するところとなった。都市における司法事項は、当該地域の国家裁判所が管轄することになった。警察権は比較的大きな都市においては新たに設置される国家直属の警察官庁が執行し、それ以外の都市では市参事会が国家の委任にもとづき、都市の負担において地方警察の任に当たるものとされた。しかし、当時は衛生、道路、建築、営業などに関する様々な行政活動が警察行政と結び付いていたために、警察権を媒介として地方自治行政が国家行政に取り込まれて行く契機がそこには存在した。したがって、警察権が市参事会に委任されたことは、自治団体の行政機関が国家行政の下請け機関化することを意味していたのである。

第六に、警察権を除いて都市に対する国家監督権がかなり制限された。国家監督権が行使される事項として、都市の財産管理に関する会計検査、市民の都市に対する訴願の裁決、新条例の認可、市参事会員選挙の承認等があげられている。しかし、実質的には国家監督権の及びうる範囲は著しく限定されている。とくに都市財政に関しては、予算決定、課税あるいは都市財産の処分について完全な自由が認められていた。

【史料】

●シュタイン・プロジェクト(ヴェストファーレン史)→http://www.lwl.org/westfaelische-geschichte/portal/Internet/finde/langDatensatz.php?urlID=502&url_tabelle=tab_websegmente
●シュタイン都市条令(解説・史料:ドイツ語)→http://www.lwl.org/westfaelische-geschichte/portal/Internet/finde/langDatensatz.php?urlID=721&url_tabelle=tab_websegmente