目次
【法制史】啓蒙期の法と社会ー1650-1800年
掲載:2015.01.11. 執筆:三成美保(初出:三成他『法制史入門』一部加筆修正)
帝国と領邦
三十年戦争の戦禍により、ドイツの国土は荒廃し、人口は半減して、経済的にも破局をむかえた。戦争を終わらせたヴェストファーレン条約(1648年)は、1654年の帝国最終決定にとりいれられ、最後の帝国基本法となる。条約の最大の特徴は、領邦君主に完全な国家主権を認めたことである。神聖ローマ帝国は、いまや大小300ほどの諸領邦からなる、ゆるやかな連合体となった。皇帝は、もはや帝国等族にたいする統治権を有するにとどまり、帝国の領土や人民は、領邦君主たるそれぞれの帝国等族によって分割して支配された。帝国議会は、常設の使節会議と化した。実体をともなわない帝国を、自然法学者プーフェンドルフ(Samuel Pufendorf:1632-1694)は、「怪物に似たもの」とよんだ。
しかし、帝国はまったく存在意義を失ったわけではない。帝国とその諸機関は、群小領邦国家にとっては、自己を大領邦の侵略から守る重要な手だてであった。また、帝国の二裁判所は、臣民が領邦君主の不法を訴える行政裁判所として機能した。
17-18世紀のヨーロッパ諸国は絶対主義の時代をむかえるが、ドイツではそれは領邦レベルで展開する。有力な領邦国家としては、オーストリア、ザクセン、ブランデンブルク、バイエルンなどがあった。領邦国家内部では、身分制議会が形骸化し、領邦等族の勢力はそがれた。とくに18世紀中葉以降、プロイセン、オーストリアでは、啓蒙主義の影響をうけた君主が、官僚を利用して、諸改革を断行した。
啓蒙専制国家プロイセン
ブランデンブルクは、東部植民運動により建国された新興国家である。1415年以降、ホーエンツォレルン家が領邦君主となるが、17世紀初めまでは中流領邦にすぎなかった。大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルム(位1640-1688)は、絶対主義国家の形成をめざし、軍備増強をすすめる。
かれの子フリードリヒ3世(位 1688-1713)は、1701年、ブランデンブルク=プロイセンが念願だった王国への昇格をはたすとともに、プロイセン国王フリードリヒ1世(位 1701-1713)を名のる。フリードリヒ1世は、フランス文化を好み、学問、芸術にも造詣が深く、ハレ大学を創設した。また、王は、ナントの勅令の廃 止 によりフランスを追放されたユグノーを積極的に受け入れた。ユグノーには、知識人や手工業者が多く、かれらは、旧態依然としたプロイセン経済に、新しいタイプの企業活動をもちこんだ。
次代のフリードリヒ・ヴィルヘルム1世(位1713-1740)は、父とは対照的に、「軍人王」とよばれるほど、軍備増強に力をそそいだ。
フ ランス文化の影響、強大な常備軍と官僚機構、税制改革にもとづく豊富な国庫という先代の遺産をうけついで、啓蒙専制君主フリードリヒ2世(大王、 1712-1786、位 1740-1786)が登場する。大王は、7年戦争(1756-1763年)の勝利により、ハプスブルク家から経済的に豊かなシュレージエンを獲得し、プ ロイセンはヨーロッパ列強の一つであることが認められたのである。
初代プロイセン国王フリードリヒ1世と王妃ゾフィー・シャルロッテ
ゾフィー・シャルロッテ(1668-1705)は、プロイセン王妃でフリードリヒ1世(1657-1713)の妻(再婚の妻)。夫婦仲は良かったという。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の母。ハノーファー選帝侯の娘で、のちのイギリス国王ジョージ1世の妹。ゾフィーは、ライプニッツと文通するほど知的で、フランス語が堪能。彼女のサロンには一流の文化人が訪れた。
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテア
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(1688-1740)は、「軍人王(兵隊王)」とよばれるほど軍隊に心血を注いだ。しかし、実戦にはほとんど使う機会がなかった。文化や芸術には関心を示さず、妻との関係も良好ではなかったが、夫婦の間には14人の子女が生まれた。彼は吝嗇かつ暴力的で、芸術家気質の王太子フリードリヒ(のちの2世・大王)にもしばしば暴力をふるった。このため、父子間には深刻な葛藤があった。フリードリヒ・ヴィルヘルム1世は、結婚をいやがる王太子の逃亡を助けた王太子の親友を彼の目前で処刑した。これに対して、王太子は、のちに父王の命令で結婚した妻を完全に無視し、形式的な夫婦にとどまった。
ゾフィー・ドロテア(1687-1757)は、フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の母方の従妹であった。父はハノーファー朝初代国王のジョージ1世であり、ジョージ2世は兄にあたる。フリードリヒ2世の母。フリードリヒ2世は、母親を非常に敬愛していた。彼は、母ゾフィー・ドロテアの居城にある図書室で哲学書に親しみ、母とも議論を楽しんだという。フリードリヒ大王の啓蒙主義への傾倒には、母ゾフィー・ドロテアが大きな影響を及ぼしたと考えられる。
啓蒙主義
「啓蒙(Aufklaerung)」とは、カント(Immanuel Kant,1724-1804)によ れば、人間が非自立的で未成熟な状態を脱することである。したがって、啓蒙主義の目的は、人間を自立的にすること、理性により判断し、必要なばあいには改革する能力を人間に与えることにおかれた。
人びとに自立性を促すことは、キリスト教や古代文化の権威を否定することにつながった。キリスト教の教義からはなれた合理的な倫理学が発展し、近代の優越性が論じられ、「書かれた理性」としてのローマ法の権威が否定された。同時に、家父長的・宗教的国家観も批判され、新しい国家論が登場するのである。