教会法

(執筆:三成美保/掲載2014.03.18/初出:三成他『法制史入門』一部加筆修正)

グラティアーヌス教会法令集 

1140年ころ、ボローニアにある修道院付属学校の教会法教師グラティアーヌス(1179以前没)により、膨大な教会法令集が完成された。「グラティアーヌス教令集(Decretum Gratiani)」[正式名「矛盾教会法令調和集」](⇒*【史料・解説】グラティアヌス教令集(三成美保))には、過去1000年にわたる管区会議や公会議の決議、教皇の書簡、教父文書から抜粋された、教会で一般的効力をもつ法文およそ4000がおさめられている。そもそも、教令集は教会の法典ではなく、グレゴリウス改革期以降に出現した教会の法学教育用手引き書ともいうべき私的著作であった。グラティアーヌス教令集が過去の法令集をはるかにしのいでいたのは、法的資料を矛盾のない体系として選別集録した点にある。

グラティアーヌス教令集は、全3部からなる。第1部では法文が年代順に配列され、第3部には教会の秘蹟や典礼といった祝聖事項がおさめられている。もっとも重要なのは第2部で、訴訟法や教会財産法を収録している。法源論については、法を自然法=神法と習俗=人法に区別したうえで、公会議決議と教皇令を教会法源の筆頭にほぼ同列において、ローマ法や慣習法をその下におくという序列構成がとられている。これは、教皇立法に広い道をひらいたが、いっぽうで、皇帝法・ローマ法も、福音・諸カノンに反しないかぎりで尊重するという命題もおかれた。こうした矛盾の調和は、教会事項にたいする皇帝の介入をはばみながら、教会の必要に応じてローマ法を援用する道をのこしておくという現実路線の産物であった。

12世紀末には、グラティアーヌス教令集は、教皇庁の法実務、大学での共学教育になくてはならぬ存在となっていた(⇒*【法制史】中世の大学(三成美保))。これにより、神学から独立した教会法学(カノン法学)が発展する基礎がうまれたのである。

カノン法大全 

『カノン法大全』(1573年版の挿絵)Holzschnitt in einer Ausgabe des Corpus Iuris Canonici von 1573

中世から1918年まで、ローマ教会で拘束力をもちつづけた法令集が、「カノン法大全(Corpus iuris canonici)」である。市民法大全(⇒*【法制史】ユースティーニアーヌス法典(三成美保))にたいして用いられたこの呼称は、1580年以来の公称で、グラティアーヌス教令集をふくめて、12-15世紀に編まれた複数の法令集(公撰5部と私撰2部)の総称である。

グラティアーヌス教令集以降の教会立法の中心をなしたのは、教皇令[教皇による個別事件にたいする法の宣言や裁判]である。これをまとめたものが、5巻からなる「グレゴリウス9世の教皇令」[「リーベル・エクストラLiber decretalium extra decretum Gratiani vagantium=集外法規集」] である。ここには、裁判所構成法、訴訟法、教会官僚制、婚姻法、刑法が定められており、1234年、諸大学への送付による公布は、カノン法学の最盛期をもたらした。

教会裁判所 

裁判集会型法発見モデルが一般的であった中世に、いちはやく、職業裁判官による裁判をとりいれたのが、教会の裁判所である。1200年ころ、高位聖職者の会議からなる巡回裁判所のほかに、司教区裁判所とよばれる新しいタイプの裁判所があらわれる。1250年ころには、ほとんどの司教区裁判所で、教会法を学んだ専門官僚が、ローマ=カノン法的訴訟手続にのっとり、単独で裁判をおこなっている。

ローマ=カノン法的訴訟手続の特徴は、つぎの6点にある。①裁判官による判決、②非公開・書面主義[「訴訟記録のなかにあるもののみが、存在する」]、③審級制の成立、④事実問題と法的問題の区別にもとづく分節訴訟の採用、⑤法律専門家[裁判官・弁護士・裁判所書記など]の関与、⑥カノン法的刑事手続[糾問手続](⇒*【法制史】糾問主義ー魔女裁判の手続き(三成美保))の発展。

ローマ=カノン法的訴訟手続は、15-16世紀のローマ法継受とともに、世俗の裁判所にも受けいれられていく。しかし、すでに中世にも、教会裁判所は、世俗の生活に大きな影響をもっていた。教会裁判所と世俗裁判所の管轄は、たしかに分かれていたが、実際には、教会裁判所は、かなりの民事紛争をあつかうことができたからである。司教区裁判所は、①聖職者間の紛争、②教会の財産と権利にかかわるトラブル以外にも、③聖職者と俗人との紛争、④寡婦・孤児・貧民などの要保護者の訴訟、⑤婚姻問題について、裁判をつかさどった。のみならず、⑥金貸しのようなあらゆる「罪深い」商業行為、⑦宣誓違反行為の訴訟をあつかい、当事者がのぞめば、⑧金銭・土地問題にかんする俗人間の訴訟をも受けつけたのである。