目次
【法制史】プロイセンの1850年憲法体制(三成賢次)
2015.01.19更新 2014.11.16 三成賢次(初出『法制史入門』一部加筆修正)
(1)憲法の構造
憲法の特色
プロイセン憲法(⇒de.wiki)は、3月革命の影響のもとに成立した憲法であり、本来相矛盾するはずの二つの原理が併存している。その一方は強大な国王大権であり、他方は議会制と基本的自由権である。
当時のプロイセンには、憲法構想をめぐって大きく分けて三つのグループ、つまり保守派、自由派、そして民主派が対抗していた。まず保守派とよばれていたグループは、基本的に君主主義原理と身分制原理の貫徹を求める考え方にたっており、その思想的支柱は1845年に出版されたシュタール(Friedrich Julius Stahl, 18021861)の『君主主義原理』であった。3月前期の諸憲法と同じようにあくまでも国王大権を維持しつつ、議会制は制限的に導入するにすぎなかったのである。
つぎに自由派は、議会主義と代議制に重点をおきつつも、議会解散権などの国王権限も一応承認する立場であった。しかし、制限選挙制による議会からの下層民の排除をその共通の政治理念としており、「財産と教養」をもった階層による名望家支配の政治システムを構想していた。この意味で、保守派と自由派とは一定の親近性があり、原理的にみれば君主主義原理と議会主義原理、身分制原理と代議制原理という対立関係にあるとしても、結局政治的にはどちらの原理により比重があるかの違いにすぎないのであり、状況と力関係でどちらにも変化しうる可能性をはらんでいたのである。
しかし、民主派は、あくまでも議会主義の強化と国王権力の制限を求めており、議会決議に対する国王の絶対拒否権を認めなかった。また、下院の普通・平等選挙を主張し、一般大衆の政治参加を要求していた。この点で、保守派はいうまでもなく、自由派とも原理的に大きな隔たりがあった。民主派の主張は、保守派と自由派との妥協のもとに排除されていくのである。
国王大権
国王は世襲で、不可侵性であるとされた。執行権は国王のみに帰属し、国王は大臣を任免することができた。国王は、軍隊に対して最高の指揮権を保持し、また宣戦布告を行い、平和条約を締結し、通商条約などその他の条約を外国と結ぶ権限をもっていた。議会の招集、休会、解散についても、国王が命じることがことができた。その他、恩赦権、勲章授与、貨幣鋳造権を国王は行使することができた。
議会
議会には、上院と下院がおかれた。上院(または、第一院)は、当初は成年王子、旧帝国直属貴族(Standesherr)の家長、一定の大土地所有者、国王任命の終身議員、直接税の多額納税者ならびに大都市の市議会が選出した議員によって構成されることになっていた。しかし、この規定は、1853年の法律によって改正され、上院は世襲の権利を付与された議員と国王が任命する終身議員だけによって構成されることになり、貴族・大土地所有者の砦となったのである。
下院(または第二院)の選挙に関しては、25才以上の成年男子で市民権を有し、6カ月以上の定住が証明された者に選挙権が付与された。投票方法は口頭かつ公開とされ、三級選挙制にもとづいた間接制選挙であった(⇒de.wiki)。三級選挙制では、各選挙区の総税額を3等分し、多額納税者から順次3分の1に達するまで第一次選挙人を計算したうえで三つのグループをつくり、そしてそれぞれのグループが同数の選挙人を選び、さらにそれらの選挙人が多数決で一人の議員を選挙するという方式がとられていた。これは、すでに述べたように納税額の多寡によって選挙権に大きな格差をもうけるきわめて不平等な選挙制であり、多額納税者つまり有産者に有利な制度であった。
下院の権限としては、まず予算審議権と会計審査権が認められていた。しかし、予算審議権は第109条によって実質的には新税・増税についてだけ行使することができた。法案提出権は、国王、上院、下院のそれぞれに認められていた。しかし、法案が成立するためには、それら三者が一致することが必要であった。一致しない場合については、どのような処置がなされるかについて規定がないことから、後に憲法の「隙間」として大きな問題になるのである。とくに、第99条で予算が毎年法律によって確定されることになっていることから、下院が反対すれば予算が成立しないという状況が生まれてくるのである。
基本的自由権
憲法では平等権や人身の自由など、近代的な一通りの自由権が保障されていた。しかし、それら自由権の内容は法律によって定められるとし、いわゆる法律の留保がなされていた。そもそも公民の権利は、自然権的な意味での「人権」としてとらえられておらず、それはあくまでも「プロイセン人の権利」であり、プロイセンの憲法ならびに法律によって定められるべきものであった。そして、憲法が制定された後自由権を制限するさまざまな立法が行われたのである。
1850年3月11日の集会・結社に関する法律は、公に関する問題を議題とするような集会を開催する場合には24時間前に、その際戸外で集会を行う場合にはさらに48時間前に当局に届け出ることを命じ、さらに団体・結社の規約、構成員リストを設立後3日以内に提出することを求めている。また、1851年5月12日の新聞条令では、出版・印刷業が許可制とされ、開業申請者は「非のうちどころがない人物」であることが求められ、政府は反社会的、反道徳的な営業をした者には営業停止を命じることができた。1854年の団体禁止令では、僕婢や農業労働者のあらゆる団体が禁止されていた。しかし、所有権については、その不可侵性(第9条)がうたわれた。領主の封建的所有権は近代的な所有権に読み替えられることによって、特権としての所有制度は否定された。それによって、それまで農民が領主に対して負担していた種々の物的負担は、法的保護を受けることになり10月勅令の場合と同じく有償で廃棄されることになったのである。
【比較】大日本帝国憲法(1889年)との関係
明治政府は、当初から立憲政体が必要との認識は有していたが(1875年「漸次立憲政体を立てるとの詔書」)、元老院で審議された憲法案は君民共治論を採用していた。岩倉具視は「我建国ノ体」に合わずとしてこれらの案を退ける。これに対して、大隈重信がイギリス流の立憲君主主義にのっとる意見書を出し、岩倉らによって排除された(明治14年の政変)。岩倉らは、欽定憲法の採用を定め(1881年)、密かに憲法原則の確定を進めていく。イギリス流の立憲君主主義は否定され、1850年プロイセン憲法に倣った君権主義や超然内閣主義が採用されることになった。また、1882年には、伊藤博文(右写真)が憲法調査のため欧州を視察し、とくにプロイセンとオーストリアの国法学者から大きな影響を受けた。シュタイン、グナイスト、モッセから学んだのである。帰国後、1886年から、伊藤はごく一部の人間とともに、ロエスレルやモッセに相談しながら、秘密裡に憲法草案をまとめた。天皇の地位を「神勅」に求める「万世一系ノ天皇」という表現には、ロエスレルも難色を示した。草案は国民に公開されることなく、枢密院で議論されただけで、1889年に大日本帝国帝国憲法として公布された。(参考:日本近代法制史研究会編『日本近代法120講』法律文化社、1992年、86-87頁)
写真は、シュタイン(左)、グナイスト(中)、モッセ(右)
(2)憲法紛争
軍制改革問題
1814年の国防法にもとづいて編成されていた旧軍制では、一般兵役義務は正規軍として現役3年、予備役2年、後備軍として第一、第二後備役各7年で、計19年とされていた。戦時には正規軍と第一後備軍とが前線部隊を形成し、第二後備軍は衛じゅ勤務をなすことになっていた。また、後備軍の将校には1年志願の市民士官が任用されていた。徴兵数は、1817年以来4万人に固定されており、制度的には、国民と軍隊とのつながりを重視した軍制であった。しかし、そのために制度が複雑化し、戦時における後備軍編入のうえで軍事技術的に問題があった。また、徴兵数の固定化は、人口増大とともに被徴兵者とそうでない者との間に不均衡が生じ(同一年齢層で2対7の割合)、すでに不都合を生じていた。そのような状況に対して、改革案では現役3年制を完全に実施し、正規軍中心の体制を構築するとともに新規徴兵数を6万3千人に増やし、さらにそれによって軍隊を国民から分離し、国王の統帥権を強化すること、つまり「国王の股肱としての軍隊」を再編成することがもくろまれていたのである。
下院は、1860年に1年限りの臨時措置として軍事予算の増額を承認し、翌61年にもそれを再度承認した。しかし、同年6月に議会で妥協を拒否する左派グループが形成され、さらにドイツ進歩党が結成された。同党は、1861年12月の選挙で躍進して第一党になり、翌年3月には自由派と結束して軍制改革に反対し、軍費増額予算を拒否した。ただちに下院は解散されたが、選挙で進歩党とそれに同調する中央左派が勝利をおさめ、下院と政府との妥協はならず、政情はいっそう不安となっていったのである。
隙間論
政府と下院とが対立し、軍制改革が挫折しようとしたまさにその時にビスマルク(Otto von Bismarck, 18151898)が登場する。ビスマルクは、1862年9月に議会で軍備つまり「鉄と血」によってしか対外問題の解決方法がないことを主張したいわゆる「鉄血演説」を行い、「鉄血宰相」の異名をもつことになるのである。議会の反対のため予算案が成立していないにもかかわらずビスマルクは、予算なしに軍備拡大を行い統治を続行した。下院は、政府の活動を憲法第99条に違反した行為であると批判し、ここにプロイセン憲法の解釈をめぐる「憲法紛争」が起こるのである。ビスマルクは、憲法理論上は、予算成立に関して憲法規定に明らかに隙間があり、また政府としては国家活動は一時たりとも停止できないとの立場から、いわゆる「隙間論」を主張した。実際、政府は歳入をつねに確保しており、また軍隊や官僚を掌握していたのであり、進歩党がいくら反対しても現実的な影響力はなかったのである。
1866年にプロイセンとオーストリアとの間に戦争が起こり、同年7月にプロイセン軍がケーニヒグレーツで圧倒的勝利をおさめると、その年の下院選挙では保守派が勝利し、軍備拡張に反対してきた進歩党と中央左派は議席数を大幅に減らした。同年9月には、これまでに支出されてきた軍事費を承認する事後承諾法案が提出され、下院で圧倒的多数をもって可決されたのである。世論がプロイセン軍の勝利のもと軍拡政策を支持する方向に向かい、国家統一へとナショナリズムが高揚していくなかで、憲法をめぐる紛争は事実上の解決がはかられていくのである。