【法制史】近世ドイツの司法と司法改革

三成美保(初出:三成他『法制史入門』)

18世紀前半までのプロイセンの司法

18世紀前半のプロイセンでは、司法制度の欠陥があらわになっていた。①法的安定性の欠如、②裁判の遅延、③過大な訴訟費用により、司法への信頼はいちじるしく損なわれていたのである。

①は、統一的裁判所組織の不在と、裁判官の質の低さに由来する。プロイセン領内には、地域ごとに複数の最高裁判所があり、国家単位での統一的な裁判所組織は存在しなかった。適用される法は、地域・身分・裁判所の事物管轄により異なったままで、普遍性をもつべき普通法は、慣習法や王令と混淆して変容し、学説の対立がうまれていた。その結果、裁判官の法解釈の安定性は、まったく保障されなかった。さらに、貴族・都市などのラント等族の影響力がつよい下級の諸裁判所では、裁判官職の私物化・家産化が横行していた。裁判官の質は概して低く、高等裁判所の裁判官ですら、しばしば法学教育をうけておらず、普通法に通暁していなかったのである。

②裁判遅延は、主として、訴訟鑑定送付という慣行と、裁判の恣意的ひきのばしに起因する。近世ドイツの普通法では、書面主義的な手続がとられていた。むずかしい問題については、上級裁判所や大学法学部判決団に訴訟記録一式が送付されて、その判断があおがれた。これが、訴訟記録送付 の慣行である。大学法学部判決団の判断は、事実上の判決としての効力をもった。

③過大な訴訟費用の問題は、裁判遅延とともに、裁判官や弁護士による恣意的な裁判ひきのばしと密接にむすびついていた。当時の裁判所の財政状態は劣悪であった。裁判官の俸給はとぼしく、かれらは裁判手数料を増大させるために、しばしば故意に、裁判を長びかせた。実際の裁判を牛耳っていたのは、法廷弁護士である。かれらは、訴訟当事者・訟務弁護士・裁判官のあいだの橋渡しをすることをなりわいとしていた。そのさい、賄賂・脅迫などの手段をもちい、裁判の不公正の大きな原因となっていたのである。

司法改革

 

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Samuel_von_Cocceji

具体的には、①裁判所の組織的統一と三審級制の整備、②法曹の資質向上、③裁判所の財政状態の改善、④訴訟法典の制定、⑤訴訟記録送付の禁止、⑥大権裁判の制限がはかられた。コクツェーイの司法改革では、国家的司法形成には成功したが、行政司法と大権裁判の排除は果たせず、それは、18世紀後半のカルマーとスワレツによる司法改革をまたなければならなかった。こうして、司法改革は、法典編纂と平行しておこなわることになる。

自然法思想によれば、国家の究極目的は臣民の権利保護におかれ、法の実現は司法裁判所の一元的な裁判によってのみ保障される。絶対主義国家では、そもそも立法権と司法権は君主の専属的な権能であるとされる。しかし、自然法思想と啓蒙主義の影響をうけた大王は、法律を国王個人の命令とはみなさず、国民全体に等しく適用される一般的法規範とみなした。このような法規範を適用する場である司法裁判所では、質が高い、一元的な国家官吏による公正な裁判が期待される。法曹の資質向上という名目のもと、国家試験制度が導入されたのは当然のなりゆきであった。いまや、弁護士もふくめて、法曹はすべて国家官吏とされた。試験では大学で学んだ知識が問われ、試験合格後には無給の試用期間がもうけられた。したがって、司法官僚になるには、大学に学び、無給期間をのりこえられるだけの財産と教養が不可欠になったのである。

大権判決

司法権の独立と国王の裁判権(大権裁判)との対立は、かならずしもすみやかに解消されたわけではない。大王は、裁判所での判決が衡平を欠くと判断したときには、大権裁判を行使して、裁判に干渉しようとした。その典型例が、アルノルト水車屋事件(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/M%C3%BCller-Arnold-Fall)である。

1779年、ノイマルクのポンメルツィヒの水車屋アルノルトは、大王にあてて、王室裁判所の判決は不当であると嘆願した。問題になっていたのは、水車の上流にある荘園で貴族が養魚池をつくったため、水車に必要な水力が奪われたという訴訟である。裁判所は、法律にしたがって所有権の絶対性を根拠に、貴族の主張を認めた。

これにたいして、大王は、裁判所の判決を破棄し、みずから大権判決(Machtspruch)(⇒http://de.wikipedia.org/wiki/Machtspruch)を下して、水車屋に味方した。のみならず、大王は、裁判官が貴族を優遇したのではないかと疑って、みずから裁判官を尋問し、逮捕・罷免・損害賠償責任を決めた。大王の死後、この大権判決には非難が集中し、裁判官たちは名誉を回復する。アルノルト水車屋事件は、裁判所自身から、政治権力からの司法の独立を求める声が高まるきっかけともなったのである。