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封建法(レーエン法)
(執筆:三成美保/掲載:2014.03.25/一部初出:三成他『法制史入門』)
封建制
中世には、近代的意味での国家は存在しない。きまった首都はなく、国王の宮廷は、帝国内のあちこちを巡回した。官僚制もととのった行政組織もなかったため、これらのかわりを果たしたのが、封建制(レーエン制)である。封建制は、人的誠実関係と土地保有権賦与がむすびついた制度である。封主たる主君は、所領の一部をレーエン(封) として封臣たる家臣に与え、これにたいして、家臣は、主君に忠誠[軍役と主邸参向 助言と助力 ]を約束した。この契約を、封建契約という。
封建制と王権との関係は、微妙である。封建的階層秩序の頂点には、国王がいた。しかし、中世では、国王といえども有力貴族の一員にほかならない。貴族は、自力救済の権利(フェーデ)をもち、戦争をおこすことができた。したがって、国の安定は、封建貴族が国王に忠誠を誓うかぎりで、かろうじて保たれたにすぎない。実際には、レーエンは家産化しやすく、レーエン制国家はつねに分裂の危険をはらんでいた。イギリスやフランスでは、国王は最高の封主として、陪臣からも誠実義務を要求することができたため、中央集権国家づくりに成功する。これを欠く神聖ローマ帝国では、封建的分裂が進んでいった。
レーエン制国家
成立当初の神聖ローマ帝国は、ドイツ・ブルグンド・北イタリアなどの複数の国家からなり、皇帝がドイツ国王を兼ねた。13-15世紀に、ブルグンドの大半はフランス王国に併合され、16世紀にはスイスが事実上独立する。北イタリアも、イタリア政策の失敗後、都市国家として自立する。したがって、中世後期から崩壊までの神聖ローマ帝国は、現在のドイツ・オーストリアにまたがるドイツ語圏の国家であった。
10-11世紀、帝国初期の皇帝は、カロリング末期より形成された部族太公領の克服をはかったが果たせず、かわりに、教会を帝権の保護下において支配する教会高権政策[帝国教会制]を推進した。その政策のもとで、俗人による司教叙任と、私的教会の建設[私有教会制]が広がる。しかし、帝権への教会の従属には、教会のなかから強い反発が生じた。クリュニー修道院にはじまる教会改革運動である。それは、のちに叙任権闘争へと発展する。1122年、ヴォルムスの協約により、帝権からの教会の分離が確認された。以降、中世社会は、教皇と皇帝という二つの普遍的権力がたがいに拮抗する構造をとるのである。
シュタウフェン朝(1137-1268年)のもとで、帝国は封建制国家への転換を完成する。フリードリッヒ1世(赤髭王=バルバロッサ、位1152-1190)は、古い部族太公領にかえて、地域太公領を創設し、また、宿敵の超封臣=ザクセン太公ハインリヒ獅子公との訴訟(1180年)に勝利をおさめるなど、帝権強化に尽力した。
この訴訟のあとから13世紀にかけて、帝国の封建法的諸制度が確定した。①ヘールシルト制の確立、②封建制的諸義務のレーエンへの固着化、③授封強制である。
- ①により、貴族間の主従関係の序列が定まった。トップの序列は順に、国王、帝国諸侯(教会諸侯)、帝国諸侯(世俗諸侯)となる。
- ②と関連して、封臣には再下封の権利がみとめられた。その結果、複数の封臣関係が成立した。封臣の封臣(陪臣)は、国王の封臣とはならず、自己の封主にのみ誠実義務を果たすだけでよいとされた。レーエンの授与をつうじた関係は、ますます国家的性格を失い、私的関係に転じていったのである。
- ③もまた、国王に不利に作用した。授封強制がはたらいたため、国王は、空席になったレーエンを1年以上手中におくことができず、レーエンを手元に集中することはかなわなかった。帝国では、封建制国家が完成した直後から、当の封建法により、封建的分裂がうながされたのである。
皇帝と帝国諸侯
神聖ローマ帝国の皇帝(=ドイツ国王)は、諸侯の選挙で選ばれたとはいえ、皇帝ならではの特別の権限を委ねられていた。①帝国の平和と法の維持という任務、②帝国の最高裁判官としての役割、③国王大権の保持である。
- ①皇帝は、平和の守護者として、後述する平和令を発布し、慢性的な戦争状態を克服しようとした。それは、貴族がもつ自力救済権の制限を意味していた。
- ②皇帝は、帝国の最高の裁判官として、滞在するところではどこでも、あらゆる事件を自分で裁くことができた。しかし、皇帝を頂点とする中央裁判所を組織することはできず、かれの裁判権は人的な権限にとどまった。
- ③皇帝は、国王大権(レガーリエン)として、関税徴収権・貨幣鋳造権・築城権・市場開設権・流血裁判権・ユダヤ人保護権などを保持していた。
ドイツでの帝権拡大に眼界を感じた皇帝の目は、シチリアに向けられる[イタリア政策]。13世紀前半、バルバロッサの子孫たちは、帝権の安定をめざして努力したが、かれらの政策はことごとく諸侯の反発にあい、皇帝は国王大権を諸侯たちに譲与せざるをえなくなる。それが、教会諸侯との協約(1220年)、諸侯の利益のための取り決め(1231年)である。こののち、国王大権は、領邦国家支配の基礎として利用されていく。シュタウフェン家没落後の大空位時代(1254-1273年)に、帝国領は諸侯に浸食され、領邦国家形成はいっそう進展したのである。
【女性】シチリア女王コスタンツァ(1154ー1198)ー神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世の摂政母
左図は、フリードリヒ1世の息子ハインリヒ6世(1165-1197:神聖ローマ皇帝1191-1197)とシチリア王女コスタンツァ(1154-1198:シチリア女王1194-1198)の結婚式(1186年)。コスタンツァはこのとき32歳、ハインリヒは21歳であった。
シチリア国王ギョーム2世には子がなく、彼女が王位継承者と定められていた。1189年、ギョーム2世の死により、コスタンツァとハインリヒ6世がシチリア王国の共同統治者になる予定であったが、シチリア人は外国支配を嫌って、ギョーム2世の従兄を王位につけた。ハインリヒはシチリアに遠征したが大敗した。
1194年に王位を奪ったハインリヒとコスタンツァはシチリア王・女王として即位する。この年、コスタンツァは、息子(のちのフリードリヒ2世)を産む。1196年、困難な交渉の結果、息子フリードリヒ(2歳)がドイツ国王に選出される。しかし、「ドイツ王」の支配を嫌ったシチリアでは2度の反乱が起こった。1197年、ハインリヒは遺言でコスタンツァをフリードリヒの摂政に指名し、彼女は実質的に政務を取り仕切った。コスタンツァはドイツ人をシチリアから追放し、翌98年、死去する。フリードリヒはシチリアで育ち、ドイツ人貴族たちとは厳しく対立した。
空位時代ののち、選挙王制の時代にはいる。歴代の国王のなかには、ルードルフ・フォン・ハプスブルク (位1273-1291)のように、帝権拡大よりも家領経営に力を注いだ者も少なくなかった。王権の衰退は、諸侯の勢力拡大と連動していた。金印勅書(1356年)は、帝国の国制を確認したもので、つぎのような内容をもつ。①国王選挙の諸原則(7名の選帝侯による公開投票により、多数決で国王を選出)、②帝位への教皇の干渉を排除、③選帝侯位継承法、④帝国議会法の成文化である。帝国議会に参加できる身分は、帝国等族資格を認められた。金印勅書の制定により、帝国は、中世末期から近世初期に典型的な国家形態である「等族国家」へと転換する。皇帝と帝国等族[帝国議会]の二元主義が生まれるのである。
ラント平和令
ラント平和令は、全ヨーロッパを通じて中世盛期のもっとも注目すべき法源である。それは、伝統的な自力救済の原則を否定して、国家を平和維持の担い手として位置づけた中世最初の刑事制定法であった。この点で、ラント平和令の制定は、国家と法の関係の根本的な変更を意味している。
平和令の起源は、10世紀末以降、南フランスで展開した神の平和運動にある。神の平和は、特定の人や場所に関する特別平和と休戦(大祭日、日曜日、週末3日間におけるフェーデの禁止)を内容としており、初期の王国平和令もこれをひきついでいる。帝国ラント平和令は、1103年を最初として、1152年のバルバロッサの大ラント平和令をさかいに、12世紀後半に多数、発布されている。1235年のマインツの大帝国ラント平和令により、ラント平和運動は一応の完結をみた。
ラント平和令は、フェーデ(実力行使による自力救済)の禁止・制限による平和秩序の維持を目的としている。これらの平和令により、市民・農民には、原則としてフェーデが禁じられた。しかし、貴族については、フェーデ権を権利として原理的に承認せざるをえず、かれらの協力を得て、フェーデ権の行使を制限するにとどまった。したがって、ラント平和令はいずれも、国王の命令ではなく、諸侯の協約というかたちをとらざるをえなかったのである。 世紀の帝国改革後まで、フェーデの全面排除はならなかった。
フェーデの禁止には成功しなかったものの、ラント平和令は、裁判制度の整備に大きく貢献した。とりわけ、流血裁判権が確立し、刑事裁判の構造そのものが組み替えられていく。犯罪行為は、平和令違反として処罰されることになったが、その吟味のさい、フェーデとむすびついていた被害者訴追主義がしだいに後退し、かわって、職権による取り調べがとりいれられたのである。13世紀以降、ドイツでは、伝統的な訴追主義(弾劾主義)手続とならんで、糾問主義手続がひろまっていく。また、犯罪者の処罰は、死刑・切断刑などの権限をもつ流血裁判所にゆだねられた。治安維持の観点から、いまや、フランク時代のような贖罪金制度は否定される。かつて非自由人にしか適用されなかった実刑は、広範に拡大された。刑罰そのものも、見せしめ(威嚇刑)の意図から、公開処刑とされ、残酷さを増していくのである。