【法制史】三月前期(1815-1848年:ドイツ)の法と社会(三成賢次)

2014.10.31 三成賢次
(初出:岩村等・三成賢次・三成美保『法制史入門』ナカニシヤ出版、1996年、一部加筆修正)

(1)地方制度改革

上からの革命

ヘーゲル

プロイセン改革を進めていくなかで官僚絶対主義ともいえる体制を構築し、国制の大改革をはかった一連の事業は、官僚による「上からの革命」であった。ヘーゲルは、1821年に著した『法の哲学』のなかで、「普遍的身分は社会状態の普遍的利益をおのれの仕事とする。だからこの身分は……自分の欲求を満たすための直接の労働から解除されていなければならない」(205節)として普遍的身分つまり官僚の自律性の必要を強調するとともに、さらに「政府構成員と官吏は、国民大衆の教養ある知性と合法的な意識とが所属する中間身分の主要部分をなすものである。この身分に貴族制のような孤立した立場をとらせず、そし て教養と技能を恣意の手段や主人づらをするための手段にさせないものは、上から下へ向かう主権と、下から上へ向かう団体権との制度である」(297節)と指摘している(ヘーゲル/藤野渉・赤沢正敏訳『法の哲学』:『ヘーゲル・世界の名著44』中央公論社、1978年、所収から引用)。

プロイセンにおける国制改革では、たしかに「上からの革命」として官僚の指導性が前面にでてくる。しかし同時に、ヘーゲルが説くような国家システム、つまり団体とくに地方団体が制度化されるとともに、その自律性によって一定程度政治や行政を制御していく体制が構築されていく。政策の決定や法律の制定では、一種のボトム・アップ方式がとられた。たとえば、ライン州に関しては、独自の法制度としてライン法、つまりフランス占領期に導入されたフランス法が維持され、また市町村制度についても特別な市町村条令が施行されていた。これらはあとで述べる州議会を舞台にして州の世論が展開された結果、そうした州の利害を生かすかたちで地方独自の法制が認められたのである。その他、1839年に制定される児童保護法の立法過程では、ライン州の地方官僚や企業家の意見を集約する手続きをとって立法化がなされたのである。ウィーン会議が終わり三月革命が勃発するまでの時期を一般に三月前期(1815-1848年)とよぶが、この時期は官僚が地方のさまざまな状況を考慮し、調整しながら立法や行政を行っていた時代ともいえるのである。

州・県・郡 

ウィーン会議後のプロイセン(青色部分)

ハルデンベルクの構想によれば、プロイセン全土を統一的な地方条令によって市町村、郡、州と階統的に段階づけ、それらを土台にして国民議会を創設する予定であった。しかし、1815年以後の国政における反動化の流れのなかでその改革事業も停滞する。1820年には彼の提議していた憲法草案と町村・都市・郡条令草案が、保守・反動勢力に支配されていた国家参議会の憲法委員会によって葬り去られた。1821年6月の閣令は憲法委員会の答申にしたがって国制改革の最終的目標であった国民議会の創設を見送り、州議会のみを設置すべきこととしたのである。

1823年6月5日の州議会設置に関する一般法とそれに続いて公布された特別法によって、国民議会にかわって八つの州にそれぞれ州議会が創設されることになった。州議会では、出生身分とは関係なく土地所有が身分代表の要件とされ、騎士領所有者、都市ならびに農村の土地所有者の中から各身分の代表者が選ばれた。各代表者は、命令拘束的な委任を受けることなく自由に行動することができ、州議会はその後の活動を通じて身分制的枠組みを克服し、徐々に州の代表機関となっていく。しかし、州議会の権限は極めて限定されていた。州議会はなんら財政上の権限を持たず、ただ審議権と請願権とにもとづいて国政に関与しうるだけであった。しかしながら、州議会が創設されたことによって国民の代表が国政について公に論議し、州の世論というものを形成しうる場ができたことは、その後の州段階における地方自治制度を築いて行くための基礎となった。

州のもとには、行政管区として(Regierungsbezirk)がおかれた。その行政官庁として県庁があり、合議制にもとづき2ないし4部局にわかれて地方行政を処理していた。州議会創設に続いて1825年から1828年にかけて郡条令が公布された。同条令によると、当該郡のすべての騎士領所有者ならびに都市と農村からの郡代表によって郡議会構成されるべきものとされた。東エルベ地域においては、これは郡議会における土地貴族すなわちユンカーの優位を絶対的なものにすることを意味していた。また、郡長は騎士領所有者の推薦にもとづいて、彼らのなか任命されることになっていた。郡議会の自治行政上の権限は、州議会の場合と同じく極めて限定されており、郡議会は郡長の郡行政を援助するべき存在として位置づけられていた。20年代に公布されたこれらの郡条令はその後もほとんど変化のないまま継続し、その全国的統一化と根本的改革は70年以降になってようやく行われることになるのである。

市町村

州と郡とに関しては改革が行われたのに対して、農村についてはハルデンベルクの死後もなんらの改革もなされなかった。地理的に、また人口においても国の大部分を占める農村には依然としてプロイセン一般ラント法(→*【史料・解説】プロイセン一般ラント法(1794年)(三成美保))が妥当していた。東エルベ地域の農村においてはユンカーによる封建的支配の構造が温存されたのである。彼らはその支配領域において裁判権ならびに警察権を維持し、その政治的特権にもとづいて農村を支配した。農村においてはシュタイン都市条令の理念は全く実現せず、旧体制と同じく領主による特権的自治が存続したのである。

都市条令については、根本的改正が行われた。1831年3月17日にいわゆる修正都市条令が制定され、ユンカーと官僚との妥協のもとに都市の旧制度が復活し、都市に対する国家監督権の強化がはかられた。選挙権資格が厳しく限定され、一定階層以上の有産者だけに都市行政への参加が認められ、市議会の市参事会に対する優位性はもはや否定され、むしろその関係は逆転した。市参事会の市政における優越性が保障されているなかで、市参事会の国家官庁としての性格が強められ、警察行政に限らず一般の自治行政そのものまでもが国家監督のもとにますます従属していくことになった。さらに、都市行政に対する国家監督権の強化がはかられ、国王には市議会を解散し、あるいは都市から都市制度そのものを剥奪する権限が認められた。

しかし、この修正都市条令は全国一律に施行されず、旧条令が妥当していた地域の都市には新旧いずれの条令を受け入れるかについて選択権が与えられていた。新条令を自ら選んだのはわずか三都市だけであった。その他の都市では、旧条令が様々な修正を受けながらも存続したのである。そして、新たにプロイセン領となった地域についても、新条令はまずブランデンブルク州の旧ザクセン領域とザクセン州のエルベ河以西の部分にのみ適用され、ついでポーゼン、ヴェストファーレン両州に施行された。その他の新領では従来の法制が維持された。プロイセンの都市自治制度は地域的に種々異なった法制が並存することになり、それぞれの特殊性を保持しつつ発展していくことになる。とくに、フランス国境に位置する新領土の西部州は、東エルベ地域のプロイセン本国とは異なり極めて近代的な社会・経済構造を有し、地方自治制度についてもその地域独自の市町村制度を維持していた。たとえば、ライン州では、フランス型の極めて中央集権的で効率的な市町村制度が存続しており、有産階級を優遇した三級選挙制によって都市では新たに勃興してきた市民、すなわちブルジョアジーが市政の実権をにぎっていたのである。

(2)三月前期の社会と行政

社会・経済的側面 

三月前期の貧困を描いた絵(1840年)Theodor Hosemann, Armut im Vormärz, 1840

シュレジエンの織工たち(1846年) Die schlesischen Weber (Gemälde von Carl Wilhelm Hübner, 1846)

プロイセンの主導のもと、1834年に15ヶ国が参加して関税同盟が創設される。これによって経済的には実質的にドイツ統一がなされ、経済発展の基礎がつくられた。1835年からはじまった鉄道建設によって「鉄と石炭」の需要をもたらし、ドイツにおける産業革命がテイク・オフした。そして、鉄道によって国内市場の統一化がさらに進められたのである。工業化が進むにつれてドイツの市民社会にもブルジョアジー層が形成され、徐々にその影響力を増していく。彼らは、ユンカーの利害にかたむいた官僚の自由主義的関税政策に不満をいだきはじめ、政治への発言力を求めるようになるのである。

しかし、その反面、この時期は歴史上「大衆貧窮(Pauperismus)」とよばれるほどの大量の貧窮者が出現した時代でもあった。農村では、農業改革の結果として土地を失った農業プロレタリアートが増大し、産業革命とともに家内工業も崩壊した。都市では、「営業の自由」によって競争が激化し、手工業者が没落していった。工業化がまだ始まったばかりで、働く場所もそれほど多くなく工場労働者の労働条件も劣悪であった。そして、後進資本主義国として国際競争力を強化するために、低賃金労働者である婦人と児童の労働に大きく依存していたのである。このようにドイツではプロレタリアートの形成がまさに「社会問題」の発生とともになされることになり、その後とくに行政活動において救貧行政が大きなウエイトをしめてくることになる。「大衆貧窮」の状況なかでストライキや一揆が各地で頻発し、とくにシュレージエンでは1844年に大規模な織工一揆が起こる。さらに、1845年から47年にかけては凶作によって農産物価格が高騰し、ドイツ各地で食料を求めて民衆の飢餓暴動が展開する。ヘーゲルが理想化した官僚による自律的な社会調整はこうして破綻を見せはじめ、革命への地ならしができていくのである。

19世紀ドイツの児童労働 Christiane Cantauw-Groschek, Ulrich Tenschert: Kinderalltag in Stand und Land 1800-1945, page 57, Rheda-Wiedenbrück 1992

●児童労働について、1839年法(史料)・解説・図版→*http://www.zeitspurensuche.de/02/kinder2.htm#1839

政治的側面 

ドイツ同盟の強圧的な現状維持政策のもとでも国家統一の願望は根強く存在し、自由主義運動は非合法化されつつも続けられていた。立憲制を求める運動は、各邦における憲法制定というかたちで実現していく。とくに、南ドイツでは1818年にバイエルンとバーデンに、1819年にヴュルテンベルクに、1820年にヘッセンにそれぞれ憲法が制定され、北ドイツでは1830年のフランスにおける7月革命の影響のもと1831年から33年にかけてザクセン、ヘッセン選定侯国、ハノーファー、ブラウンシュヴァイクにおいて憲法が制定された。しかし、これらの憲法の内容は、総じて1820年のウィーン最終規約にうたわれた「君主制原理」を先取りし、また再確認したものであった。

まず、議会の構成と選挙方法については、旧身分制との断絶あるいはその「解体現象」を示すものとして、多くの憲法が二院制の採用し、身分別部会(Ständekurie)を廃止しており、また下院議員の編成が身分制的要素をとどめながらも農業身分が他の諸身分と対等に代表され、土地所有一般が議員資格として優遇されていた。しかし、旧身分制的な伝統も存続しており、全議員が特定の身分に所属させられていた。さらに、上院を構成する者として通例、君主の家門の親王や高級貴族があげられており、その編成において旧身分制的要素が色濃く残存していたのである。なお、当時の議会は、おもに生業としての労働からの自由で教養を有する「名望家」によって構成されており、さらにその「名望家」の中核は広義の「官吏」であった。

さらに、三月前期のドイツ議会は旧等族制議会と異なり、すでに「国民代表」の機関となっていた。特定身分集団が議員を拘束する「訓令」が廃止され、議会での審議や表決に際して「国民全体の福利」を尊重する旨の議員宣誓が行なわれたのである。しかし、議会の諸権限は、「君主制原理」との関係で基本的に制約されていた。まず、立法権については、法律の実質的内容が国民の自由と財産に関係することに限定されており、最終的な手続きとして君主の認可と公布を必要とし、法律発議権は君主側にのみ留保されていた。伝統的な権限として「課税承認権」は認められていたが、議会制の本質的機能である予算の審議・決定権、ならびに大臣答責性などは問題となりえなかったのである。

三月前期の「立憲君主制」のもとでは、国民の政治参加はきわめて制約されていた。市民層は参政権のいっそうの拡大を求め、政治的矛盾はますます激化していく。こうして貧民層、経済市民層、そして教養市民層がそれぞれの不満を増大させていくなかで、1848年2月にフランスで二月革命が起こると革命はまたもやヨーロッパ各地に波及し、ドイツでは三月革命(→*【法制史】三月革命期(1848-49年)における法と社会(三成賢次))が勃発するのである。

【参考文献】

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