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【法制史】フランス革命(1789年)とコード・シヴィル(1804年)(三成美保)

*【特集8】法制史(西洋)

フランス革命とコード・シヴィル(フランス民法典)

更新:2015.09.29 掲載:2014.01.19 執筆:三成美保(初出:三成他『法制史入門』加筆修正)

アンシャン・レジーム期の法と社会

フランスは、伝統的に、ローマ法(⇒*【法制史】ローマ法の継受(三成美保))の影響をうけた南部成文法地域と、ゲルマン・フランク法の伝統をのこす北部慣習法地域に分かれる。法の統一への努力は、革命期にはじまったものではなく、すでに中世末以来存在した。

慣習法は、 15-16世紀につぎつぎと公式に編纂され、固定化・統一化されていく。慣習法の学問的註釈もおこなわれた。16世紀以来ますます強化された王権は、多くの王令を発した。王令は、とりわけ、海商法の統一に寄与した。また、17-18世紀に、自然法の影響をうけたドマ やポティエ の著作によって、私法典編纂の学問的基礎がかたちづくられていく。

Registre_du_parlement_de_Paris._Page_24_-_Archives_Nationales_-_AE-II-447

パリ高等法院の記録(1430年)、左上にジャンヌ・ダルクのスケッチが描かれている。

王権による立法や学問的著作にまして、アンシャン・レジーム期の法形成と法統一に重要な役割をはたしたのは、裁判所である。パリ高等法院[パルルマン ]は、14世紀以来、地方裁判所の上級審たるフランス最高法院として常設機関となった。パリ高等法院には、成文法の部があり、慣習法・成文法の双方について判断を下すことができたのである。しかも、裁判所の判断に、王権は、ほとんど干渉することができなかった。

王権にたいする裁判所の強い独立性は、1467年に認められた司法官の終身身分保障に由来する。近世には、司法官職は、私的財産として売買・世襲の対象となり、多くの弊害もあらわれる。しかし、官職の取得が王権からまったく離れていたことは、行政からの司法の独立を保障する結果となった。司法官は、王権に対抗して、ひとつの統制ある法曹職業団体に集まった。王権と聖俗の伝統的貴族に対抗して、かれらは法服貴族とよばれたのである。

中間法の時代

1789年の革命勃発から、1804年のコード・シヴィル制定までの15年間は、「中間法」の時代とよばれる。それはさらに、テルミドールの反動(1794年7月27日)をさかいに、革命前期と革命後期に区別できる。前期は、アンシャン・レジームの秩序を破壊し、あらゆる封建的桎梏を払拭した時代であり、後期は、新しい秩序を再建した時代である。

革命前期は、統治機構の点から言えば、立憲議会時代(1789年6月~1791年9月)にはじまり、立法議会時代(1791年9月~1792年9月)をへて、国民公会時代(1792年9月~1795年8月)にいたる時代である。立憲議会・立法議会時代には立憲君主制がとられたが、国民公会は共和制を宣言した。国民公会時代の1794年4月よりはじまった「恐怖政治」は、その指導者ロベスピエールの処刑をもっておわり[テルミドールの反動]、革命は後期にはいる。

革命前期には、1789年8月11日デクレで封建制の完全廃棄が定められ、同月26日、「人および市民の権利宣言」が採択された。このころ、司法改革もまたすすんだ。弁護士会は廃止され 、陪審制が導入されて、裁判官は公選制となった。唯一の権威は国家にあるとされ、特権的な中間団体の解体もすすめられた。大学は廃止され、教会財産の国有化と教会の世俗化がなされた。教会からは身分管理の権利が剥奪され、婚姻は民事契約とみなされ、自由な離婚が承認された。また、相続の平等をはかるための遺言の制限、親権の行使を監督するための家庭裁判所の設置など、伝統的な家族制度に打撃をあたえるような法がつぎつぎと制定された。土地は、すべて自由地とされ、近代的な私的所有権が確立したのである。

民法典編纂 

Maurin_-_Cambaceres

Maurin_-_Cambaceres

法典編纂にむけての動きは、革命勃発後すみやかにはじめられた。1790年10月5日、立憲議会は、「単純・明白で憲法に合致した一般的法典を作成すべし」との布告を発した。1791年憲法も、「全王国に共通する市民的法律の法典を作成すべし」と明記していた。しかし、立憲議会時代の法典編纂の主眼は刑法典におかれており、民法典編纂に着手されるのは、国民公会時代であった。1793年6月25日、国民公会は、カンバセレス を委員長とする立法委員会を設置した。以後3回にわたってかれが作成した草案 をはじめ、計4つの草案は、いずれも政治的激動のなかで、成立までいたらなかった。

1800年8月、第1統領ナポレオン(Napoléon Bonaparte:1769-1821,位:第1統領1799-1804,皇帝1804-1813)によって、法典編纂が再開された。かれは、4名からなる民法典起草委員会を任命した。指導的役割を果たしたのは、ナポレオン時代の文部大臣ポルタリス である。平均60歳に近い委員4名は、いずれも実務法曹であり、トロンシェ、ビゴ・ド・プレアヌムウが北部慣習法派、ポルタリスとマルヴィルは南部成文法派に属した。民法典編纂にあたっては、二つの法伝統の調和がはかられたのである。事実、物権法、債権法ではローマ法の影響が顕著で、家族法上の諸制度については慣習法が重視されている。

Jean-Étienne-Marie_Portalis_by_Pierre_Gautherot

ポルタリス Jean-Étienne-Marie_Portalis_(Pierre_Gautherot画)

4カ月後、委員会は第一草案を提出した。草案は、国務院で102回にわたって審議され、修正された。そのさい、当時32歳であったナポレオンは、57回の会議でみずから議長をつとめ、法典成立に大きく寄与した。1803年3月より、36章の一つずつが単行法として制定され、1804年3月21日、それらを統合して、「フランス人の民法典(Code Civil de Français)」が公布される。この法典は、一時的に「ナポレオン法典」と改称されたこともあったが、第3共和制成立以降、慣行として「コード・シヴィル」とよばれている。

コード・シヴィル 

Code_Civil_1804

Code_Civil_1804

民法典は、文豪スタンダール(1783-1842)も絶賛したほ どの簡潔明快な用語で書かれ、全2281条からなる。全体は4部構成で、編別はインスティツティオーネスのモデルにならっている。序章(第1~6条、法律の公布・施行にかんする一般的規定 、第1編「人」 第7~515 条、家族法、婚姻法、後見法などの人事法 、第2編「財産および所有権の諸変容」 第516~710条、物権法 、第3編「所有権取得の諸方法」 第711~2281条、相続法、債権法、抵当権、時効など)である。第1編は、自由と平等の革命的原則、第2編は、私的所有権の絶対性、第3編は、契約自由の原則を実現しようとしたものといえる。

ナポレオン時代には、民法典の公布以降、さらに4つの法典が公布された。民事訴訟法典 、商法典 、治罪法典 、刑法典 である。広義の「ナポレオン法典」(Codes Napoléoniens[複数形])は、これら4法典と民法典をあわせた5法典をさす。5法典は、わが国をはじめ、世界各国に継受された。とくに民法典は、多くの国々に大きな影響をあたえた。ドイツのライン河左岸は19世紀をつうじてフランス法地域でありつづけたし、ベネルクス3国、スペイン、ポルトガル、ルーマニア、イタリア、ギリシアでは民法典の内容が受容され、南アメリカのほとんどすべての国が民法典を継受したのである。

※アフリカの植民地化に伴うコード・シヴィルの継受については→【現代アフリカ史18】コートジボワールにおける法と女性

参考

※近代市民法のジェンダー・バイアスについては
*【史料・解説】「女権宣言」と「人権宣言」の比較(三成)
*【法制史】近代市民法のジェンダー・バイアス(三成美保)

補遺:日本にとってのフランス民法と民法典論争

Gustave_Boissonade明治維新後すぐに、政府が命じたのがフランス諸法典の翻訳である。箕作麟祥(みつくり・りんりょう)が中心となってフランス諸法典を翻訳した。この翻訳過程で、それまでの日本語には存在しなかった「権利」という語が日本語として造語された。その後、お雇い外国人ボワソナード(フランス人:右写真)の協力を得て、刑法典(旧刑法)・民法典(旧民法)などが編纂された。しかしながら、自然法的な「ひと(ただし女性は含まれないが)の自由・平等」をうたい、個人主義的なフランス民法典は、日本の「国体」にあわないとして反対論が起こった。これが「民法典論争」(1889-92年)である。フランス法的な旧民法典は、戸主を家長とし、妻に対する夫権を定めている点で近代家父長制を基礎とする典型的な近代市民法であったが、他方で、戸主の財産を「個人財産」とする個人主義的性格(これも近代市民法の特徴である)を有していた。穂積八束は、旧民法を「民法出デゝ忠孝滅ブ」と痛烈に批判した。民法典論争を経て、日本の法モデル全体が、革命の産物たるフランス法から、より学問的なドイツ法に移行する(⇒*【法制史】ドイツ民法典の編纂(1874-1896年)(三成賢次))。また、憲法制定にあたっても、大日本帝国憲法の重要なモデルは、1848年革命を否定した反動の産物で、君主権が強い1850年プロイセン憲法とされた(⇒*【法制史】1850年プロイセン憲法体制(三成賢次))。

  • 国立国会図書館「近代フランスと日本ー憧れ、出会い、交流」
    近代フランスと日本との交流については、国会図書館が新しい意欲的な取り組みをしている。http://www.ndl.go.jp/france/jp/index.html
    「国立国会図書館は、平成25(2013)年3月、フランス国立図書館(Bibliothèque nationale de France)との間で、図書館活動の各分野における包括的な協力協定を締結し、順次、取り組んできております。その一環として、このたび共同電子展示会 を企画し、ここに日仏両国の国立図書館のコレクションの中から、19世紀半ば以来の多年にわたる両国交流の歴史を反映する資料を精選し、インターネット上 で公開することといたしました。」(同上HPの冒頭挨拶から引用)

    • とくに次を参照⇒*「第一部日本の近代化とフランス、第1章政治・法律、3民法典制定」(国立国会図書館作成・下記プログラムの一環)http://www.ndl.go.jp/france/jp/part1/s1_3.html
      ※日本におけるフランス民法典の翻訳作業および民法典論争に関する重要史料がデジタル資料として公開されている。

世界史Ⅱ

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