ユースティーニアーヌス法典

【関連項目】ローマ法の成立と発展古典期ローマ法中世ローマ法学ローマ法の継受ビザンツ帝国とジェンダー
【史料】
①ユースティーニアーヌス法典の全文(ラテン語)は次を参照→http://droitromain.upmf-grenoble.fr/
②ほかに、『学説彙纂』のデジタル史料として、以下がある。
Corpus iuris civilis : Digesta Justiniani. Infortiatum. Mit der Glossa ordinaria des Accursius und mit Summaria des Hieronymus Clarius.(アックルシウス『標準註釈』1235年頃成立・デジタル史料は1495年版) →全文を見ることができる(デュッセルドルフ大学デジタル史料プロジェクト:目次検索あり・全文閲覧可能・全文のPDFもある) →http://digital.ub.uni-duesseldorf.de/urn/urn:nbn:de:hbz:061:1-30642

(執筆:三成美保/掲載:2014.03.19/初出:三成他『法制史入門』一部加筆修正)

ユースティーニアーヌス法典

476年、ゲルマン民族の侵入をうけて西ローマ帝国が滅亡したのち、帝国の西半分ではローマ法の影響はますます衰えていった。ローマ法は、ゲルマン人の諸王国のローマ人法典として、部分的に生き残ったにすぎない。いっぽう、帝国の東半分、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)では、ローマ法文化がとだえることなく存続し、高度の法学教育をほどこす法学校も存在した。

東ローマ帝国の皇帝ユースティーニアーヌス1世(位:527-565)は、コンスタンティノープルを中心に、ヘレニズム的キリスト教的世界帝国を復興させようとした。ローマ法の編纂事業は、かれの帝国改革計画の一環をなすものであった。528年、皇帝は、法制長官トリボニアーヌス(c.545没)(左の図)に、古代の賢者の作品を集めるよう命じた。529年から6年間にわたって、11名の弁護士と4名の法学者からなる委員会により編纂作業が続けられた。こうしてできたユースティーニアーヌス法典は、3編からなる。第1編の「勅法彙纂」、第2篇の「学説彙纂」、第3篇の「法学提要」である。

 

 

 

ファイル:Meister von San Vitale in Ravenna 003.jpg

ユースティーニアーヌス大帝と随臣たち(サン・ヴィターレ聖堂:6世紀前半)

 

File:Theodora mosaik ravenna.jpg

皇后テオドラと侍女たち(同上)

 

勅法彙纂

第1編の「勅法彙纂」(Codex Instianus)は、ハドリアーヌス帝以来の勅法を分野別に年代順におさめ、12巻[第1巻=教会法・国法・手続法、第2-8巻=私法、第9巻=刑法、第10-12巻=行政法]からなる。

学説彙纂

ディゲスタ(パンデクテン)1581年

第2編の「学説彙纂」は、ラテン語でディゲスタ(Digesta)またはパンデクテン(Pandectae)とよばれ、諸編のなかでもっとも重要である。

学説彙纂は、50巻からなり、古典期のおよそ  名の法学者たちの書物からの抜粋をおさめる。とりわけ、パーピニアーヌス、パウルス、ウルピアーヌス、ガーイウス 、モデスティヌスの著作からの抜粋が、全体の3分の2をしめる。もとのテキストは 、2000巻300万行にも達し、編纂にあたって15万行にまで圧縮され、9142個の抜粋として収められた。そのさい、法文は、委員会の手により、時代の要請にあわせて改竄され、簡略にされた。いわゆるインテルポラーティオー(修正・加筆)である。50巻のうち、私法が第2-46巻をしめ、あとに手続法、行政法、刑法がつづく。

 

法学提要

ガイウス

第3編は、「法学提要」(Institutiones)である。これは、法学教育用の公認入門教科書ともいうべきもので、ガーイウスの法学提要を主なモデルにしている。そこには、いまの総則にあたるようなローマ法の一般的諸原理が叙述されている。4巻からなり、編別は、Ⅰ人の法(人法・家族法)、Ⅱ・Ⅲ物の法(財産法)、Ⅳ訴訟の法(訴訟法)である。のちのフランス民法典やオーストリア民法典は、この編別(インスティツティオーネス編別)にならった。

ガーイウスの「法学提要」は、1816年にニーブールによって発見された。

新勅法彙纂

ユースティーニアーヌスは、三つの編が施行されたのちに自らが発した勅令を第4編で公刊しようとしたが、果たせなかった。ユースティーニアーヌス帝とかれ以降の勅法は、私人によって、「新勅法彙纂」(Novellae)として集録される。以上の4編からなる法典は、12世紀以降、「コルプス・ユーリス(Corpus iuris=法の総体)」とよばれ、13世紀からは、「コルプス・ユーリス・キヴィーリス(Corpus iuris civilis=市民法大全・ローマ法大全)」とよばれるようになった。

その後のユースティーニアーヌス法典

ユースティーニアーヌス法典は、現代の法典のように、抽象的・一般的な法規をもたず、すぐれてカズイスティッシュ(個別事例的)である。また、法源とされたテキストが成立した年代も背景も異なるため、たがいに矛盾するものも少なくない。この法典の発効により、古い原典は意義を失ってほとんど消失した。

たいへんな苦労をともなって編纂されたにちがいないこの法典は、ビザンツ帝国では、ほとんど意味をもたなかった。ビザンツ帝国の通用語がギリシア語であったにもかかわらず、法典はラテン語で書かれており、なかなか実務にうけいれられなかったのである。892年、ユースティーニアーヌス法典にギリシア語で手をくわえた、「バシリカ法典(Basiliken=欽定諸巻)」 全60巻が制定される。これは、ギリシア世界でもっとも重要な法典である。バシリカ法典の制定により、ビザンツ帝国では、ユースティーニアーヌス法典そのものは忘れられていく。

いっぽう、帝国西部では、ローマ法はローマ人の慣習法として生き残る。しかし、それはユースティーニアーヌス法典をとおしてではなく、ごく貧弱な内容しかもたない種々の手引き書や書式集をとおしてであった。学説彙纂は、603年に最後の記事がみられたのち、11世紀後半に再発見されるまでのあいだ、イタリアではまったく忘れられていた。法学研究は、応用修辞学の一形態として存続したにすぎない。