*【特集8】法制史(西洋)

ローマ法の成立と発展(共和政期~古典期)

執筆:三成美保/掲載:2014.03.19 /初出:三成他『法制史入門』一部加筆修正)

王政・共和政ローマの年表・項目解説については→2-6.古代ローマの共和政と家父長制(年表:共和政ローマ)

【関連項目】古典期ローマ法ユースティーニアーヌス法典中世ローマ法学ローマ法の継受、近代ローマ法→【法制史】ドイツ民法典の編纂(1874-1896年)(三成賢次)
【史料】ローマ法史料(テキスト)は次のサイトに年代順に掲載されている。→http://droitromain.upmf-grenoble.fr/

ローマ法の特徴

Capitoline she-wolf Musei Capitolini MC1181.jpgローマ建国からユースティーニアーヌス法典成立までのおよそ1300年間に、政体・経済の変化と対応しながら、ローマ法はゆっくりと変化していく。ローマ人は、きわめて早い時期から、法と習俗とを分離し、「武器と法律」を不可欠の支配手段として利用した。法という人為的秩序の強制は、ローマが、戦争によって拡大した支配領域を、長く安定して維持するための知恵だったのである。しかし、ローマの法は、けっして体系的ではない。それは、人により、事物によって適用が異なる複数の法の集合体であった。

ローマでは、公法と私法の分化もまた早かった。後世にたいする影響の点では、私法が圧倒的に重要である。私法の発展に寄与したのは、法務官と、とりわけ、法学者であった。1ー3世紀に最盛期をむかえた古典期のローマ私法は、法曹法として特徴づけられる。この古典期ローマ法学は、ヨーロッパ法の発展にはかりしれない影響をおよぼしていく。ユースティーニアーヌス法典のもっとも重要な部分は、古典期の法学者の見解を収録した部分(学説彙纂)にほかならず、学説彙纂は、19世紀の近代私法体系の基礎ともなるからである。

十二表法

File:Etruscan civilization map-de.png

エトルリア時代のイタリア(紀元前500年頃)

都市国家ローマは、紀元前8世紀から7世紀にかけて建国された。最初はエトルリア人の王政がしかれていたが、前509年ころ、共和政に移行した。ローマは、第2次ポエニ戦争(前218-前201年)の勝利により、地中海世界の覇権を掌握する。この戦争終結の年をもって、共和政期を前期(前509-前202年)と後期(前202-前27年)に分けることができる。

紀元前218年ごろの地中海世界:カルタゴ(赤)・ローマ(水色)・プトレマイオス朝エジプト(緑)・セレウコス朝(黄) (出典)https://en.wikipedia.org/wiki/Punic_Wars

共和政前期は、有力貴族の寡頭政から、前5世紀からはじまる貴族(パトリキ)平民(プレーブス)との長い身分闘争をへて、身分闘争の終結(前300年頃)による平民の進出という経過をたどる。寡頭政期には、神法(祭祀法ファース)人法ユースとが未分離であった古い時代のなごりで、法知識は神官である貴族に独占されていた。前494年、平民は軍事行動をおこし、平民会を設置して護民官を選出するが、貴族は身分を閉鎖化してこれに対抗した。

前450年ころ、貴族と平民は和解し、それまで神官に独占されていた慣習法が、十二枚の銅板に記される。これが、ローマ最古の成文法「十二表法」である。十二表法の制定後、立法はほとんど意味をもたず、法は、主として法文解釈によって発展させられていく。しかし、平民が法文を理解するのはかならずしも容易ではなく、なおしばらくは、法知識をそなえた神官団が法実務の担い手として、解釈にたずさわった。前4世紀末には、法知識も公開されるようになり、前300年に、神官職が平民に開放される。前254年に、はじめて公開の場所で、法文解釈や手続が明らかにされたが、このころより、法学は世俗的な学として自立したと考えられる。

十二表法の特徴は、①農業共同体国家にふさわしい法、②属人法的性格、③形式主義の貫徹にある。①エトルリア王政以来、社会の単位は、農業生産を基礎とした家父長制的な家であった。家承継の安定をはかるため、農業生産にかかわる財産の移転には厳格な方式行為が必要とされた。また、耕地の境界や農作物への損害について詳細に定められていた反面、債権債務関係についてはなお十分な展開はみられない。②十二表法は、ローマ市民にのみ適用される市民法(ius civile)であった。外国との取引が活発になるにつれ、市民法の限界があらわになり、新しい法形式(法務官法・万民法)が形成されるが、市民法の属人的性格は最後まで維持される。③当時のローマでは、基本的な訴訟行為や物の譲渡などの法律行為については、厳格な形式を守ることが要求された。一言一句誤りなく言明しなければ、たとえ自分の物であっても、権利を失ったのである。

カルタゴとポエニ戦争

第1次ポエニ戦争 (前264 – 前241年)
第2次ポエニ戦争 (前218 – 前202年)
第3次ポエニ戦争 (前149 – 前146年)

カルタゴ勢力範囲(紀元前264年頃、青色部分)

ポエニ戦争によるカルタゴ領土の変化: 青色(第2ポエニ戦争によって失った領土)、緑色(第1次ポエニ戦争で獲得した領土のうち、第2次ポエニ戦争で失った領土)、水色(第2次ポエニ戦争で失った領土)、紫色(第3次ポエニ戦争でローマに征服された地域)

名誉法 

共和政後期に、ローマは、古代世界のほとんどすべてを支配し、交易・商業・貨幣経済に基礎をおく大国家へと成長する。領土拡大の過程で、ローマは、ヘレニズム文化と接触した。その結果、ローマ法は、従来の実際的志向を脱し、ギリシア哲学の影響下で、思弁的傾向をもちはじめる。法学者が生まれ、法学が発達しはじめたのである。

社会・経済情勢の変化に応じ、農業的性格をもつ伝統的な市民法を修正・変更・補完して、新しい私法を発達させる必要が生じた。その新しい法の総体は、市民法にたいして、名誉法(ius honoratium)とよばれ、法務官によって導入されたかぎりで、法務官法(ius praetorium)ともよばれた。法務官は、前367年に設置され、前242年に2名に増員された任期1年の官職で、裁判を職務とする。政治家である法務官のブレーンとして、私人たる法学者が、たえず、専門的助言をあたえた。

共和政後期には、法務官とその背後にいた法学者が、法適用と法形成の担い手であった。法適用は、法務官の裁判権力をもとに、法律になんら根拠をもたない訴権 請求権 を多数みとめるという形で、法形成は、任期初めに法務官がおこなう広範囲の告示によって実現された。名誉法はまた、ローマ市民以外にも適用されたので、万民法(ius gentium)の起源ともなった。