ヨーロッパ中世農村の法と社会ー領主制・村落共同体・農村慣習法

更新:2016-05-03 掲載2014.03.18 執筆:三成美保

領主と農民

中世の領主制は、三つの類型に区別できる。①土地領主制、②体僕領主制、③裁判領主制である。

①土地領主制
土地領主制は、領主が農民に農地を貸与するかわりに、地代として労働力(夫役=労働地代)・生産物(現物地代)・金銭(貨幣地代)を徴収する関係である。

②体僕領主制
体僕昇竜聖は、人格的支配関係である。体僕領主は、隷属農民(体僕)の結婚に干渉し、移転を制限して、相続時には財産の一部を徴収することができた。

③裁判領主制
①・②が領主と農民との人的関係であるとすれば、③裁判領主制は、領主の地域的支配権である。裁判領主は、裁判手数料や罰金を取得し、一定の公租を領民に賦課することができた。14世紀以降、領邦国家が形成されてくるとともに、領邦君主が、流血裁判権をそなえた上級裁判領主となっていく。

人口の圧倒的多数をしめた農民の法的地位の変化は、経済的地位の変化と対応していた。 12-13世紀の開墾運動は、エルベ河以東にまでおよんだ[東ドイツ植民運動]。開墾地では、地代減免・自由身分の保障などの優遇措置がとられた。また、成立したばかりの都市は、周辺から農民をひきよせた。このような動きは、非自由農民の地位をも上昇させていく[早期農奴解放]。地代形態が現物あるいは貨幣地代へと変化して、農民は土地緊縛を免れ、移転の自由を獲得した。農民の手元には剰余所得がのこるようになり、ほとんどの地域で体僕領主制が廃止され、農民は自由身分となっていったのである。

地代の変化は、領主直営地の解体と連動していた。森や河などの共有地以外のほとんどすべての土地が農民に貸与されている新しいタイプの荘園が成立した。これを純粋荘園という。純粋荘園の段階では、荘園はもはや生活単位ではない。領主の支配権もまた分裂した。一人の農民は、かならずしも一人の領主に支配されているわけではない。複数の土地領主から土地を借り、別の領主の体僕であり、さらに別の大領主の裁判権に服するということがありえたのである。

村落共同体

領主制の錯綜関係は、農民にとっては、有利に作用した。支配の間隙を縫うように、農村でも13-14世紀には、都市共同体にならって村落共同体が成立する。かつての荘園領主の保護をあてにできなくなった農民たちがみずから結集し、自治組織をつくったのである。

村落共同体は、しばしばいくつかの荘園にまたがって生まれた新しい生活単位であった。自治権の点では、都市共同体(→【法制史】ヨーロッパ中世都市と都市法(三成美保))にはおよびもつかなかったが、村落共同体もまた、一定の権限を掌握した。村民集会は、村役人を選出し、村規約を定め、他村との取り決めや一揆について議論する場であり、また、下級裁判権に属する紛争について判決を発見する裁判集会でもあった。共同体は、領主にたいする抵抗の拠点でもあった。共同体農民は、請願、臣従拒否、仲裁裁判、逃散、武力蜂起など段階をおって、さまざまな手段を用い、領主による恣意的な貢租引き上げや不当な裁判に抗議したのである。

村落共同体の正式メンバーは、村に家屋敷をかまえる中農以上の農民(男性)であった。森や河などの共有地を利用する権利は、共同体成員としての資格と不可分であった。15世紀末からは、農地を相続できない小屋住み農や農業労働者がふえていく。かれらは、限られた権利しかもたず、差別にさらされた。

蜂起農民を批判する瓦版

封建的分裂が著しかった西南ドイツでは、とりわけ共同体の成長がめざましかった。ここでは中小領主が乱立し、14-15世紀の農業危機の時代に、名目化していた体僕領主制が復活する。それは、1525年におこったドイツ農民戦争の主要な原因となった。当時の農民の要求は、「十二箇条」からよく読みとれる。かれらは、「古き良き法」と「神の法・神の義」という理念をかかげた。前者は、農民の伝統的権利・法慣習を領主が侵害することへの抗議であり、そのかぎりで保守的性格をもつ。農民は、領主による法の改革や新法の制定にはきわめて拒否的な態度を示した。後者は、宗教改革者ツヴィングリミュンツァーによりうちだされたキリスト教共和国構想に影響をうけており、領主制を否定・制限しようという革命的な動きとつながった。精神と肉体の世界を峻別するルターは、現世では農民は領主に服従すべしと考えていた。このため、ルターは、農民戦争をはげしく非難し、領邦君主に暴動抑圧と治安維持の任務を期待したのである。
(参考記事)→【法制史】中世末期~宗教改革期の国家と社会(三成美保)

判告集

農村の法慣習を記録したものが、判告集である(→【史料】ヴァイステューマー(農村慣習法))。ドイツ最古の判告の記録は  世紀にさかのぼるが、もっとも多くなるのは15-16世紀である。判告という呼称は、裁判集会で、領主役人の質問にたいして、村の長老など法慣習に通じた者がおこなった「法の判告 」に由来する。地域によっては、法を明らかにするという意味でオフヌンク(スイス) 、また、裁判集会を意味するバンタイディンク(オーストリア)やエーエハフトレヒト(バイエルン)ともよばれた。19世紀に、ゲルマニストたるヤーコプ・グリム(1785-1863)は各地の判告を集め、『判告集』全7巻として刊行した。
(参考記事)→【特論1】歴史のなかの読書ーグリム童話と近代家族の誕生(三成美保)
【法制史】法史学の展開(ドイツ・イギリス・日本)(三成美保))。

判告集は、「古き法」にかんする農民側の回答を記録したものである。しかし、古法の忠実な伝承が書き留められているとはかならずしも言えない。判告集の作成にあたって、領主側の意図的関与は軽視できない。領主側があらかじめ質問リストを作成し、それにしたがって質問して回答を得たらしことは、判告集家族が存在することからもうかがえる。記録にたずさわったのは、一般に領主の尚書局役人であり、記録のさいに領主の利害に即して内容が改竄される可能性もあった。判告の記録は、領主と農民との対立の結果であり、また、原因であることも多かったのである。

内容の点では、領主と農民との関係を規定している部分がもっとも多い。賦役や貢租の義務にかんする規定である。また、共有地にたいする権利、農地相続、農民の身分につての規定もふくまれる。文言は具体的で、法律行為は象徴的である。

(初出:三成他『法制史入門』ナカニシヤ出版、ただし、一部加筆修正)