*【特集8】法制史(西洋)

【法制史】三月革命期(1848-49年)における法と社会(三成賢次)

2014.10.31 三成賢次
(初出:岩村等・三成賢次・三成美保『法制史入門』ナカニシヤ出版、1996年、一部加筆修正)

(1)三月革命とドイツ国制の変革

革命の始まり 

1848-49年革命の広がり

1848年3月13日ウィーンにおいて市民・学生の蜂起が起こり、憲法制定議会が招集され、メッテルニヒはイングランドに亡命した。3月16日には、ベルリンでもバリケード蜂起が起こり、ライン地方の大ブルジョアジーとして名高い自由主義者のカンプハウゼン(Ludorf Camphausen, 1803­-1890)が内閣を組織し、国民議会の創設がはかられた。こうしてドイツ各地の都市と農村で、デモやほう起が展開し、旧体制は打倒され、自由主義内閣が生まれていった。そして、革命はドイツだけに止まらず、さらにイタリアや東ヨーロッパへと波及していったのである。

国家統一運動 

革命が始まった直後の3月5日には、すでにハイデルベルクに西南ドイツの51人の政治家が集まり、いわゆる「ハイデルベルク会議宣言」を発表し、ドイツの統一と自由をめざした国民議会選挙の準備のために「7人委員会」が組織するとともに、憲法制定のために準備議会を開催することを決議した。3月31日から4月4日にかけてフランクフルトで準備議会が開催され、国民議会創設のために全ドイツから代表者として各邦議会の議員約500名と自由主義政治家が集合した。準備議会は、憲法制定のために国民議会を招集することをあらためて決議し、そのために直接・平等・秘密を選挙原則として資産の多寡に関わりなく成年男子5万人につき1名の議員を選ぶこととした。準備議会はそれまであくまでも私的な会合にすぎなかったが、この段階でドイツ同盟議会が同決議を承認し、正統性をもつにいたった。

フランクフルト国民議会

ガーゲルン

5月18日に、フランクフルトのパウロ教会で憲法制定 国民議会、いわゆるフランクフルト議会が開催され、選出された831名の議員のうち586名が出席した。議員の内訳は、裁判官・検事157名、行政官吏118名、弁護士66名、教師57名、大学教授49名、農業経営者60名、商人46名、手工業者4名であった。この議員構成から、この議会は「法律家議会」あるいは「教授議会」、さらには「官僚議会」とよばれていた。このことからも、この段階で革命の主導権を握っていたグループが、教養市民層であったことがわかる。初代議長には、ガーゲルン(Heinrich v. Gagern, 1799­-1880)が選ばれ、また6月28日の「暫定的中央権力に関する法律」によって帝国摂政には革命に好意的であったオーストリアのヨーハン大公がついた。

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フランクフルト国民議会(1848年)Ludwig von Elliott: Sitzung der Nationalversammlung im Juni 1848

フランクフルト憲法

「ドイツ国民の基本権に関する法律」”Die Grundrechte des deutschen Volkes”, Lithographie von Adolph Schroedter(1848)

12月12日には、革命の成果をいち早く国民に示し、その間に重要問題を処理するために「ドイツ国民の基本権に関する法律」だけが単独で制定され、12月27日に公布された。これは、のちに帝国憲法、いわゆるフランクフルト憲法の第6章に入れられた。この憲法では、ドイツではじめて統一的な帝国公民権を規定し、身分制的特権を廃止することともに、すべてのドイツ人が法の前で平等であることなど、自由権規定が明記された。革命の初期段階では現代にも通じるような生存権要求もなされていたが、それらはすべて急進的として退けられ、あくまでも自由権だけが残されたのである。

国家組織は、アメリカの連邦制がモデルされたといわれており、帝国の権限として外国に対する代表権、宣戦・講和の権限、軍隊に対する司令権、交通・通信の監督権、関税・通商・通貨・度量衡関係の立法、そして統一法典の編纂などが認められていた。世襲制の皇帝がおかれたが、皇帝はあくまでも立憲主義的に責任ある帝国大臣の協力を求める義務を負っていた。国家財政には、関税収入と消費税収入、そして国費分担金があてられ、非常の場合にのみ帝国税徴収や国債発行が認められた。しかし、帝国と各邦との関係については規定がなく、実質的な権力である各邦が中央権力に参加していないなど、中央権力はまさに宙に浮いた状態であった。

帝国議会としては、上院(Staatenhaus)と下院(Volkshaus)がおかれた。上院は議員数192名で、各邦の政府代表と各邦の議会代表が半数づつをしめていた。議員の割り当ては、国によって異なり、プロイセンは40名、オーストリアは38名で、その他は各1名であった。下院は、直接・普通・平等の選挙原則にもとづき人口に比例して議員数が決められていた。

 

【史料】

フランクフルト憲法→Verfassung des Deutschen Reiches [“Paulskirchen-Verfassung”](「官報」Reichs-Gesetz-Blatt、Nr.16,28.04.1849,S.101-147)http://www.lwl.org/westfaelische-geschichte/que/normal/que835.pdfpdficon_large

成果と挫折

議会内部では、非ドイツ人地域を除いた全ドイツ国家の建設をめざす大ドイツ派とプロイセンを中心にオーストリアを排除して国家統一を考えていた小ドイツ派が対立していた。1849年3月4日にオーストリアで反革命が成功し、議会の解散が行われ、全オーストリアを対象にオーストリア国家の単一不可分性を主張する欽定憲法が制定された。これは明らかにフランクフルト憲法に対する拒否の態度を示すものであり、フランクフルト議会では小ドイツ派が優勢になる。3月27日に世襲皇帝制が僅差で採択され、フランクフルト憲法が成立した。そして、ドイツ皇帝には、プロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム4世がつくことになった。

しかし、徐々にブルジョアジーと反動勢力との妥協がはかられ、各地で反革命が進んでいた。プロイセンでは、1848年12月5日にすでに欽定憲法が制定されていたのである。プロイセン国王は、国民主権の思想を基礎にしていたフランクフルト憲法をもはや受け入れるはずもなく、ドイツで最初の統一憲法は宙に浮いたかたちになってしまった。7月23日に革命勢力の最期の砦であったバーデンのラシュタット要塞が陥落するとともに、一年あまりで3月革命も終焉をむかえたのである。

(2)プロイセンにおける3月革命

革命の経過

1848年3月革命の勃発(ベルリン市街戦)

プロイセンでは、1848年の3月にベルリン市街戦が展開されたあと自由主義内閣が成立する。5月22日には、プロイセンの憲法制定国民議会がベルリンで開催され、憲法草案の審議が行われた。当初の議会は、急進派が影響力をもっており、議会案として急進的ないわゆるヴァルデック草案が提出された。地方制度に関しても、ライン地方のブルジョアジーであったハンゼマン(David Hansemann, 1790­-1864)が草案を作成している。しかし、11月になるとヴィーンに続いてベルリンでも反革命が起こり、ブランデンブルグ将軍が首相となった。11月に議会が武力解散されると、12月5日には欽定憲法が公布された。この欽定憲法は混乱期における妥協の産物として、政府が議会に提出していた草案と内容的にほぼ一致する自由主義的憲法であった。

1850年憲法の成立 

しかし、政府は同憲法にもとづいて創設される議会がただちに憲法の改正審議を行い、大幅に改正することを意図していた。12月6日に選挙法が公布され、下院は普通・平等・間接の選挙が行われることになったため、自由派などの革命勢力が多数当選した。1849年2月26日にベルリンで国民議会が開会されたが、予想どおり政府と下院とが対立し、改正審議は進まなかった。4月27日に下院解散の命令が下され、5月30日には三級選挙制を導入した下院議員選挙条令がだされた。財産の多寡によって選挙権に差をもうけるこの選挙制度では保守派が有利となり、政府の思惑どおりの選挙結果となった。8月7日に議会が開会され、憲法改正審議がはじまった。そして、翌年1月31日に、プロイセン憲法が成立するのである。

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