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【特論11】朝鮮女性はどのように生きてきたか?(宋連玉)

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【特論】朝鮮女性はどのように生きてきたか?(宋連玉)

宋連玉(掲載:2014.06.28)

はじめに

朝鮮2朝鮮1

上の二枚の風俗画はともに朝鮮王朝時代後期の代表的画家、申潤福(1758~?)によって描かれたものです。
左の絵は岩陰にいる二人の若者と、右手に佇むおばさんの視線を受けながら、妓生たちの水浴び、クネ(朝鮮ブランコ)興じ、髪を梳る(くしけずる)姿を鮮やかに描いています。
妓生から目線をずらして脇のおばさんを注視すると、なんと彼女の乳房がチョゴリ(上着)からはみ出ているではありませんか。
右の絵は、年齢の離れた女性どうしが市場でおしゃべりする様子が描かれていますが、こちらに顔を向けた若い女性もチョゴリの下にふっくらした乳房をのぞかせています。籠の野菜からすると、季節は冬ではありませんが、下半身は幾重にも袴類でガードされています。
このように乳房を出した朝鮮女性の姿を映した絵画や写真は、朝鮮の「野蛮」と女性の社会的地位の低さを示す有力な根拠として、昔も今も使われてきました。「嫌韓」の2チャンネラーたちもヘイトスピーチの材料にしています。
もちろん日本を含む「文明」国にも「野蛮」は存在します。横道にそれますが、眼の鱗取りに、欧米「文明」国の女性たちのケースを紹介しましょう。
「文明」国女性は自分たちの物差しで、女性イスラム教徒のスカーフ着用が女性抑圧のシンボルだと決めつけ、それを引っ剥がそうとしてきました。しかし、空気が乾燥し、砂ぼこりの多い地域のスカーフやヴェールは美容と健康のためには必需品なのかもしれません。少なくとも現代の纏足といわれる「文明」国のハイヒールや胸を締めつける不健康なブラジャーよりも、スカーフの方がはるかに合理的であるように思えます。
そもそも朝鮮の既婚女性がなぜ乳房を出していたのか、合理性という観点から考察すれば、農作業の傍ら、織物、育児、家事と山のような仕事をこなす多忙な母親にとって乳房を出したままの服装が授乳に便利だったのです。しかも夏場の乳房下の汗疹を軽減することにもなります。
このような合理性に対し、家父長たちはこんな建て前を強弁しました。人生最大の目標である男児出産を遂げた女性は、その証に乳房をさらすことが許されたのだと。
確かに高麗時代に比べると朝鮮王朝時代のチョゴリの丈はかなり短くなります。しかし男児出産した女の勲章として乳房を露出したというよりも、女性の労働参加のあり方などが変化したとみるほうが理にかなっているでしょう。

17世紀以前の朝鮮女性の暮らし

日本では朝鮮女性の社会的地位は古来から一貫して低かったと固く信じる人たちがいますが、このような言説がいつから何のために流され、定説化したのでしょうか。
その答えを探すために朝鮮王朝時代の女性の姿を追ってみましょう。
李成桂(イソンゲ)が開いた朝鮮王朝では儒教を政治理念とし、やがては男系重視の家族制度をとりいれようとしますが、少なくとも17世紀半ばまでは女性は男性に劣らぬ権利をもっていました。そのことはこの時代の結婚の形態と財産分与の方法にも表れています。
平安時代以前の日本で見られた入り婿婚、朝鮮では「男帰女家」と言いますが、一般に男は結婚後、妻の家で暮らすのがふつうでした。その名残が妻の家で結婚式を挙げて、新婚夫婦がそのままそこで数日過ごすという風習です。
女性の地位が高かった証拠に、妻が夫とは別に独立した財産をもっていたことが挙げられます。東アジアでは、日本は14世紀ごろから長子相続、また中国は男子のみの均分相続が原則であったのに対し、朝鮮では17世紀まで男女を問わず、すべての子供に財産が均分相続されていました。朝鮮のこの頃の夫婦別姓を、女性の高い経済的独立性を表すものとして解釈するべきでしょう。

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宮廷女官チャングムの誓い DVD-BOX I(発売元:バップ、2005年)

日本でも人気を博した韓国ドラマ『チャングムの誓い』は実在の女性をモデルに創作したファクションです。しかしチャングムの生きた時代が女性にとって後世ほど息苦しくなかったというのは史実です。同時代に生きた賢母の誉れ高い申師(シンサ)任堂(イムダン)(5万ウォン札の肖像画モデル)も子供が成人するまで実家で暮らし、夫に対しても強い発言権を持っていたようです。また開城(ケソン)(高麗の首都)の三絶に数えられるほどの文才を発揮した黄真伊(ファンジニ)は、チャングムや申師任堂と同時代に生きた妓生(芸妓)ですが、他の二人よりも今なお国民的人気を保持している女性です。
少し時代は下がりますが、『洪吉童伝』の作者を弟に持つ許(ホ)蘭(ナン)雪(ソル)軒(ホン)(16世紀後半)が遺した詩、17世紀後半の王族女性たちの悲哀を綴った作品群などの宮廷小説集が女流文学として現存します。日本では室町時代以降、樋口一葉が登場するまで女性作家は少なかったと言われますが、朝鮮の女性たちの遺した作品を見ますと、文化的レベルにおいて遜色があったとはとうてい思えません。
この時代にハングルで書かれた手紙が約2500通現存しますが、そのうち夫婦間で交わされたものが約1000通です。当時の夫婦関係を知る重要な手掛かりが最近も墓地から出土し、世間の耳目を集めました。壬(イム)辰(ジン)倭(ウェ)乱(ラン)(豊臣秀吉の侵略戦争)の義兵大将である郭(クァク)再祐(チェウ)の甥が亡き妻に送った手紙も遺されていますが、そこには「夜、横になりながら君と語り合ったね。他の夫婦も私たちのように愛し合っているだろうか。それなのに先に逝くなんて。私も連れていっておくれ」と綴られていました。

朝鮮3

1617年に編纂された『東国(トングク)新続三綱(シンソクサムガン)行(ヘン)実図(シルト)』

だからこそ為政者は、女性をターゲットに『三綱行実図』などのビジュアル版を普及させて、ジェンダー規範、つまり男女を上下の秩序に組み込もうとしたのです。さらに女性の再々婚、ひいては再婚まで禁止し、違反者の子孫には科挙受験資格をはく奪します。上層の女性たちが対象ですが、これも逆説的に想像以上に女性の地位が高かったことを物語っています。
このような女性の地位が低下する直接の原因は戦乱でした。16世紀末から17世紀前半に日本・清による侵略を受けますが、その戦後復興のために支配体制が再編されます。その過程で支配層の男性たちが生き残りを賭けて父系中心の血縁集団を組織化し、男女を隔てる儒教文化を定着させます。女児の命名に貞、淑、順などの文字が多用されていきます。
財産相続も男女均分相続から男子均分、長男優先相続へと変化し、庶子に対する差別も厳しくなります。夫婦別姓も女性の社会的地位が低いからと真逆の解釈が加えられていきます。

儒教社会の女性たちの逆襲 

もちろん時代が男性上位に変化するからといって、すべての女性が「負け組」になったのではありません。18世紀前半にイ・サン(正祖)の祖父、英祖も女性教本『内訓(ネフン)』を記していますが、これも為政者の思いどおりにジェンダー規範が定着せず、抵抗する力とせめぎ合っていた状況の産物と解釈できます。
戦後復興の一環として疲弊した農業の改革や、貢納や賦役を米や棉布で徴収する税制改革がなされると、織物労働や商業で女性の力が発揮されます。例えば金(キム)萬(マン)徳(ドク)(1739-1812)は済州島の特産物の商いで成功した女性事業家ですが、飢饉の際に高額の寄附をするなどの社会貢献で官報に記録されています。
また女性差別的な規範への批判も生まれます。『烈女咸(ヨルリョハ)陽(ミャン)朴(パク)氏伝(シジョン)』は朴趾源(パクチウォン)という男性知識人によって書かれた漢文小説ですが、その中で再婚禁止など女性を一方的に抑圧する社会規範を痛烈に批判しています。
当の女性たちのエンパワーメントに貢献したものに15世紀半ばに創製されたハングルが挙げられます。もとは為政者が民を教化するために創ったものですが、修得しやすいことからとくに女性や子どもに親しまれました。『春香伝(チュニャンジョン)』のような身分を超えたラブ・ストーリーや家庭百科全書『閨閤(キュハプ)叢書(チョンソ)』もハングルで書かれ、それら書籍が女性の間で回し読みされながら、多くの読者を獲得していきました。
19世紀には聖書がハングルで翻訳され、全体信者の3分の2が女性信者となり、キリスト教弾圧にも屈しない強い信仰心をもった女性信者を輩出します。東学党の「天乃人」思想も身分や性の差別にあえぐ民衆の心をとらえていき、やがては朝鮮王朝社会を根底から覆すエネルギーを蓄えていきます。

民事令・女子教育―植民地のジェンダー政策 

しかしながら民衆の社会変革への試みは日・清両国の干渉によって挫折します(日清戦争)。甲午農民戦争の指導者、全琫(チョンボン)準(ジュン)を唄った民謡「パランセ(青い鳥)」もやがて鉄道唱歌のメロディにすり替えられて広まります。
10年後の日露戦争では日本が勝利し、日本は朝鮮に対し軍事上、経済上の利益を確立します。やがて帝国日本が「韓国併合」(1910年)することで、朝鮮人の多くの女性は男性以上に植民地近代の陰に追いやられていきます。
日本は併合後、すぐさま朝鮮の民事令を定めますが(1912年)、その内容は旧日本民法を依用しながら、親族及び相続に関しては両班階層の慣習に従うというものでした。それにより家父長権の弱かった地域(たとえば済州島や咸鏡道)や階層の女性までが一律に性差別的な家族法に縛られることとなりました。同姓同本結婚禁止に加え、父親にだけ親権が認められ、妻の姦通のみが処罰され、妻の無能力規定などが決められました。さらに結婚と協議離婚において父母の同意を要したので日本より強い戸主権を認めることとなりました。結果的に一夫一婦制度のもとでの家父長権が強化されたと言えます。朝鮮総督府は数次にわたって家族法を改定し、宗族社会の解体、近代家族への改編を進めますが、その究極の狙いは徴兵制にありました。若い男性兵士の数を把握し、徴兵するには核家族の方が適していたからです。
朝鮮では近代の幕開けに男性リーダーによって女子教育論が活発に論議されますが、それは女子力を高めることで国権回復を果たそうとしたのです。同時に日本経由で西洋の良妻賢母思想も導入されます。これらの思想を逆手にとって自らのエンパワーメントを図った先駆的女性たちがいました。1909年の女子留学生帰国歓迎会に招待された尹貞媛(1883~?)、朴エスタ、河蘭史です。3人は欧米での勉学を終えて、専門職に就き、自己実現を図ります。しかし植民地下の女性にとっての女性解放は民族解放と切り離して考えることはできませんでした。尹は結婚後1911年に中国へ亡命し、かの地で独立運動にも貢献しましたが、どのような末期を迎えたのかは不明です。
併合10年目にして三・一独立運動が起こりますが、そこに参加した女性の大部分は女子学生や女教員でした。独立運動に多くの女性が活躍したことは上海の大韓民国臨時政府の憲章に反映され、男女平等が明記されました。
女性たちの力量を総結集し、民族解放と女性解放をめざした槿(クヌ)友会(フェ)が1927年に結成されますが、日中戦争が始まると中国へ活動の舞台を移して抗日運動に参加する女性たちと朝鮮に留まって生活改良運動に従事する女性たちに分かれます。金(キム)活(ファル)蘭(ラン)や黄信(ファンシン)徳(ドク)たちは女子教育のパイオニアでしたが、女子教育機関を存続させるという名目で皇民化政策を担ったことから親日派というマイナスの評価を受けています。
植民地期の教育政策は庶民にどこまで実施されたのでしょうか。朝鮮人児童の就学率が日本人より低かったのは言うまでもありませんが、女子においてはさらに大きな懸隔を見せています。すなわち日本は1905年には学童女児の93%が就学していますが、朝鮮の場合、1942年になっても26.8%に留まりました。戦時期の総動員体制で男性の働き手が徴用、徴兵などに取られたために、女性労働力を活用する必要性が生じ、皇国の良妻賢母を目標にした女子初等教育が拡充された結果がこの数字でした。目下、安倍政権が「女性の活躍」を成長戦略の中核と位置付けていますが、朝鮮総督府も女性を労働現場に狩りだすためにさまざまな言説を弄しました。帝国日本の植民地統治が、家庭に閉じ込められていた朝鮮女性を戸外に解放したという言説や冒頭の朝鮮人女性言説もこの時期の喧伝が大きく影響しています。
一方、農村の朝鮮人家父長たちの多くは、貧しいという理由以外にも帝国日本が導入した植民地「近代」への警戒心から娘たちを学校に送ろうとしませんでした。植民地支配を受けるということは、就学率一つをとってみても、支配する側、支配される側からの複雑な思惑から結果的に女性たちが大きく教育から疎外されたのです。

おわりにー「慰安婦」の封印を解いた韓国民主化

多くの朝鮮の娘たちは、帝国日本の文字、言葉、事情を知らされず、その結果、赤子の手をひねるより簡単に騙され、戸外から遥かかなたの戦地の慰安所に送られて行きました。

朝鮮4姜徳景(カンドッキョン)さんの絵「ナシをもぎりとる日本軍」
(1929-1997)慶尚南道晋州生まれ。16歳の時、教師の勧めで女子勤労挺身隊一期生として富山県の不二越飛行機工場に送られるが、ひもじさに耐えられず逃亡する。すぐに憲兵に捕えられ、大部隊に送られ、そこで慰安婦にされた。晩年、心のケアのために始めた絵画で才能を発揮する。ナシに表象された少女たちの運命が国家の暴力によっていとも簡単に蹂躪される様子を描いている。

20世紀初めに天津で創刊された中国語新聞『大公報』も1938年の記事で日本軍慰安所にいる女性の大半が朝鮮人女性だと報じています。また騙されて戦地の慰安婦になった申在順という女性が1939年に辛うじて朝鮮に戻り、仲介者を非難したところ、流言飛語罪として処罰されようとしました。
それでも口コミは広がり、挺身隊や報国隊という名目で、少女たちが戦地に送られているという噂が朝鮮内に広まると、長老たちは娘の身を守るために早婚させました。
ここまで歴史をたどっても、女性の地位や家父長制というものは戦争や植民地支配と切り離しては論じられないということがわかります。1945年に民族は解放されますが、その後の南北分断、朝鮮戦争、政情不安、軍事独裁政治が続いた韓国で、女性の地位だけが高いはずはないでしょう。1987年の民主化がなければ「慰安婦」にされた女性たちがカウアウトすることもできなかったはずです。

商品の詳細

宋連玉『脱帝国のフェミニズムを求めてー朝鮮女性と植民地主義』有志舎、2009年

フェミニズムとは性差別にもとづく搾取や抑圧の構造を問い、その変革を目指す思想のはずである。だが、いわゆる「第一世界」のフェミニズムは、「帝国」に よる植民地支配に起源する植民地主義を見落としたまま主張されてきた。植民地主義と性差別という複合的な抑圧のもとにある朝鮮女性たちが、真の人間性を求 めて辿った苦闘の軌跡を描きながら、開かれたフェミニズムの可能性を問う。

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