更新:2016-05-08

【年表】アジア(1200~1800):モンゴル帝国・オスマン帝国・明清・李氏朝鮮・サファビー朝・ムガル帝国など

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1206年初春、オノン川上流での大クリルタイによって、テムジン、チンギス・カンとして即位する。(『集史』パリ本)

三成・姫岡・小浜編『歴史を読み替えるージェンダーから見た世界史』(大月書店、2014年)掲載の年表(各章冒頭の「概説」に掲載)をベースにして、HP編集者(三成)の責任で、随時、記事・情報・図版を追加しています。

1206 チンギス・カン即位

モンゴル帝国の位置
モンゴル帝国
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チンギス・カン在世中の諸遠征とモンゴル帝国の拡大

1236~40 インド、奴隷王朝(1206-1290)でラズイーヤ(位1236-40)の統治

  • 父王は、無能な息子たちを排し、有能な娘ラズイーヤを後継者に指名した。彼女は政治的に有能であったが、地位は不安定で、男装して政治を執り行った。

1258 高麗、モンゴルに服属

1271 元の建国

1292 マルコ・ポーロ、コケジンとともに泉州を出発。
(参考)→【モンゴル史】マルコ・ポーロがイランまでお供した女性コケジン・カトン(宇野伸浩)

1299 オスマン帝国の成立

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オスマン帝国の拡大

1338 室町幕府成立

1351 タイでアユタヤ朝成立(1351-1767)

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青緑がアユタヤ朝(1380年頃の東南アジア)

1368 明の建国

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ティムール朝

1370 ティムール朝成立

1392 李成桂(イ・ソンゲ)、朝鮮王朝をひらく
7-5.朝鮮王朝時代の文化(【年表】李氏朝鮮1393-1897)

1453 オスマン軍、イスタンブル占領(ビザンツ帝国滅亡)
7-6.オスマン帝国のジェンダー秩序

1501 イランでサファヴィー朝成立

1520 スレイマン1世即位、オスマン帝国は最盛期に

【女性】オスマン帝国の内廷とハレム

1526 ムガル帝国成立(1526-1858)

  • 建国者バーブル(1483-1530)はティムールの直系子孫。
    ムガル帝国はトルコ系イスラム王朝で、アクバル(位1556-1605)及びその子どもたちの治世(16世紀末~17世紀)が最盛期。
Mughal
ムガル帝国
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アクバルと妃ルカイヤ

1540~50s 明で談允賢が女医として活躍

  • 談家は医師の家系で、談允賢は女医として活躍した。

1592~93、97~98 壬申・丁酉の倭乱(秀吉の朝鮮出兵)

1600頃 明で『牡丹亭還魂記』が成立

  • 湯顕祖(とう・けんそ:1550-1616)の代表作である戯曲。

『牡丹亭還魂記』(あらすじ)
南宋初年(1227年頃)、柳春卿は、夢で美女が梅の木の下に立ち、私たちは御縁がございます、と話し掛けるのを聞き、名前を柳夢梅と改めた。一方、杜宝の一人娘杜麗娘は美貌で知られ、家庭教師陳最良に詩経を 習っていた。気晴らしのため侍女春香とともに花園を訪れうたた寝をすると、夢の中で柳の枝を持った青年と出会い契りを交わす。杜麗娘は、夢の青年との恋煩いで衰弱し、自画像を残して死んでしまう。彼女の遺体は梅の木の下に葬られ、側には梅花庵が建てられた。冥土での審判により、杜麗娘は夢の中の青年を探 すことが許された。柳夢梅は科挙を受けるため都へ向かう途中、病気にかかり、陳最良の助けにより梅花庵で養生している時に、杜麗娘の自画像を見つける。部屋に絵を掛けて置くと、毎晩、杜麗娘が現れるようになり、柳春卿は彼女を愛するようになる。杜麗娘は柳夢梅に、実は自分はこの世の者ではないと打ち明け、再生の手助け を頼んだ。杜麗娘の墓を掘り返し、棺を開くと杜麗娘は生き返った。二人は仮祝言をあげ、柳夢梅は都で科挙を受けた。柳夢梅は、杜宝から結婚の許しを得ようとするが、信用されず、墓を暴いた罪人として拷問を受ける。そこに、柳夢梅が科挙に合格したという知らせがきて、皇帝の裁きをあおぐことになった。その結果、晴れて二人は結ばれた。(wikipediaより:参考として)

1603 江戸幕府成立

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ヌール・ジャハーン

1620頃 ムガル朝廷でヌール・ジャハーン(1577-1645)が政治に活躍

  • ヌール・ジャハーンは才色兼備の女性で、1611年に第4代皇帝ジャハーンギール(1569-1627:位1605-1627)と結婚。まもなく第一妃となり、健康の優れない皇帝に代わって事実上の皇帝として政務に携わった。1627年にジャハーンギールが死ぬと、後継者争いが起こった。ヌール・ジャハーンは娘婿シャフリヤール(ジャハーンギールの四男)とともに、弟アーサフ・ハーン及び彼の娘婿でジャハーンギールの三男フッサム(のちのシャー・ジャハーン)と戦い、1628年、後者が勝利した。シャフリヤールとその同調者はすべて処刑され、ヌール・ジャハーンは隠居生活に入った。

1632-1653 タージ・マハル造営(ムガル帝国)

  • ムガル帝国第5代皇帝シャー・ジャハーン(1592-1666:位1628-1658)が、皇妃ムムターズ・マハル(1595-1631)の死を悼んで建てた廟。ムムターズ・マハルはヌール・ジャハーンの姪(弟の娘)にあたる。夫妻は仲むつまじく、14人の子をなした(成年まで育ったのは男子4人と女子3人)。三男が第6代皇帝アウランゼーブ。
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タージ・マハル(世界文化遺産)
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シャー・ジャハーンとムムターズ・マハル

1644 明の滅亡、清の中国支配開始

   清、薙髪令で弁髪を強要

1683 清、台湾統治を開始
15-4.変化する台湾社会のジェンダー秩序(台湾略年表付き)

1796 イランでカージャール朝成立