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【特論14】おばあさんの力-古代ギリシア女性史を読むもう一つの視角(桜井万里子)

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【特論14】おばあさんの力-古代ギリシア女性史を読むもう一つの視角

掲載:2015.01.13. 執筆:桜井万里子
関連⇒*【特論10】古代ギリシアにおける医術と女性(桜井万里子)

1おばあさん仮説

51Rp6Q49awL__AA160_柳田國男の「妹の力」という有名な作品があります。妹の存在、言動が兄の決断や行動に影響するという内容のもので、この題名を借りてかつて私の本『古代ギリシアの女たち』の中の一節を「寡婦の力」とつけました。その節の内容をさらに拡大して今日はお話ししたいと思いましたので、講演のタイトルを「おばあさんの力」としました。とうとう桜井もおばあさんに近づいたのでこういう題の話をするのだな、とお思いになった方もいらっしゃるかと思いますが、決してそうではありません。いえ、もしかしたら無意識にはそうなのかもしれませんが、意識の上ではそうではありませんので、まず、この「おばあさん」について簡単にご紹介しておきたいと思います。この語は長谷川眞理子さんの編著書『ヒト、この不思議な生き物はどこから来たのか』という本のなかにある「おばあさん仮説」から借用したものです。

簡単にご紹介しますと、動物は繁殖年齢が終了するとまもなく寿命も尽きる。繁殖年齢が終了したあと何年も行き続ける動物は人間だけである。それも男性は精子生産能力は年齢とともに低下するにしても、生きているかぎり精子を作り続ける。コレに対し、「ヒトの女性が閉経後もかなり長い間生き続けるという性質は、何か特別な進化的利益があったと考えざるを得ない。」そこで、閉経後のかなり長い期間、女性はおばあさんとして自分の娘や血縁者の子育てを援助し、人類の繁殖成功度を上昇させた、というのです。つまり、おばあさんの存在が人類の進化をもたらした、というのです。これはいまだ仮説に過ぎないから、「おばあさん仮説」というのだそうです。この「おばあさん仮説」は、最初にHawks, K.O’Connell et al., Grandmothering, menopause and the evolution of human life histories, 1988.で提唱されました。

ここでこの仮説の当否を検証しようというのではありません。しかし、「おばあさん」によって子育てを助けられ、次の子を妊娠出産することも容易になる、あるいは、その時期が早まる、ということは十分考えられます。現在の社会でも、働く母親が子供をおばあさんに預ける例があります。私の住んでいる地域の知事が、「文明がもたらした最も悪しき有害なものはばばあなんだそうだ」と発言したそうですが(2002年11月)、彼はこのおばあさん仮説をご存じなかったのでしょう。

このようなことを契機に、ではギリシアではおばあさんはどうだったのか、という問いが浮かんだというしだいです。

2古代ギリシアの場合

古代ギリシアのおばあさんについて調べること自体かなり難しいことです。というのは、ギリシアは若さの美しさを賛美する一方で、年老いることは忌むべきこととみなされる傾向があったようです。年取ることを嘆く言葉は、古典文献のなかにうんざりするほど出てきますので、ここでは取り上げませんが、おばあさんに関する記述はあまり多くありません。まとまったものはほとんどありません。

Aristoteles_Louvre

アリストテレス

では、おばあさんは何歳くらいからとみるべきでしょうか。古代の人口統計はきわめて困難で、曖昧な結果しか出ません。Lawrence Angelの計算によれば(→参照文献)、 古代ギリシアの平均寿命は、女35歳、男44歳だそうで、これが同年齢の人々の50%が死亡する年齢なのだそうです。しかし、算出方法には限界があり(例えば、骨盤から判断する場合、女に関しては10歳ほど若くなってしまいがち)、Garland(→参照文献,245)はこれに全面的に依拠するのは危険と留保しながら、65歳まで生きるのは全体の20%程度だっただろう、と推測しています。このガーランドが言っているのですが、古代人の記述から、男より女の方がはるかに短命であったことは確からしい。アリストテレスも言っているように(以下の引用文参照)、女は男よりも栄養摂取量が少なくてよい、という考え方があったため、女性は身体の健全という点で、男よりも劣っていたらしいのです。

『動物誌』第9章「女は男より同情心に富んでいて涙もろく、その上、より嫉妬深くて愚痴っぽく、悪口を言ったり打擲したりしやすい。さらに、女性は男性より落胆したり失望したりしやすく、無知で嘘つきであり、よく人をだまし、記憶がよく、その上、女性は男性にくらべて眠りが浅くて、引っ込み思案で、一般に動きが少なく、小食である。(島崎三郎訳)」

 また、アテナイでは初潮があると直ぐに結婚するのが普通でしたから、まだ十分に身体が生育しきっていない段階で出産を経験したのです。出産時に産褥で死亡する女性も数字で把握は出来ませんが、少なくなかったようです。

さて、おばあさんですが、生殖年齢を過ぎた人をおばあさんと呼ぶのであれば、アリストテレスによれば、閉経は大体40歳くらい、とあります。

『動物誌』第7章「月経は大ていの女では四〇歳頃止むが、この時期を越す場合は五〇歳まで続き、しかもこの年で子を産んだ者もある。それ以上遅れることはない。(島崎三郎訳)」

銀行家パシオンの妻、アルキッペの場合、40歳を過ぎた頃にたて続けに2人の男の子を出産していますので、閉経を40歳とするのは少し早すぎるかもしれません。しかし、アルキッペは一生豊かな生活をした人で、例外とすべきかもしれません。一般女性の栄養状態を考えれば、今日よりもはるかに閉経年齢は若かったでしょう。

生殖年齢とは別に、普通、孫のある女性はおばあさんとよばれます。最近では大変若くてお孫さんに恵まれる方もいて、そのようなおばあさんには、孫におばあちゃんではなくて、大きいママ、などと呼ばせている方もいらっしゃるようです。

整理しますと、おばあさんと呼びうるのは、生殖年齢を過ぎた女性と、孫のいる女性と、この2種類の女性であることになりますが、ここでは両方を含めようと思います。なぜなら、初婚の年齢が15歳くらいであれば、第一子出産が16,7歳、平均寿命が35歳、閉経年齢が40歳かそれより少し上、ということを考え合わせますと、30歳を少し過ぎた年齢で孫を持つ女性も多かったはずです。このような女性をもおばあさんのグループに入れるとなると、おばあさん人口は相当数になります。このような前提の下に、アテナイのおばあさんについて考えていこうと思います。

3アテナイに居住する女性の身分と権利の制限

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結婚式(アテネ)前470/60年 Die Hochzeit der Thetis und des Peleus, Pyxis des Hochzeitsmalers, um 470/60 v. Chr.

まず、アテナイの女性が身分によって3種類に分けられることを確認しておきましょう。

家事手伝いの女、機織や市場での小売業に携わる女、産婆や乳母これらはメトイコイ身分、または奴隷身分の女が大半であった。もちろんこのような職業についている女の中には、市民身分でありながら、後見人である男(夫や父や兄)が貧しいために、こころならずもその様な職業についているものもいたようです。

しかし、今日は市民身分の女についてお話します。女は政治的権利ばかりでなく、経済的な権利も制限されていたことは、弁論家イサイオスの第10弁論10節にある、「法は子供と女とに、大麦1メディムノス以上の契約を交わすことを、はっきりと禁じています。」という記述の通りです。ただし、後見人が立会いの下、あるいは後見人が了解していれば、女にもかなりの額の契約、取引をしていた事例はいくつも見られます。女の名義の財産ももちろんありました。現存する事例はさほど多くはありませんが。日常生活において、実質的に女が自分で判断して高額の取引をする、という例は少なくなかったでしょう。問題は、そのような事態の前提として、後見人との関係を良好にしておく必要があった、ということで、女は自分の利益を守るためには、絶えずそれを念頭においていたのではないでしょうか。つまり、常によい人でいなければならなかったのではないかと思います。人生の基調に、女の場合は周囲との強調を心がけなければならない、という暗黙のプレッシャーがあったと思われます。

そのうえ、社会的に外に出歩くことは避けるべきである、という社会通念が彼女たちに圧力をかけました。その圧力など気にしていられない貧しい女たちは、市場で働かざるを得ませんでしたが、そのために市民身分であるという出自を疑われることもあったようです。

女は祭儀への参加を除けば、他人の男の眼にさらされないよう気をつけなければなりませんでした。市場への買い物などは夫か女奴隷が行ったようです。女部屋gynaikonitisという言葉があって、女が一室に閉じ込められていたかのように誤解をされていた時期もありましたが、現在ではこの語は女の生活空間全体を指し、そこには身内以外の男たちが立ち入らないような間取りの工夫があった、とみなされています。それでも、女にとって自由に外を闊歩できないという状況は存在していました。

前4世紀の弁論家ヒュペレイデスの作品断片205には、「女が家から外出するのは、通りがかりのひとたちが、彼女はだれの妻かと訊ねるのではなく、だれの母かと訊ねるようになってからであるべきだ、」とあります。

この文章からは、女が外出の自由を持つようになるのは、一人前の市民を息子に持つ女性、どんなに若くても35歳以上、ほぼ閉経前後であった、と考えられます。結婚はなによりも子供をもうけるためであり、その子供たちのなかの男の子供たちが将来家を継承することになります。ですから、子供を生む可能性のあるかぎり、妻が他人の男と接触することは避けなければならない、と考えられていたのです。妻が自分以外の男の子供を生んで、自分の家の後継者となることを避けなければ、というのが夫の思いでした。それを示す言葉として、前5,4世紀の弁論家リュシアスの第1弁論32節に、こうあります。

「法はこのように命じている。すなわち、人を暴力で辱めた者は、もし暴力を受けたものが自由身分の市民または少年であれば、二倍の罰金を負う。もし被害者の女性が、彼女らの傍らで[加害者を]殺すことが許容されている女性である場合は、同じく2倍の罰金を科せられる。このように、市民諸君、暴力をふるった者は説得づくで為した者よりも軽い罰に値すると考えられたのである。それは説得づくでなした者には死を当てているが、暴力をなした者は被害者から憎悪されるが、説得づくでなすものは、他人の妻をその夫よりも自分に親しくさせ、家中を意のままにし、生まれてくる子らも夫の子かそれとも姦夫の子か不明になるほど相手の魂を堕落させる、と考えてのことである。それゆえに、この法を制定したものは、後者に対してはその罰を死としたのである。(細井敦子訳)」

 強姦は被害者である女が騒ぎ立てるので事が明るみに出るが、納得づくで、つまり両者合意の場合はひそかに行われるため、事が明るみに出ず、不倫の相手の子を夫のことして産み養育して、夫の家の相続人にしてしまうこともありえた。そのほうが罪が深い、罰も重くてよい、というのがここにある理屈です。逆に、先に挙げたヒュペレイデスの引用文は、生殖能力を失ったとき、女は行動の自由を得た、というように読めます。

4老人の権利・義務と生活の実態

女性はおばあさんになって行動の自由を得ますが、それでは、高齢の男性すなわちおじいさんはどうでしょうか。男は59歳で兵役年齢が終わり、60歳になりますと、兵役の代わりに1年間裁判の予審の調停者としての役目を果たさなければなりません。それだけ経験に基づく分別を持った存在という位置づけがなされています。もちろんその後もおじいさんは民会に出席できますし、評議会議員にもなれます。ソクラテスは406/5年に評議会議員になり、アルギヌサイの海戦のとき海に落ちた兵士を置き去りにして帰還した将軍6名を裁判にかける際に、ただひとり一括裁判は違法であるという理由でそれに反対した、といわれています。このとき彼は死の5,6年前、65歳近くでした。

一方おばあさんのほうはと言えば、60歳以上の女性は死者の葬列に参加できたようです。

ギリシア最大の弁論家 デモステネスの 第43弁論62節に、「死者を屋内に安置するやり方は、思うとおりでよい。しかし、(埋葬のための)死者の運び出しは、安置した日の翌日、日の出前にすること。運び出しのときは、男たちが先を歩くこと、女たちは後ろを。女は、60歳よりも若い女は、又従姉妹までの女たちを除いては、死者の部屋へと立ち入ってはならない、また、墓地へと運ばれるときに死者に付き従って行ってはならないし、遺体が搬出されたあとに、又従姉妹までの女たちを除いては死者の部屋へと立ち入ってはならない、」という法律が引用されています。

この規定の背後にある社会事情とは、死者と赤の他人の女でも60歳以上であれば、雇われて葬列に加わって、泣き女の役割を果たすことが出来る、ということです。ここに、おばあさんの生活が経済的に楽でないことが窺われるとガーランドは述べています。泣き女になることで、少しの報酬を得られるからです。これについて、ポメロイは、あまり縁のない人の死である場合、おばあさんにとっては葬列への参加はむしろ楽しみ、娯楽となりえた、といっています。実態としてはこれに近かったのではないでしょうか。行動の自由を得たおばあさんたちは、でも、おじいさんと違って政治には参加できないわけで、このような葬列に加わって泣き叫ぶことは一種の娯楽になりえたのではないかと思います。

では、おばあさんは家族の中でどのような存在だったのでしょうか。先ず、女の結婚年齢が15歳前後にたいし、男の年齢は30歳くらいでしたから、相当数の女性が40代で夫に先立たれたと思われます。先にも触れた銀行家の妻アルキッペは、最初の夫パシオンとは40歳ごろに死別しています。

アリストテレス『アテナイ人の国制』第55章3節に、「アルコンの資格審査の際には先ず、「汝の父は誰でどの区に属するか。また父の父は誰か、また母は誰か、また母の父は誰でどこの区に属するか」と問う。次に彼がアポルロン・パトロイオスとゼウス・ヘルケイオスをもっているか、またその神域はどこにあるか、また家族の墓はあるか、そしてそれはどこにあるか、また両親に対して親切であるか。また国家に納めるべきものを納めているか、またかつて遠征に参加したか否かを尋ねる。(村川堅太郎訳)」とあります。さらに、第56章4節には、「アルコンの前に提起され、アルコンが予審して陪審廷に廻すところの公私の訴訟沙汰は次のごとくである。両親の虐待(これに関する訴訟を起こすものは却下されても罰金を科せられる懼れはない)、孤児虐待・・・」とあり、市民とその老父母との関係を垣間見ることができます。

老人に対する公的な扶養はなかったようです。親を虐待する者への公訴では、有罪となったものは市民権剥奪、その子供たちも同様、という厳罰の規定があること自体、当時にあって老親の軽視が皆無でなかったあったことを示しています。このような規定はアテナイだけでなく、ギリシア各地にあったようです(Garland, p.261参照)。

しかし、以下のような事例もあります。

デモステネス第 47弁論53.
「それどころか、彼らは私の屋敷にまで侵入して(私はヒッポドロモス近くで農業を営んでおり、子供の時からそこに住んでいます)先ず奴隷たちめがけて突進し、この者たちが彼らの手から逃がれて、あちらこちらに立ち去ってしまうと、家に近づき、庭に続く戸を壊しはずし、(中略)、入ってきて私の妻と子供たちのところまでくると、そのときまだ私の手元に残っていた家財道具すべてを運び去ったのです。・・・それに加えて、陪審員諸君、たまたま私の妻は中庭で子供たちと一緒に昼ごはんを食べていたのですが、彼女とともにいたのが年老いた私のかつての乳母で、気立てよく信頼できる人間で、私の父によって解放され自由の身となっていました。彼女は解放されて自由身分になってからある男と結婚しました。しかし、この男が亡くなり、彼女自身が年老いたのに面倒を見てくれる者がいなかったので、私の元に戻ってきていたのです。」

 法廷で語る原告である「私」は、この乳母に対する行いを特別立派なことと誇った様子がありません。法廷弁論では、しばしば自分がいかに立派な人間かを少々大げさにアピールすることが多いのですが、ここではそのようなアピールの意図はないようです。かつての乳母に対するこの扱いから考えて、老いた両親や親族の面倒を見ることはどうやら当然とみなされたのでしょう。ただし、当時の平均寿命からみて、両親が長命でいられることは多くなかったようで、この事例でも両親はすでに亡くなっているようです。

特に、男は30歳位になってから結婚しますから、長男が結婚する時にはどんなに若くても60歳前後になっています。息子の結婚時に父親がすでに死亡してしまっている例は少なくなかったようです。実際に、夫婦の年の差からみて、妻が夫に先立たれるのが普通だったでしょう。そして、未亡人となった母親の家庭内における高い権威を物語る事例は少なくないのです。

デモステネスの政敵であったアイスキネスの第一弁論170~171節にこうあります。

「デモステネスはその家産を蕩尽してしまうと、金持ちの若者で、父親がすでになく、母親がその財産を管理している者を求めて、市内を歩き回ったのです。・・・彼は富裕にして、しかもきちんと取り仕切られたいない家を見つけました。その家は、プライドばかり高くて分別のない女が家の長で、頭のおかしな、父親のない若者が財産を掌握していました。」

この例からは、寡婦となった母親が家の実権を握っている様子が窺えます。夫と妻との間の年齢差が15歳以上というアテナイでは、このような夫に先立たれた妻が少なくなかったはずですが、ある研究によれば、母親が健在の間、息子は結婚しない傾向がありました。

デモステネスの母クレオブーレーの場合も、息子のデモステネスが成人して、詐取された遺産の返還を求めて裁判を起こしたときには、息子に協力して情報を提供し、娘の嫁資を取り戻すために心を砕きました。5人の子供を抱えて、夫亡き後アゴラでリボン売りをした女の例もあります(デモステネス作第57弁論)。夫に先立たれたこの女たちは、子供を育てながら、年老いていったはずです。彼女たちはおばあさん予備軍です。それは、記録として残っていませんが、この寡婦たちの数年後、10年後の姿がそれだったはずです。

それでも大きな支障があったという話は史料に残っていません。先ほど述べたことの繰り返しになりますが、母親は若年で出産、栄養状態がそれほど良好でなかったとすれば、あまり長命であったとは考えられず、男の結婚年齢は30歳ごろでしたから、息子は母親の死後に結婚しても年齢の点で遅すぎるということにはならなかったようです。

もちろん、すべての女性がそうであったわけではありません。有名な例として、『ギリシア碑文集成』第2巻2版3453番に、「リュシマケ、ドラコンティデスを父とする生まれにして、88年の生涯なり。4人の子供をもうけし後、都合64年にわたり女神アテナに奉仕せり。フリュア区の・・・・エオスの母リュシマケ」という墓碑銘があって、このリュシマケの場合、88歳ですから息子も相当の年齢、彼は母が存命中でも結婚したのでしょう。しかし、リュシマケのように長命な女性は多数存在したとは考えにくく、多くの息子は母親の死の前後に、ちょうど結婚年齢の30歳に差し掛かったようで、息子の子供を抱けるまで長生きする女性は少なかったのではないかと思われます。

ところで、アテナイの市民は18歳で成人の仲間入りをしますが、それから2年間は軍事訓練を受けるので、実際の政治に参加するのは20歳になってからですが、積極的に政治活動をする若者は少なかったらしく、ポリスの運営については、50歳以上の市民が指導的役割を果たしていたようです。では、成人してから30歳前後で結婚するまでの約10年間、彼らはどのような生活をしたのでしょうか。それを故藤縄謙三京都大学名誉教授は教養課程と呼び、その10年間の若者気分が以後も続いたため、アテナイでは実用を目的としない教養的な学問や理論的な学問が発達した、と興味深い指摘をされています(「世界史の青年期としての古代ギリシアー古典的教養としての源泉」『ギリシア文化の遺産』南窓社1993,17-48.)。

最も体力が充実している20代、彼ら若者は軍隊の主戦力で、戦時には戦場の最前線で戦いましたが、平時にはシュンポシオン(饗宴)で年長者の政治談議や経験談に耳を傾け、ギュムナシオン(体育場)で身体の鍛錬に明け暮れたのでしょう。そのとき彼らの父親は50代から60代、そろそろ亡くなる年齢です。しかし、教養課程の若者たち平気です。母はまだ30代から40代で、母親がしっかり家で采配を振るってくれます。若者たちが教養課程を経て、いよいよ30歳過ぎの適齢期に達すると、母親が亡くなるのをまって結婚したのでしょう。母親は息子の子供、つまり彼女自身の内孫の顔を見ることなく没することが多かったようです。

娘の場合は息子とは事情が異なります。娘は母親同様に15歳くらいで結婚します。直ぐ出産、となれば、母親は娘の子供、つまり外孫の顔を見ることが出来ました。このとき彼女は30歳そこそこ、この年齢でおばあさんになったのです。娘の夫とも親しい関係を築いたのかもしれません。夫の立場からすれば、自分の母親はすでに亡くなり、妻の母が母と呼べる存在ということになります。妻の実家との行き来はかなり盛んだったと思われます。

5むすび

かつてデモステネス第59弁論として伝えられてきた弁論があります。先にも触れた銀行家パシオンの長男アポロドロスの手になると現在ではみられているこの弁論は、娼婦ネアイラの人生が語られていて、貴重な史料として有名です。そこにはネアイラの娘ファノの結婚と離婚、出産も語られています。

ネアイラの3人の子供の一人であったファノは、ネアイラが同棲していたステファノスが彼女を自分の娘であると偽って、アテナイ人フラストルに30ムナの嫁資をつけて嫁がせました。しかし、母親譲りのファノの贅沢な生活態度に不満を覚えた貧しいフラストルは、ファノがネアイラの娘と知るにおよんで、騙されたと激怒し、すでに身ごもっていたファノを離縁しました。結婚後一年のことでした。ステファノスは返還されない嫁資の利子支払いを求めて、フラストルを告発しましたが、これに対抗してフラストルは、市民の娘と偽って外人女の娘を嫁がせた、とステファノスを逆に告発しました。さすがのステファノスも自分が不利と判断し、フラストルに示談をもちかけ、双方の告訴は取り下げられたのです。

その後ほどなくして、フラストルは病を得ました。しかし、親族と不和な状態にあった彼を看病し、苦境の彼の面倒を見たのが、意外にもネアイラとファノでした。子無きままに死亡し、財産が親族の手に渡ることを望まなかったフラストルは、ファノが離婚後に産んだ男の子を養子にとったのですが、無事健康が回復すると、彼はこんどはアテナイ市民の娘であることが確実な女と結婚しました。

フラストルの身勝手さは、いま問わないとして、ネアイラの場合は特殊ではありますが、一般論として母と娘とが協力して娘の夫を支えている様子が窺えます。

結婚時に妻は15歳という幼さで心もとないのですが、心強いことに妻の母親がまだ30歳代で、元気です。もし、この母親に息子がいてすでに成人していれば、彼女は30代後半で、外出の自由も楽しめるような年齢です。母親は娘をしばしば訪ねたかもしれません。娘の夫が病気であれば、世話もしたでしょう。おばあさんの力に、アテナイ社会も男性市民の長い教養課程も支えられていた、と言うことができるでしょう。やはり「おばあさんの力」は偉大でした。

しかし、おばあさんは歴史の表舞台に現れていません。アテナイの女たちのなかには読み書きできるものがいたのですが、それにもかかわらず、彼女たちが何も書き残しませんでした。その事実に、当時の女性の抑圧された状態を見抜くべきでしょう。このような矛盾を抱えたポリスの社会は、今後もジェンダーの視点から研究することにより、新たな相貌を見せてくれるのではないか、と期待しています。

参考文献

長谷川眞理子編著『ヒト、この不思議な生き物はどこから来たのか』ウェッジ、2002.
S.B.Pomeroy, Goddesses, Whores, Wives, and Slaves: Women in Classical Antiquity,
London, 1975
Lawrence Angel, “Paleoecology, paleodemography and health”, in S.Polgar(ed.), Population, Ecology and Social Evolution, The Hague and Paris, 1975, 167-90
G.Minois, Histoire de la veillese en Occident de l’antiquité à la Renaissance, 1987
(大野朗子、菅原恵美子訳『老いの歴史 古代からルネサンスまで』筑摩書房、1996.)
R.Garland, The Greek Way of Life, 1990, Ithaca
V.J.Hunter, Policing Athens: Social Control in the Attic Lawsuits, 420-320 B.C., Princeton, 1994.
S.B.Pomeroy, Families in Classical and Hellenistic Greece: Representations and Realities, Oxford, 1997.
桜井万里子『古代ギリシアの女たち アテナイの現実と夢』中公新書(1992)      『古代ギリシア社会史研究 宗教・女性・他者』岩波書店(1996)
「ある銀行家の妻の一生―前四世紀アテナイの女性像」、
地中海文化を語る会編『ギリシア・ローマ世界における他者』彩流社(2003)、
203-239

(本稿は2003年12月6日の同志社大学文化史学会での講演原稿に補筆したものです。)

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